木村利三郎■ニューヨーク便り8(1980年執筆、最終回)

東と西


 一日、モントークに友人たちと釣りに行った。船をやとい、ブルーフィッシュをつるのだ。あまりつれないので、場所を移動するために船長は20~25ノットの高速で走る。船尾の椅子にすわって、高く盛り上る波頭をあきもせず、ビールを飲みながら眺めていると、一瞬波が停止したようにはっきり見えるときがある。何度みていても、やはり北斎の波頭には見えない。これはクールベの波そのものだ。昔、ぼくはアメリカへ渡る目的をたて、逗子の自分のアトリエでの生活をすべて洋式にした。日本茶は紅茶へ、魚は肉が買えなかったので鯨肉へ、日本酒は焼酎か安ウィスキーへ、といった具合。日本的発想をやめて彼等の中に入りこもうとしたのだ。
 日本人画家なら誰だって伝統的様式美は知っている。これを使ってモダン化すれば一応は売れそうな作品ができるはずだ。丁度一九五〇年代にアメリカは「ジャポニカ」ブームで、簡単な日本様式を広ませた。このブームにのって、繊細な色彩と造形で作品をつくりつヾけた作家も二、三人いた。でも現在を生きているわれわれが、なにも数百年前の型式を応用して現実を表現することはないのだ。
 アメリカ美術は確かによってもちよられたものだ。アメリカの伝統美術なんて、インディアンもエスキモーも持っていないのだ。ベンシャーンにしてもリチャードリンドナー・モンドリアン・パスキン・デュシャン、そしてクリストなどにしても、ロシアやブルガリアやフランスの伝統をそのまま持って来たわけではない。勿論自己を育てたいくばくかの過去は背負ってきたが、あくまでアメリカという土壌に自ら根をおろし、そして花を咲かせたのだ。表題として東と西と記したが、ここニューヨークには東も西もないのだと考えている。
 或る日本の有名公募団体展の宣言に、「真の芸術が理解されるためには、その純粋な造形的追及による高貴性によってのみある」とあった。アメリカには芸術の高貴性なんて一かけらもないのだ。芸術は生活の一部として存在しようとし、生活の一部分は芸術化される可能性がある。
 夕方、ぼくは仕事が一段落するとワインを持って近くのハドソン河の桟橋に行く。毎日きまった時間にゴミを満載した箱船がいくつも、ダグボートに引かれて河を下ってゆく。そのゴミ船にカモメがむらがってついてゆく。ゴミの中から食べ物をさがしているのだ。ハドソン河にも太西洋にも魚がいなくなったのか、それとも魚よりいろいろと変化のあるゴミの中の食物の方がうまいのか、きっといまに彼女達は羽根が退化しクチバシに歯でも生えてくるのではないだろうか。同じ頃桟橋は、ジョギングといってただ走るだけの人間たちが動きまわる。アフリカの自然の動物たちだって唯無意味に走ることはない。エサをとるときか、危険から逃げるときだけだ。生物の行動が環境の変化によって変わりつつあるのだ。そんなときに芸術の高貴性なんて云々するからまったく驚いてしまう。
 アメリカという国の生いたちから考えて、絶対的という価値観はない。日本やヨーロッパは文化一般にかぎらず、社会、経済、政治まで一応絶対価というのがある。歴史の重みなのだろう。今アメリカ大統領の選挙運動期間中だが、レーガンのキャンペーンに、ジンマーチンやフランク・シナトラなどハリウッドの連中が集まって、歌って踊ってパーティを開き一晩に百五十万ドル集めたとか、日本でも漫才師が代議士になったりしているが、まさか総理大臣にはなれないだろう。人々がいうところの平均的価値観があるからだろう。
 近頃ぼくは日本茶をのんだり魚をたべる練習をしている。永いアメリカ生活の反動としてなのか、それとも年令のせいなのか、でもやはり美味いとは思わない。それよりチョット気をぬいて版画制作していると、絵のなかの色や空間に東洋的なものがでてくる。これは自分で感じるのではなく、それを見た友人たちが言うのだ。自然に自分の地金がでてくるのか。
 東と西をいったりきたりするのではなく、できたら南も北もいっしょに合わせたらおもしろいだろう。それとも「カモメのジョナサン」ではないが、一人で気おって生きてみるのもよいかもしれない。一見浅薄そうに見えるアメリカ美術は、もしかしたら東西の豊かな野菜と肉を十二分に煮込んだ最上等のスープかもしれない。
 ニューヨーク、今秋の特別料理は「ニューイメージ」とか。
(きむら りさぶろう)

『版画センターニュース No.64』所収
1980年12月1日 現代版画センター発行


*画廊亭主敬白
今春5月17日にニューヨークで亡くなられた木村利三郎先生は私たちの恩人であり、版画のイロハを教えてくださった教師でした。
以前も書きましたが、亭主の初めての海外旅行は1983年のウォーホルとのエディション契約のためのNY行であり、空港まで出迎えてくれ、滞在中はホテルではなく、アパートに泊めてくださったのが利三郎先生でした。
哀悼の意を表して、利三郎先生が現代版画センターの機関誌に寄稿してくださった「ニューヨーク便り」を8回にわたり転載させていただきました。
利三郎先生は師範学校を出て教師となりますが、その後法政大学に入学、谷川徹三に学びます。戦後民主主義の最も輝いていた時期に、労働者の街・川崎で版画の頒布活動をしていました。30歳で画家を志し、1964年40歳のときに渡米します。以来ニューヨークで作家活動を展開し、都市の崩壊と再生、そして宇宙をテーマに描き続けた半世紀でした。
その作品は、ニューヨーク近代美術館、ブルックリン美術館、ミネソタ美術館、オクラホマアートセンター、コロンビア美術館、IBM本社、東京国立近代美術館、町田市立国際版画美術館、栃木県立美術館、東京藝術大学 ほかに収蔵されています。
これまでのご厚誼を深謝し、ご冥福を心よりお祈りいたします。
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1974年7月にフマ画廊(東京・銀座)で開催された木村利三郎展のカタログ表紙
撮影場所は新宿西口の地下道
テキスト:久保貞次郎
亭主が手がけた初めてのカタログでした。

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同カタログの木村利三郎略歴
撮影場所は中野刑務所の塀の前

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1978年4月20日 
現代版画センター発行
木村利三郎版画カタログ

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テキストはやはり久保貞次郎先生。

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木村利三郎"City 338"
1977年
シルクスクリーン
63.5×50.0cm Ed.50
Signed