石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」 第11回

セルフポートレイト 1986年7月11日 ミラノ

11-1 外国郵便為替金送金依頼

働き始めた新妻が、マン・レイの記事が載っていたと雑誌『ニューヨーカー』を見せてくれた。彼女は手紙でも書いてみたらと勧めるが、どうしたら良いのか判らない。それまで、リブレリ・アルカードや京都書院、仏光寺通りのシルバン書房、あるいは、河原町の丸善、池袋のアール・ヴィヴァンなどで新旧の洋雑誌を手にし、マン・レイの名前や作品図版を探してきたが、店頭で確認して購入するのがやっと、1ドル250円前後の時代で、書店でのレートは手数料と送料込みで360円と言われていたような気がする。1986年に入った頃、美術雑誌『アート・イン・アメリカ』の広告頁に、ニューヨークのザブリスキー画廊が『マン・レイ: 我が愛しのオブジェ』と題した展覧会を1月23日から2月23日の会期で開催し、ロザリンド・クラウスのエッセイを載せたカタログを発売すると書かれていた。それで、家内に英文を添削してもらい「送料込みで幾らになりますか」と問い合わせた。2月16日に投函、返事があって3月10日送金、現物が京都に届いたのは3月24日だった。依頼文も心許ないが、一番のネックは海外送金、17ドル(3,070円)を送金する手数料は、銀行で2,500円、郵便局の小為替では800円。昼休みに郵便局の本局へ走った。依頼した事がないので、送金目的や通信文39文字の記載にとまどるものの、やってみると簡単な手続きであり、画廊からの書籍小包にはプライス・リストが同封されていて、コレクターに一歩近づいた気分となった(もっとも、4,000~30,000ドルとなると拝見させて頂くだけですが)。


manray11-1『マン・レイ: 我が愛しのオブジェ』展カタログと追加リスト


 マン・レイは1976年11月に亡くなったが、市場には相当数の作品が残され(売れていなかった)、新たに写真などの商品を発掘する状況だった。幸い1980年代後半の京都にはアメリカンセンター、ブリテッシカウンセラー、日仏会館、ドイツ文化センター、イタリア会館などの海外政府機関が多数活動し図書室も充実していたので、雑誌の広告や画集などの展覧会歴を基に画廊の住所を調べて手紙を書いた。個展の案内状やカタログ、もちろん作品の在庫を尋ねた訳だが、どの画廊からも親切な返事を頂いた。送られてくるエフェメラ類の楽しげな様子は、マン・レイのファンが世界中に存在する感覚、「死んでなんかいない」希望をわたしにもたらした。

manray11-2マルコーニからの手紙



11-2 セルフポートレイト

5月になって、ミラノのマルコーニ画廊から返事をもらった。リストにはカタログ、ポスター、写真、版画などが列記されている。その中に100枚限定で作られた「半分髭を剃ったマン・レイ」の写真が含まれていた。価格も手頃だったので「作品が欲しいが、状態はどうか? マン・レイのサインと限定番号は書かれているか? 梱包を含めた航空運賃は幾らか?」と問い合わせた。返信着の後、さらに続けて「銀行口座番号かリラ換算の価格を教えて」と書き、下段に「送金しますのでお送り下さい。日本は梅雨時なので濡れないようにご配慮願います」とした(6月11日投函)。すると未送金にも関わらず現物が到着(7月11日)、ジョルジュ・マルコーニは太っ腹だと思いつつ取り出すと、木製ボードに挟まれて小さな写真(18×12cm)が現れた。以前、ギャラリー16で見せてもらったものである(連載第3回参照)。

 画廊の説明文で予想した通りの写真だった。マン・レイがピエール・ブルシャッドとの対談で、カリフォルニア時代に髭をはやしていて「似合う」とか「似合わない」とか賛否両論だったと振り返り、「みんなに満足してもらおうと、顔の真中に線を引いて、片側だけを剃った。髭のある側は髭が気に入っている人のために、ない側は気に入らない人のためというわけだ。」そして、驚くブルジャッドに写真を見せながら、さらに「この写真はとても便利でね。真中に小さな鏡を立てて、片面しか映らないようにすると、そっくり髭のはえた私か、まったく髭のない私が見られるんだ。」(『マン・レイとの対話』36頁)と語っていたのを思い出した。さっそく、わたしも手鏡を持ち出し傷が付かないよう注意して見入ると、本当に面白い。わたしはどっちが好きだろうか、分裂したこの状態だよね。
 印画紙の裏面中央に「マン・レイ セルフポートレイト 1943」とマルコーニのエディションスタンプが押されていて、1943年のネガを基に1974年になって100部限定(番号と作者及びマルコーニのサイン入)で制作したとある(本作は15番)。

manray11-3マン・レイ
『セルフポートレイト』1943/1974


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11-3 ヴェネツィア・ビエンナーレ

さて、コレクションカードにこの写真を加えながら、額装をどうしようかと考えた。ギャラリー16で手に取っていたので同じようなものを探し、サイズについては、1976年のヴェネツィア・ビエンナーレのポスターを参考にした。印刷面から抜け出した作品が、実際の場に登場し具体的な人との話題に現れる。権威主義がはびこって停滞したビエンナーレが再開され、ポストモダンアートが注目されるようになったタイミングに、マン・レイの写真の仕事が再評価されたのは、デュシャンに注目が集まる風潮に関係していたのかも知れない。会場の様子や作品の印象、そして、ビエンナーレの公式ポスターに、この写真が使われていたのを教えてくれたのは美術評論家の中村敬治さんだった、ギャラリー16で紹介され親切にしていただいたのは、幾つかの幸運が重なった結果と思うが、お会いした頃の中村さんは、同志社大学で専任講師をされておられ、フランス政府給費研修員として巴里へ留学される直前だった。それで、厚かましいわたしは、マン・レイに関する資料が見付かったら送って欲しいとお願いをしてしまった(お酒の勢いです)。

manray11-4季刊美術誌gq第6号の上に、巴里から届いた書籍小包
1977年12月


 渡仏されて直ぐの手紙には「Man Rayが亡くなったせいか、12月にはすでにあまり見かけなくなりました。」と書かれていたが、忙しい研究生活の日々にもかかわらず親切にシュワルツのカタログ『自由の60年』や『マン・レイ肖像集』(連載第1回参照)などを送って頂いた。インターネットでの検索などの無い時代、現地での書店巡りが出来ない筆者には、最大の援護射撃。別の手紙には「ここにいますとほしいものばかりで、お金がいくらあっても足りない感じです。日本にいたら、とうてい買えそうにない昔のものでも、ひょいとみつかったりして、狂喜することがあります。」とあり、羨ましいことこのうえない。ビエンナーレでの展覧会カタログも「なかなか良いカタログだと思います。お楽しみ下さい。」と言及されて船に乗せていただけた。中村さんが帰国されたとき、お土産にアメリカンセンターとジャック・ダモウス画廊でのマン・レイ展カタログをいただいたが、どちらも、手紙で様子を知らせてくれていたもの、招待状が付いているのだから、わたしも同席したような臨場感に満たされ、嬉しかったのを覚えている。ギャラリー16で、額装された『セルフポートレイト』が使われたビエンナーレのポスターを「これ敬治さんが」と聞いて、拝見した折の気持ちが、マルコーニから現物が届いた時の嬉しさに重なったのである。それにしても、100部限定の商品を作ってしまうビエンナーレの商業主義、しかし、作家へのオマージュと解するわたしの立ち位置から、感謝の気持の方が強かったと正直に告白しておきたい。

manray11-5中村氏の玄関には、デュシャンの『横顔の自画像』


manray11-6書棚のシュルレアリスム関連書籍


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manray11-7蔵書
マン・レイ個展『自由の60年』シュワルツ版



11-4 二流の人 

記憶が前後するが、日本で最初の大規模なマン・レイの回顧展が全国を巡回した折、中村さんは読売新聞夕刊(1985年3月15日)に展評(“笑い”奏でる柔和な前衛)を寄稿された。それは「マン・レイというのはどうも、二流の人に思えてならない。」と始まるけれど、「もちろん、貶めようと思ってそういっているのではない。二流としての一流、ギンギラギンであるよりは、さりげなくて、地味に輝くマイナー・ポエット、立派な美術館での大回顧展もわるくはないが、そっともって帰って、一、二点、書棚のわきにでも飾って、時折眺めたりしたいような、刺激の粋さがたまらない作品だといいたいだけである。」と続けられる。その後、マン・レイ芸術の本質に言及されて行く訳であるが、中村さんの書かれるものにはユーモアがあって、読む者を惹きつけてやまない。「石原君、怒っていないかな」と気にされていたと、ある人から聞いたけれど、わたしがマン・レイに対して感じていた事柄が、あまりに上手く指摘されているものだから、嬉しくて何度も読み返し、今日に至っている。(再録『現代美術/パラダイム・ロスト』書肆風の薔薇、1988年刊、370-372頁)

manray11-8マン・レイ回顧展(1966年)ポスターを掲げる筆者
1976年6月 (撮影: 中村敬治氏)



11-5 恋人たちのポスター 

中村敬治さんには、大変お世話になった。巴里から資料を送っていただいた事だけでなく、朝日新聞社が日本で最初の『マン・レイ写真集』(朝日新聞社、1981年刊)を準備した折にも、写っている人物を特定する過程で、氏の蔵書を拝見させていただいた。金閣寺に近いお宅にお邪魔して自由に書棚を探し、ダダやシュルレアリスムの運動に参加した人達の名前を見付けるのは楽しかった。中村さんから、それぞれの作家の仕事についてレクチャーを受けられたのだから、幸せこのうえない。お持ちだったロサンジェルス郡立美術館でのマン・レイ回顧展(1966年)に使われた恋人たち(油彩『天文台の時刻に──恋人たち』)のポスターを見せてもらい、前庭で写真を撮ってもらった。「わたしも欲しいな」と思ったが、激しく思うというより、生活の中に置かれている印象が気持ち良く、穏やかに羨ましかったのである(後年、ある画廊で購入した)。

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manray11-9林剛氏と中村敬治氏(右)
1985年1月 ギャラリー16


manray11-10野村仁氏と中村敬治氏(右)
1987年7月 国立国際美術館(万博記念公園内)


 中村さんの仕事に接した最初は、季刊美術誌gq第6号に寄稿された「MONA RROSE ああ、教えて、君の秘密」だったと思うが、『美術手帖』や新聞の展評欄などを通して、海外での同時代美術の動向と、関西での新しい作家を知ることが出来た。画廊や美術館での鑑賞に、批評の眼を持ち、確認させていただける「基準原器」のような役割として、わたしの中で機能した。野村仁、森村泰昌、松井知恵といった人達の仕事をじっくり、考えさせてくれたのは中村さんのお陰だった。お住まいを北白川に移された頃にもお邪魔して、マン・レイの貴重な資料を拝見。大文字山を正面にする光あふれるリビングで奥様ともご一緒に、巴里生活やマン・レイの事などをお聞きした。大学から美術の現場に転出され活躍した業績については、著書の他に多くの証言が残されているが、東京に拠点が変わられた後には、直接、お会いする機会も少なくなり2005年を向かえてしまった。3月24日、胃癌のため死去、享年68。病をおして松井知恵の仕事を最後まで見守られたと聞いた。

manray11-11北白川の中村氏宅を訪問した帰り道
1984年10月


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 わたしに芸術家の生き方や巴里の街の様子について、教えてくれた中村敬治さん。直接、海外の画廊と手紙のやりとりをするようになった背景に、中村さんと交わした何気ない会話があったのだと思う。「ワインは赤だよね」(巴里生活で覚えられたと伺った)。

続く

(いしはらてるお)

■石原輝雄 Teruo ISHIHARA(1952-)
1952年名古屋市生まれ。中部学生写真連盟高校の部に参加。1973年よりマン・レイ作品の研究と収集を開始。エフェメラ(カタログ、ポスター、案内状など)を核としたコレクションで知られ、展覧会企画も多数。主な展示協力は、京都国立近代美術館、名古屋市美術館、資生堂、モンテクレール美術館、ハングラム美術館。著書に『マン・レイと彼の女友達』『マン・レイになってしまった人』『マン・レイの謎、その時間と場所』『三條廣道辺り』、編纂レゾネに『Man Ray Equations』『Ephemerons: Traces of Man Ray』(いずれも銀紙書房刊)などがある。京都市在住。

石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」目次
第1回「アンナ 1975年7月8日 東京」
第1回bis「マン・レイ展『光の時代』 2014年4月29日―5月4日 京都」
第2回「シュルレアリスム展 1975年11月30日 京都」
第3回「ヴァランティーヌの肖像 1977年12月14日 京都」
第4回「青い裸体 1978年8月29日 大阪」
第5回「ダダメイド 1980年3月5日 神戸」
第6回「プリアポスの文鎮 1982年6月11日 パリ」
第7回「よみがえったマネキン 1983年7月5日 大阪」
第8回「マン・レイになってしまった人 1983年9月20日 京都」
第9回「ダニエル画廊 1984年9月16日 大阪」
第10回「エレクトリシテ 1985年12月26日 パリ」
第11回「セルフポートレイト 1986年7月11日 ミラノ」
第12回「贈り物 1988年2月4日 大阪」
第13回「指先のマン・レイ展 1990年6月14日 大阪」
第14回「ピンナップ 1991年7月6日 東京」
第15回「破壊されざるオブジェ 1993年11月10日 ニューヨーク」
第16回「マーガレット 1995年4月18日 ロンドン」
第17回「我が愛しのマン・レイ展 1996年12月1日 名古屋」
第18回「1929 1998年9月17日 東京」
第19回「封印された星 1999年6月22日 パリ」
第20回「パリ・国立図書館 2002年11月12日 パリ」
第21回「まなざしの贈り物 2004年6月2日 銀座」
第22回「マン・レイ展のエフェメラ 2008年12月20日 京都」
第23回「天使ウルトビーズ 2011年7月13日 東京」
第24回「月夜の夜想曲 2012年7月7日 東京」
番外編「新刊『マン・レイへの写真日記』 2016年7月京都」
番外編─2『Reflected; 展覧会ポスターに見るマン・レイ』
番外編─2-2『マン・レイへの廻廊』
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●今日のお勧め作品はマン・レイです。
20150205_ray_43_turi-1マン・レイ
「釣人の偶像」
1926年/1975年
ブロンズ
H20.8x4.4x4.4cm
Ed.1000
マン・レイの刻印あり


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福井県立美術館では2月8日まで『福井の小コレクター運動とアートフル勝山の歩み―中上光雄・陽子コレクションによる―』が開催されています。ときの忘れものが編集を担当したカタログと、同展記念の特別頒布作品(オノサト・トシノブ、吉原英雄、靉嘔)のご案内はコチラをご覧ください。

◆1月24日~25日に開催した「現代美術と磯崎建築~北陸の冬を楽しむツアー」には各地から15名が参加されました。参加された皆さんの体験記をお読みください。
石原輝雄さんの体験記
浜田宏司さんの体験記
酒井実通男さんの体験記
◆福井県勝山にある磯崎新設計「中上邸イソザキホール」については亭主の回想「台所なんか要りませんから」をお読みください。