芳賀言太郎のエッセイ
「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」 第12回
第12話 聖墳墓教会 ~トーレス・デル・リオからビアナの町へ~
10/5(Fri) Los Arcos ~ Viana (17.7km)
2月は日の経つのが早い。このエッセイの締切は毎月1日なのだが、普段の調子で書いていたら、いつもより2、3日早く月が変わってしまい慌てて仕上げている次第である。これも古代ローマ人が3月から始まるカレンダーの帳尻を2月で合わせようとしたためである。31日まである月があるのだから、それを2月に加え、30日の日を増やしたらいいのではとも思ってしまう。
それはそうと、2月29日に生まれた人は誕生日をどのように祝うのだろうか。4年に1度の誕生日を祝うのか、それとも2月28日に祝うのか、3月1日に祝うのか。大人になった今は誕生日が来てもそれほど嬉しくはないが、子供の頃の誕生日はやはり特別である。2月29日に生まれるというのは通常の人が1/365の確率であるのに対し、1/1461である。それだけで、とてつもない強運の持ち主と言えるだろう。私はまだ2月29日生まれの人に会ったことはない。一度、お会いしてみたいものである。
朝の涼しさはなんとも心地よい。澄み切った朝の空気を吸いながら刈り取られた麦畑の中を歩いていく。
道
歩いていると、こんなところにと思うような小さな村に巡礼路でも有名な八角形の教会がある。トーレス・デル・リオの聖墳墓教会(サント・セプルクロ)である。
村の名前は直訳すれば「王の塔」となるが、聖堂の役割をよく言い当てている。珍しい八角形の集中式聖堂。礼拝するための教会堂としては、ローマ時代の公共建築物が基になっているバシリカ式か、その発展型としてのラテン十字式の方が造りやすい。実際、この地域のほとんどの教会はそうなっている。
また、聖遺物崇拝が盛んであった中世には、教会の宝であった聖遺物を効率よく拝観させるため、入口から出口までの動線を美術館のように整えた「巡礼路様式」と言われるラテン十字式の改良タイプの会堂も多く作られた。フランスのコンクのサント・フォア修道院付属礼拝堂がそうであり、サンチャゴ・デ・コンポステーラ大聖堂がまさにその典型である。そのどちらでもないということは、この聖堂は教区の信徒が集まる以外の目的で建設されたということになる。
記録の上では1100年のイラーチェ修道院への献金をもとに建設されたとあるが、建築自体はかなり後、12世紀後半から13世紀前半と考えられている。約50キロ東にある、同じ八角形の平面プランを持つエウナテの聖堂より少し後となる。サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼者が増加し始めた時代と重なるため、両者とも巡礼者のための施設であったのはほぼ間違いない。
比較してみると、エウナテは建物の直径と高さがほぼ等しく、かなりの居住性がある。ル・ピュイの道とアラゴンの道という二つの巡礼路の合流点に近く、敷地内から巡礼姿の遺骨が発掘されていることから考えても、巡礼者のための墓所ないし記念礼拝堂である可能性が高い。それに対してトーレス・デル・リオは、直径に対して高さが約3倍ある。見た目にも塔で、上部は土台部分の塔より小さい同じ八角形の燈火塔になっている。こちらの方は、東から来る巡礼者の「陸の燈台」の役割が大きかったとみられる。「王の塔」の名の由来でもあると思われる。
屋根はかなり高い位置に置かれ、中心に小さいながらもそれなりの高さのある(つまり重さのある)燈火塔が乗せられている、屋根の傾斜が緩いので、建物の高い位置でかなりの横方向の力が働くことになる。構造的には難問であるこの力を支えるのが、付設する円塔と精巧な天井の造りである。西側の円塔の内部は燈火塔へ登るための螺旋階段となっているが、横からの力に強い円筒形の塔は聖堂本体より高い。細かく見ると雨樋や窓が干渉を受けているので、塔が後から加えられたか、少なくとも当初の設計より規模の大きなものに変更された可能性が高い。中世において復活を意味する「8」に由来する8角形の純粋なプロポーションを崩してでもこの大きな塔が設けられるに至ったのには、やはり構造設計的な問題があったように思われる。塔の反対側は内陣という形で、半円筒形の祭室が外側から聖堂を支えている。直交する南北の軸線上には、外側から支えるものはないが、八角形という力を分散して受け止めることができる形状と星形リヴ・ヴォールトに支えられた円蓋(クーポラ)で屋根と燈火塔の重量を支えている。
開口部は全体に少なく、上部に穿たれているために上昇感を演出することに成功している。一方、対角に渡されるリブの間に開口部はなく、対照的に閉じた硬さの力強さを見せている。
天井は円蓋であるが屋根は八角の板状。入口はアーキヴォルト、柱頭、タンパンとも彫刻は少なく目立たない。巡礼者の守護を本旨とし、簡素を旨としたテンプル騎士団との関連が語られる理由である。しかし、外側の半円アーチ窓を囲むアーケード、内部の壁面、付け柱の柱頭など、小さくはあるがそれぞれに印象深いロマネスク彫刻を目にすることができる。
昔の巡礼者はこの教会を目印にして歩いていたそうだ。今は多くの巡礼者が教会の中に押し寄せている。観光名所のようになってしまっており、落ち着くことができない。本当ならこの濃密な空間の中でゆっくりとした時間を過ごしたいのだが、自分もその一人なので文句は言えない。仕方なく数枚ほど写真を撮影し、歩き出す。
丘から見下ろすトーレス・デル・リオの村
中心に灯台のように聖墳墓教会が見える。
トーレス・デル・リオ 聖墳墓教会
八角形の形が印象的である
聖墳墓教会
「つっかえ棒」ともいえる左側の円筒部分は螺旋階段
聖墳墓教会 エントランス
ロマネスク様式の半円アーチ
聖墳墓教会 正面
聖墳墓教会 天井
重なるリブが特徴、イスラム建築の影響があるとも言われる
道2
ぶどう畑が広がる。銘醸地リオハも近い
歩いていると、黒く焦げた場所がある。山火事の跡である。いつ発生したのか定かではないが、乾燥し、気温が40℃近くなる内陸のこの地域ではいつ起きても不思議ではない。
山火事
この地域は、丘の上に集落が形成されている事が多い。わざわざ丘の上に集落を造るのは防衛のためである。イスラム勢力とキリスト教勢力との間で戦いが繰り返されたこの地域では、町の防衛が最優先であった。クラビッホの古戦場も遠くはない。
844年、コルドバのカリフ、アブデラマン2世に敗れ、壊滅寸前となったアストゥリアス王ラミロ1世の軍勢の前に、突如白馬に乗り、剣を振りかざした騎士の姿の聖ヤコブが現れ、戦いを勝利に導いたという伝説がある。その後、白馬の騎士の姿をした聖ヤコブは、サンティアゴ・マタモロス(Santiago Matamoros:ムーア人殺しの聖ヤコブ)と呼ばれ、レコンキスタ(再征服運動)のシンボルとなり、スペインの守護聖人として崇められるようになった。
しかし、中世ならばともかく、今現在、聖ヤコブを「マタモロス」と呼ぶのは問題であろう。巡礼路でも、クラビッホの古戦場が名所となっているわけではない。
巡礼の前にDVDで見たフランス映画「サン・ジャックへの道」には、巡礼路を歩くアラブ系の人物が登場する。「カミーノへの扉は、すべての人に対して開かれている。病気のものにも、健康なものにも、カトリックの信者だけではなく、異教徒にも、なまけものにも、そして中身のない人間にも。善良なものにも、俗人にも開かれている」と言われている意味は大きいのではないだろうか。私自身、クリスチャンではあるが、カトリック教徒ではないのだから。
道3
奥にビアナの町が見える
サンティアゴ教会 正面ファサード ログローリョ
白馬にまたがるサンチャゴ・マタモロス像
昼過ぎにViana(ビアナ)に着く。ナバーラ州の最後の町であるここビアナも丘を覆うように家々が立ち並ぶ。しかし、今日歩き抜けてきた小さな村とは規模が違う。カスティーリヤ王サンチョ4世によって建設され、巡礼の最盛期には4つの救護院を有していた。町の中心にある聖マリア教会は、塔・身廊・天井がゴシック、後陣の祭室・中央祭壇がバロック、ポルターユ(入り口)の彫刻がルネサンスと、時代時代の様式を刻んでいる。
また、この地で戦死したルネサンス時代の寵児、イタリアの貴族チューザレ・ボルジアが中庭に埋葬されたと伝えられているが、未だ遺骨は発見されておらず、その魂がこの町をさまよっているとの噂があるそうである。
サンタ・マリア教会
サンタ・マリア教会 エントランス
壮麗なファサード彫刻
サンタ・マリア教会 正面祭壇
豪華できらびやかな祭壇
町の端、私が泊まったアルベルゲの近くに遺跡のような教会があった。カルリスタ戦争(1833~1876)で破壊されたサン・ペドロ教会の廃墟である。戦いによって破壊された教会がそのまま残るこの地においては、廃墟はその土地の歴史を物語っている。この1月に亡くなったヴァイツゼッカー元ドイツ大統領の「過去に目を閉ざす者は、現在に対してもやはり盲目となる」との言葉を思い起こす。
サン・ペドロ教会跡
サン・ペドロ教会跡 内陣
サン・ペドロ教会 破壊された壁
正面の天蓋には穴が開き、ローマのパンテオンのようになっている。何もない空間が直接、空を切り取っている。光の移ろいを感じる。ずっとその場に座って、時が流れるのを感じていた。時間によって光が変わり、影が移ろうという当たり前のことに気付かされる。日本でただ生活しているときには気が付かなかったことである。巡礼という非日常の世界に身をおいて、巡礼の生活の中で見つけた、当たり前のこと。ただ、今ではそういったことに気づくのが大切なのだろうと思う。
夜、満天の星空が広がる。巡礼は星の道を歩く旅だと表現する人もいるが、まさにその通りといえるほどの夜空である。廃墟と化した教会の天蓋から覗く星空は吸い込まれるほどの美しさである。まさに自然のプラネタリウムであった。堀田善衛は『インドで考えたこと』の中でインドの農村での夜空を「空の星が、死にたくなるほど美しい」と表現した。この星になれるのなら死んでもいいと思えるほどの圧倒的な美しさ。人は死んだら星になるというのは洋の東西を問わず人間の根源的な希望のように思えた。命は有限であり、生とは死に向かうことであるとも言える。だからこそ、人間は永遠、そして無限の命を求めてしまうのかもしれない。
サン・ペドロ教会 天井ドーム
ビアナ
高台からの景色
ビアナ アルベルゲ
夕食のときは自炊の料理とリオハワインを巡礼仲間と一緒に飲む
巡礼者の服装
歩いた総距離895.4km
(はがげんたろう)
コラム 僕の愛用品 ~巡礼編~
第12回 メモ帳
RHODIA ロディア ブロックロディアNo.11 216円
これほどデジタル機器が進歩し、便利になった現代においてメモ帳はどのような役割をはたすのだろうか。メモはスマートフォンなどで記録したほうが、管理がしやすいという意見もあるだろう。紙とペンでメモをとるというアナログな作業はデジタル全盛の現代においては時代遅れのように思われる。しかし、メモに関しては手書きのほうが素早く筆記でき、機動性に富んでいると私は思う。
私はロディアのメモ帳を愛用している。ロディアはフランスの文具ブランドで1934年にフランス・リヨンでアンリとロベールの2人の兄弟によって創設された。名前はリヨンを流れるローヌ川(Rhône)に由来し、2本の木が描かれたマークは、紙の原料である木を表すとともに、アンリとロベールという2人の兄弟の創設者の絆を象徴するものでもある。表紙のオレンジ色はロディアの代名詞であるが、これはあえてオレンジを選んだわけではない。当時は選択できる色付きの紙が、このオレンジしかなかったためである。
フランスの小学校では、紙は80グラム/㎡のものを使うよう法令で定められている。厚めの良い紙を使うという文化が根づいており、小さなころから良いものに触れさせようとしているのだ。ロディア社では製紙から製品までの一貫工程を自社で行っている。ロディアは良いノートをつくるためには紙から作る必要があるというある種の必然から生まれた逸品なのである。
ロディアの紙には5ミリの方眼が印刷されている。この方眼によって文字が書きやすくなるためだ。この5ミリ方眼のタイプのものがフランスではポピュラーで人気がある。ロディアの定番No.11は手のひらにおさまり便利である。360°折り返し可能なカバーは撥水、耐水性を備え、マイクロカット加工による細かなミシン目で一枚ずつ綺麗にカットできる。
メモ帳はどんなシーンにでも携帯するものだ。だからこそ、デザインだけではなく、機能もきちんと備えていてほしいと思う。その意味でロディアはハードな巡礼にもピッタリのメモ帳である。
巡礼路ではこのロディアでメモをとる機会が多かった。特に役に立ったのは、聞き取れなかった言葉を直接ロディアに書いてもらったときだ。住所や名前、連絡先など耳で理解できなかったことを相手にメモしてもらうのである。巡礼では意思疎通をはかるためになくてならない重要なコミュニケーションツールだった。
たしかに、メモなどコピーの裏紙で十分かもしれない。たかがメモ帳にこんなお金をかけなくてもいいじゃないかという人もいるだろう。しかし、手になじみ、持っていて気持ちの良いものを使うことには喜びがあると私は思う。
ロディアのホームページには「良い仕事を成し遂げるためには、良い道具が必要不可欠」とある。「弘法筆を選ばず」ともいうが、私は弘法大師ではないので、これを使えば素晴らしいアイディアがひらめくのではないかと淡い期待を抱きながらつねにロディアを手元においている。
ロディア No.11
ロディア2
切り離しても使える
■芳賀言太郎 Gentaro HAGA
1990年生2009年 芝浦工業大学工学部建築学科入学2012年 BAC(Barcelona Architecture Center) Diploma修了2014年 芝浦工業大学工学部建築学科卒業2012年にサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路約1,600kmを3ヵ月かけて歩く。卒業設計では父が牧師をしているプロテスタントの教会堂を設計。
◆ときの忘れもののブログは下記の皆さんのエッセイを連載しています。
・大竹昭子のエッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。
・frgmの皆さんによるエッセイ「ルリユール 書物への偏愛」は毎月3日の更新です。
・石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」は毎月5日の更新です。
・笹沼俊樹のエッセイ「現代美術コレクターの独り言」は毎月8日の更新です。
・芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。
・土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」は毎月13日の更新です。
・野口琢郎のエッセイ「京都西陣から」は毎月15日の更新です。
・井桁裕子のエッセイ「私の人形制作」は毎月20日の更新です。
・小林美香のエッセイ「母さん目線の写真史」は毎月25日の更新です。
・「スタッフSの海外ネットサーフィン」は毎月26日の更新です。
・森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日の更新です。
・植田実のエッセイ「美術展のおこぼれ」は、更新は随時行います。
同じく植田実のエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」は終了しました。
「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。
・新連載「美術館に瑛九を観に行く」は随時更新します。
・飯沢耕太郎のエッセイ「日本の写真家たち」は英文版とともに随時更新します。
・浜田宏司のエッセイ「展覧会ナナメ読み」は随時更新します。
・深野一朗のエッセイは随時更新します。
・「久保エディション」(現代版画のパトロン久保貞次郎)は随時更新します。
・「殿敷侃の遺したもの」はゆかりの方々のエッセイ他を随時更新します。
・故・木村利三郎のエッセイ、70年代NYのアートシーンを活写した「ニューヨーク便り」の再録掲載は終了しました。
・故・針生一郎の「現代日本版画家群像」の再録掲載は終了しました。
・故・難波田龍起のエッセイ「絵画への道」の再録掲載は終了しました。
・森下泰輔のエッセイ「私のAndy Warhol体験」は終了しました。
・ときの忘れものでは2014年からシリーズ企画「瀧口修造展」を開催し、関係する記事やテキストを「瀧口修造の世界」として紹介します。土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」、「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。
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●今日のお勧め作品は、奈良原一高です。
奈良原一高
写真集〈王国〉より《沈黙の園》(2)
1958年 (Printed 1984)
ゼラチンシルバープリント
Image size: 47.8x31.5cm
Sheet size: 50.8x40.6cm
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」 第12回
第12話 聖墳墓教会 ~トーレス・デル・リオからビアナの町へ~
10/5(Fri) Los Arcos ~ Viana (17.7km)
2月は日の経つのが早い。このエッセイの締切は毎月1日なのだが、普段の調子で書いていたら、いつもより2、3日早く月が変わってしまい慌てて仕上げている次第である。これも古代ローマ人が3月から始まるカレンダーの帳尻を2月で合わせようとしたためである。31日まである月があるのだから、それを2月に加え、30日の日を増やしたらいいのではとも思ってしまう。
それはそうと、2月29日に生まれた人は誕生日をどのように祝うのだろうか。4年に1度の誕生日を祝うのか、それとも2月28日に祝うのか、3月1日に祝うのか。大人になった今は誕生日が来てもそれほど嬉しくはないが、子供の頃の誕生日はやはり特別である。2月29日に生まれるというのは通常の人が1/365の確率であるのに対し、1/1461である。それだけで、とてつもない強運の持ち主と言えるだろう。私はまだ2月29日生まれの人に会ったことはない。一度、お会いしてみたいものである。
朝の涼しさはなんとも心地よい。澄み切った朝の空気を吸いながら刈り取られた麦畑の中を歩いていく。

歩いていると、こんなところにと思うような小さな村に巡礼路でも有名な八角形の教会がある。トーレス・デル・リオの聖墳墓教会(サント・セプルクロ)である。
村の名前は直訳すれば「王の塔」となるが、聖堂の役割をよく言い当てている。珍しい八角形の集中式聖堂。礼拝するための教会堂としては、ローマ時代の公共建築物が基になっているバシリカ式か、その発展型としてのラテン十字式の方が造りやすい。実際、この地域のほとんどの教会はそうなっている。
また、聖遺物崇拝が盛んであった中世には、教会の宝であった聖遺物を効率よく拝観させるため、入口から出口までの動線を美術館のように整えた「巡礼路様式」と言われるラテン十字式の改良タイプの会堂も多く作られた。フランスのコンクのサント・フォア修道院付属礼拝堂がそうであり、サンチャゴ・デ・コンポステーラ大聖堂がまさにその典型である。そのどちらでもないということは、この聖堂は教区の信徒が集まる以外の目的で建設されたということになる。
記録の上では1100年のイラーチェ修道院への献金をもとに建設されたとあるが、建築自体はかなり後、12世紀後半から13世紀前半と考えられている。約50キロ東にある、同じ八角形の平面プランを持つエウナテの聖堂より少し後となる。サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼者が増加し始めた時代と重なるため、両者とも巡礼者のための施設であったのはほぼ間違いない。
比較してみると、エウナテは建物の直径と高さがほぼ等しく、かなりの居住性がある。ル・ピュイの道とアラゴンの道という二つの巡礼路の合流点に近く、敷地内から巡礼姿の遺骨が発掘されていることから考えても、巡礼者のための墓所ないし記念礼拝堂である可能性が高い。それに対してトーレス・デル・リオは、直径に対して高さが約3倍ある。見た目にも塔で、上部は土台部分の塔より小さい同じ八角形の燈火塔になっている。こちらの方は、東から来る巡礼者の「陸の燈台」の役割が大きかったとみられる。「王の塔」の名の由来でもあると思われる。
屋根はかなり高い位置に置かれ、中心に小さいながらもそれなりの高さのある(つまり重さのある)燈火塔が乗せられている、屋根の傾斜が緩いので、建物の高い位置でかなりの横方向の力が働くことになる。構造的には難問であるこの力を支えるのが、付設する円塔と精巧な天井の造りである。西側の円塔の内部は燈火塔へ登るための螺旋階段となっているが、横からの力に強い円筒形の塔は聖堂本体より高い。細かく見ると雨樋や窓が干渉を受けているので、塔が後から加えられたか、少なくとも当初の設計より規模の大きなものに変更された可能性が高い。中世において復活を意味する「8」に由来する8角形の純粋なプロポーションを崩してでもこの大きな塔が設けられるに至ったのには、やはり構造設計的な問題があったように思われる。塔の反対側は内陣という形で、半円筒形の祭室が外側から聖堂を支えている。直交する南北の軸線上には、外側から支えるものはないが、八角形という力を分散して受け止めることができる形状と星形リヴ・ヴォールトに支えられた円蓋(クーポラ)で屋根と燈火塔の重量を支えている。
開口部は全体に少なく、上部に穿たれているために上昇感を演出することに成功している。一方、対角に渡されるリブの間に開口部はなく、対照的に閉じた硬さの力強さを見せている。
天井は円蓋であるが屋根は八角の板状。入口はアーキヴォルト、柱頭、タンパンとも彫刻は少なく目立たない。巡礼者の守護を本旨とし、簡素を旨としたテンプル騎士団との関連が語られる理由である。しかし、外側の半円アーチ窓を囲むアーケード、内部の壁面、付け柱の柱頭など、小さくはあるがそれぞれに印象深いロマネスク彫刻を目にすることができる。
昔の巡礼者はこの教会を目印にして歩いていたそうだ。今は多くの巡礼者が教会の中に押し寄せている。観光名所のようになってしまっており、落ち着くことができない。本当ならこの濃密な空間の中でゆっくりとした時間を過ごしたいのだが、自分もその一人なので文句は言えない。仕方なく数枚ほど写真を撮影し、歩き出す。

中心に灯台のように聖墳墓教会が見える。

八角形の形が印象的である

「つっかえ棒」ともいえる左側の円筒部分は螺旋階段

ロマネスク様式の半円アーチ


重なるリブが特徴、イスラム建築の影響があるとも言われる

ぶどう畑が広がる。銘醸地リオハも近い
歩いていると、黒く焦げた場所がある。山火事の跡である。いつ発生したのか定かではないが、乾燥し、気温が40℃近くなる内陸のこの地域ではいつ起きても不思議ではない。

この地域は、丘の上に集落が形成されている事が多い。わざわざ丘の上に集落を造るのは防衛のためである。イスラム勢力とキリスト教勢力との間で戦いが繰り返されたこの地域では、町の防衛が最優先であった。クラビッホの古戦場も遠くはない。
844年、コルドバのカリフ、アブデラマン2世に敗れ、壊滅寸前となったアストゥリアス王ラミロ1世の軍勢の前に、突如白馬に乗り、剣を振りかざした騎士の姿の聖ヤコブが現れ、戦いを勝利に導いたという伝説がある。その後、白馬の騎士の姿をした聖ヤコブは、サンティアゴ・マタモロス(Santiago Matamoros:ムーア人殺しの聖ヤコブ)と呼ばれ、レコンキスタ(再征服運動)のシンボルとなり、スペインの守護聖人として崇められるようになった。
しかし、中世ならばともかく、今現在、聖ヤコブを「マタモロス」と呼ぶのは問題であろう。巡礼路でも、クラビッホの古戦場が名所となっているわけではない。
巡礼の前にDVDで見たフランス映画「サン・ジャックへの道」には、巡礼路を歩くアラブ系の人物が登場する。「カミーノへの扉は、すべての人に対して開かれている。病気のものにも、健康なものにも、カトリックの信者だけではなく、異教徒にも、なまけものにも、そして中身のない人間にも。善良なものにも、俗人にも開かれている」と言われている意味は大きいのではないだろうか。私自身、クリスチャンではあるが、カトリック教徒ではないのだから。

奥にビアナの町が見える

白馬にまたがるサンチャゴ・マタモロス像
昼過ぎにViana(ビアナ)に着く。ナバーラ州の最後の町であるここビアナも丘を覆うように家々が立ち並ぶ。しかし、今日歩き抜けてきた小さな村とは規模が違う。カスティーリヤ王サンチョ4世によって建設され、巡礼の最盛期には4つの救護院を有していた。町の中心にある聖マリア教会は、塔・身廊・天井がゴシック、後陣の祭室・中央祭壇がバロック、ポルターユ(入り口)の彫刻がルネサンスと、時代時代の様式を刻んでいる。
また、この地で戦死したルネサンス時代の寵児、イタリアの貴族チューザレ・ボルジアが中庭に埋葬されたと伝えられているが、未だ遺骨は発見されておらず、その魂がこの町をさまよっているとの噂があるそうである。


壮麗なファサード彫刻

豪華できらびやかな祭壇
町の端、私が泊まったアルベルゲの近くに遺跡のような教会があった。カルリスタ戦争(1833~1876)で破壊されたサン・ペドロ教会の廃墟である。戦いによって破壊された教会がそのまま残るこの地においては、廃墟はその土地の歴史を物語っている。この1月に亡くなったヴァイツゼッカー元ドイツ大統領の「過去に目を閉ざす者は、現在に対してもやはり盲目となる」との言葉を思い起こす。



正面の天蓋には穴が開き、ローマのパンテオンのようになっている。何もない空間が直接、空を切り取っている。光の移ろいを感じる。ずっとその場に座って、時が流れるのを感じていた。時間によって光が変わり、影が移ろうという当たり前のことに気付かされる。日本でただ生活しているときには気が付かなかったことである。巡礼という非日常の世界に身をおいて、巡礼の生活の中で見つけた、当たり前のこと。ただ、今ではそういったことに気づくのが大切なのだろうと思う。
夜、満天の星空が広がる。巡礼は星の道を歩く旅だと表現する人もいるが、まさにその通りといえるほどの夜空である。廃墟と化した教会の天蓋から覗く星空は吸い込まれるほどの美しさである。まさに自然のプラネタリウムであった。堀田善衛は『インドで考えたこと』の中でインドの農村での夜空を「空の星が、死にたくなるほど美しい」と表現した。この星になれるのなら死んでもいいと思えるほどの圧倒的な美しさ。人は死んだら星になるというのは洋の東西を問わず人間の根源的な希望のように思えた。命は有限であり、生とは死に向かうことであるとも言える。だからこそ、人間は永遠、そして無限の命を求めてしまうのかもしれない。


高台からの景色

夕食のときは自炊の料理とリオハワインを巡礼仲間と一緒に飲む

歩いた総距離895.4km
(はがげんたろう)
コラム 僕の愛用品 ~巡礼編~
第12回 メモ帳
RHODIA ロディア ブロックロディアNo.11 216円
これほどデジタル機器が進歩し、便利になった現代においてメモ帳はどのような役割をはたすのだろうか。メモはスマートフォンなどで記録したほうが、管理がしやすいという意見もあるだろう。紙とペンでメモをとるというアナログな作業はデジタル全盛の現代においては時代遅れのように思われる。しかし、メモに関しては手書きのほうが素早く筆記でき、機動性に富んでいると私は思う。
私はロディアのメモ帳を愛用している。ロディアはフランスの文具ブランドで1934年にフランス・リヨンでアンリとロベールの2人の兄弟によって創設された。名前はリヨンを流れるローヌ川(Rhône)に由来し、2本の木が描かれたマークは、紙の原料である木を表すとともに、アンリとロベールという2人の兄弟の創設者の絆を象徴するものでもある。表紙のオレンジ色はロディアの代名詞であるが、これはあえてオレンジを選んだわけではない。当時は選択できる色付きの紙が、このオレンジしかなかったためである。
フランスの小学校では、紙は80グラム/㎡のものを使うよう法令で定められている。厚めの良い紙を使うという文化が根づいており、小さなころから良いものに触れさせようとしているのだ。ロディア社では製紙から製品までの一貫工程を自社で行っている。ロディアは良いノートをつくるためには紙から作る必要があるというある種の必然から生まれた逸品なのである。
ロディアの紙には5ミリの方眼が印刷されている。この方眼によって文字が書きやすくなるためだ。この5ミリ方眼のタイプのものがフランスではポピュラーで人気がある。ロディアの定番No.11は手のひらにおさまり便利である。360°折り返し可能なカバーは撥水、耐水性を備え、マイクロカット加工による細かなミシン目で一枚ずつ綺麗にカットできる。
メモ帳はどんなシーンにでも携帯するものだ。だからこそ、デザインだけではなく、機能もきちんと備えていてほしいと思う。その意味でロディアはハードな巡礼にもピッタリのメモ帳である。
巡礼路ではこのロディアでメモをとる機会が多かった。特に役に立ったのは、聞き取れなかった言葉を直接ロディアに書いてもらったときだ。住所や名前、連絡先など耳で理解できなかったことを相手にメモしてもらうのである。巡礼では意思疎通をはかるためになくてならない重要なコミュニケーションツールだった。
たしかに、メモなどコピーの裏紙で十分かもしれない。たかがメモ帳にこんなお金をかけなくてもいいじゃないかという人もいるだろう。しかし、手になじみ、持っていて気持ちの良いものを使うことには喜びがあると私は思う。
ロディアのホームページには「良い仕事を成し遂げるためには、良い道具が必要不可欠」とある。「弘法筆を選ばず」ともいうが、私は弘法大師ではないので、これを使えば素晴らしいアイディアがひらめくのではないかと淡い期待を抱きながらつねにロディアを手元においている。


切り離しても使える
■芳賀言太郎 Gentaro HAGA
1990年生2009年 芝浦工業大学工学部建築学科入学2012年 BAC(Barcelona Architecture Center) Diploma修了2014年 芝浦工業大学工学部建築学科卒業2012年にサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路約1,600kmを3ヵ月かけて歩く。卒業設計では父が牧師をしているプロテスタントの教会堂を設計。
◆ときの忘れもののブログは下記の皆さんのエッセイを連載しています。
・大竹昭子のエッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。
・frgmの皆さんによるエッセイ「ルリユール 書物への偏愛」は毎月3日の更新です。
・石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」は毎月5日の更新です。
・笹沼俊樹のエッセイ「現代美術コレクターの独り言」は毎月8日の更新です。
・芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。
・土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」は毎月13日の更新です。
・野口琢郎のエッセイ「京都西陣から」は毎月15日の更新です。
・井桁裕子のエッセイ「私の人形制作」は毎月20日の更新です。
・小林美香のエッセイ「母さん目線の写真史」は毎月25日の更新です。
・「スタッフSの海外ネットサーフィン」は毎月26日の更新です。
・森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日の更新です。
・植田実のエッセイ「美術展のおこぼれ」は、更新は随時行います。
同じく植田実のエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」は終了しました。
「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。
・新連載「美術館に瑛九を観に行く」は随時更新します。
・飯沢耕太郎のエッセイ「日本の写真家たち」は英文版とともに随時更新します。
・浜田宏司のエッセイ「展覧会ナナメ読み」は随時更新します。
・深野一朗のエッセイは随時更新します。
・「久保エディション」(現代版画のパトロン久保貞次郎)は随時更新します。
・「殿敷侃の遺したもの」はゆかりの方々のエッセイ他を随時更新します。
・故・木村利三郎のエッセイ、70年代NYのアートシーンを活写した「ニューヨーク便り」の再録掲載は終了しました。
・故・針生一郎の「現代日本版画家群像」の再録掲載は終了しました。
・故・難波田龍起のエッセイ「絵画への道」の再録掲載は終了しました。
・森下泰輔のエッセイ「私のAndy Warhol体験」は終了しました。
・ときの忘れものでは2014年からシリーズ企画「瀧口修造展」を開催し、関係する記事やテキストを「瀧口修造の世界」として紹介します。土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」、「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。
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●今日のお勧め作品は、奈良原一高です。

写真集〈王国〉より《沈黙の園》(2)
1958年 (Printed 1984)
ゼラチンシルバープリント
Image size: 47.8x31.5cm
Sheet size: 50.8x40.6cm
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