「瀧口修造とマルセル・デュシャン」第7回

土渕信彦


7.新潮社版『幻想画家論』
 1958年の欧州旅行から帰国した瀧口修造が、直後の59年1月に新潮社から刊行したのが、『幻想画家論』である(図7-1)。この評論集は、「藝術新潮」誌に55年1月号から12月号まで、12回連載した「異色作家列伝」(第4回参照)をまとめ、単行本としたものである。

図7-1 幻想画家論カバー図7-1
新潮社版『幻想画家論』カバー(表紙側)


 「あとがき」のなかで、「旅行中、ここで扱われた作家群につい興味が向いたのは自然であった」と述べているとおり、欧州各地を周った足取りは、実は「異色作家列伝」で論じた画家たちの作品や事跡の、巡礼の旅路でもあった。帰国直後に執筆されただけあって(末尾に「1958・12・1」と記載)、印象深い場面が続く素晴らしい紀行文となっている。どちらかといえば硬い『幻想画家論』を、この「あとがき」が膨らみのある一層魅力的なものにしているのは、誰もが認めるところだろう。「デュシャンとの出会い」の場面は前回引用したが、全文が『コレクション』第1巻の「解題」に収録されているので、是非、ご一読をお勧めしたい。

 さて、ここで注目されるのはこの本の装幀である。特に目を引くのはカバーのデザインで、図7-1のとおり緑色の地に画家たちのモノクロの肖像が配され、さらに鮮やかな赤い帯が付されており、忘れ難い印象を与える。装幀者は明記されていないようだが、地味なクロスにタイトルなどをエンボスしただけという、本体の簡素なデザインからすると(図7-2,3)、瀧口の自装と考えて間違いなかろう。背表紙のクロスの灰色とエンボスの赤彩色との対比は、後年のロトデッサンやデカルコマニーを想起させるように思われる。

図7-2 幻想画家論図7-2
『幻想画家論』装幀


図7-3 幻想画家論タイトル図7-3
『幻想画家論』背表紙


 念のため、肖像が配置された11人の名前を連載の順に挙げると、以下のとおりである(表記は『幻想画家論』に従っている)。なお、論じられた12人のうちジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、7月の連載当時から肖像画が掲載されていない。この画家の自画像や肖像画が残っていないためだろう。

 1月:ボッシュ
 2月:アンソール
 3月:クレー
 4月:スーティン
 5月:ムンク
 6月:グリューネワルト
 8月:ゴーギャン
 9月:ピエロ・ディ・コシモ
 10月:ルドン
 11月:エルンスト
 12月:デュシャン

 実はこのカバー・デザインには原型となっている書物がある。アンドレ・ブルトンの『黒いユーモアの選集』(サジテール、1950年。図7-4)である。一見してよく似ている、というよりも、意図的に模しているように思われる。特に、裏表紙のデュシャンの肖像が、まさに同じ左下に配されているだけでなく、用いられた写真まで共通している点に、ご注目いただきたい(図7-5,6)。

図7-4 黒いユーモアの選集図7-4
アンドレ・ブルトン
『黒いユーモアの選集』


図7-5 黒いユーモアの選集 裏表紙図7-5
同裏表紙


図7-6 幻想画家論 裏表紙図7-6
『幻想画家論』カバー(裏表紙側)


 この写真は「異色画家列伝」の連載当時から記事の冒頭に掲載されており、この連載第4回でも述べたとおり、『黒いユーモアの選集』の「デュシャン」の章からの転載と思われる(図7-7,8)。連載当時から単行本化の計画はあったのだろうから、少なくとも最終回の「デュシャン」執筆の頃から、装幀はブルトンのこの本に倣おうと考えていたのかもしれない。ちなみに、カバーに使われた肖像画が連載の時にも掲載されているのは、デュシャンの他、ボッシュ、スーティン、ピエロ・ディ・コシモの3名だけで、他の7名は別の肖像に差し替えられている。

図7-7 黒いユーモアの選集図7-7
『黒いユーモアの選集』
「マルセル・デュシャン」の章


図7-8 「異色作家列伝」冒頭頁図7-8
「異色作家列伝」「デュシャン」の回


 『幻想画家論』は、刊行の約11か月後、59年11月にデュシャン宛てに献呈された。献呈状の草稿(11月1日付け)には、以下のように書かれている。(朝木由香、笠井裕之、橋本まゆ、水沼啓和編「瀧口修造‐マルセル・デュシャン書簡資料集」、千葉市美術館「瀧口修造とマルセル・デュシャン」展図録、2011年11月。原文は英文。編者訳)

 「スペイン旅行のあと、私はパリを訪れ、ブルトン氏と会いました。彼はとても親切で、書斎であなたの作品を見せてくれました。別便でお送りした私の最近の本をお納めいただければ幸いです。―『幻想画家論』という題で、あなたの作品を紹介した論考も含まれています。もっとも以前に書いたものですが(この総題をあなたに気にいっていただけないのではと気にしています。ボスにはじまってグリューネヴァルト、ピエロ・ディ・コージモ、ルドン、アンソール、ムンク、エルンスト等々、そしてデュシャンまでを論じた12篇のエッセイをまとめたものです)」

 なお、この献呈状では他にもさまざまな内容に触れられている。特に注目されるのは、「グリーン・ボックス」に関して「長谷川氏が数年前にアメリカで亡くなる前にご好意から私に下さった」と述べている個所や、《ヴァリーズ》を入手できるか照会している個所などだろう。「長谷川氏」とは、57年3月にサン・フランシスコで没した画家長谷川三郎と推定されている。

 ここで不思議に思うのは、この本を献呈した時期がどうして刊行直後ではなく11月なのか、ということである。普通なら刊行直後に献呈するのではなかろうか。遅延の事情はよく判らないが、この年はマルセル・ブリヨン『抽象芸術』の刊行(紀伊國屋書店、59年5月)、多数の欧州報告記事の執筆、美術評論家連盟の会長就任などが続いており、忙しかったのは事実だろう。また当時のデュシャンは欧州と米国の間を行き来していたようなので、宛先を確認するのに時間がかかったのかもしれない。デュシャンからの礼状(12月11日付け)には、わざわざ「新住所」として例の「ニューヨーク市西10丁目28番地」が記載されている。礼状の全文は以下のとおり簡潔なものである(上掲「書簡資料集」。原文は英文。編者訳)。

 「親愛なる瀧口さん/11月1日付けの手紙、ありがとうございました。カダケスのダリの家であなたに出会ったことを思い出し、あなたの著書を嬉しく受け取りました。/私は原則として書きませんが、ここに出版されたばかりの私の‘writings’を贈ります。/あなたが準備している雑誌の1月号に何かお役に立てるようでしたら、どうぞ自由にお使いください。/来年、《ヴァリーズ》をフランスであといくつか完成させたいと思っています。もしヨーロッパに来られるようでしたら、会ってお渡しします。」

 文中で触れられた‘writings’とはミシェル・サヌイユ編“MARCHAND du SEL”(Le Terrain Vague,1958)で、『塩の商人』という意味のこの題名は、いうまでもなくMARCEL DUCHAMPのアナグラムである。デュシャンから贈られたこのアンソロジーの瀧口旧蔵本(図7-9)は、かなり読み込んだ形跡が認められる。『マルセル・デュシャン語録』(東京ローズ・セラヴィ、68年7月)出版の際などに大きな導きとなったと想像される。また「あなたが準備している雑誌」とは、送付状のなかで瀧口が協力を求めていた、「藝術新潮」60年1月号の特集計画のことだが、結局実現しなかった。余談ながら、『幻想画家論』末尾の広告頁には「滝口修造著 クレー」と謳われているが、これも未刊に終わっている。

図7-9 塩の商人図7-9
“MARCHAND du SEL”
瀧口修造旧蔵本


 前回ご紹介したデュシャンとの出会いのエピソード、つまり「反芸術」の開拓者であるデュシャンに対して「あなたの芸術……」と言いかけ、慌てて「ノン」と打ち消したところ、デュシャンが笑いながら頷き、瀧口も笑ったという逸話は、よく知られているが、この場面の直前の遣り取り、すなわちデュシャンから「シュルレアリスムに関係した詩人か?」と訊かれ、脇からダリが「日本の」と強く補足したという会話の流れも、注目に値するだろう。瀧口が戦前からシュルレアリスム運動に関わってきた詩人であるということを、この場面の前にデュシャンがダリから教えられていたことが判るからである。

 ここでデュシャンのシュルレアリスムに対する関わりについて触れておくと、デュシャンはエロティシズム以外のあらゆる「イズム」に対して無関心だったから、深く関与することはなかった。けれども以下の経緯を見るとかなり協力的だったとは言えそうである。1938年のシュルレアリスム国際展では会場構成を手掛け、「回転半球」を出品しているし、42年のニューヨークでのシュルレアリスム展図録“first paper of Surrealism”(図7-10)や、「1947年のシュルレアリスム」展の図録”Priere de toucher”(図7-11)の有名なデザインを引き受けている。さらに、上記の礼状が書かれた59年12月から翌年2月にかけて開催された、シュルレアリスム国際展「エロス」展(ダニエル・コルディエ画廊)にも関わっている。

図7-10 亡命申請書展図7-10
“first paper of Surrealism”
(デュシャン装幀)


図7-11 触ってください図7-11
“Priere de toucher”
(同)


 この展覧会について瀧口は、「芸術とエロス シュルレアリスム国際展をめぐって」(「みづゑ」、60年7月)のなかで次のように解説している。「組織者はアンドレ・ブルトンとマルセル・デュシャンの2人である。この運動の創始者であるブルトンは当然のこととして、ダダの最長老デュシャンが戦前の展覧会から変わらぬ協力者となっていることは注目される。」さらにこの個所に付された注でデュシャンから著書を贈られた経緯に言及し、デュシャンの礼状を「私は原則としてものを書かないが、最近私がこれまでに書いたもの!を集めた本を刊行した」と紹介している。

 この展覧会の事例で判るように、デュシャンは9歳ほど年下のブルトンその人に対しても、もちろん悪い感情は持っていなかったと思われる。何といってもブルトンは、連載第3回でも触れたとおり、読みにくい手書きのファクシミリ版「グリーン・ボックス」を丹念に読み込んで、初めて「大ガラス」の解読を試みた人物だからである。ブルトンの『兎から守られた桜の若木』(View Editions,1946)(図7-12)の装幀を手がけたのもデュシャンだった。

図7-12 『兎から守られた桜の若木』図7-12
ブルトン『兎から守られた桜の若木』


 という次第で、瀧口が『幻想画家論』の献呈状のなかでブルトンと面会した経緯について触れたのは、おそらくデュシャンからの友情や信頼感を得る上で有効だっただろう。前出「エロス」展の準備の際などの折に、ブルトンとの間で瀧口の話題が出ていた可能性もあるのではなかろうか。礼状のなかの《ヴァリーズ》を「ヨーロッパに来られるようでしたら、会ってお渡しします」という記述は、婉曲な断りとも解される表現だが、事実の流れからすればむしろ逆に、デュシャンは瀧口がこの展覧会を観に来るだろうと考え、実際に面会して渡そうと思っていた可能性の方が高いように思われる。

 同様に、『幻想画家論』を「嬉しく受け取りました」との記述は、事務的で素っ気ない表現だが、社交辞令の決まり文句ではなく、実際に嬉しく感じ喜んだという事実を、ありのまま率直に記したものではなかろうか。包みを開けそのカバー・デザインを一目見た瞬間、画家たちの肖像画によって、日本語が判らなくても内容を想像できただろうし、ダリから聞いたとおり、瀧口がシュルレアリスムに深く関わってきた人物であると納得したことだろう。出来合いのデザインを巧みに転用した一種の「レディ・メード」と考えて、愉快に思ったかもしれない。そして何よりも、カバーが緑色とされているのは、メモの複製を収めた箱「グリーン・ボックス」を踏まえたものであると察知し、自らへの深い敬意を感じたに違いない。『幻想画家論』のカバー・デザインは、デュシャンを強く意識し、デュシャンのために採用されたものと考えることもできそうである。(続く)

つちぶちのぶひこ

●今日のお勧め作品は、細江英公です。作家については、飯沢耕太郎のエッセイ「日本の写真家たち」第2回をご覧ください。
20150313_007細江英公
"Witnesses of the End
of the 20th Century, Anchorage, Alaska"
from "Luna Rossa"
「ルナ・ロッサ」より「二十世紀末の証人たち」

1992年(printed later)
ゼラチンシルバープリント
46.6x36.0cm
サインあり

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