「瀧口修造とマルセル・デュシャン」第9回
Shuzo TAKIGUCHI and Marcel Duchamp Vol.9
土渕信彦
9.「オブジェの店」(その2)
前回は瀧口修造が1963年頃から抱き始めた「オブジェの店」をひらく構想に関する、主な事実関係をまとめたので、今回はこの構想の背景や内容などについて見ていきたい。
前回も引用した「物々控」(「美術手帖」増刊特集「おもちゃ」、1965年4月。図9-1)の末尾には、次のように記されている。
「流通価値のないものを、ある内的な要請だけによって流通させるという不逞な考え、あるいはライプニッツ流に、これも「変な考え」のひとつであろうか?
かつてアンドレ・ブルトンは夢のなかの物体を作製し、それを流通させようと考えた。それは1920年代から30年代にかけての昔のことだ。しかし「物体の危機」はたえず認識の危機に通じていて、この底流は「物体」について絶えず現れている。
物をたんにオブジェと呼びかえることによって、特殊な常套芸術や商品にすりかえられぬように警戒しよう。そこにこそ、たとえ架空で終るにしろ終らないにしろ、私の「オブジェの店」というものが考えられる理由があるのだから。」(「物々控」)
図9-1
瀧口修造「物々控」
(「美術手帖」増刊特集「おもちゃ」、1965年4月)
また、「物々控」より3年ほど後に発表されたものだが、『マルセル・デュシャン語録』(東京ローズ・セラヴィ、68年7月。図9-2)のなかの「Rrose Sélavy考」では、次のように述べられている。
「数年前からオブジェの問題を考えていた私に、ある日ふとオブジェの店をひらくという考えが浮かんで、それがひとつの固執観念になりはじめたのである。もちろん私は商業にはもっとも迂遠な人間であるが、おそらくある種の認識によってのみ存在価値をもつはずのオブジェの問題は、この場合、観念と現実とを背中合わせとして発生することを余儀なくされたように思われる。」(「Rrose Sélavy考」)
図9-2
瀧口修造『マルセル・デュシャン語録』
(東京ローズ・セラヴィ、1968年7月)
この2つの引用をもとに、瀧口が「オブジェの店」をひらく構想で目指していた目的ないし内容について少し考えてみたい。結論を先取りしていうなら、差し当たり次の2つの点が指摘されるように思われる。つまりオブジェの意義の復権、並びにオブジェが流通する仕組みの再構築である。以下、順を追ってこの2点について述べることとする。
まずオブジェの意義の復権について。そもそもシュルレアリストたちが試みていたさまざまなオブジェの試みが日本に紹介されたのは、1930年代中ごろのことで、瀧口はその張本人だったといえるだろう。「対象」「物体」「オブジェ」などと、訳語をあれこれ当てはめて工夫ないし苦闘しながら、その概念や事例の紹介を続けたのである。ダリが《THIS QUARTER》誌5号(32年9月。図9-3)に発表した「シュルレアリスムの実験に現れた対象」”The Object as Revealed in Surrealist Experiment”を翻訳したのは、その最も早い時期の例と思われる(「詩法」8号、35年3月)。この論考のなかでダリは、冒頭に引用した「物々控」のなかで触れられていた、ブルトンの「夢のなかの物体を流通させる」という一節も引用しており、もちろん瀧口は訳している。この一節はブルトン「現実僅少論序説」”Introduction au Discours sur le peu de réalité”(「コメルス」誌3号、24年)の次の個所と考えられる。当時の瀧口訳で以下に引用しておきたい。
「僕は、何かこんな種類の対象を、つまり自分には飛び離れて疑わしく、心をそわそわさせるようなものを流布させたいと希う。僕は選ばれた人々へ、僕の書物を贈る時に、こんな種類の物を一つずつ添えたいと思う。」(瀧口訳ダリ「シュルレアリスムの実験に現はれた対象」より、ブルトン「現実僅少論序説」の引用部分。新仮名遣いに変更した)
図9-3
THIS QUARTER 5号
(1932年9月)
余談ながら、この《THIS QUARTER》誌はパリで刊行されていた英語誌で、第5号はシュルレアリスム特集である。ブルトンがゲストとして編集に当たり、「シュルレアリスム:昨日、今日、明日」”Surrealism: Yesterday, To-day. To-morrow”という論考も執筆している。ブルトン、ダリの論考のほかに、デュシャンの「彼女の独身者によって裸にされた花嫁」”The Bride Stripped Bare by her Own Bachelors”や、エルンストの「意のままの霊感」”Inspiration to Order”なども掲載されている。ブルトン『超現実主義と絵画』の翻訳(厚生閣書店、30年6月)の後も、シュルレアリスムの理論的な展開に深い関心を払っていた瀧口にとって、重要な意味をもつ雑誌だったと思われる。
また、『近代藝術』(三笠書房、38年9月。図9-4)の「物体の位置」では、次のように述べている。この論考は瀧口によるオブジェの普及活動の代表的な例といえるだろう。
「あらゆる物体には、意識的であると同時に実際的な利用に通ずる道と、無意識的であると同時に潜在的な意味に通ずる道との二つが認められる。(中略)われわれは事物の潜在内容が、いかに生活の総合にとって重要なものであるかを見逃してはならない。もっとも広い意味に解釈するならば、われわれが特殊な風景(それは岩であろうと、山であろうと)に直面して感ずる説明しがたい不思議な顫慄も、詩的な対象がわれわれの精神に喚び覚す捕捉しがたい昂揚感も、究極において、オブジェの潜在的内容の作用であるということができるであろう。いわばシュルレアリスムのオブジェは、こうした物体的認識の再開発にほかならないのである。」(「物体の位置」『近代藝術』)
図9-4
瀧口修造『近代藝術』
(三笠書房、1938年9月)
この引用のとおり、瀧口がオブジェの紹介・普及活動の過程で一貫して強調していたのは、オブジェがオブジェであるためには、その潜在的な内容が働き、「物体的認識の再開発」につながるものである必要があるということだった。ところが1950~60年代には、例えば華道の材料の「オブジェもの」などのように、オブジェがありふれたものとなり、まさに「物をたんにオブジェと呼びかえることによって、特殊な常套芸術や商品に」すりかえるという状況も見られるようになっていた。「オブジェの店」をひらく構想の背景には、こうしたオブジェというものの変質(ないしは堕落)に対するある種の危機感があり、自らが1930年代に導入した当初の意義を回復しようとする動機があったのは、間違いないところだろう。
続いて「オブジェの店」をひらく構想のもうひとつの内容と想像される、オブジェが流通する仕組みの再構築について見ていきたい。すでに1957年4月には、瀧口が51年6月以来5年10ヶ月にわたって運営に携わってきたタケミヤ画廊の企画展が、終了に追い込まれたていた。その理由は、画材店の一角で開催される無償の展覧会という運営の形に税務署の嫌疑がかかり、店の形態変更を余儀なくされたことによるとされている(藤松博「タケミヤ画廊と滝口修造」、「美術手帖」、64年8月。図9-5)。
図9-5
藤松博「タケミヤ画廊と滝口修造」
(「美術手帖」1964年8月)
また、1949年以来、無審査で作品を受け入れ展示してきた読売アンデパンダン展が、反芸術の流れとの間で齟齬をきたし、62年末には出品作品に規格を導入し、63年の第15回を最後に、幕を閉じることとなった。この第15回には赤瀬川原平の「模型千円札」を用いた「復讐の形態学」(参考図9-6)が出品されていたことも付け加えておくべきかもしれない。こうしたタケミヤ画廊の閉鎖や読売アンデパンダン展の終了という事態が、芸術作品の展示や流通に対する再考察を促し、より包括的な仕組みとして「オブジェの店」をひらく構想につながる要因のひとつとなったのは、容易に想像されるだろう。
参考図9-6
第15回読売アンデパンダン展の赤瀬川原平「復讐の形態学」
(撮影者不詳。千葉市美術館・大分市美術館・広島市現代美術館「赤瀬川原平の芸術言論展」図録、2014年10月より転載)
さて、ここで「オブジェの店」をひらく構想とデュシャンとの関係について考えることにする。瀧口がわざわざ「ローズ・セラヴィ」の名を挙げ、デュシャンに対して「オブジェの店」の命名を依頼したという事実は、この構想が「レディ・メードのオブジェ」や「選択の芸術」などのデュシャンの先駆的な試みを踏まえていることを物語るものだろう。デュシャンが1916年、ニューヨークのアンデパンダン展に有名なレディ・メードのオブジェ「泉」(図9-7)を出品したエピソードはよく知られている。陶製の男性用小便器に(向きを変えた上で)「R.MUTT」と署名して出品したのだが、会期が終了するまでこの作品が展示されることはなかったというものである。
図9-7
マルセル・デュシャン「泉」
1917年
(スティーグリッツ撮影)
アンデパンダン展に趣旨に反するこうした取扱いに対して、デュシャンはアレンズバーグの援助を受けて刊行した「ブラインドマン」《THE BLIND MAN》誌2号(17年。図9-7)の記事で、経緯を公にして異議を唱えた。この記事を瀧口は『マルセル・デュシャン語録』に訳出している。以下のとおりである
「6弗を支払えば作家は誰でも出品することができることになっている。
リチャード・マット氏は泉という作品を搬入した。ところがなんら討議されることもなく、作品は姿を消し、ついに展示されなかったのである。マット氏の泉が拒絶された根拠は
1.それが非道徳的で俗悪なものだと一部の委員が主張したこと。
2.またそれが剽窃であり、ただの鉛管工児の部品にすぎないという他の主張。
ところでマット氏の泉が非道徳だというのは、浴槽が非道徳であるというのと同じくばかげている。それは諸君が鉛管屋のショーウィンドーで毎日見かける部品である、
マット氏が自分でこの泉をつくったかどうかということは重要なことではない。彼はそれを選んだのである。彼はありふれた生活用品をとりあげ、新しい標題と観点のもとに、その実用の意味が消えてしまうようにそれを置いたのだ。つまり、その物体のために新しい思想を創り出したのだ。」(瀧口訳「リチャード・マット事件」、『マルセル・デュシャン語録』)
図9-8
THE BLINDE MAN 2号
(1917年)
上のデュシャンの主張は次のようにまとめられるのではなかろうか。芸術家が選択し出品したものは、自ら制作したのではない日用品であっても、日常の機能から切り離して新しい思考を創造した作品であり、芸術たり得るのであり、アンデパンダン展である以上、そうした作品も展示するべきである。瀧口の「オブジェの店」は、こうしたデュシャンの考え方を踏まえた上で、美術館などの公募展や展覧会など、美術をめぐる既存の展示・流通制度に替わる、新たな枠組みとして構想されていると考えられるのではなかろうか。(続く)
(つちぶちのぶひこ)
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瀧口修造
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Shuzo TAKIGUCHI and Marcel Duchamp Vol.9
土渕信彦
9.「オブジェの店」(その2)
前回は瀧口修造が1963年頃から抱き始めた「オブジェの店」をひらく構想に関する、主な事実関係をまとめたので、今回はこの構想の背景や内容などについて見ていきたい。
前回も引用した「物々控」(「美術手帖」増刊特集「おもちゃ」、1965年4月。図9-1)の末尾には、次のように記されている。
「流通価値のないものを、ある内的な要請だけによって流通させるという不逞な考え、あるいはライプニッツ流に、これも「変な考え」のひとつであろうか?
かつてアンドレ・ブルトンは夢のなかの物体を作製し、それを流通させようと考えた。それは1920年代から30年代にかけての昔のことだ。しかし「物体の危機」はたえず認識の危機に通じていて、この底流は「物体」について絶えず現れている。
物をたんにオブジェと呼びかえることによって、特殊な常套芸術や商品にすりかえられぬように警戒しよう。そこにこそ、たとえ架空で終るにしろ終らないにしろ、私の「オブジェの店」というものが考えられる理由があるのだから。」(「物々控」)

瀧口修造「物々控」
(「美術手帖」増刊特集「おもちゃ」、1965年4月)
また、「物々控」より3年ほど後に発表されたものだが、『マルセル・デュシャン語録』(東京ローズ・セラヴィ、68年7月。図9-2)のなかの「Rrose Sélavy考」では、次のように述べられている。
「数年前からオブジェの問題を考えていた私に、ある日ふとオブジェの店をひらくという考えが浮かんで、それがひとつの固執観念になりはじめたのである。もちろん私は商業にはもっとも迂遠な人間であるが、おそらくある種の認識によってのみ存在価値をもつはずのオブジェの問題は、この場合、観念と現実とを背中合わせとして発生することを余儀なくされたように思われる。」(「Rrose Sélavy考」)

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この2つの引用をもとに、瀧口が「オブジェの店」をひらく構想で目指していた目的ないし内容について少し考えてみたい。結論を先取りしていうなら、差し当たり次の2つの点が指摘されるように思われる。つまりオブジェの意義の復権、並びにオブジェが流通する仕組みの再構築である。以下、順を追ってこの2点について述べることとする。
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「僕は、何かこんな種類の対象を、つまり自分には飛び離れて疑わしく、心をそわそわさせるようなものを流布させたいと希う。僕は選ばれた人々へ、僕の書物を贈る時に、こんな種類の物を一つずつ添えたいと思う。」(瀧口訳ダリ「シュルレアリスムの実験に現はれた対象」より、ブルトン「現実僅少論序説」の引用部分。新仮名遣いに変更した)

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余談ながら、この《THIS QUARTER》誌はパリで刊行されていた英語誌で、第5号はシュルレアリスム特集である。ブルトンがゲストとして編集に当たり、「シュルレアリスム:昨日、今日、明日」”Surrealism: Yesterday, To-day. To-morrow”という論考も執筆している。ブルトン、ダリの論考のほかに、デュシャンの「彼女の独身者によって裸にされた花嫁」”The Bride Stripped Bare by her Own Bachelors”や、エルンストの「意のままの霊感」”Inspiration to Order”なども掲載されている。ブルトン『超現実主義と絵画』の翻訳(厚生閣書店、30年6月)の後も、シュルレアリスムの理論的な展開に深い関心を払っていた瀧口にとって、重要な意味をもつ雑誌だったと思われる。
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藤松博「タケミヤ画廊と滝口修造」
(「美術手帖」1964年8月)
また、1949年以来、無審査で作品を受け入れ展示してきた読売アンデパンダン展が、反芸術の流れとの間で齟齬をきたし、62年末には出品作品に規格を導入し、63年の第15回を最後に、幕を閉じることとなった。この第15回には赤瀬川原平の「模型千円札」を用いた「復讐の形態学」(参考図9-6)が出品されていたことも付け加えておくべきかもしれない。こうしたタケミヤ画廊の閉鎖や読売アンデパンダン展の終了という事態が、芸術作品の展示や流通に対する再考察を促し、より包括的な仕組みとして「オブジェの店」をひらく構想につながる要因のひとつとなったのは、容易に想像されるだろう。

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さて、ここで「オブジェの店」をひらく構想とデュシャンとの関係について考えることにする。瀧口がわざわざ「ローズ・セラヴィ」の名を挙げ、デュシャンに対して「オブジェの店」の命名を依頼したという事実は、この構想が「レディ・メードのオブジェ」や「選択の芸術」などのデュシャンの先駆的な試みを踏まえていることを物語るものだろう。デュシャンが1916年、ニューヨークのアンデパンダン展に有名なレディ・メードのオブジェ「泉」(図9-7)を出品したエピソードはよく知られている。陶製の男性用小便器に(向きを変えた上で)「R.MUTT」と署名して出品したのだが、会期が終了するまでこの作品が展示されることはなかったというものである。

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1917年
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ところでマット氏の泉が非道徳だというのは、浴槽が非道徳であるというのと同じくばかげている。それは諸君が鉛管屋のショーウィンドーで毎日見かける部品である、
マット氏が自分でこの泉をつくったかどうかということは重要なことではない。彼はそれを選んだのである。彼はありふれた生活用品をとりあげ、新しい標題と観点のもとに、その実用の意味が消えてしまうようにそれを置いたのだ。つまり、その物体のために新しい思想を創り出したのだ。」(瀧口訳「リチャード・マット事件」、『マルセル・デュシャン語録』)

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上のデュシャンの主張は次のようにまとめられるのではなかろうか。芸術家が選択し出品したものは、自ら制作したのではない日用品であっても、日常の機能から切り離して新しい思考を創造した作品であり、芸術たり得るのであり、アンデパンダン展である以上、そうした作品も展示するべきである。瀧口の「オブジェの店」は、こうしたデュシャンの考え方を踏まえた上で、美術館などの公募展や展覧会など、美術をめぐる既存の展示・流通制度に替わる、新たな枠組みとして構想されていると考えられるのではなかろうか。(続く)
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