高橋亨「元永定正のファニーアート」第1回(1980年執筆)
The Funny Art of Sadamasa MOTONAGA
▼グタイについて
1948年の京都では、八木一夫らを中心とする前衛陶芸グループ「走泥社」が7月に誕生したのにつづいて、10月には日本画出身者の前衛グループ「パンリアル美術協会」が三上誠、下村良之助らによってつくられた。太平洋戦争後の美術界に、戦前の前衛の継承とはちがったあらたな勢力が胎動をはじめるきざしであった。阪神地区では54年12月、グタイ・グループすなわち「具体美術協会」が結成されている。以上は関西におけるグループの登場だが、瑛九が「デモクラート美術協会」をつくったのは51年、同じ年東京では山口勝弘、福島秀子らの総合芸術グループ「実験工房」がうまれ、55年に河原温、池田龍雄らの「製作者懇談会」が結成された。活動的なグループがあいついで登場したこうした数年は、日本美術の先端が美術団体依存の戦前型から、グループ展や個展を中心とする現代型へ移っていった構造的な転換期であった。また構造の変革と同時に、今日につながる現代美術への道がひらかれていった時期である。のちに戦後新人の主舞台のひとつとなる読売アンデパンダン展が東京都美術館ではじまったのは49年、日本国際美術展と現代日本美術展はそれぞれ52年、54年に第1回展をひらいている。こうしたなかでグループとしてことに注目されるのが具体美術協会である。グタイは72年3月に解散したが、その足かけ18年にわたる活動は、50―60年代における前衛美術の重要な部分でありつづけ、ときにその中枢であった。
1.吉原治良とグタイ
具体美術協会は吉原治良を代表者とし、最初15人のメンバーをもって結成された。吉原は戦前からの二科会会員ですでに前衛画家として知られた存在であった。1905年大阪市にうまれ、関西学院高商部卒業の年に最初の個展をひらいている。そのころ知遇をえた藤田嗣治のすすめにしたがって34年から二科展に出品をはじめたが、当時から純粋抽象の絵を試みており、その日本における先駆けとしての業績は評価に値いする。また38年に山口長男、斉藤義重らと二科に九室会をつくり、昭和10年代における前衛美術運動の一翼をになった活動も見のがせない。こうした吉原はグタイに集まった世代の一まわりも二まわりもちがう新人たちをひっぱって、ひたむきな前衛への志向と卓抜な企画、演出力をもって、つぎつぎと斬新な試みを展開していった。
グタイの初期の活動のなかで注目されるのは兵庫県芦屋でひらいた2度の野外展(55、56年)大阪、東京の劇場における「舞台を使用する具体美術」(57、58年)および東京の小原会館での第1回具体美術展(55年)などである。それらを通じて、グタイの作家たちが既成の概念を捨て、未踏の道をさぐろうとしたさまざまな実験がみられる。そのうち比較的よく知られているのは、ハプニングという表現形式に先鞭をつけたことである。第1回展において白髪一雄が壁土の泥の山と取り組合をした行為、村上三郎が何重もの紙のパネルにトンネルをあけた体当たり、あるいは舞台における多くの実演は、ハプニングの創始者とされるアラン・カプローも認めるとおり、世界における先駆けであった。この展覧会では、リーダーの吉原も「油絵がじみになってしまった…」と書いているように、タブロー的な作品より、オブジェその他の形式をとるもののほうが中心をしめたということが、初期のグタイの特徴をよく示している。電線でつないだ20個のベルの音が、会場をかけめぐって手元に帰ってくる田中敦子の作品は、聴覚と空間の知覚を組みあわせたきわめて斬新な着想であり、金山明の2つの球体のオブジェは、同僚会員の嶋本昭三が「従来より常識的に処理されていた自己の作品との関係についての新しい試み」と正しく指摘したように、その球のひとつは赤い光を放ちながら、のちのいわゆる環境芸術的な視野を先取りするものといえた。こうしたグタイ作品の新しい思考と着想は、その他野外展などでまだまだ多くの、またときに奇異な、実例をあげることができるが、それらの多数の可能性にみちた萌芽が、その後あまり成熟と発展を示さなかったという事実は惜しまれる。現代の芸術のなかで思想的に深化することなく、いわば着想の段階にとどまってしまったものが多いことは残念だが、思想よりあくまでも行動に訴えようとしたところにむしろ具体美術の本質があった。
そのことは吉原治良のグタイにおける存在、およびその指導理念と無縁ではない。「私は美術に関して他人に教えるということはしない。作家たちが内包している資質を見つけ出して、賛成したり反対したりするだけだ」といっていた吉原は、グタイの年若い会員たちにただひとことだけ教えた。それは「他人の真似は絶対するな」ということである。指導理念というより信念とよぶべきものであった。そのオリジナリティの要求はたいへんきぎしく、嶋本昭三が前の日よいとほめられた作品に似たものを次の日吉原にみせると、「これはきのう見た」とプイと横をむき、とりつくしまもなかったという。自分があみだした仕事を自分が模倣することも許されなかったという。たえず自己を更新してゆくことは前衛の宿命であり、また創造の生理ともいうべき条件であるから吉原の指摘は正しいが、その要求のきびしさと、それにこたえようとする会員たちのあせりは、思想をそだてるより行動をいそがせたと想像することができる。
ある文章で吉原は「具体というところは理屈ぎらいなところがある」と半分ひとごとのようにいっているが、嶋本も「吉原治良はもともと議論ずきでなく実戦型であったため、理論派のものはやめる傾向にあった」と回想している。理論より行動、作品が先だとするグタイのこうした姿勢、あるいはその吉原をめぐるグタイのふんいきについて、旧会員たちの次のことばは参考になる。「<具体>には芸術論は無用であった。無言の作品がそれに代わるというのが<具体>であった。」(今井祝雄)「『あかん』と『えーやないか』以外はほとんど作品についての批評はなかった。それは実にはっきりしていて痛烈なものがあった。自分の作品を誰も不思議に説明しなかった。」(名坂千吉郎)「今も実感が蘇るのは、冬のピナコテカ(注・具体美術協会が大阪の中之島に開いた小美術館、グタイピナコテカ)の底冷えと吉原先生のこわかった事であす。搬入した作品の前に先生が来られると、足がガクガクしました。」(堀尾昭子)
以上は兵庫県立近代美術館が79年冒頭にひらいた「吉原治良と具体のその後」展カタログに、旧会員たちが寄せた“具体と私”という回想文からの引用である。この企画展は吉原治良の遺作と、会員作家の72年グループ解散以後の作品を併陳したもので、リーダーなきあとの会員たちの動向をとらえようとしたものであることはいうまでもないが、この展覧会がもらたした印象は、吉原不在のグタイはありえないということである。グタイは具象的表現を徹底的に排除したのであったが、そうした作品が姿をみせたことなど変化の一端であり、なによりも全体に迫力や充実感がなく、作品相互の質的なアンバランスがめだち、このグループにはやはり足がガクガクするほどの吉原の鋭い目が必要であったことを感じさせたのである。
美術グループは普通よくにたレベルのものの同志的結合により、いわば横の糸でつながっているものだ。ところがグタイの場合は事情がちがっており、横のつながりが決してないわけではないが、それ以上に代表者吉原治良との関係が強い。結成当時すでに業績と名をあげていた画家吉原にたいし、一般会員たちはほとんど無名の新人で、年齢のうえでも大きな差があった。その新人たちはグタイ・グループにはいることによって、吉原に弟子入りしたようなかっこうになった。グタイの会員たちはいろんな文章のなかで、その多くが「師吉原治良」とかいている。かれらは文字どおり師事したのである。グタイは初めにあげた戦後のグループのなかで例外的なタテ型社会をきずいたグループであった。タテの頂点を失ったとき、つまり72年2月に吉原が亡くなると、翌3月グタイがただちに解散してしまったのは、多少の内部事情はあったにせよ、むしろ当然といわねばなるまい。元永定正が前記“具体と私”において「正規の勉強をしたことがない私にとってそれはかけがえのない美術学校のようだった。具体は無くなったが偉大な作家吉原治良校長先生のもとで学んだ私は此の頃、具体美術学校をやっと卒業したような気持になっている。」とかいたのは適切な表現だろう。
グタイにみるようなグループのありかたにはおそらく問題があり、リーダーの独裁によってメンバーである個人が抑圧されねじまげられる危険がある。事実吉原を独裁者とみて退会したものもいるわけだが、全体としていえば吉原が自分の考える一方向にグループをひっぱった形跡は認められない。かといって無方向ということともちがうのである。吉原が“先生”であることを否定し、会員作家が本来もつところの資質の開発が自分の役割りといったことばは信じてよいだろう。それはグタイがうんだ多彩な足跡と多種多様な作品が証明している。グタイにおける批評がよい、わるい、という失語症のような単純な表現でのみなされたということはこのことと考えあわせると興味ぶかい。その場合よい、わるいの判定は一定の理論に照らしてうまれるのではなく、ただ作品が体現しまたは内包する可能性を見抜く洞察力がすなわち判断力であった。オリジナルであること、内面にうまれた形のないものを物質を通じ視覚的に具体化することだけを前提として了解しあい、そのうえで発せられるよい、わるいのことばは、無方向ではないと同時に、けっして一方向への意思表明ではないところの、また大阪流ともいえそうな、多くの含蓄をはらんだ言語表現なのだ。吉原の「新しい好い作品を見分ける嗅覚は獣のように鋭かった。」と元永がかいたのも、こうした没理論的判断力のグタイにおけるすぐれた機能を肯定したうえでのことばとして受けとられる。
いずれにしてもこうした吉原治良とグタイの関係図式は、一面で問題をはらんでいたとしても、そこから世界に通じる多くのしごとをうみだし、現代美術をになうすぐれた作家をそだてたことからすれば、きわめて有効に機能したといわねばならないだろう。そのグタイがそだてた代表作家のひとりが元永定正である。
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元永定正
「作品 水」
1956年
ポリエチレン・チューブ、色水
野外具体美術展(芦屋湖畔)
*画像:『元永定正作品集1955-1983』(1983年、灰塚輝三 発行)より転載
元永定正
「作品 のびる(煙)」
1958年
*画像:『元永定正作品集1955-1983』(1983年、灰塚輝三 発行)より転載
直径1m・長さ30mのポリエチレンの袋が穴からのびる。ファンで風を袋の中に送って赤い煙を入れる。袋に小さな穴があって赤い煙が吹き出ているところ。第2回舞台を使用する具体美術展
元永定正 作・演出
「毛糸人間」
1970年
*画像:『元永定正』(1980年、現代版画センター発行)より転載
毛糸のコスチュームから出たひもを引っぱっていくと、しだいに中の人物が露出する。「具体演劇」ともいうべき作品のひとつ。
具体美術まつり(大阪万博博覧会・お祭り広場)
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2.グタイ結成のころ
具体美術協会は1954年の年末に結成されたが、その2年前ごろから創立会員のひとり嶋本昭三が、紹介によって吉原治良に指導をうけるようになったのがきっかけで、次第に若い無名作家たちが集まりはじめたようだ。吉原の次男通雄も当時新しい試みをはじめており、この嶋本と吉原通雄を中心に「前衛美術協会」がつくられた。当時かれらは神戸や大阪でのグループ展のほか、芦屋市展とゲンビ展というふたつの舞台を中心に活動した。芦屋市展は吉原治良が地元芦屋市で48年に結成し、みずから代表者となった芦屋市美術協会が毎年ひらく展覧会で、いまでは各市に市展とよばれるものがあるが、芦屋のそれは当初から新人の思いきった試みを積極的にとりあげることで注目され、やがてグタイと深いつながりができた異色の市展である。ゲンビ展はこれも吉原を中心に須田剋太、津高和一、中村真、植木茂など関西の前衛的な美術家が、52年に研究会としてつくった「現代美術懇談会」の主催により京阪神でひらかれていた展覧会であり、ひろくさまざまなジャンルをとりいれていた。
グタイはこの前衛美術協会を前身としてうまれた。ただしその間メンバーの出入りははげしく、具体美術協会ができてからも、その結成には参加しながら展覧会には出品しないまま去ったものも何人かいる。嶋本は「喧騒の中に生れた具体」と、当時のふんいきを伝えているが、結成と同時に刊行をはじめた機関紙「具体」の第1号に吉原治良は「われわれはわれわれの精神が自由であるという證しを具体的に提示したいと念願しています。」とかいた。「具体」というグループの名称は嶋本の発案といわれる。
ところでこの出発時のメンバーには、のちにグタイの代表選手となる元永定正や白髪一雄の名前はみえない。白髪は当時出品していた新制作展の抽象画仲間と「0(ゼロ)会」という研究会をひらいていたが、かれはゲンビ展にも参加しており、そこで知りあった吉原治良や嶋本のさそいに応じて0会を解散してグタイに加入した。白髪のほか村上三郎、金山明、田中敦子の4人である。白髪はすでに0会のころから足の裏で絵をかくアクションペインティングをはじめていたほか、村上は墨をぬったゴムホースをキャンバスに投げつけたりし、田中は布地だけでシンプルな造形を、金山はモンドリアン式の抽象をおしすすめ、何もかいていないキャンバスだけの作品に達したりしていたということだが、かれらはかれらで、グタイに入会してその「けたはずれのクレージイな仕事」にびっくりしたという。「松丸太で古カンバスをたたいてもみくちゃにした岡田博の作品」や「バイブレーター(電気あんま)に櫛のようなものをとりつけて描」いた鷲見康夫の絵とか「土くれや小石、灰などを使って地べたの一部を切りとって来たとしか見えないような」吉原通雄の作品などである。グタイに参加してから出品しはじめた芦屋市展では「50号くらいの油絵にベニヤ板をかぶせて釘づけにし、…“見せヘン”と板の上に稚拙な書体で書いた」金木義男や「立方体の寒天の塊」で、人がそばを通ると「ぶるぶる震えていた」酒光昇といった若い出品者の仕事にもかれらは驚かされた。ことに大阪弁でかいた「見せヘン」の個人意識は、吉原治良をもはねかえしそうな強烈さである。吉原に認められることを熱望しながら、しかし作品のうえでおべんちゃらをしたわけではないグタイの作家の若い姿をみるような感じがする。以上の引用は白髪が67年7月から12月まで「美術手帖」に連載した「冒険の記録」からである。
3.元永定正の登場
白髪がエピソードでつづったそのグタイの記録によると「この頃、黒や赤や黄の原色に塗られた丸い石に、麦わらの短い角を植えつけたユーモラスな作品が出品されて人目をひいていた。“漫画を彫刻にしたようなもんや”といわれたが、この作品は具体の重要なメンバーとなった元永定正の出品したものであった。だが彼はまだわれわれの前にその長身をあらわさなかった。」
それは白髪ら0会から具体入りした4人が初めて出品した55年の第8回芦屋市展のことで、元永がグタイの作家たちの前に姿をあらわすのは同じ年7月にひらかれた「真夏の太陽にいどむ野外モダンアート実験展」の会場である。これは芦屋市美術協会の主催によるものだが、吉原治良の発案にもとずき、またグタイが中心になったから、グタイの第1回野外展といわれている。「冒険の記録」によると、こんなぐあいだったらしい。
―――そこへ1人の背の高い日本人ばなれした大男があらわれて、吉原治良の前に立った。年のわりに深いしわがよった大きな顔に大きな鼻、目はやさしくにこにこしていて、柔和な人なつこい感じがする。「ぼく、元永定正といいますねん。作品はここにぶらさがってます。芦展には、石にむぎわらの角をつけた作品を出して、賞をもらいました」
彼が指さすところに大きな氷嚢のような、狸の金玉のようなものがぶらさがっていた。それは昼間からみなの目についてはいたが、作者の姿が見えず、元永定正なる人物がどの男なのかほとんどだれも知らなかった。この大きな氷嚢のような作品は、当時まだめずらしかったポリエチレンの布に入れて松の木からぶら下げたもので、水を使った作品としては、世界最初のものであったかも知れない。―――
その元永の作品は食紅で染めた水をたたえた水の彫刻で、ルビーのように透明に輝いた。それはみんなの賞賛をえて、元永はまもなくグタイの会員として迎えられたのである。
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元永定正
「作品 水」
1955年
30cmくらいのポリエチレン袋に色水を入れて吊るし、ライトの光をあてた。
第1回具体美術展
*画像:『元永定正』(1980年、現代版画センター発行)より転載
元永定正
1956年
第2回具体美術展
*画像:『元永定正作品集1955-1983』(1983年、灰塚輝三 発行)より転載
元永定正
「作品 石」
1955年
自然石にエナメル塗料を塗って切ったストローをつけた
20~30cm
*画像:『元永定正』(1980年、現代版画センター発行)より転載
元永定正
1961年
*画像:『元永定正作品集1955-1983』(1983年、灰塚輝三 発行)より転載
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元永定正
「黄色の裸婦」
1952年
キャンバス、油彩
(20号F)
*画像:『元永定正』(1980年、現代版画センター発行)より転載
このようにかくと、元永定正はいかにもふらりとやってきて、たちまちグタイのメンバーになったかのように思われるが、じつはもう少し手順をふんでいる。「みづゑ」1973年6月号の吉原治良特集に寄せた元永の「『具体』と吉原治良」によると、53年の第6回芦屋市展に裸婦の絵を出品し受賞したということである。1922年に伊賀忍者の里、上野市にうまれた元永が神戸に移り住んだのは52年で、その翌年から出品をはじめたのだろう。そのころまで主に裸婦をえがいていたようだが、芦屋市展で見たモダンアートの新鮮さに圧倒され、翌年の第7回展には「我流でほんのなぐさみのつもりでかいたアブストラクトの絵と彫刻」を出品したのが、新聞の地方版に写真入りで紹介され審査委員長吉原治良のほめことばがのった。しかし吉原の印象にのこったのは、白髪の記憶と同じく第8回展の作品であったらしく、のちに61年東京画廊での元永の個展カタログに吉原は「1955年6月、私は芦屋市展の応募作品の中に数個の着色された石ころの作品を発見した。」とかいている。伊賀上野で官展系の画家浜辺万吉に絵の手ほどきをうけていた元永は、当時から美術雑誌でしばしば吉原の作品に目をとめ「俗に吉原人形といわれていた頃の、顔の小さな細長い色の綺麗なセミアブストラクトの作品は大好きで、こんな作家には是非会いたいと思っていた私」であったという。
(たかはしとおる 続く)
第2回は6月4日
第3回は6月6日に掲載します。
*『元永定正』(1980年、現代版画センター発行)より再録掲載

『元永定正』
1980年2月10日
現代版画センター 発行
60ページ
22.0x11.0cm
執筆:金関寿夫、高橋亨
■高橋 亨 Takahashi Toru
1927年神戸市生まれ。美術評論家、大阪芸術大学名誉教授。
東京大学文学部を卒業後、1952年に産経新聞大阪本社に入り、文化部記者として主に展覧会評など美術関係を担当して11年後に退社。具体美術協会の活動は結成直後から実見し、数多くの批評を発表。美術評論活動を続けながら1971年より26年間、大阪芸術大学教授を務める。兼務として大阪府民ギャラリー館長(1976―79)、大阪府立現代美術センター館長(1979―87)。
大阪府民ギャラリーでは、具体解散後初の本格的な回顧展「具体美術の18年」(1976)開催と、詳細な記録集『具体美術の18年』の発行に尽力。その他、徳島県文化の森建設顧問として徳島県立近代美術館設立に参画し同館館長(1990―91)、滋賀県立近代美術館館長(2003―06)を歴任。
*画廊亭主敬白
本日から3回(6月2日、4日、6日)にわけて、35年前にご執筆いただいた「元永定正のファニーアート」を再録掲載します。
再録の許可をいただくために、久しぶりに高橋亨先生に電話しました。お歳をめしたとはいえ、はりのある声でお元気な様子でした。ますますのご健勝を祈る次第です。
◆ときの忘れものは2015年6月3日[水]―6月13日[土]「元永定正 もこもこワールド」を開催します(*会期中無休)。

具体グループで活躍した元永定正は1970年代から本格的に版画制作に取り組みます。本展では1977~1984年に制作された版画代表作30点をご紹介します。
出品リストは既にホームページに掲載しました。価格リストをご希望の方は、「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してメールにてお申し込みください
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The Funny Art of Sadamasa MOTONAGA
▼グタイについて
1948年の京都では、八木一夫らを中心とする前衛陶芸グループ「走泥社」が7月に誕生したのにつづいて、10月には日本画出身者の前衛グループ「パンリアル美術協会」が三上誠、下村良之助らによってつくられた。太平洋戦争後の美術界に、戦前の前衛の継承とはちがったあらたな勢力が胎動をはじめるきざしであった。阪神地区では54年12月、グタイ・グループすなわち「具体美術協会」が結成されている。以上は関西におけるグループの登場だが、瑛九が「デモクラート美術協会」をつくったのは51年、同じ年東京では山口勝弘、福島秀子らの総合芸術グループ「実験工房」がうまれ、55年に河原温、池田龍雄らの「製作者懇談会」が結成された。活動的なグループがあいついで登場したこうした数年は、日本美術の先端が美術団体依存の戦前型から、グループ展や個展を中心とする現代型へ移っていった構造的な転換期であった。また構造の変革と同時に、今日につながる現代美術への道がひらかれていった時期である。のちに戦後新人の主舞台のひとつとなる読売アンデパンダン展が東京都美術館ではじまったのは49年、日本国際美術展と現代日本美術展はそれぞれ52年、54年に第1回展をひらいている。こうしたなかでグループとしてことに注目されるのが具体美術協会である。グタイは72年3月に解散したが、その足かけ18年にわたる活動は、50―60年代における前衛美術の重要な部分でありつづけ、ときにその中枢であった。
1.吉原治良とグタイ
具体美術協会は吉原治良を代表者とし、最初15人のメンバーをもって結成された。吉原は戦前からの二科会会員ですでに前衛画家として知られた存在であった。1905年大阪市にうまれ、関西学院高商部卒業の年に最初の個展をひらいている。そのころ知遇をえた藤田嗣治のすすめにしたがって34年から二科展に出品をはじめたが、当時から純粋抽象の絵を試みており、その日本における先駆けとしての業績は評価に値いする。また38年に山口長男、斉藤義重らと二科に九室会をつくり、昭和10年代における前衛美術運動の一翼をになった活動も見のがせない。こうした吉原はグタイに集まった世代の一まわりも二まわりもちがう新人たちをひっぱって、ひたむきな前衛への志向と卓抜な企画、演出力をもって、つぎつぎと斬新な試みを展開していった。
グタイの初期の活動のなかで注目されるのは兵庫県芦屋でひらいた2度の野外展(55、56年)大阪、東京の劇場における「舞台を使用する具体美術」(57、58年)および東京の小原会館での第1回具体美術展(55年)などである。それらを通じて、グタイの作家たちが既成の概念を捨て、未踏の道をさぐろうとしたさまざまな実験がみられる。そのうち比較的よく知られているのは、ハプニングという表現形式に先鞭をつけたことである。第1回展において白髪一雄が壁土の泥の山と取り組合をした行為、村上三郎が何重もの紙のパネルにトンネルをあけた体当たり、あるいは舞台における多くの実演は、ハプニングの創始者とされるアラン・カプローも認めるとおり、世界における先駆けであった。この展覧会では、リーダーの吉原も「油絵がじみになってしまった…」と書いているように、タブロー的な作品より、オブジェその他の形式をとるもののほうが中心をしめたということが、初期のグタイの特徴をよく示している。電線でつないだ20個のベルの音が、会場をかけめぐって手元に帰ってくる田中敦子の作品は、聴覚と空間の知覚を組みあわせたきわめて斬新な着想であり、金山明の2つの球体のオブジェは、同僚会員の嶋本昭三が「従来より常識的に処理されていた自己の作品との関係についての新しい試み」と正しく指摘したように、その球のひとつは赤い光を放ちながら、のちのいわゆる環境芸術的な視野を先取りするものといえた。こうしたグタイ作品の新しい思考と着想は、その他野外展などでまだまだ多くの、またときに奇異な、実例をあげることができるが、それらの多数の可能性にみちた萌芽が、その後あまり成熟と発展を示さなかったという事実は惜しまれる。現代の芸術のなかで思想的に深化することなく、いわば着想の段階にとどまってしまったものが多いことは残念だが、思想よりあくまでも行動に訴えようとしたところにむしろ具体美術の本質があった。
そのことは吉原治良のグタイにおける存在、およびその指導理念と無縁ではない。「私は美術に関して他人に教えるということはしない。作家たちが内包している資質を見つけ出して、賛成したり反対したりするだけだ」といっていた吉原は、グタイの年若い会員たちにただひとことだけ教えた。それは「他人の真似は絶対するな」ということである。指導理念というより信念とよぶべきものであった。そのオリジナリティの要求はたいへんきぎしく、嶋本昭三が前の日よいとほめられた作品に似たものを次の日吉原にみせると、「これはきのう見た」とプイと横をむき、とりつくしまもなかったという。自分があみだした仕事を自分が模倣することも許されなかったという。たえず自己を更新してゆくことは前衛の宿命であり、また創造の生理ともいうべき条件であるから吉原の指摘は正しいが、その要求のきびしさと、それにこたえようとする会員たちのあせりは、思想をそだてるより行動をいそがせたと想像することができる。
ある文章で吉原は「具体というところは理屈ぎらいなところがある」と半分ひとごとのようにいっているが、嶋本も「吉原治良はもともと議論ずきでなく実戦型であったため、理論派のものはやめる傾向にあった」と回想している。理論より行動、作品が先だとするグタイのこうした姿勢、あるいはその吉原をめぐるグタイのふんいきについて、旧会員たちの次のことばは参考になる。「<具体>には芸術論は無用であった。無言の作品がそれに代わるというのが<具体>であった。」(今井祝雄)「『あかん』と『えーやないか』以外はほとんど作品についての批評はなかった。それは実にはっきりしていて痛烈なものがあった。自分の作品を誰も不思議に説明しなかった。」(名坂千吉郎)「今も実感が蘇るのは、冬のピナコテカ(注・具体美術協会が大阪の中之島に開いた小美術館、グタイピナコテカ)の底冷えと吉原先生のこわかった事であす。搬入した作品の前に先生が来られると、足がガクガクしました。」(堀尾昭子)
以上は兵庫県立近代美術館が79年冒頭にひらいた「吉原治良と具体のその後」展カタログに、旧会員たちが寄せた“具体と私”という回想文からの引用である。この企画展は吉原治良の遺作と、会員作家の72年グループ解散以後の作品を併陳したもので、リーダーなきあとの会員たちの動向をとらえようとしたものであることはいうまでもないが、この展覧会がもらたした印象は、吉原不在のグタイはありえないということである。グタイは具象的表現を徹底的に排除したのであったが、そうした作品が姿をみせたことなど変化の一端であり、なによりも全体に迫力や充実感がなく、作品相互の質的なアンバランスがめだち、このグループにはやはり足がガクガクするほどの吉原の鋭い目が必要であったことを感じさせたのである。
美術グループは普通よくにたレベルのものの同志的結合により、いわば横の糸でつながっているものだ。ところがグタイの場合は事情がちがっており、横のつながりが決してないわけではないが、それ以上に代表者吉原治良との関係が強い。結成当時すでに業績と名をあげていた画家吉原にたいし、一般会員たちはほとんど無名の新人で、年齢のうえでも大きな差があった。その新人たちはグタイ・グループにはいることによって、吉原に弟子入りしたようなかっこうになった。グタイの会員たちはいろんな文章のなかで、その多くが「師吉原治良」とかいている。かれらは文字どおり師事したのである。グタイは初めにあげた戦後のグループのなかで例外的なタテ型社会をきずいたグループであった。タテの頂点を失ったとき、つまり72年2月に吉原が亡くなると、翌3月グタイがただちに解散してしまったのは、多少の内部事情はあったにせよ、むしろ当然といわねばなるまい。元永定正が前記“具体と私”において「正規の勉強をしたことがない私にとってそれはかけがえのない美術学校のようだった。具体は無くなったが偉大な作家吉原治良校長先生のもとで学んだ私は此の頃、具体美術学校をやっと卒業したような気持になっている。」とかいたのは適切な表現だろう。
グタイにみるようなグループのありかたにはおそらく問題があり、リーダーの独裁によってメンバーである個人が抑圧されねじまげられる危険がある。事実吉原を独裁者とみて退会したものもいるわけだが、全体としていえば吉原が自分の考える一方向にグループをひっぱった形跡は認められない。かといって無方向ということともちがうのである。吉原が“先生”であることを否定し、会員作家が本来もつところの資質の開発が自分の役割りといったことばは信じてよいだろう。それはグタイがうんだ多彩な足跡と多種多様な作品が証明している。グタイにおける批評がよい、わるい、という失語症のような単純な表現でのみなされたということはこのことと考えあわせると興味ぶかい。その場合よい、わるいの判定は一定の理論に照らしてうまれるのではなく、ただ作品が体現しまたは内包する可能性を見抜く洞察力がすなわち判断力であった。オリジナルであること、内面にうまれた形のないものを物質を通じ視覚的に具体化することだけを前提として了解しあい、そのうえで発せられるよい、わるいのことばは、無方向ではないと同時に、けっして一方向への意思表明ではないところの、また大阪流ともいえそうな、多くの含蓄をはらんだ言語表現なのだ。吉原の「新しい好い作品を見分ける嗅覚は獣のように鋭かった。」と元永がかいたのも、こうした没理論的判断力のグタイにおけるすぐれた機能を肯定したうえでのことばとして受けとられる。
いずれにしてもこうした吉原治良とグタイの関係図式は、一面で問題をはらんでいたとしても、そこから世界に通じる多くのしごとをうみだし、現代美術をになうすぐれた作家をそだてたことからすれば、きわめて有効に機能したといわねばならないだろう。そのグタイがそだてた代表作家のひとりが元永定正である。
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「作品 水」
1956年
ポリエチレン・チューブ、色水
野外具体美術展(芦屋湖畔)
*画像:『元永定正作品集1955-1983』(1983年、灰塚輝三 発行)より転載

「作品 のびる(煙)」
1958年
*画像:『元永定正作品集1955-1983』(1983年、灰塚輝三 発行)より転載
直径1m・長さ30mのポリエチレンの袋が穴からのびる。ファンで風を袋の中に送って赤い煙を入れる。袋に小さな穴があって赤い煙が吹き出ているところ。第2回舞台を使用する具体美術展

「毛糸人間」
1970年
*画像:『元永定正』(1980年、現代版画センター発行)より転載
毛糸のコスチュームから出たひもを引っぱっていくと、しだいに中の人物が露出する。「具体演劇」ともいうべき作品のひとつ。
具体美術まつり(大阪万博博覧会・お祭り広場)
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2.グタイ結成のころ
具体美術協会は1954年の年末に結成されたが、その2年前ごろから創立会員のひとり嶋本昭三が、紹介によって吉原治良に指導をうけるようになったのがきっかけで、次第に若い無名作家たちが集まりはじめたようだ。吉原の次男通雄も当時新しい試みをはじめており、この嶋本と吉原通雄を中心に「前衛美術協会」がつくられた。当時かれらは神戸や大阪でのグループ展のほか、芦屋市展とゲンビ展というふたつの舞台を中心に活動した。芦屋市展は吉原治良が地元芦屋市で48年に結成し、みずから代表者となった芦屋市美術協会が毎年ひらく展覧会で、いまでは各市に市展とよばれるものがあるが、芦屋のそれは当初から新人の思いきった試みを積極的にとりあげることで注目され、やがてグタイと深いつながりができた異色の市展である。ゲンビ展はこれも吉原を中心に須田剋太、津高和一、中村真、植木茂など関西の前衛的な美術家が、52年に研究会としてつくった「現代美術懇談会」の主催により京阪神でひらかれていた展覧会であり、ひろくさまざまなジャンルをとりいれていた。
グタイはこの前衛美術協会を前身としてうまれた。ただしその間メンバーの出入りははげしく、具体美術協会ができてからも、その結成には参加しながら展覧会には出品しないまま去ったものも何人かいる。嶋本は「喧騒の中に生れた具体」と、当時のふんいきを伝えているが、結成と同時に刊行をはじめた機関紙「具体」の第1号に吉原治良は「われわれはわれわれの精神が自由であるという證しを具体的に提示したいと念願しています。」とかいた。「具体」というグループの名称は嶋本の発案といわれる。
ところでこの出発時のメンバーには、のちにグタイの代表選手となる元永定正や白髪一雄の名前はみえない。白髪は当時出品していた新制作展の抽象画仲間と「0(ゼロ)会」という研究会をひらいていたが、かれはゲンビ展にも参加しており、そこで知りあった吉原治良や嶋本のさそいに応じて0会を解散してグタイに加入した。白髪のほか村上三郎、金山明、田中敦子の4人である。白髪はすでに0会のころから足の裏で絵をかくアクションペインティングをはじめていたほか、村上は墨をぬったゴムホースをキャンバスに投げつけたりし、田中は布地だけでシンプルな造形を、金山はモンドリアン式の抽象をおしすすめ、何もかいていないキャンバスだけの作品に達したりしていたということだが、かれらはかれらで、グタイに入会してその「けたはずれのクレージイな仕事」にびっくりしたという。「松丸太で古カンバスをたたいてもみくちゃにした岡田博の作品」や「バイブレーター(電気あんま)に櫛のようなものをとりつけて描」いた鷲見康夫の絵とか「土くれや小石、灰などを使って地べたの一部を切りとって来たとしか見えないような」吉原通雄の作品などである。グタイに参加してから出品しはじめた芦屋市展では「50号くらいの油絵にベニヤ板をかぶせて釘づけにし、…“見せヘン”と板の上に稚拙な書体で書いた」金木義男や「立方体の寒天の塊」で、人がそばを通ると「ぶるぶる震えていた」酒光昇といった若い出品者の仕事にもかれらは驚かされた。ことに大阪弁でかいた「見せヘン」の個人意識は、吉原治良をもはねかえしそうな強烈さである。吉原に認められることを熱望しながら、しかし作品のうえでおべんちゃらをしたわけではないグタイの作家の若い姿をみるような感じがする。以上の引用は白髪が67年7月から12月まで「美術手帖」に連載した「冒険の記録」からである。
3.元永定正の登場
白髪がエピソードでつづったそのグタイの記録によると「この頃、黒や赤や黄の原色に塗られた丸い石に、麦わらの短い角を植えつけたユーモラスな作品が出品されて人目をひいていた。“漫画を彫刻にしたようなもんや”といわれたが、この作品は具体の重要なメンバーとなった元永定正の出品したものであった。だが彼はまだわれわれの前にその長身をあらわさなかった。」
それは白髪ら0会から具体入りした4人が初めて出品した55年の第8回芦屋市展のことで、元永がグタイの作家たちの前に姿をあらわすのは同じ年7月にひらかれた「真夏の太陽にいどむ野外モダンアート実験展」の会場である。これは芦屋市美術協会の主催によるものだが、吉原治良の発案にもとずき、またグタイが中心になったから、グタイの第1回野外展といわれている。「冒険の記録」によると、こんなぐあいだったらしい。
―――そこへ1人の背の高い日本人ばなれした大男があらわれて、吉原治良の前に立った。年のわりに深いしわがよった大きな顔に大きな鼻、目はやさしくにこにこしていて、柔和な人なつこい感じがする。「ぼく、元永定正といいますねん。作品はここにぶらさがってます。芦展には、石にむぎわらの角をつけた作品を出して、賞をもらいました」
彼が指さすところに大きな氷嚢のような、狸の金玉のようなものがぶらさがっていた。それは昼間からみなの目についてはいたが、作者の姿が見えず、元永定正なる人物がどの男なのかほとんどだれも知らなかった。この大きな氷嚢のような作品は、当時まだめずらしかったポリエチレンの布に入れて松の木からぶら下げたもので、水を使った作品としては、世界最初のものであったかも知れない。―――
その元永の作品は食紅で染めた水をたたえた水の彫刻で、ルビーのように透明に輝いた。それはみんなの賞賛をえて、元永はまもなくグタイの会員として迎えられたのである。
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「作品 水」
1955年
30cmくらいのポリエチレン袋に色水を入れて吊るし、ライトの光をあてた。
第1回具体美術展
*画像:『元永定正』(1980年、現代版画センター発行)より転載

1956年
第2回具体美術展
*画像:『元永定正作品集1955-1983』(1983年、灰塚輝三 発行)より転載

「作品 石」
1955年
自然石にエナメル塗料を塗って切ったストローをつけた
20~30cm
*画像:『元永定正』(1980年、現代版画センター発行)より転載

1961年
*画像:『元永定正作品集1955-1983』(1983年、灰塚輝三 発行)より転載
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「黄色の裸婦」
1952年
キャンバス、油彩
(20号F)
*画像:『元永定正』(1980年、現代版画センター発行)より転載
このようにかくと、元永定正はいかにもふらりとやってきて、たちまちグタイのメンバーになったかのように思われるが、じつはもう少し手順をふんでいる。「みづゑ」1973年6月号の吉原治良特集に寄せた元永の「『具体』と吉原治良」によると、53年の第6回芦屋市展に裸婦の絵を出品し受賞したということである。1922年に伊賀忍者の里、上野市にうまれた元永が神戸に移り住んだのは52年で、その翌年から出品をはじめたのだろう。そのころまで主に裸婦をえがいていたようだが、芦屋市展で見たモダンアートの新鮮さに圧倒され、翌年の第7回展には「我流でほんのなぐさみのつもりでかいたアブストラクトの絵と彫刻」を出品したのが、新聞の地方版に写真入りで紹介され審査委員長吉原治良のほめことばがのった。しかし吉原の印象にのこったのは、白髪の記憶と同じく第8回展の作品であったらしく、のちに61年東京画廊での元永の個展カタログに吉原は「1955年6月、私は芦屋市展の応募作品の中に数個の着色された石ころの作品を発見した。」とかいている。伊賀上野で官展系の画家浜辺万吉に絵の手ほどきをうけていた元永は、当時から美術雑誌でしばしば吉原の作品に目をとめ「俗に吉原人形といわれていた頃の、顔の小さな細長い色の綺麗なセミアブストラクトの作品は大好きで、こんな作家には是非会いたいと思っていた私」であったという。
(たかはしとおる 続く)
第2回は6月4日
第3回は6月6日に掲載します。
*『元永定正』(1980年、現代版画センター発行)より再録掲載

『元永定正』
1980年2月10日
現代版画センター 発行
60ページ
22.0x11.0cm
執筆:金関寿夫、高橋亨
■高橋 亨 Takahashi Toru
1927年神戸市生まれ。美術評論家、大阪芸術大学名誉教授。
東京大学文学部を卒業後、1952年に産経新聞大阪本社に入り、文化部記者として主に展覧会評など美術関係を担当して11年後に退社。具体美術協会の活動は結成直後から実見し、数多くの批評を発表。美術評論活動を続けながら1971年より26年間、大阪芸術大学教授を務める。兼務として大阪府民ギャラリー館長(1976―79)、大阪府立現代美術センター館長(1979―87)。
大阪府民ギャラリーでは、具体解散後初の本格的な回顧展「具体美術の18年」(1976)開催と、詳細な記録集『具体美術の18年』の発行に尽力。その他、徳島県文化の森建設顧問として徳島県立近代美術館設立に参画し同館館長(1990―91)、滋賀県立近代美術館館長(2003―06)を歴任。
*画廊亭主敬白
本日から3回(6月2日、4日、6日)にわけて、35年前にご執筆いただいた「元永定正のファニーアート」を再録掲載します。
再録の許可をいただくために、久しぶりに高橋亨先生に電話しました。お歳をめしたとはいえ、はりのある声でお元気な様子でした。ますますのご健勝を祈る次第です。
◆ときの忘れものは2015年6月3日[水]―6月13日[土]「元永定正 もこもこワールド」を開催します(*会期中無休)。

具体グループで活躍した元永定正は1970年代から本格的に版画制作に取り組みます。本展では1977~1984年に制作された版画代表作30点をご紹介します。
出品リストは既にホームページに掲載しました。価格リストをご希望の方は、「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してメールにてお申し込みください
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