「瀧口修造とマルセル・デュシャン」第10回
Shuzo TAKIGUCHI and Marcel Duchamp Vol.10

土渕信彦


10.「オブジェの店」(その3)
前回まで2回にわたって、瀧口修造の「オブジェの店」をひらく構想の、経緯や内容を見てきたが、今回は「オブジェの店」と、店の看板が掛けられた瀧口の部屋との関係について、少し考えてみたい。なお、自らの部屋について、瀧口は英語でstudioと表記していた。アトリエや写真スタジオのような、何かの制作に関わる場所の意味合いと思われる。実際に60年頃から、この部屋のなかで水彩やデカルコマニーなどを制作し、後には『マルセル・デュシャン語録』(東京ローズ・セラヴィ、1968年)の刊行も進めた。

よく知られているように、瀧口の部屋には、交流のあった多くの作家から贈られた平面やオブジェで溢れていた。雑誌「太陽」(93年4月)など、部屋のオブジェを詳細に紹介した雑誌特集もあるし、これらのオブジェを展示した展覧会も開催されている。確か1982年の富山県立近代美術館「瀧口修造と戦後美術」展でもコーナーが設けられていたし、2001年の富山県民会館「瀧口修造―夢の漂流物―」展(図10-1)、2005年の富山県立美術館・世田谷美術館「瀧口修造 夢の漂流物」展(図10-2)など、部屋のオブジェをテーマにした展覧会も開催されている。

図1 夢の漂流物展図録図10-1
富山県民会館「瀧口修造―夢の漂流物―」展図録
2001年7月


図2瀧口修造 夢の漂流物展図録図10-2
富山県立美術館・世田谷美術館「瀧口修造 夢の漂流物」展図録
2005年2月


瀧口が「オブジェの店」をひらく構想を抱き始めた63年頃には、自らの部屋について語ったエッセイを、いくつか残している。なかでも有名なのは、「白紙の周辺」だろう。「みづゑ」1963年3月号(図10-3,4)にフォトインタビューとして発表され、後に『余白に書く』(みすず書房、1966年5月)にも収録されている(写真図版は省かれた)。その末尾の一節を、以下に引用する。

「私の部屋にあるものは蒐集品ではない。
その連想が私独自のもので結ばれている記念品の貼りまぜである。時間と埃りをも含めて。石ころとサージンの空鑵とインドのテラコッタ、朽ちた葉、ミショーの水彩、あるいは「月の伝説」と命名されたデュシャンからの小包の抜け殻、サイン入りブルトンの肖像、ムナーリの灰皿、マッチの棒、宏明という商標のある錐……etc.,etc.そのごっちゃなものがどんな次元で結合し、交錯しているかは私だけが知っている。
それらはオブジェであり、言葉でもある。永遠に綴じられず、丁づけされない本。壁よ、ひらけ!」(「白紙の周辺」)

図3みづゑ63年3月号図10-3
「みづゑ」
1963年3月


図4「白紙の周辺」図10-4
「白紙の周辺」
(「みづゑ」1963年3月)


引用の「デュシャンからの小包の抜け殻」がまず気になるが、これはデュシャンから贈られた『塩の商人』の包みのことである(図10-5)。このフォトインタビューで撮影された部屋の写真でも、扉に吊り下げられているのが確認される。写真では、ネオダダ展のポスターの左の、三角形に口の開いた袋の上に、ビニール・カバーで包まれ、縦長に吊り下げてある。写真では判りにくいが、ビニール・カバーの下部に貼られた、円形の白いラベルには、確かに「LEGENDE LUNAIRE」と記されている(図10-6)。

図5デュシャンの小包図10-5
デュシャンからの小包


図6「月の伝説」図10-6
「月の伝説」


普通だったら、中身の本を取り出してしまえば、包みなどは捨ててしまうと思うのだが、瀧口の場合には、3年余り前の1959年12月に贈られた本の、包みの方も大切にしていた訳である。相手がデュシャンである訳だから、包みも一つのオブジェと捉えていたのだろう。「デュシャンは小包も自分で作り丹念に上書きをするのがつねであった。彼の『手作り人間』としての半面がにじみ出ている」と述べている(「ローズ・セラヴィ’58-’68」「遊」1973年1月。図10-7)。

図7「遊」図10-7
「遊」
1973年1月


この小包の抜け殻のオブジェ「月の伝説」に限らず、オブジェに名前を付けたり、言葉と組み合わせたりする例は、前回触れた「物々控」(「美術手帖」増刊特集「おもちゃ」1965年4月。図10-8,9)でも、多数紹介されている(『余白に書く』に収録する際に、このオブジェの紹介頁は省かれた)。また、上の引用の書き方からしても、少なくともこの「白紙の周辺」が書かれた時点では、デュシャンのオブジェといえども、その位置付けは他のオブジェや平面と変わらないように思われる。このオブジェ「月の伝説」が、「オブジェの店」の看板の替わりを務めていた、とまでは言えないかもしれない。

図8「物々控」1図10-8
「物々控」
(「美術手帖」増刊特集「おもちゃ」1965年4月)


図9「物々控」2図10-9
同上


しかし、引用文末の「壁よ、ひらけ!」という、呪文のような言葉の「ひらく」が、「『オブジェの店』をひらく」と共通していることもあって、「壁をひらく」ことと「オブジェの店をひらく」こととが、ほとんど同一の、少なくとも類似した意味合いとの印象を受けることも、確かだろう。部屋の中のオブジェをクローズアップで紹介した写真図版の頁には、わざわざ「ひらかれた壁」というキャプションが左上部に付されている(図10-10)。

図10「ひらかれた壁」図10-10
「ひらかれた壁」
(「みづゑ」1963年3月)


「壁」や「部屋」については、「白紙の周辺」の続編ともいえる「自成蹊」(「藝術新潮」1963年7月。図10-11,12)のなかで、もうすこし具体的に述べられている。以下にその冒頭部分を引用する。

「私はいつも「部屋」とは何なのかと自問する。自答はいつも同じとは限らない。
けれども壁が透明になり、開かれているとき、私は自分の部屋をもっとも愛する。
撮影されたこの壁には、いくつかの絵、いくつかのオブジェ、いくつかの紙片がぶらさがっているのが見える。
もしこれらの絵を、私のコレクションと見られるとすると、世上のそれとはかなりニュアンスが違うことになる。その上、この見える壁面だけで、私の好みの目録がつくられるとなれば、罪のない誤解が生じないとも限らない。それはおそらく何十分の一にすぎないであろうから。
すべては、いつかしら私の壁に集まるのだ。そして、すべては作者と私とのあいだに、記念的な意味が介在しているのだ。なによりも重要なことは、すべてがそこにあるということなのだ。」(「自成蹊」)

図11「藝術新潮」図10-11
「藝術新潮」
1963年7月


図12「自成蹊」図10-12
「自成蹊」


「壁」とは差し当たり、作品が飾られる現実の物理的な壁面と考えられ、「壁が透明になる」または「壁をひらく」とは、作品が「すべてがそこにある」ことを可能とするような、夢のような「壁」を現実のものとすることと考えられる。それらの作品は単なるコレクションではなく、(もちろん、金銭で購入した作品も含まれていたが)大半を占めるのは、いつの間にか集まってきた、「作者と私とのあいだに、記念的な意味が介在している」作品であった。つまりここで理想とされているのは、これらの記念的な意味が介在している作品がすべてそこにあるような、「壁が透明になり、開かれている」部屋といえるだろう。

ところで、こうした記念的な意味が介在している作品とは、もちろん前回引用した「流通価値のないものを、ある内的な要請だけによって流通させる」(前出「物々控」)ことによって集まってきた作品だろう。とすれば、こうした作品が「すべてそこある」ように「壁をひらく」ためには、流通価値のないものをある内的な要請だけによって流通させるという「不逞な考え」(同)を徹底し、広めていくほかはない。

このように考えると、「壁」という言葉に元々含まれる、社会的な制約という意味がにわかに浮上し、「壁をひらく」ということにも、そうした流通・展示制度の制約を克服する、一種の社会運動の意味合いが強まってくるように思われる。つまり、自らの部屋を理想的な状態に置こうとするならば、部屋の中に止まっているのでなく、壁をひらいて部屋の外へと足を踏み出し、社会的制約を克服するしかない。このように考えを進め、固めていった構想が「オブジェの店」をひらく構想ではなかろうか。

後に瀧口はデュシャンからRrose Sélavyの使用許可を得て、デュシャンのサインを銅凸版に起こした看板を制作し、部屋の入口の左手に掲げることになる(図10-13)。その後も上に見た小包の抜け殻「月の伝説」が、扉に掲げられ続けたかどうか、興味深いところだが、いまのところ確認できていない。ご存知の方がいらっしゃれば、ご教示をお願いしたい。(続く)

図13部屋の看板図10-13
「オブジェの店」の看板が掲げられた瀧口の部屋


つちぶちのぶひこ

●今日のお勧め作品は、瀧口修造です。
20150613_takiguchi2014_III_14瀧口修造
「III-14」
デカルコマニー、紙
イメージサイズ:18.5x13.9cm
シートサイズ:18.5x13.9cm


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