「瀧口修造とマルセル・デュシャン」第12回
Shuzo TAKIGUCHI and Marcel Duchamp Vol.12
土渕信彦
12.『マルセル・デュシャン語録』(その2)
『マルセル・デュシャン語録』のA版(特装版。図12-1)に付属するマルチプルについては、67年末頃までにほぼ製作の目途がついたが、予想外に手間取ったのは本文の方だったかもしれない。66年にジャスパー・ジョーンズから聞いた話によると、デュシャンの『不定法で』《A l’ infintif》という新刊が、ニューヨークのコルディエ&エクストローム画廊から出版されるというのである。「アート・イン・アメリカ」誌66年3-4月号にもその内容の一部が紹介されていた。
図12-1
瀧口修造訳『マルセル・デュシャン語録』A版
瀧口は、66年12月29日付けでデュシャンに手紙を出し、計画している語録に同書からも「いくつかの言葉を引用したい」との希望を伝えた。(この手紙と入れ違いに、デュシャンから前回紹介した「プロフィールの自画像」が送られてきた。折り返し67年1月19日頃に礼状を出したことも、前回触れたとおりである。)さらにこの『不定法で』の出版記念展が同画廊で開催されるとわかり、67年1月末頃のデュシャン宛の手紙で、刊行を祝うとともに1冊発注したことを伝え、同書の扉に何か献辞を書いてくれるように依頼している。代金は南画廊に出してもらったらしい。67年2月頃には手許に届いたと思われるが、実物は本の体裁ではなく、白いプレキシガラスの箱に79枚のメモの原寸大複製を収めた形だった。緑の箱に収められた通称『グリーン・ボックス』に対して、こちらは通称『ホワイト・ボックス』と呼ばれる(図12-2)。
図12-2
マルセル・デュシャン『不定法で』、コルディエ&エクストローム画廊マルセル・デュシャン『不定法で』、コルディエ&エクストローム画廊(限定150部)、1966年(瀧口修造旧蔵。現多摩美術大学図書館蔵)
主に「大ガラス」に関連したメモを収めた『グリーン・ボックス』に対して、『ホワイト・ボックス』に納めてあるのは次の7グループのメモである。すなわち①思索、②字典と地図、③色彩、④ガラス作品に関して、⑤外観とアパリション、⑥透視法、⑦連続性(この訳は瀧口によるもの)。マルチプル製作の手配と並行して、内容・用語について何度かデュシャンに照会しながら、67年末頃まで2つのボックスを中心に解読を進めたようである。照会があるたびにデュシャンは、瀧口の手紙の該当箇所に書きこむ形で返信してきた。その結果、『ホワイト・ボックス』からも①②⑤の簡単な抜粋を訳出することにした。最終的に訳出稿が確定したのは68年に入った頃と思われる。⑤の抜粋は、結局カットされた。
ここで浮上してきたのが翻訳権の問題である。デュシャンは67年8月16日付けの手紙で「メモの翻訳の件、OKです」”OK for the translation of my notes.”と、『グリーン・ボックス』『ホワイト・ボックス』などの翻訳を許可してくれた。私家版である『グリーン・ボックス』はこれで済んだのだが、『ホワイト・ボックス』の方は、刊行元(コルディエ&エクストローム画廊)の許可も必要だろう。ところが、67年1月の発注の際に伝えた訳出希望に対して、「内容次第」との回答があっただけで、正式の許可が下りていなかったのである。そこで、68年3月17日付けの手紙でデュシャンに対して、刊行の遅延を詫びるとともに状況を伝えたところ、同年3月21日付けの返信で「エクストローム氏に話してみます」と口添えを約束し、また「半年間、ニューヨークを離れます」と、パリ近郊のヌイイの住所を連絡してきた。
これでようやく本文の印刷作業に入ることができた。製作者海藤日出男の回想「オブジェ TO AND FROM RROSE SELAVY」(「マルセル・デュシャンと瀧口修造」展図録、佐谷画廊、1987年7月)によれば、「言葉の塊りをオブジェのように活字を頁のなかにちりばめたい、出来る限り本らしくない本にしようというのが第一の構想」だったそうだが、刷り上がりは以下のようなものとなった(図12-3)。
図12-3
瀧口修造訳『マルセル・デュシャン語録』B版本文
ここに至るまでの作業は困難を極めたようである。印刷所(大日本印刷)にとっては、33×26㎝という大判の用紙と、本文に18ポイントという異例で異様ともいえる大活字を使うこと自体が驚きだっただろう。しかも組み版には1ミリ以下の精度で微調整が求められたそうである。この出来上がりについて瀧口自身は、「どこか経本を思わせる」と述べ、印刷所に対して「素人くさい、わがままな私の注文をよく聴いてくれた」とねぎらっている(後出「本・もうひとつの本 デュシャンの語録」)。
装幀ももちろん瀧口によるものである。前出の海藤氏の回想によれば、B版(普及版)の箱に瀧口が選んだ紫色の紙は、すでに廃番となっていたが、問屋の倉庫を探しまわって、何とか500部分を確保したそうである(図12-4)。こうした材料の選定だけでなく、デザインの決定や製本などの過程で、いろいろ細かい問題ないし注文が出たものと想像される。
図12-4
瀧口修造訳『マルセル・デュシャン語録』B版箱
デュシャンの誕生日の7月28日までの完成を期していたが、間に合わなかった。誕生日を祝うとともに作業の遅延を詫びる手紙を瀧口はしたためている。この手紙で、著者本10部の献呈先を以下のようにしたいと了承を求めた。このリストにデュシャンは「OK、リストはそのままで結構です」“OK nothing to change in the list”と書き込んで、8月14日付けで返送してきた。
Ⅰ,Ⅱ マルセル・デュシャン
Ⅲ ジャスパー・ジョーンズ
Ⅳ ジャン・ティンゲリー
Ⅴ 荒川修作
Ⅵ マン・レイ
Ⅶ ロベール・ルベル
Ⅷ コルディエ&エクストローム画廊
Ⅸ 海藤日出男
Ⅹ 瀧口修造
刊行記念してポスターの作成も計画された。海藤氏の手もとには瀧口の以下のメモが残されたそうである(前出回想による)。内容や書き方は、73年の『扉に鳥影』や最晩年の『シガー・ボックス』の断章を思わせるところがある。こうしたメモの取り方自体、この製作過程で獲得されたものかもしれない。
「マルセル・デュシャン語録の完成を控えて……デュシャンの誕生日を迎えて戯画す。TO AND FROM RROSE SELAVYのポスターを作る計画秘かに……
先ず裏庭のバラの花を写生。これはわが生涯に極めて稀なことなり。
出来ルダケ画家ノ絵ラシクナクスルタメニ……一考
実物ヲ投射スルカ、フォトグラムノ方法?DのCoeurs Volantsノ方法ヲ使ウ 青ト赤?ソノ他ノ色彩デ可能カ
(1)影を見よ、その暈も…
(2)影ニ固有色ヲアタエルコト可能カ?
(3)2次元と3次元との錯綜(写真?)
最小限のポスター(?)とは」
薔薇の図柄の下絵も何種類か残されているが(図12-5~8)、すでにポスター製作の資金は残っておらず、残念ながら実現しなかった。図12-5の下絵に書き込まれた言葉は、上に引用した海藤氏のメモのカタカナ部分(「出来ルダケ~可能カ」に一致するようである。図12-7の下絵の右下部には「動脈と静脈」と書かれている。また図12-8の下絵には「pour MOI et pour VOUS pour Rrose Sélavy マルセル・デュシャン81回誕生日 1968年7月28日 瀧口修造 「モア」にて」と記されているので、この店で前年に続いてデュシャンの誕生祝いを兼ねた刊行祝いの会合が持たれたようである(この「モア」についてご存知の方は、ご教示をお願いしたい)。
図12-5
瀧口修造『マルセル・デュシャン語録』のためのポスター下絵
1968年(慶應義塾大学アート・センター蔵)
図12-6
瀧口修造「マルセル・デュシャン語録のために」1968年7月頃(千葉市美術館蔵)
図12-7
瀧口修造「ローズ・セラヴィのために」1968年6月(個人蔵)
図12-8
瀧口修造「ローズ・セラヴィのために」1968年7月(個人蔵)
薔薇の図柄にはかなり思い入れがあったようで、6年後の1974年10月に組まれた雑誌「現代詩手帖」の臨時増刊「瀧口修造」では、下絵のひとつを大辻清司が撮影した写真が、表紙に使われている(図12-9)。「Rrose Sélavy ’68‐’74 S.T.」の書き込みはこの臨時増刊が組まれた74年のものだろう。表紙裏には上図12-6の薔薇のドローイングが、また裏表紙には薔薇のシルエットの絵柄のメモが用いられている(図12-10)。このメモの下部に記載された箇条書きは、上に見た海藤日出男旧蔵のメモの後半部分と一致する。
図12-9
「現代詩手帖」臨時増刊「瀧口修造」表紙、1974年10月
図12-10
同裏表紙
なお、この臨時増刊の奥付頁には瀧口による「自註」が付されている(図12-11)。ポスター下絵だけでなく、自らの造形についても触れられた貴重な文章と思われるが、みすず書房の『コレクション』には採録されていないようであるので、以下に全文を引用しておく。独特の含羞んだ控えめな書き方が、いかにも瀧口らしく思われる。
「*表紙と裏表紙は、かつてデュシャン語録の完成を間近にして薔薇の花を配した記念のポスターをと想いつき、庭の花の写生から始めてあれこれ工夫していた頃のエスキスのひとつ。結局ポスターは実現せず、今度写真の大辻さんを煩して表紙にそのあえかな意相の影を落す。表紙うらの素描はやはり当時の帖面から。つい脱線した秘かな遊びがきが拾われてしまった。
*口絵は、初めて万年筆を写生帖に走らせた頃の落書きのようなもの、小さなデカルコマニー、焦がしたインク・デッサンなどから拾って貰った。自選作品などと言える生れつきのものではない。「詩人の肖像」はミニアチュール百点の扉絵のつもり、1行の句はいつでも差し換えられるよう工夫してある。
*健康上の都合で書下しといえるものなく、ひたすら恐縮している。唯だ、ふだん枕許に置いている紙挟みの藁半紙に走り書した最近のものから読んでいただくことにした。また、たっての希望で再録された「北斎」は冷汗もので、殊にアナウンスなど書き直す以前の形のまま一度発表してしまったのが運の尽きで、いわば映画の現場仕事を未完のまま凍結した姿がいつまでも憑きまとうのである。 瀧口修造」
図12-11
「現代詩手帖」臨時増刊「瀧口修造」奥付頁
完成を控えて、「藝術新潮」68年10月号に「本・もうひとつの本 デュシャンの語録」を発表した(図12-12~14)。そこには「本誌が店頭に出る頃には完成していてくれるだろう」と書いているが、9月中には完成しなかった。そして10月に入ると、まさに寝耳に水の事件が起こった。(続く)
図12-12
「藝術新潮」1968年10月号表紙
図12-13
同上記事頁
図12-14
同上
(つちぶちのぶひこ)
●今日のお勧め作品は、奈良原一高です。
奈良原一高
〈王国〉より《沈黙の園》(2)
1958年 (Printed 1984)
ゼラチンシルバープリント
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◆土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」は毎月13日の更新です。
Shuzo TAKIGUCHI and Marcel Duchamp Vol.12
土渕信彦
12.『マルセル・デュシャン語録』(その2)
『マルセル・デュシャン語録』のA版(特装版。図12-1)に付属するマルチプルについては、67年末頃までにほぼ製作の目途がついたが、予想外に手間取ったのは本文の方だったかもしれない。66年にジャスパー・ジョーンズから聞いた話によると、デュシャンの『不定法で』《A l’ infintif》という新刊が、ニューヨークのコルディエ&エクストローム画廊から出版されるというのである。「アート・イン・アメリカ」誌66年3-4月号にもその内容の一部が紹介されていた。

瀧口修造訳『マルセル・デュシャン語録』A版
瀧口は、66年12月29日付けでデュシャンに手紙を出し、計画している語録に同書からも「いくつかの言葉を引用したい」との希望を伝えた。(この手紙と入れ違いに、デュシャンから前回紹介した「プロフィールの自画像」が送られてきた。折り返し67年1月19日頃に礼状を出したことも、前回触れたとおりである。)さらにこの『不定法で』の出版記念展が同画廊で開催されるとわかり、67年1月末頃のデュシャン宛の手紙で、刊行を祝うとともに1冊発注したことを伝え、同書の扉に何か献辞を書いてくれるように依頼している。代金は南画廊に出してもらったらしい。67年2月頃には手許に届いたと思われるが、実物は本の体裁ではなく、白いプレキシガラスの箱に79枚のメモの原寸大複製を収めた形だった。緑の箱に収められた通称『グリーン・ボックス』に対して、こちらは通称『ホワイト・ボックス』と呼ばれる(図12-2)。

マルセル・デュシャン『不定法で』、コルディエ&エクストローム画廊マルセル・デュシャン『不定法で』、コルディエ&エクストローム画廊(限定150部)、1966年(瀧口修造旧蔵。現多摩美術大学図書館蔵)
主に「大ガラス」に関連したメモを収めた『グリーン・ボックス』に対して、『ホワイト・ボックス』に納めてあるのは次の7グループのメモである。すなわち①思索、②字典と地図、③色彩、④ガラス作品に関して、⑤外観とアパリション、⑥透視法、⑦連続性(この訳は瀧口によるもの)。マルチプル製作の手配と並行して、内容・用語について何度かデュシャンに照会しながら、67年末頃まで2つのボックスを中心に解読を進めたようである。照会があるたびにデュシャンは、瀧口の手紙の該当箇所に書きこむ形で返信してきた。その結果、『ホワイト・ボックス』からも①②⑤の簡単な抜粋を訳出することにした。最終的に訳出稿が確定したのは68年に入った頃と思われる。⑤の抜粋は、結局カットされた。
ここで浮上してきたのが翻訳権の問題である。デュシャンは67年8月16日付けの手紙で「メモの翻訳の件、OKです」”OK for the translation of my notes.”と、『グリーン・ボックス』『ホワイト・ボックス』などの翻訳を許可してくれた。私家版である『グリーン・ボックス』はこれで済んだのだが、『ホワイト・ボックス』の方は、刊行元(コルディエ&エクストローム画廊)の許可も必要だろう。ところが、67年1月の発注の際に伝えた訳出希望に対して、「内容次第」との回答があっただけで、正式の許可が下りていなかったのである。そこで、68年3月17日付けの手紙でデュシャンに対して、刊行の遅延を詫びるとともに状況を伝えたところ、同年3月21日付けの返信で「エクストローム氏に話してみます」と口添えを約束し、また「半年間、ニューヨークを離れます」と、パリ近郊のヌイイの住所を連絡してきた。
これでようやく本文の印刷作業に入ることができた。製作者海藤日出男の回想「オブジェ TO AND FROM RROSE SELAVY」(「マルセル・デュシャンと瀧口修造」展図録、佐谷画廊、1987年7月)によれば、「言葉の塊りをオブジェのように活字を頁のなかにちりばめたい、出来る限り本らしくない本にしようというのが第一の構想」だったそうだが、刷り上がりは以下のようなものとなった(図12-3)。

瀧口修造訳『マルセル・デュシャン語録』B版本文
ここに至るまでの作業は困難を極めたようである。印刷所(大日本印刷)にとっては、33×26㎝という大判の用紙と、本文に18ポイントという異例で異様ともいえる大活字を使うこと自体が驚きだっただろう。しかも組み版には1ミリ以下の精度で微調整が求められたそうである。この出来上がりについて瀧口自身は、「どこか経本を思わせる」と述べ、印刷所に対して「素人くさい、わがままな私の注文をよく聴いてくれた」とねぎらっている(後出「本・もうひとつの本 デュシャンの語録」)。
装幀ももちろん瀧口によるものである。前出の海藤氏の回想によれば、B版(普及版)の箱に瀧口が選んだ紫色の紙は、すでに廃番となっていたが、問屋の倉庫を探しまわって、何とか500部分を確保したそうである(図12-4)。こうした材料の選定だけでなく、デザインの決定や製本などの過程で、いろいろ細かい問題ないし注文が出たものと想像される。

瀧口修造訳『マルセル・デュシャン語録』B版箱
デュシャンの誕生日の7月28日までの完成を期していたが、間に合わなかった。誕生日を祝うとともに作業の遅延を詫びる手紙を瀧口はしたためている。この手紙で、著者本10部の献呈先を以下のようにしたいと了承を求めた。このリストにデュシャンは「OK、リストはそのままで結構です」“OK nothing to change in the list”と書き込んで、8月14日付けで返送してきた。
Ⅰ,Ⅱ マルセル・デュシャン
Ⅲ ジャスパー・ジョーンズ
Ⅳ ジャン・ティンゲリー
Ⅴ 荒川修作
Ⅵ マン・レイ
Ⅶ ロベール・ルベル
Ⅷ コルディエ&エクストローム画廊
Ⅸ 海藤日出男
Ⅹ 瀧口修造
刊行記念してポスターの作成も計画された。海藤氏の手もとには瀧口の以下のメモが残されたそうである(前出回想による)。内容や書き方は、73年の『扉に鳥影』や最晩年の『シガー・ボックス』の断章を思わせるところがある。こうしたメモの取り方自体、この製作過程で獲得されたものかもしれない。
「マルセル・デュシャン語録の完成を控えて……デュシャンの誕生日を迎えて戯画す。TO AND FROM RROSE SELAVYのポスターを作る計画秘かに……
先ず裏庭のバラの花を写生。これはわが生涯に極めて稀なことなり。
出来ルダケ画家ノ絵ラシクナクスルタメニ……一考
実物ヲ投射スルカ、フォトグラムノ方法?DのCoeurs Volantsノ方法ヲ使ウ 青ト赤?ソノ他ノ色彩デ可能カ
(1)影を見よ、その暈も…
(2)影ニ固有色ヲアタエルコト可能カ?
(3)2次元と3次元との錯綜(写真?)
最小限のポスター(?)とは」
薔薇の図柄の下絵も何種類か残されているが(図12-5~8)、すでにポスター製作の資金は残っておらず、残念ながら実現しなかった。図12-5の下絵に書き込まれた言葉は、上に引用した海藤氏のメモのカタカナ部分(「出来ルダケ~可能カ」に一致するようである。図12-7の下絵の右下部には「動脈と静脈」と書かれている。また図12-8の下絵には「pour MOI et pour VOUS pour Rrose Sélavy マルセル・デュシャン81回誕生日 1968年7月28日 瀧口修造 「モア」にて」と記されているので、この店で前年に続いてデュシャンの誕生祝いを兼ねた刊行祝いの会合が持たれたようである(この「モア」についてご存知の方は、ご教示をお願いしたい)。

瀧口修造『マルセル・デュシャン語録』のためのポスター下絵
1968年(慶應義塾大学アート・センター蔵)

瀧口修造「マルセル・デュシャン語録のために」1968年7月頃(千葉市美術館蔵)

瀧口修造「ローズ・セラヴィのために」1968年6月(個人蔵)

瀧口修造「ローズ・セラヴィのために」1968年7月(個人蔵)
薔薇の図柄にはかなり思い入れがあったようで、6年後の1974年10月に組まれた雑誌「現代詩手帖」の臨時増刊「瀧口修造」では、下絵のひとつを大辻清司が撮影した写真が、表紙に使われている(図12-9)。「Rrose Sélavy ’68‐’74 S.T.」の書き込みはこの臨時増刊が組まれた74年のものだろう。表紙裏には上図12-6の薔薇のドローイングが、また裏表紙には薔薇のシルエットの絵柄のメモが用いられている(図12-10)。このメモの下部に記載された箇条書きは、上に見た海藤日出男旧蔵のメモの後半部分と一致する。

「現代詩手帖」臨時増刊「瀧口修造」表紙、1974年10月

同裏表紙
なお、この臨時増刊の奥付頁には瀧口による「自註」が付されている(図12-11)。ポスター下絵だけでなく、自らの造形についても触れられた貴重な文章と思われるが、みすず書房の『コレクション』には採録されていないようであるので、以下に全文を引用しておく。独特の含羞んだ控えめな書き方が、いかにも瀧口らしく思われる。
「*表紙と裏表紙は、かつてデュシャン語録の完成を間近にして薔薇の花を配した記念のポスターをと想いつき、庭の花の写生から始めてあれこれ工夫していた頃のエスキスのひとつ。結局ポスターは実現せず、今度写真の大辻さんを煩して表紙にそのあえかな意相の影を落す。表紙うらの素描はやはり当時の帖面から。つい脱線した秘かな遊びがきが拾われてしまった。
*口絵は、初めて万年筆を写生帖に走らせた頃の落書きのようなもの、小さなデカルコマニー、焦がしたインク・デッサンなどから拾って貰った。自選作品などと言える生れつきのものではない。「詩人の肖像」はミニアチュール百点の扉絵のつもり、1行の句はいつでも差し換えられるよう工夫してある。
*健康上の都合で書下しといえるものなく、ひたすら恐縮している。唯だ、ふだん枕許に置いている紙挟みの藁半紙に走り書した最近のものから読んでいただくことにした。また、たっての希望で再録された「北斎」は冷汗もので、殊にアナウンスなど書き直す以前の形のまま一度発表してしまったのが運の尽きで、いわば映画の現場仕事を未完のまま凍結した姿がいつまでも憑きまとうのである。 瀧口修造」

「現代詩手帖」臨時増刊「瀧口修造」奥付頁
完成を控えて、「藝術新潮」68年10月号に「本・もうひとつの本 デュシャンの語録」を発表した(図12-12~14)。そこには「本誌が店頭に出る頃には完成していてくれるだろう」と書いているが、9月中には完成しなかった。そして10月に入ると、まさに寝耳に水の事件が起こった。(続く)

「藝術新潮」1968年10月号表紙

同上記事頁

同上
(つちぶちのぶひこ)
●今日のお勧め作品は、奈良原一高です。

〈王国〉より《沈黙の園》(2)
1958年 (Printed 1984)
ゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:47.8x31.5cm
シートサイズ:50.8x40.6cm
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◆土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」は毎月13日の更新です。
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