「瀧口修造とマルセル・デュシャン」第13回
Shuzo TAKIGUCHI and Marcel Duchamp Vol.13

土渕信彦


13.『マルセル・デュシャン語録』(その3)

 寝耳に水の出来事とはデュシャンの逝去である。この年(68年)3月、ニューヨークから欧州に向かって旅立ったデュシャン夫妻は、モナコ、イタリア、スイス、イギリスなどを訪れた後、カダケスで11回目の夏を過ごし、9月にパリに戻った。10月1日には(63年に没したシュザンヌから相続していた)ヌイイのアパルトマンに、旧知のマン・レイとロベール・ルベルの両夫妻を夕食に招いた。

 夏頃からデュシャンは今ひとつ体調が良くなかったようだが、この夜は食も進み、楽しい晩餐となったようである。両夫妻が帰り、日付も改まった頃に、デュシャンは寝支度のために洗面所に入った。いつもより長い時間がかかっているような気がして、ティニー夫人が声を掛けたが、返事がなかった。洗面所の扉を開けてみたら、床にデュシャンが横たわっていたのだった。すでに息絶えていた。デュシャン逝去のニュースは、ニューヨーク・タイムス紙をはじめ、世界中の一流紙の一面で報じられた。だが「ル・フィガロ」紙はチェス欄で報じたそうである(以上、カルヴァン・トムキンスの詳細な、木下哲夫氏の名訳、みすず書房『マルセル・デュシャン』による)。

 瀧口の「ローズ・セラヴィ’58~’68」(「遊」第4号、1973年1月)には、10月3日付け朝日新聞夕刊の訃報欄切抜が掲載されている。「翌朝も服をつけたまま口元に微かに笑みを浮かべて横たわっていたという。死亡通知も告別式も記念行事も行わぬとの遺言であったと、ルベル氏から痛切な手紙を貰う」と解説されている(図13-1)。

図13-1 デュシャンの死亡記事図13-1
デュシャンの死亡記事


 翌日、ヌイイのティニー夫人に宛てて、次のような弔電を打った(図13-2)。

 「マルセル・デュシャンノ訃報ニ接シ悲シミ二タエズ/ケッシテジニンシナカッタ偉大ナ芸術家詩人ハ巨大ナガラス(même)ニ入ラレマシタ/彼ニ捧ゲル本ノ完成直前ニ/医ヤシガタキ悔恨/2週間後ノアナタノアドレスオ知ラセ乞ウ」(前出「ローズ・セラヴィ’58~’68」の瀧口自訳)

 「ローズ・セラヴィ’58~’68」には、電報局に出した弔電の依頼書が掲載されている。仏文の原文は以下のように判読されると思われる(図13-2。印刷が薄いので、読み違いの可能性もあるかもしれない。以下同様)。

 《GRAND TRISTESSE POUR ANNONCE DE LA MORT DE MARCEL DUCHAMP GRAND ARTISTE POETE QUI NE SAVOUA[sic] JAMAIS ENTRA AU PLUS GRAND VERRE MEME STOP MON LIVRE HOMMAGE A LUI JUSTE AVANT ACHEVEMENT REMORDS IRREMENDIABLES JE VOUDRAI SAVOIR VOTRE ADRESSE APRES DEUX SEMAINES SHUZO TAKIGUCHI》

図13-2 弔電図13-2
仏文弔電の控え


 これに対して、ティニー夫人から10月11日付けで、以下のような、ゴム版スタンプの挨拶状が届いた(図13-3)。この挨拶状について、同じ「ローズ・セラヴィ’58~’68」で瀧口は、「形式ばった印刷を避けてゴム版で電報の礼のみを述べてあるのに深い心くばりを感じる」としている。

《Merci beaucoup pour
votre télégramme》

図13-3 ティニー夫人の挨拶状図13-3
ティニー夫人の挨拶状


 この挨拶状と同じ10月11日付けで、ティニー・デュシャンからタイプ打ちされた次のような私信も届いている(図13-4)。この文面から判断すると、瀧口はティニー夫人に宛てて弔電を打った後に手紙もしたため、おそらく『マルセル・デュシャン語録』を抜粋したファイルとともに送っていたようである。

 《Dear Mr. Takiguchi
First Marcel died “extra-rapid” ... perhaps blossoming...
Received your letter today of Oct. 6 and the folder which is very pleasing.
I leave for New York Sat Oct.19 and will remain there for sometime.
Send the book to 28 west 10 Street New York. I am very excited to see it.
Tenny Duchamp》

 「最初にマルセルは《特急で》死にました……たぶん開花なのでしょう…。
10月6日付のお手紙を今日、受け取りました。お送りいただいたファイルもたいへん嬉しいです。
10月19日にニューヨークに向かい、しばらくあちらで過ごす予定です。
本はニューヨーク西10丁目28番地に送ってください。とても楽しみにしています。ティニー・デュシャン」(「瀧口修造‐マルセル・デュシャン往復書簡集」、千葉市美術館「瀧口修造とマルセル・デュシャン」展図録、2011年11月)

図13-4 ティニー夫人の礼状(10月9日付)図13-4
ティニー夫人の礼状(10月9日付)


 訃報に接した時に、ちょうど瀧口は「ガラス世界」(「スペース・モジュレーター」、1968年11月)を執筆している最中だった。このなかで次のように記している。

 「この文章を書いている途中、マルセル・デュシャン死去の報に接した。私個人としても、これは青天のへきれき、悲しいショックであった。ここはそんな感慨を書くべき場所ではない。ただ、ここでもガラスが介在することが問題である。
 デュシャンの記念的な作品が大きなガラスであること、かつてそれが運搬の途中で割れてしまったが、彼はその「偶然」という亀裂すらも作品のなかに組み入れてしまったこと、それはもう伝説のようによく知られた20世紀芸術の物語である。
 デュシャンのほとんど最後の「作品」ともいうべきものは、ガラスの上にぶらさがっているといってよい。
 つまり、それは内と外との中間にあるのだ。
 私は未亡人への弔電のなかに『デュシャンはもっと大きなガラスのなかに入って終いました』と書かずにいられなかった。」

 出来上りを待つばかりだった『マルセル・デュシャン語録』には、急遽その扉頁に、横長の紙片に記した、次のようなデュシャン追悼文(英文)を挟み込むこととした(図13-5)。

《Marcel Duchamp passed away in October 1, 1968.
This book has missed the chance to meet him, on account of its considerable delay. The author and the collaborators deeply grieve for his death and the misfortune of the book. Good luck, Mr. Duchamp, if you could only catch our book, say, beyond the larger glass, even !》

図13-5 挟み込み図13-5
追悼文挟み込み(A版)


 『マルセル・デュシャン語録』にはこの英文のみで、訳は掲載されていないが、『コレクション瀧口修造』には次のような訳が掲載されている。

 [マルセル・デュシャンは1968年10月1日パリで世を去った。この本は遅々たる歩みのために、生前の彼に会う機会をついに逸してしまった。著者とその協力者たちは不運なこの本のために深く心を痛めている。見えない最大のガラスを通って行ってしまったマルセル・デュシャンよ、さよなら。]

 前に連載「瀧口修造の箱舟」第4回でも触れたことがあるが、この訳は誰によるものか、どういう身分の訳かについて、『コレクション瀧口修造』には表記されていない(注にも解題にも記されていない)。[ ]で括られているので、瀧口自訳ではなく、解題者か編集部の訳と思われるが、この訳には問題点がいくつかあるように思われる。

 例えば、「遅々たる歩み」と訳された”considerable delay“は、「グリーン・ボックス」にも『語録』にも出てくるとおり、デュシャンが「大ガラス」のことを「ガラス製の遅延」と呼んだことを踏まえていると思われるので、「著しい遅延」と訳すべきだろう。また、「深く心を痛めている」と訳されている個所は、原文では” deeply grieve for his death and the misfortune of the book“とあるとおり、「不運なこの本のため」だけではなく、むしろ先に挙げられているデュシャンの逝去そのものに対してであるはずなのだが、この点が抜け落ちている。さらに、原文で”larger glass”とある個所は、比較級が最上級に訳されているという文法上の問題もさることながら、デュシャンが検討していた次元の拡張の問題を踏まえて、「最大のガラス」ではなく「もっと大きなガラス」と訳すべきところだろう。

 ようやく11月に入って『マルセル・デュシャン語録』が完成した(図13-6)。奥付には刊行日として、デュシャンの誕生日である「7月28日」と記載されている(図13-7)。A版50部(他に著者本10部)の刊行はRrose Sélavy TOKYO(販売は南画廊)、B版500部の刊行は美術出版社とされた。

図13-6 『マルセル・デュシャン語録』A版図13-6
『マルセル・デュシャン語録』A版


図13-7 『マルセル・デュシャン」A版奥付図13-7
『マルセル・デュシャン語録』A版奥付


 A版に付された「ウィルソン・リンカーン・システムによるローズ・セラヴィ」《Rrose Sélavy in the Wilson-Lincoln System》は、デュシャンにより署名され、最後のプロフィール作品となった(図13-8)。A版には他に、ジャスパー・ジョーンズのレリーフ版画「夏の批評家」(番号・署名入り)、荒川修作の「静物」色彩版複製(署名入り)、ティンゲリー「コラージュ・デッサン」色彩版複製(同)、デュシャン「プロフィールの自画像」色彩版複製などである。B版にはそれぞれの印刷版複製が本文と共に綴じ込まれている。以下のようなチラシも作成されている(図13-9)。

図13-8 ウィルソン=リンカーン・システムによるローズ・セラヴィ図13-8
「ウィルソン・リンカーン・システムによるローズ・セラヴィ」


図13-9 『マルセル・デュシャン語録』チラシ図13-9
『マルセル・デュシャン語録』チラシ(A版は「絶版」、B版は「残部僅少」とされている)


 完成した後、お披露目の展示「マルセル・デュシャン語録について」が南画廊で開催された。会期は10月31日~11月5日だった(図13-10,11)。

図13-10 展示「マルセル・デュシャン語録について」案内状図13-10
展示「マルセル・デュシャン語録について」案内状と裏面(『志水楠男と南画廊』、南画廊、1985年3月より)


図13-11 同会場にて図13-11
同会場にて(「遊」第4号、73年1月より)


 前回述べたとおり、著者本10部の内、デュシャンにはⅠ,Ⅱ番の2部が、マン・レイとロベール・ルベルにはそれぞれⅥ番とⅦ番が贈られている。製作者・共作者・著作権者などの関係者以外で贈られたのは、マン・レイとロベール・ルベルの2人だけである。デュシャンがこの2人の親友を「最後の晩餐」に招いて、楽しい一晩を過ごしてから逝ったのは、まさに理想的で、幸福なとさえ言える逝き方だったと思うが、その2人に揃って『マルセル・デュシャン語録』が贈呈されているのは、予めシナリオが書かれていたかのような、不思議な感じがする。

 ニューヨークに戻ったティニー夫人に贈られた(デュシャンの分の)2部は、ちょうどクリスマス直前に、コルディエ・エクストローム画廊経由で届けられたようである。12月28日付けの夫人からの礼状が残されている(図13-12)。この礼状には瀧口が「美術手帖」に発表した追悼文「急速な鎮魂曲」の抜き刷りへの言及もあるが、この点は次回に述べる。(続く)

図13-12 ティニー夫人からの礼状(12月28日付)図13-12
ティニー夫人の礼状(12月28日付)


つちぶちのぶひこ

●今日のお勧め作品は、瀧口修造です。
20150913_takiguchi2014_II_18瀧口修造
「II-18」
デカルコマニー
イメージサイズ:15.7x9.0cm
シートサイズ :19.3x13.1cm


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