「瀧口修造とマルセル・デュシャン」第14回
Shuzo TAKIGUCHI and Marcel Duchamp Vol.14

土渕信彦


14.「急速な鎮魂曲」(その1)

 亡くなる2年前の1966年に行われたピエール・カバンヌとの対談の締めくくりに、自らの死や健康について問われ、デュシャンは次のように答えている(ちくま学芸文庫『デュシャンは語る』岩佐鉄男・小林康夫訳)。

 「――死について考えますでしょうか?
できるかぎり考えません。肉体的には、この年になれば、頭が痛かったり、脚を折ったりすれば、時どき考えざるをえません。死がそこで現われる。ところが、にもかかわらず、無神論者であれば完全に消滅するだけだということに感動を覚えます。私は死後の生とか輪廻などを期待してはいません。それは、実に窮屈です。こういうものを信じたほうがいいのかもしれませんが。そうしたら、楽しく死ねるかもしれませんね。

――あるインタヴューで、あなたは、一般的にジャーナリストの質問には閉口させられる。そして、ひとが決して聞かないのだが、聞いて欲しいと思う問いがある、とおっしゃっています。それは「お元気でいらっしゃいますか」というのですが?
大変元気です。健康はまったく悪くありません。2,3回、手術を受けたことがありますが、前立腺などの、この年ではあたりまえの手術です。79歳のすべての人を襲う身体の不調を経験しただけなのですよ。
私はとても幸せです。」

 この対談を読むと、デュシャンも一人の人間として悩みを抱えながら、ささやかな幸福感も味わっていたように思われる。この頃にはすでに名声も財産も、家族さえも手に入れ、生きることを享受し、楽しんでいたと言えるかもしれない。

 ところが、デュシャンの逝去は実は自殺だったという話が、荒川修作の回想に出て来る。軽く触れられている程度なのだが、家族同様に接してくれていたティニー夫人から、逝去の直後に直接聞いたそうで、それによるとデュシャンは、マン・レイ、ロベール・ルベルとの晩餐の後に洗面所に入って、出てきたところで倒れたそうで、睡眠薬を一瓶すべて飲んでいたという(日本オーラル・ヒストリー・アーカイヴの、荒川へのインタヴュー。聞き手は由本みどり・富井玲子のお二人。書き起こしは池田絵美子さん。インタヴューの時点は2009年4月4日。)

 ここで荒川へのインタヴューをわざわざご紹介するのは、デュシャン自殺説に触れられているためでもあるが、むしろ他にも面白いエピソードが多いからである。例えば、瀧口に関するものでは、渡米前に荒川がデュシャンに出した手紙に手を入れてもらっていたことや、渡米に際して貰った本(マラルメの詩集らしい)の頁の間に、餞別を入れた封筒が、判らないように貼り付けてあり、中には当時として大金である6万円が入っていたことなどが証言されている。1960年代前半のニューヨークの美術界の模様やデュシャンの姿も活き活きと語られている。ご一読をお勧めしたい。

 荒川の語るようにデュシャンの死が自殺だったか否か、結局のところ真相は確かめようがない。デュシャンが計算された、戦略的な生涯を送ってきたのは事実だろうし、下にまとめたとおり、当時は「遺作」(「1.落ちる水、2.照明用ガス、があたえられたとせよ」)も完成し、自らの仕事をほぼやり遂げた状態にあったようなので、自らの生涯についても自覚的に幕を下ろしたというのは、あり得るかもしれない。その一方で、人間が自らの命に関してもそこまで冷徹になれるとは、考えにくいようにも思われる。いずれにしても、見事な生涯だったことは、誰もが認めるだろう。

1965年
コルディエ&エクストローム画廊「NOT SEEN and/or LESS SEEN of/by MARCEL DUCHAMP/RROSE SELAVY 1904-64」(Mary Sisler Collection)展(図14-1)

1965年
ニューヨークの東14丁目のアトリエの明け渡しを余儀なくされ、完成間近だった「遺作」を東11丁目80番地の高層ビルの一室に移設。

1966年
テイト・ギャラリー「マルセル・デュシャンのほとんど全作品」展(図14-2)
カルヴァン・トムキンス『マルセル・デュシャンの世界』刊行
「遺作」ほぼ完成。

1967年
「遺作」の解体・再設置のためのルーズリーフのノートを準備。
アルトゥーロ・シュワルツ『マルセル・デュシャン全作品』(旧版)刊行(図14-3)
コルディエ&エクストローム画廊『不定法で』刊行
ピエール・カバンヌ『マルセル・デュシャンとの対話』刊行

1968年
コレクターのウィリアム・コプリーに「遺作」を見せ、購入の上、没後フィラデルフィア美術館に寄贈してもらえるよう相談、了承を得る。

図14-1 コルディエ&エクストローム画廊図録図14-1
コルディエ&エクストローム画廊
「NOT SEEN and/or LESS SEEN of/by MARCEL DUCHAMP/RROSE SELAVY 1904-64」(Mary Sisler Collection)展図録


図14-2 テイト・ギャラリー図録図14-2
テイト・ギャラリー
「The almost complete works of Marcel Duchamp」展図録


図14-3 シュワルツ『マルセル・デュシャン全作品』図14-3
アルトゥーロ・シュヴァルツ
『The Complete works of Marcel Duchamp』


 デュシャンの没後、遺言が残されており、死亡通知、葬儀、記念行事などは行わないように記されていた。ジャック・ヴィヨン、レイモン・デュシャン=ヴィヨンの兄2人と、妹のシュザンヌ・クロッティが眠る墓に、遺骨が埋葬された。「さりながら 死ぬのはいつも 他人なり」(瀧口訳)という碑銘が刻まれた(図14-4)。

図14-4 デュシャンの墓図14-4
デュシャン一族の墓(1995年に亡くなったティニー・デュシャンの名も刻まれている。筆者撮影)


 デュシャンの訃報に接し、瀧口は急遽、「美術手帖」誌68年12月号に、追悼文「急速な鎮魂曲 マルセル・デュシャンの死」を発表した。タイトルの「急速な」は、もちろん、前回見たティニー夫人からの瀧口宛て礼状の冒頭にあった“extra rapid”を踏まえたのだろう。冒頭の頁に最晩年のデュシャンのモノクロの肖像写真を、またその裏の頁に「なりたての未亡人」のカラー写真を掲載している。この2点の写真だけでもデュシャン追悼の意味が伝わってくるように思われる(図14-5,6,7)。

図14-5 「美術手帖」図14-5
「美術手帖」誌、1968年12月号


図14-6 「急速な鎮魂曲」扉頁図14-6
同「急速な鎮魂曲」扉頁


図14-7 同 扉裏頁図14-7
同 扉裏頁


 本文の各頁には、朱色一色でデュシャンのプロフィールなどのシルエットを配している。こうした図版構成・レイアウトも、おそらく瀧口自身によるものと思われる(図14-8~11)。

図14-8 同 本文1図14-8
同 本文頁1


図14-9 同 本文2図14-9
同 本文頁2


図14-10 同 本文3図14-10
同 本文頁3


図14-11 同 本文4図14-11
同 本文頁4


 本文のなかで瀧口は、自分が何故デュシャンに関わるのかを、次のように端的に述べている。

 「私がデュシャンに惹かれる最大の理由のひとつは、彼が言語を一種のオブジェ化したことである。というよりも、それがオブジェをも暗に言語と化していることと関連しているからである。

 この「言語を一種のオブジェ化した」という個所は、日本語として疑問がある表現だが(みすず書房の『コレクション瀧口修造』第4巻でも、この表記のままとされている)、明くる1969年に東京・代々木国立競技場で開催された、「クロス・トーク/インターメディア」のリーフレット・セットへの再録では「言語の一種をオブジェ化した」と修正されている点は注意が必要だろう。この再録に際してサブタイトルは「マルセル・デュシャンの死」から「マルセル・デュシャン 1887-1968」に変更されている(図14-12~14)。

図14-12 「クロス・トーク インターメディア」セット図14-12
「クロス・トーク/インターメディア」
リーフレット・セット


図14-13 同冊子「エッセイ」図14-13
同セットの冊子「エッセイ」


図14-14 同「急速な鎮魂曲」図14-14
同「急速な鎮魂曲 マルセル・デュシャン 1887-1968」


 ご参考までに、同じセットに発表された英訳(おそらく自訳だろう)”A Rapid Requiem Marcel Duchamp 1887-1968” の該当箇所を引用する。次のとおりである(図14-15)。

 《One of the reasons which makes me attached to Marcel Duchamp, is that he often gave words his rare objectification. I should say, he more often changed objects into words.》

図14-15 Rapid Requiem図14-15
同”A Rapid Requiem Marcel Duchamp 1887-1968”


 また本文の中ほどでは、上に引用したピエール・カバンヌとの対談の「死」につての一節、つまり「私は死後の生とか輪廻などを期待してはいません。それは、実に窮屈です。こういうものを信じたほうがいいのかもしれませんが。そうしたら、楽しく死ねるかもしれませんね」という個所も訳出している。次のとおりである。

 「私は他生とか輪廻とかを望まない。およそうるさい考えです。人間はよろこんで死んでゆく、すべてそう考えるのがどんなにいいかしれない。」

 この個所の後半は、原文では《Je n’espère pas une autre vie ou la métempsycose. C’est très gênant. Il vaudrait bien mieux croire à toutes ces choses-là, on mourrait joyeusement.》なので、冒頭に引用した岩佐・小林訳のほうが正確なようである。(続く)
つちぶちのぶひこ

●今日のお勧め作品は、国吉康雄です。
20151013_kuniyoshi_06国吉康雄
「綱渡りの女」
1938
リトグラフ
39.5x30.0cm
サインあり


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◆ときの忘れものは2015年10月17日[土]―10月31日[土]「瀧口修造展 IVを開催します(*会期中無休)。
Takiguchi_DM600
ときの忘れものでは昨年から3度にわたり「瀧口修造展」を開催してまいりましたが、本展はその第4回目に当たり、また昨年11月に開催した「瀧口修造とマルセル・デュシャン」展の後半ということにもなります。
瀧口修造の『マルセル・デュシャン語録』と未発表のデカルコマニーを中心に、同語録の製作に協力した作家たち(マルセル・デュシャン、ジャスパー・ジョーンズ、ジャン・ティンゲリー、荒川修作、他)の作品を約25点展示します。