森下泰輔のエッセイ「戦後・現代美術事件簿」第4回

「小山哲男、ちだ・ういの暴走」

 60年代は読売アンデパンダン末期にフリーキーな前衛美術家が大挙して登場した時期でもあった。彼らはほどなく美術館やギャラリーを飛び出し、街頭ハプニングに進出した。加藤好弘率いるゼロ次元、ネオダダイズム・オルガナイザーズ、ネオダダの影響を受けたアンビート、どこにでも出没したダダカンこと糸井寛二、クロハタ、ハイレッド・センター、九州派、牧朗の薔薇卍結社、果ては極めて風俗色濃厚の交楽龍弾まで、「いまやアクションあるのみ」といった塩梅で、その肉体の反乱を謳歌していた。
 このうちイチモツ露出による猥褻物陳列罪で検挙・逮捕されたのは全裸”儀式”に一定のこだわりを持ったゼロ次元の加藤好弘、秋山祐徳太子、小山哲男、ダダカン、告陰の末永蒼生らだ(*1969年7月。前回も触れた「万博破壊共闘派」の一連の流れで。官憲は70年安保闘争の政治運動家とこのアクション集団の関連を探ってのことだった)。
 こうした肉体派でも極北までいったのが、中央のハプナーに対して批判的だった福岡の集団蜘蛛(*まつろわぬ古代の先住民「土蜘蛛」にちなんで命名された。九州からの土俗的一揆の意を込めたのか)の森山安英だろう。彼らは70年2月、天神交差点においてセックスした。(*と当時噂されたが、短時間の交差点で果たして性行為が成立するものだろうか? やはり事実は、森山は勃起せずにシックスナインの態勢を取っただけだったという。ゼロ次元も半ば非公開のイベントではブロウジョブ程度は行っていたが)。森山は7月、教員不当解雇の抗議デモに向かって高校屋上でイチモツを露出、11月には男性器が書かれた旗を掲げて福岡・柳川を練り歩き、とうとう逮捕されている。(*こうした形での逮捕というのはよくあるが、それなら毎年リアルな木製巨大陽根を掲げて練り歩く川崎・金山神社で行われる「かなまら祭り」はいいのか、という疑問が湧く。神事ならオーケーだが、芸術表現行為はダメというのも解せない。といっても当時、森山安英自身は芸術を否定していたというのだが、宮川淳を持ち出すまでもなく、芸術が否認をループしながら拡張する自明性からして表現行為には違いはないだろう。こうした検挙はたぶんに見せしめ的要素がおおきいのだ)。

蜘蛛平田実「集団蜘蛛」
福岡・天神交差点
1970年2月26日撮影。


 もうひとりの極北がビタミンアートの小山哲男(のちに小山哲生と改名)だろう。小山はテレビ出演を重視した点で、ともにジャックの会時代、「デーティングショウ」(1966~67)を行ったちだ・ういと並びメディア露出を考慮していた。野菜を食べビタミンを摂取するといった行為を標榜したビタミンアートだが、ゼロ次元とも何度もコラボレーションしている。ゼロ次元とは加藤好弘がプロデュース兼ディレクションしたプロジェクト集団ともいえ、メンバーはイベントのたびに流動している。小山のハイライトは68年3月の上野・本牧亭「狂気見本市」だ。とうとう林檎の上に排泄した汚物をこすりつけ、それを客席に放つという究極の汚物ハプニングを実行して出入り禁止、損害賠償の大騒動に発展している。
 小山は2回同様のハプニングを行っているが、2度目は同年、横浜のキャバレー「オリンピック」で「明治100年よこはま港まつり」の行事の一環として行われた。もともとマネキン職人であった小山が股間にマネキンをつるし脱糞した。この後予定されていた同公演は当然ながらすべて中止に追い込まれた。

小山哲男「桂小金治アフタヌーンショー」(NETテレビ1966年6月17日)でキャベツを食べるビタミンアートの小山哲男。


ジャックの会2第一回「デーティング・ショー」小山哲男 ちだ・うい
新宿コマ劇場前
1966年11月23日
撮影者:不明
黒ダライ児「肉体のアナーキズム」(グラムブックス)p233より複写。


小山哲男2「狂気見本市」(上野・本牧亭)における小山哲男
1968年3月13日
撮影:北出幸男
黒ダライ児「肉体のアナーキズム」(グラムブックス)p245より複写。


 実は筆者は2008~2009年にはアートラボ・トーキョーの前身の銀座芸術研究所(ギンザ・アートラボ)を運営していて、加藤好弘の秘蔵っ子でゼロ次元女性軍団のひとり浅川はるかの個展を企画し、初台のライブハウス「DOORS」にて八回に渡る連続パフォーマンス・ショー「初台現代音楽祭」を敢行した。母乳飛ばしパフォーマンス増山麗奈はじめ複数の芸術家が参加した。増山麗奈は、府中ビエンナーレ(府中市美術館)、2004年12月26日のオープニング、拷問ショーと称しバイブを股間に挿入しながらの演説パフォーマンスを行い中止させられている。また、2007年、ギンザ・アートラボにて自衛隊のブラックリスト掲載反対の9条朗読オナニーハプニングも敢行した(「ネオ春画展」中)。これらは増山麗奈のアート行為であった。反戦アートデモ集団「桃色ゲリラ」は現在も周期的に継続、「サダコの鶴」(増山麗奈監督)自主制作反核映画を全国巡回上映中だ。
 ほかには、かつて原正孝といっていたのが改名して広末涼子で撮った「20世紀ノスタルジア」の監督・原將人のライブ映像ショー、旧知のノイズ・アーティスト灰野敬二、シーナ&ロケッツの娘たちのバンドで解散してしまったがダークサイド・ミラーズ、美大時代からの友人・宇治晶、ほかに菅間圭子、渡辺篤、桜井貴、佐々木裕司、神楽坂恵、アーバンギャルド、ロスジェネの文芸評論家・大澤信亮らを交えて展開したものだが、そのうちの一回がゼロ次元とのコラボレーションであった。その内容はここでは詳しく述べないが、銀座の展覧会の打ち上げに現れたのが小山哲男だった。 
 あまりにおとなしいので、私はこれがあのビタミンアートの、と反対に驚いたものだ。
酒がはいって散々まわったあとの散会ぎりぎりになってぼそっと、「僕はゼロ次元より過激だった。舞台でうんこしちゃったんだよね」と語り始めた。
 私は「ああ、小山哲男さんでしたか」とはじめて気がついたほどだ。

初台DOORSでのゼロ次元初台「DOORS」でのゼロ次元ショー。
2009年1月30日(金)。
手前はゲスト・首くくり栲象の首つりパフォーマンス。
撮影:筆者


asakawa2009週刊新潮4月23日号平田実浅川はるか銀座芸術研究所個展。
「週刊新潮」(新潮社刊)2009年4月23日号グラビア頁
撮影:平田実


2008年1月24日内外タイムス神楽坂恵VS増山麗奈2008年1月24日
「内外タイムス」神楽坂恵VS増山麗奈。


 その小山哲男は、晩年(2010年逝去)にかけて絵画に惑溺し、「天国のマリリン」シリーズを手がけていた。マリリン・モンローが降臨して描いてくれというのだとか。天国のマリリンとのシャーマン的交信がテーマだ。小山哲男はこのように晩年神秘主義に接近していったが、やはり濃厚な死のイメージが一面に漂っている。追悼展「天国の青い蝶」を2010年11月29日~12月4日、銀座・ヴァニラ画廊で開催した。

天国のマリリンシリーズ1小山哲生「天国のマリリンシリーズ」
2008~2010頃
キャンバスに油彩
33.3×24.2cm


天国のマリリンシリーズ2小山哲生「天国のマリリンシリーズ」
2008~2010頃
キャンバスに油彩
33.3×24.2cm


 ちだ・ういだが、高校生で前衛芸術界周辺に登場し、テレビ時代到来とともに「有名になりたい」とテレビ出演した。伝説となったのは「三島由紀夫暗殺計画」(*1964年9月、これは本人の弁によれば高校2年生の時であったというのだが、その時はいまだ公的には美術界デビューは果たしておらず、前芸術直接行動だったことになるが、諸説ある)なるイベント(?)であった。現在ではほとんど記録がないため諸説あることを断ったうえで、筆者がかつて直接ちだから聞いたことも加味して記憶から再現することにする。ちだ・ういが「三島さんを愛しています。付き合って欲しい」とラブコール(手紙を投函)を送ったのだが、返事がないというので激昂。あの東南アジア・コロニアル風、ギリシアで買い付けたアポロン像が庭にそそり立つ、有名な三島邸玄関前にて氏を待ち伏せ、暗殺するというのであった。出刃包丁を忍ばせ張り込んでいたが、ようやく現れた三島に対し、ちだは何もしなかった。
 いわく、「三島さんて憧れたけど、実際に現れた三島さんて普通のおじさんでしょ。やる気をなくしました」というのであった。ちだ一流のジョークだったと思われるが。が、詳細は現在オーストラリアにいるというちだ当人に再度確認してみての話だろうか。
 三島に関しては1966年6月、三島マニアの24歳青年が三島邸寝室に不法侵入し現行犯逮捕されるなど、ドタバタ劇めいた事件があったが、有名税では済まされない紙一重の生活を強いられていたのが理解できる。
 ちだ・ういが三島由紀夫に迫ったのは前出の一件だけではない。1965年か66年までにちだは数回テレビ出演しており、ある番組で三島由紀夫の例の筋肉写真をかざして、それにビール瓶を突き立て、「私は三島由紀夫を今、強姦した」と叫んだ一幕(ハプニング?)もあった。基本的にマッチョ、男性性を攻撃していたのである。
 ちだが最初にマスコミに登場し、芸術に類する直接表現を開始したのは1965年16歳の時で、「イメージ・メーカー」なる宣言を行い、「あなたのイメージを変えて差し上げます。それは人生もかえることになるでしょう。有名にもして差し上げます」なるプロジェクトを始めた。
 また、岸本清子「地獄の使者」にあやかったか、1971年にニューヨークから一時帰国時には「アメリカの苦悩を一身にあつめた、ちだ・うい」なるキャッチコピーまでつけていた。
 60年代の有名な論争に「ポップアート論争(もしくは反芸術論争)」というのがあって、東野芳明、宮川淳、高階秀爾までを巻き込み展開したが、そのなかで宮川が放った言葉が「芸術が成立しないことの不可能性」ということと「(芸術の)日常性への下降」ということだった。その意味においてちだ・ういほど「芸術の日常性への下降」を実践し得たアーティストはいなかっただろう。彼女は日常性そのもののなかで行為していた。展覧会に行ったら、ちだが自分のブロマイドを売っていた、というのもあった。この時期の彼女のテーゼ、「積極的日和見主義」というのも、日常性方向に表現の舵取りをするもので、世俗を問題とするポップアートに関連していたと思われる。
 小山哲男とともに行った「デーティング」にしても、長野・野沢出身でローカルな土着性をコンテンポラリー化していた小山の概念とは少し異なる気がするので、都会育ちのちだの考えにおおいに寄っていたのではないか。小山が白塗りしてマネキンの首をつり下げて座り、ちだが何やら食べさせるといったように行為もあるにはあるのだが、基本コンセプトはマスコミを呼びつけて東京の街でちょっと奇をてらったデートをするといった極めて日常的なアイデアの延長線上にあるアート行為だったといえよう。
 そのため、当時ちだはアーティストとすら思われておらず、売名に躍起になっているだいぶ変わった小娘、程度の認識しかされなかった。あるいは篠原有司男ファンで、たびたびデートしていたといわれるが、実はステンレス抽象彫刻の小田襄に師事していた時期もある。
 しかし、あのアンディ・ウォーホルが嫉妬したといわれる(*「僕はレヴィーンになりたい」)レス・レヴィーンが日常性に下り、ギャラリー個展にいったら何にもなくて臭気を発生させる装置しか展示していなかったという作品もあった(臭気彫刻)。あるときはギャラリーにモニターしかなかった(*この種の発表のもっとも早い時期の展示だろう)。鑑賞者を撮影した3つの隠しカメラ、6つのモニターによる概念としての日常性とメディア環境の投影である伝説のビデオ彫刻「Iris」の展示が1968年だったことを考えれば、この期のちだは、感覚的に当時の芸術界の思想に完全同調していたと思われる(私はレヴィーンのことは深く掘り下げなくてはならない問題かと思っている)。日本ではあまりに早すぎたのである。
 また、「モノセックス」を主張して女友達とのレズビアン写真を週刊誌に公表していたりした。アートにおけるジェンダー(性差)の認識においてもまた先行していたのだ。

ちだうい3ちだ・うい「私はレズビアン」
1969年2月5日号「平凡パンチDELUXE」(平凡出版刊) p185


1980年代のちだうい1980年代のちだ・うい
筆者蔵


 私がちだと再会して長時間話し込むようになったのは1983年、彼女がブライアン・イーノのバンドのプログレッシヴなキーボーディスト、フランシス・モンクマンと離婚してロンドンから帰国し、「前奏曲(プレリュード)」で群像新人賞を受賞し、有為エィンジェルと名前を変えていた直後だった。
 ゴールデン街の旧知のママに私を会わせたいといってその店で飲んだことがあった。ちだは、相変わらずかなり短いミニスカートをはいていた。「私のこの脚に芸術家の男たちが群がったのよ」なんて脚線美を自慢したあと、
「ねえ? 横尾忠則がなんで成功したか知ってる?」
 分かろうわけもない。
「クリエーターとしては、かっこよかったからよ」
 私は「ああ、ちだ・うい、だ」と思った。(敬称略)
もりした たいすけ

森下泰輔「戦後・現代美術事件簿」
第1回/犯罪者同盟からはじまった
第2回/模型千円札事件
第3回/泡沫芸術家の選挙戦
第4回/小山哲男、ちだ・ういの暴走
第5回/草間彌生・築地署連行事件
第6回/記憶の中の天皇制
第7回/ヘアヌード解禁前夜「Yellows」と「サンタ・フェ」
第8回/アンディ・ウォーホル来日と“謎の女”安斎慶子
第9回/性におおらかだったはずの国のろくでなし子
第10回/黒川紀章・アスベストまみれの世界遺産“候補”建築

■森下泰輔(Taisuke MORISHITA 現代美術家・美術評論家)
新聞記者時代に「アンディ・ウォーホル展 1983~1984」カタログに寄稿。1993年、草間彌生に招かれて以来、ほぼ連続してヴェネチア・ビエンナーレを分析、新聞・雑誌に批評を提供している。「カルトQ」(フジテレビ、ポップアートの回優勝1992)。ギャラリー・ステーション美術評論公募最優秀賞(「リチャード・エステスと写真以降」2001)。現代美術家としては、 多彩なメディアを使って表現。'80年代には国際ビデオアート展「インフェルメンタル」に選抜され、作品はドイツのメディア・アート美術館ZKMに収蔵。'90年代以降ハイパー資本主義、グローバリゼーション等をテーマにバーコードを用いた作品を多く制作。2010年、平城遷都1300年祭公式招待展示「時空 Between time and space」(平城宮跡)参加。個展は、2011年「濃霧 The dense fog」Art Lab AKIBAなど。Art Lab Group 運営委員。2014年、伊藤忠青山アートスクエアの森美術館連動企画「アンディ・ウォーホル・インスパイア展」でウォーホルに関するトークを行った。

●今日のお勧め作品は、森下慶三です。
20151118_morishita_souzou_0918_3森下慶三
〈想像の風景〉より
水彩
Image size: 20.1x29.5cm
Sheet size: 35.0x44.0cm
サインあり


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