飯沢耕太郎「日本の写真家たち」第8回
中山岩太(Iwata NAKAYAMA 1895~1949)
飯沢耕太郎(写真評論家)
日本の写真家たちの中で、中山岩太ほど華麗な経歴の持ち主はほかにいないかもしれない。1895年に福岡県の柳川に生まれ、1918年に東京美術学校に新設された臨時写真科の最初の卒業生となる。同年にアメリカに渡り、カリフォルニア大学で学んだ後、ニューヨークに移って、21年に肖像写真スタジオを開業した。26年⒋月にはパリに移り、ファッション誌の仕事をしたり、マン・レイや未来派の画家のエンリコ・プランポリーニと交友したりするなど、写真家としての経験を深めた。
1927年11月に帰国。兵庫県芦屋にスタジオ兼住居を構え、30年にはハナヤ勘兵衛、紅谷(べにたに)吉之助らと芦屋カメラクラブを結成した。同年、朝日新聞社が主催する第一回国際広告写真展に「福助足袋」を出品して一等賞を受賞、32年には野島康三、木村伊兵衛と写真雑誌『光画』を創刊して、毎号作品を発表するなど、華々しい活動を展開する。中山を中心とした芦屋カメラクラブの写真家たちの作品は、同時期の日本における「新興写真」(写真のモダニズム)の運動をリードする役目を果たした。
自ら「純芸術写真」と称した中山の作風は、フォトグラムやフォトモンタージュを駆使して、幻想の美の世界を構築するもので、どちらかといえば現実志向が強かった当時の日本の写真界ではかなり異色のものだった。「私は美しいものが好きだ。運悪るく、美しいものに出逢はなかつた時には、デツチあげても、美しいものに作りあげたい」(『カメラクラブ』1938年1月号)とまで言い切っている。このような強烈な耽美主義の主張に対しては、批判の声もあったし、軍国主義に傾斜していく時代の状況の中では孤立することも多かった。それでも彼は昂然と胸を張って「自己陶酔の境地」を求め続けていった。
1930年代後半から40年代にかけて、中山のモンタージュ作品はより象徴性を深め、自在なものになっていく。同時に女性ポートレートの傑作「上海から来た女」(1936年)や、一連のヌード作品のように、エロティシズムの極みというべき作品が次々に制作された。1945年、長く続いた戦争がようやく終わり、写真家たちはふたたび自由な創作活動をおこなうことができるようになる。中山にとっても、新たな一歩を踏み出す契機となるはずだったが、残念なことに戦時中に蝕まれていた体力がそれを許さなかった。1949年に脳溢血で倒れて死去。まだ53歳という働き盛りだった。
1980年代以降、関西「新興写真」の再評価が進む中で、中山の仕事にもふたたび注目が集まるようになる。芦屋市立美術館、渋谷区立松濤美術館、東京都写真美術館などで開催された回顧展で、その全体像がようやくくっきりと浮かび上がってきた。彼の作品をインターナショナルな視点で見直していくことが、これから先の課題となるだろう。
(いいざわ こうたろう)
中山岩太
「無題(パイプとグラスと舞)」
1932年(Printed later)
ゼラチンシルバープリント
23.0x29.0cm
中山岩太
「作品名不詳(マスク)」
1933年(Printed later)
ゼラチンシルバープリント
23.0x21.0cm
中山岩太
「上海から来た女」
1936年頃
ゼラチンシルバープリント
28.0x21.0cm
■中山岩太
写真家。1895年福岡県に生まれる。1915年東京美術学校(現・東京藝術大学)に新設された臨時写真科に入学。卒業後渡米し、1921年ニューヨークでラカン・スタジオを設立。1926年パリへ渡り藤田嗣治や海老原喜之助、マン・レイらと交流をもつ。帰国後は兵庫県芦屋を拠点とし、1930年にハナヤ勘兵衛、紅谷吉之助、高麗清治らとともに 1芦屋カメラクラブを設立。新興写真のジャンルで活躍し注目を集める。
暗室作業で多重に構成したイメージを一枚のプリントに紡ぎだすといった構成写真に取り組んだほか、コマーシャル写真や観光写真、スタジオ写真の分野でも先鋭的な表現を多く残した。1949年、歿。
◆飯沢耕太郎のエッセイ「日本の写真家たち」は英文版とともに随時更新します。
◆冬季休廊のお知らせ
2015年12月27日(日)―2016年1月4日(月)はギャラリーをお休みします。
新年の営業は1月5日(火)からです。
◆ときの忘れものは2016年1月6日[水]―1月16日[土]「中藤毅彦写真展 Berlin 1999+2014」を開催します(*会期中無休)。
写真家・中藤毅彦は、世界各地の都市を訪れ、それぞれの都市の違いに興味を惹かれ、一貫してストリートスナップを撮り続けています。
2001年に初めて東欧の旧社会主義国を訪れてからは、さらに都市の持つ歴史的意味合いにも思いを馳せるようになりました。2014年に出版した『STREET RAMBLER』(ギャラリー・ニエプス刊)には、キューバの首都ハバナに始まり、ニューヨーク、モスクワ、上海、パリ、ベルリン、東京の20世紀に劇的な変化を遂げた各都市の姿が収録されており、本写真集で2015年の第24回林忠彦賞を受賞しました。
本展では1999年と2014年の15年の年月を隔てたベルリンの都市や人々を撮影した写真作品を約25点出品します。
●イベントのご案内
1月9日(土)18時より中藤毅彦さんと金子隆一さん(写真史家)によるギャラリートークを開催します(要予約/参加費1,000円)。
※必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記の上、メールにてお申込ください。
E-mail. info@tokinowasuremono.com
中山岩太(Iwata NAKAYAMA 1895~1949)
飯沢耕太郎(写真評論家)
日本の写真家たちの中で、中山岩太ほど華麗な経歴の持ち主はほかにいないかもしれない。1895年に福岡県の柳川に生まれ、1918年に東京美術学校に新設された臨時写真科の最初の卒業生となる。同年にアメリカに渡り、カリフォルニア大学で学んだ後、ニューヨークに移って、21年に肖像写真スタジオを開業した。26年⒋月にはパリに移り、ファッション誌の仕事をしたり、マン・レイや未来派の画家のエンリコ・プランポリーニと交友したりするなど、写真家としての経験を深めた。
1927年11月に帰国。兵庫県芦屋にスタジオ兼住居を構え、30年にはハナヤ勘兵衛、紅谷(べにたに)吉之助らと芦屋カメラクラブを結成した。同年、朝日新聞社が主催する第一回国際広告写真展に「福助足袋」を出品して一等賞を受賞、32年には野島康三、木村伊兵衛と写真雑誌『光画』を創刊して、毎号作品を発表するなど、華々しい活動を展開する。中山を中心とした芦屋カメラクラブの写真家たちの作品は、同時期の日本における「新興写真」(写真のモダニズム)の運動をリードする役目を果たした。
自ら「純芸術写真」と称した中山の作風は、フォトグラムやフォトモンタージュを駆使して、幻想の美の世界を構築するもので、どちらかといえば現実志向が強かった当時の日本の写真界ではかなり異色のものだった。「私は美しいものが好きだ。運悪るく、美しいものに出逢はなかつた時には、デツチあげても、美しいものに作りあげたい」(『カメラクラブ』1938年1月号)とまで言い切っている。このような強烈な耽美主義の主張に対しては、批判の声もあったし、軍国主義に傾斜していく時代の状況の中では孤立することも多かった。それでも彼は昂然と胸を張って「自己陶酔の境地」を求め続けていった。
1930年代後半から40年代にかけて、中山のモンタージュ作品はより象徴性を深め、自在なものになっていく。同時に女性ポートレートの傑作「上海から来た女」(1936年)や、一連のヌード作品のように、エロティシズムの極みというべき作品が次々に制作された。1945年、長く続いた戦争がようやく終わり、写真家たちはふたたび自由な創作活動をおこなうことができるようになる。中山にとっても、新たな一歩を踏み出す契機となるはずだったが、残念なことに戦時中に蝕まれていた体力がそれを許さなかった。1949年に脳溢血で倒れて死去。まだ53歳という働き盛りだった。
1980年代以降、関西「新興写真」の再評価が進む中で、中山の仕事にもふたたび注目が集まるようになる。芦屋市立美術館、渋谷区立松濤美術館、東京都写真美術館などで開催された回顧展で、その全体像がようやくくっきりと浮かび上がってきた。彼の作品をインターナショナルな視点で見直していくことが、これから先の課題となるだろう。
(いいざわ こうたろう)

「無題(パイプとグラスと舞)」
1932年(Printed later)
ゼラチンシルバープリント
23.0x29.0cm

「作品名不詳(マスク)」
1933年(Printed later)
ゼラチンシルバープリント
23.0x21.0cm

「上海から来た女」
1936年頃
ゼラチンシルバープリント
28.0x21.0cm
■中山岩太
写真家。1895年福岡県に生まれる。1915年東京美術学校(現・東京藝術大学)に新設された臨時写真科に入学。卒業後渡米し、1921年ニューヨークでラカン・スタジオを設立。1926年パリへ渡り藤田嗣治や海老原喜之助、マン・レイらと交流をもつ。帰国後は兵庫県芦屋を拠点とし、1930年にハナヤ勘兵衛、紅谷吉之助、高麗清治らとともに 1芦屋カメラクラブを設立。新興写真のジャンルで活躍し注目を集める。
暗室作業で多重に構成したイメージを一枚のプリントに紡ぎだすといった構成写真に取り組んだほか、コマーシャル写真や観光写真、スタジオ写真の分野でも先鋭的な表現を多く残した。1949年、歿。
◆飯沢耕太郎のエッセイ「日本の写真家たち」は英文版とともに随時更新します。
◆冬季休廊のお知らせ
2015年12月27日(日)―2016年1月4日(月)はギャラリーをお休みします。
新年の営業は1月5日(火)からです。
◆ときの忘れものは2016年1月6日[水]―1月16日[土]「中藤毅彦写真展 Berlin 1999+2014」を開催します(*会期中無休)。

2001年に初めて東欧の旧社会主義国を訪れてからは、さらに都市の持つ歴史的意味合いにも思いを馳せるようになりました。2014年に出版した『STREET RAMBLER』(ギャラリー・ニエプス刊)には、キューバの首都ハバナに始まり、ニューヨーク、モスクワ、上海、パリ、ベルリン、東京の20世紀に劇的な変化を遂げた各都市の姿が収録されており、本写真集で2015年の第24回林忠彦賞を受賞しました。
本展では1999年と2014年の15年の年月を隔てたベルリンの都市や人々を撮影した写真作品を約25点出品します。
●イベントのご案内
1月9日(土)18時より中藤毅彦さんと金子隆一さん(写真史家)によるギャラリートークを開催します(要予約/参加費1,000円)。
※必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記の上、メールにてお申込ください。
E-mail. info@tokinowasuremono.com
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