「瀧口修造とマルセル・デュシャン」第18回
Shuzo TAKIGUCHI and Marcel Duchamp Vol.18
土渕信彦
1.「ローズ・セラヴィ ’58‐‘68」(第3回)
雑誌「遊」第5号に掲載された「ローズ・セラヴィ’58‐’68」には、瀧口による手作り本《Etante donné Rrose Sélavy 1958-1968 or Growth and Making of To and From Rrose Sélavy》がある(図18-1,2)。記事の校正刷を切り抜いて台紙に貼り込み、タトウ(赤布貼り厚紙製)の間に挟んだもので、表紙には2枚のラベルが貼り込まれている。1枚は手書きによるタイトルのラベル、もう1枚のラベルには「東京ローズ・セラヴィ」の緑色のスタンプが押されている。タイトルの方のラベルの末尾に「Shuzo Takiguchi 1972」と記載されているので、この手作り本が制作されたのは、「遊」第5号(1973年1月刊)の校正作業が完了した頃(72年内)だったと思われる。
図18-1
《Etante donné Rrose Sélavy 1958-1968 or Growth and Making of To and From Rrose Sélavy》
1972(慶應義塾大学アート・センター蔵。千葉市美術館「瀧口修造とマルセル・デュシャン」展カタログより転載)
図18-2
(図18-1と同じ)
雑誌「遊」の記事は紫色の紙に印刷されているが、手作り本に貼り込まれた校正刷は白い用紙に印刷されており、印刷自体も出来上った記事本体よりはるかに鮮明である。全体のレイアウトは「遊」の記事に沿っているようだが、図33~35の掲載頁についてはレイアウトが変更されている。つまり雑誌「遊」では図34および35(ティンゲリーからの手紙。同年3月11日付け)の下部に図33(デュシャンからの最後の手紙。1968年3月21日付け)が掲載されているが(図18-3)、手作り本では逆に、図33が上部に貼られ、その下部に図34・35が貼られている。どうしてこの部分だけレイアウトが変更されたのか、理由はよく解らない。
図18-3
「遊」第5号(図33~35の頁)
2.米国旅行
「ローズ・セラヴィ’58‐’68」が発表された1973年の秋、瀧口修造はフィラデルフィア美術館・ニューヨーク近代美術館の「マルセル・デュシャン大回顧展」の開会式に招待され、2週間ほど渡米した。この小旅行については、「自筆年譜」1973年の項に、次のように述べられている。なお、この個所は「本の手帖」特集「瀧口修造」(1969年8月)に続いて組まれた、「現代詩手帖」臨時増刊「瀧口修造」(1974年10月。図18-4)に掲載されたものである。
「前年からフィラデルフィア美術館とニューヨーク近代美術館の連名でマルセル・デュシャンの大回顧展の連絡があり、そのカタログに求められて寄稿したが、この年9月19日フィラデルフィアでの開会式の晩さん会に招かれる。即刻欠礼の電報を打ったあと、ふとこの展覧会を訪れるためだけに渡米することを思いつく。動機があまりにも突飛で偶然であったため、他意なく誰にも話さず片道切符で準備をすすめる。結局、2週間余りの小旅行はロックフェラー財団の招きとなる(5年前に同財団から6ヶ月滞在の正式招待をうけながら病気などの理由で実行していなかった)。また偶然の符合で東野芳明とGQ誌の森口陽の一行と同道。デュシャン夫人とは実に15年ぶりの再会。その他、多くのなつかしい再会また初会。思えばめまぐるしくも、のどかな秋の日ざしに恵まれた、世にもふしぎなおとぎばなしのような小旅行。どこかに鋭利な目が光っていたが …この旅についてはここ以外に公には何も書いていない。私にはまだ当分この旅はつづいているらしいので。他意なし。ただわれながらよくぞ小康を保った。」
図18-4
「現代詩手帖」臨時増刊
「瀧口修造」
(1974年10月)
帰国後1年も経たぬ頃に書かれただけに、実に生々しい記述である。「私にはまだ当分この旅はつづいているらしい」とあるとおり、旅行の余韻が続いている、というよりも作用自体が今まさに進行中であることが、読者にも伝わってくる。末尾の「われながらよくぞ小康を保った」という個所も、実感がこもっている。というもの、引用で「病気などの理由で」と触れられているとおり、瀧口はこの渡米前の時期に2回も入院していたからである。すなわち、『マルセル・デュシャン語録』刊行直後の1969年2月に、脳血栓のため2週間ほど入院し、さらに翌年9月には、胃潰瘍(前癌症状の疑い)により胃の切除手術を受けて2ヶ月間も入院していた。
引用のなかで「偶然の符合で東野芳明とGQ誌の森口陽の一行と同道」とされているとおり、東野・森口両氏と同じ便に乗り合わせたのは、まったくの偶然だったようである。東野芳明も以下のように証言している。
「瀧口さんは、形式ばったオープニング・ディナーには出席しないという電報をうっていた。そして、誰にもつげずにひそかにフィラデルフィアへ行って、ディナーの間は美術館のまわりでもうろついていよう、というのが氏のもくろみだったらしい。それは氏のデュシャンへのオマージュの行為でもあったはずだが、ぼくもオープニングに行くことになって、偶然に羽田空港で出会ったあたりから雲行きが怪しくなったのである」(「デュシャン拾遺」、「GQ」誌第5号、1974年2月。図18-5)
「昨年(1973年)の9月16日、ぼくはニューヨーク行JAL6便に瀧口さんと乗りあわせた。デュシャンの歿後、最初の大回顧展がフィラデルフィア美術館で開かれることになり、2人ともオープニングのディナー・パーティに招待されたのが、偶然のきっかけとなったのだが、考えてみれば、瀧口さんにとってはあのヨーロッパ旅行以来、15年ぶりの2度目の海外旅行であり、その両方の旅に同行することになったのも不思議なご縁である」(「東京ローズ・セラヴィ」、「現代詩手帖」臨時増刊「瀧口修造」、1974年10月。東野芳明『マルセル・デュシャン』、美術出版社、1977年1月に再録。図18-6)。
図18-5
「GQ」第5号
(ジイキュウ出版社、1974年2月)
図18-6
東野芳明『マルセル・デュシャン』
(美術出版社、1977年1月)
しかしながら、その昔(1980年代中頃に)、筆者(土渕)が銀座コリドー街にあったバー「ガストロ」のマスター宮垣昭一郎氏(東野芳明の友人でもあった)から聞いたところでは、実際には東野・森口両氏が、瀧口の搭乗便に合わせて、意図的に同乗したらしい。初めてこの話を聞いたとき、瀧口・東野両氏の記述をそのまま受け取っていた筆者は吃驚して、「でも瀧口さんは確か『偶然の符合』とか何とか、書いていたではないですか?」と、思わず訊き直してしまった。
するとマスターは、言葉を選びながら、以下のように説明してくれた。「瀧口さんはそう思っていたのだろうけれど、実際にはわざわざ同じ便にしたのさ。『独りで行きますから』って言うものだから、綾子さんはもちろん、みんなが心配してねえ…。健康状態もあまり良くなかったし、もう70歳だったしね。何日のどの便で行くか、なかなか言わないので、聞き出すのが本当に大変だった…」
正直者の筆者としては、半ば感心し、半ば裏切られたようにも感じながら、「へえー、そうだったのですか…」と言って、押し黙るしかなかった。すると、不満そうにしている雰囲気が伝わったのか、脇に居た宮垣夫人から、「書いてあることを鵜呑みにしていたんじゃダメよ。規則や法律とは違うんだから!」と、バッサリ斬り捨てられてしまった。
なお瀧口の引用のなかで言及された「マルセル・デュシャンの大回顧展」カタログ、および瀧口の寄稿の個所を、以下にご紹介しておきたい(図18-7,8)。(続く)
図18-7
ニューヨーク近代美術館・フィラデルフィア美術館「マルセル・デュシャン大回顧展」カタログ、1973年
図18-8
瀧口修造のカタログ・テキスト
(つちぶちのぶひこ)
●今日のお勧め作品は、瀧口修造です。
瀧口修造
「III-6」
デカルコマニー、紙
Image size: 19.3x13.8cm
Sheet size: 19.3x13.8cm
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Shuzo TAKIGUCHI and Marcel Duchamp Vol.18
土渕信彦
1.「ローズ・セラヴィ ’58‐‘68」(第3回)
雑誌「遊」第5号に掲載された「ローズ・セラヴィ’58‐’68」には、瀧口による手作り本《Etante donné Rrose Sélavy 1958-1968 or Growth and Making of To and From Rrose Sélavy》がある(図18-1,2)。記事の校正刷を切り抜いて台紙に貼り込み、タトウ(赤布貼り厚紙製)の間に挟んだもので、表紙には2枚のラベルが貼り込まれている。1枚は手書きによるタイトルのラベル、もう1枚のラベルには「東京ローズ・セラヴィ」の緑色のスタンプが押されている。タイトルの方のラベルの末尾に「Shuzo Takiguchi 1972」と記載されているので、この手作り本が制作されたのは、「遊」第5号(1973年1月刊)の校正作業が完了した頃(72年内)だったと思われる。

《Etante donné Rrose Sélavy 1958-1968 or Growth and Making of To and From Rrose Sélavy》
1972(慶應義塾大学アート・センター蔵。千葉市美術館「瀧口修造とマルセル・デュシャン」展カタログより転載)

(図18-1と同じ)
雑誌「遊」の記事は紫色の紙に印刷されているが、手作り本に貼り込まれた校正刷は白い用紙に印刷されており、印刷自体も出来上った記事本体よりはるかに鮮明である。全体のレイアウトは「遊」の記事に沿っているようだが、図33~35の掲載頁についてはレイアウトが変更されている。つまり雑誌「遊」では図34および35(ティンゲリーからの手紙。同年3月11日付け)の下部に図33(デュシャンからの最後の手紙。1968年3月21日付け)が掲載されているが(図18-3)、手作り本では逆に、図33が上部に貼られ、その下部に図34・35が貼られている。どうしてこの部分だけレイアウトが変更されたのか、理由はよく解らない。

「遊」第5号(図33~35の頁)
2.米国旅行
「ローズ・セラヴィ’58‐’68」が発表された1973年の秋、瀧口修造はフィラデルフィア美術館・ニューヨーク近代美術館の「マルセル・デュシャン大回顧展」の開会式に招待され、2週間ほど渡米した。この小旅行については、「自筆年譜」1973年の項に、次のように述べられている。なお、この個所は「本の手帖」特集「瀧口修造」(1969年8月)に続いて組まれた、「現代詩手帖」臨時増刊「瀧口修造」(1974年10月。図18-4)に掲載されたものである。
「前年からフィラデルフィア美術館とニューヨーク近代美術館の連名でマルセル・デュシャンの大回顧展の連絡があり、そのカタログに求められて寄稿したが、この年9月19日フィラデルフィアでの開会式の晩さん会に招かれる。即刻欠礼の電報を打ったあと、ふとこの展覧会を訪れるためだけに渡米することを思いつく。動機があまりにも突飛で偶然であったため、他意なく誰にも話さず片道切符で準備をすすめる。結局、2週間余りの小旅行はロックフェラー財団の招きとなる(5年前に同財団から6ヶ月滞在の正式招待をうけながら病気などの理由で実行していなかった)。また偶然の符合で東野芳明とGQ誌の森口陽の一行と同道。デュシャン夫人とは実に15年ぶりの再会。その他、多くのなつかしい再会また初会。思えばめまぐるしくも、のどかな秋の日ざしに恵まれた、世にもふしぎなおとぎばなしのような小旅行。どこかに鋭利な目が光っていたが …この旅についてはここ以外に公には何も書いていない。私にはまだ当分この旅はつづいているらしいので。他意なし。ただわれながらよくぞ小康を保った。」

「現代詩手帖」臨時増刊
「瀧口修造」
(1974年10月)
帰国後1年も経たぬ頃に書かれただけに、実に生々しい記述である。「私にはまだ当分この旅はつづいているらしい」とあるとおり、旅行の余韻が続いている、というよりも作用自体が今まさに進行中であることが、読者にも伝わってくる。末尾の「われながらよくぞ小康を保った」という個所も、実感がこもっている。というもの、引用で「病気などの理由で」と触れられているとおり、瀧口はこの渡米前の時期に2回も入院していたからである。すなわち、『マルセル・デュシャン語録』刊行直後の1969年2月に、脳血栓のため2週間ほど入院し、さらに翌年9月には、胃潰瘍(前癌症状の疑い)により胃の切除手術を受けて2ヶ月間も入院していた。
引用のなかで「偶然の符合で東野芳明とGQ誌の森口陽の一行と同道」とされているとおり、東野・森口両氏と同じ便に乗り合わせたのは、まったくの偶然だったようである。東野芳明も以下のように証言している。
「瀧口さんは、形式ばったオープニング・ディナーには出席しないという電報をうっていた。そして、誰にもつげずにひそかにフィラデルフィアへ行って、ディナーの間は美術館のまわりでもうろついていよう、というのが氏のもくろみだったらしい。それは氏のデュシャンへのオマージュの行為でもあったはずだが、ぼくもオープニングに行くことになって、偶然に羽田空港で出会ったあたりから雲行きが怪しくなったのである」(「デュシャン拾遺」、「GQ」誌第5号、1974年2月。図18-5)
「昨年(1973年)の9月16日、ぼくはニューヨーク行JAL6便に瀧口さんと乗りあわせた。デュシャンの歿後、最初の大回顧展がフィラデルフィア美術館で開かれることになり、2人ともオープニングのディナー・パーティに招待されたのが、偶然のきっかけとなったのだが、考えてみれば、瀧口さんにとってはあのヨーロッパ旅行以来、15年ぶりの2度目の海外旅行であり、その両方の旅に同行することになったのも不思議なご縁である」(「東京ローズ・セラヴィ」、「現代詩手帖」臨時増刊「瀧口修造」、1974年10月。東野芳明『マルセル・デュシャン』、美術出版社、1977年1月に再録。図18-6)。

「GQ」第5号
(ジイキュウ出版社、1974年2月)

東野芳明『マルセル・デュシャン』
(美術出版社、1977年1月)
しかしながら、その昔(1980年代中頃に)、筆者(土渕)が銀座コリドー街にあったバー「ガストロ」のマスター宮垣昭一郎氏(東野芳明の友人でもあった)から聞いたところでは、実際には東野・森口両氏が、瀧口の搭乗便に合わせて、意図的に同乗したらしい。初めてこの話を聞いたとき、瀧口・東野両氏の記述をそのまま受け取っていた筆者は吃驚して、「でも瀧口さんは確か『偶然の符合』とか何とか、書いていたではないですか?」と、思わず訊き直してしまった。
するとマスターは、言葉を選びながら、以下のように説明してくれた。「瀧口さんはそう思っていたのだろうけれど、実際にはわざわざ同じ便にしたのさ。『独りで行きますから』って言うものだから、綾子さんはもちろん、みんなが心配してねえ…。健康状態もあまり良くなかったし、もう70歳だったしね。何日のどの便で行くか、なかなか言わないので、聞き出すのが本当に大変だった…」
正直者の筆者としては、半ば感心し、半ば裏切られたようにも感じながら、「へえー、そうだったのですか…」と言って、押し黙るしかなかった。すると、不満そうにしている雰囲気が伝わったのか、脇に居た宮垣夫人から、「書いてあることを鵜呑みにしていたんじゃダメよ。規則や法律とは違うんだから!」と、バッサリ斬り捨てられてしまった。
なお瀧口の引用のなかで言及された「マルセル・デュシャンの大回顧展」カタログ、および瀧口の寄稿の個所を、以下にご紹介しておきたい(図18-7,8)。(続く)

ニューヨーク近代美術館・フィラデルフィア美術館「マルセル・デュシャン大回顧展」カタログ、1973年

瀧口修造のカタログ・テキスト
(つちぶちのぶひこ)
●今日のお勧め作品は、瀧口修造です。

「III-6」
デカルコマニー、紙
Image size: 19.3x13.8cm
Sheet size: 19.3x13.8cm
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