訃報です。
ツァイト・フォトの石原悦郎さんが2月27日、亡くなられました。
メーカーなどが運営する見せるだけの従来の写真ギャラリーではなく、写真を美術作品として売買する写真ギャラリーの文字通り先駆けでした。

ときの忘れものの二階事務所スペースの壁面にヴォルス(Wols)の写真がずっと掛けてあります。いつだったか石原さんにもらった作品です。
亭主が美術業界に入った1974年、四歳上の石原さんは自由ヶ丘画廊に勤めていました。当時の自由ヶ丘画廊の看板は駒井哲郎先生でしたが、オープニングなどでぐでんぐでんに酔っ払った駒井先生を車に乗せてご自宅にお送りするのが石原さんの役目でした。
オーナーの実川さんがいろいろな意味でたいへんな人だったのですが、ここに数年勤めた後、ヨーロッパに学び、1978年5月に「アジェ展」で写真専門のツァイト・フォト・サロンをオープンしました。
いきなり写真専門のギャラリーを開くというので、「石原さん、なぜ写真のギャラリーなんですか」と聞いたら、
「ワタヌキ君、銀座に画廊は400軒あるんだ。ボクが普通の画廊を開いたら401番目からのスタートだよ。誰もやっていない写真のギャラリーを開けば、ボクはその日からナンバーワンだからね。」、いかにも石原さんらしい答えでした。
あれから38年、見事に初志を貫いて「写真」を美術作品に押し上げ、日本の写真界に一時代を築いた功績は永く記憶されるでしょう。
オープンの年(1978年)に私たちが石原さんにインタビューした記事を、追悼の心をこめて再録します。
-------------
「オリジナルプリントの魅力
-石原悦郎氏に聞くー」
アジェとオリジナルプリント
――石原さんは日本で初めての本格的な写真専門のギャラリー(ツァイト・フォト・サロン)を今年5月に開かれましたが、今日は、オリジナルプリントについての基本的なことや作家について、それと、オリジナルプリントはその形式、機構に版画と共通の部分を多くもっていると思うのですが、例えば、プリンターのことやサインの問題、市場、コレクターなどについても伺いたいと思います。
では、まず初めに、写真専門ギャラリーであるツァイト・フォト・サロンを始められたきっかけについて。
石原 東京だけでも今約二千軒近くの画廊があるといわれています。まあ店を出していない所や、ブローカーなども含まれるわけですけど、五~六軒の例外を別とすればその殆んどが、特に個性的であるとはいえないようですね。そして僕の力でもそれ以上のものはなかなかできないと思っています。それならば余り人のやっていないものでと考えて、それがフォトグラフだったわけです。
――私達が日常目にしている写真は、殆んどがグラビア雑誌などの印刷されたものですが、そういった写真と、石原さんの扱っているオリジナル写真との差異はどういったことなんでしょうか。その辺がオリジナル写真の意義になると思うのですが……。
石原 僕は余りオリジナルプリントということを強調したくないんです。と云うのは、僕らはあくまでディーラーだから、ディーラーが扱う以上オリジナル云々というよりも、作品としてそれがステキかどうかが大切な訳です。だから僕は、ブレッソンでもブラッサイでも多少時代がかったものを扱ってきたし、来年(’79年)からは、日本の作家のもやる訳ですけれども、とにかく作品の持つ完成度というものが何よりも大切だと思うんです。
それがよければ、何もオリジナルプリントという大上段の論議をしなくても、作家が自分の一貫した思想と哲学をもって完成させて、それを美術作品として提示する行為は、油絵でも彫刻でも版画でも全く何も変わらないと思うんです。たまたまそこに、写真機とか現像とか三次的四次的行為が介在しているだけでね。
――そうすると、そういった作家の完成度とか作家の意識というものが、写真ということで明らかに意識されるようになった最初の作家は誰だったんですか。
石原 僕は、最初はあくまでも物売りで、日本のクライアント(客)はネームバリューで物を買うということだから、とにかく写真のエンサイプログレアというか百科事典を調べ、索引やうしろの人名事典に一番載っている人から集めた訳です。それがやはりアジェであり、ブレッソンでありブラッサイ、マン・レイ、スティグリッツであったんです。
――ではその中で、石原さんにとって最初の作家は誰だったんですか。
石原 やはりそれは一番いろいろな所で名前の売れているアジェでしたね。今も言ったように、外国の文献を片っ端から見て、それから日本のいろいろな、たとえば木村伊兵衛だとかそういう人の言葉の中に出てくる作家は誰だろうといったら、フランスのアジェだったわけ、そしてユトリロとかその他エコル・ド・パリの作家、それから日本人だったら藤田嗣治、そういった人達が関係をもった人も全部アジェだったんです。
――アジェについて少し話していただきたいのですが…
石原 アジェというのは、今から52年前に亡くなったフランスの写真家で、彼は死ぬまで無名だったんです。彼は8×10のガラス乾板と暗いレンズで撮っていたんですが、彼は自分で芸術作品として撮っていたわけではなくて、あくまで当時の絵描き、ユトリロとかシュールレアリズムの人達に、それを下絵として売ってたんです。
――そうすると、今でいう写真屋さんですか。
石原 一般的な写真屋さんではありません。午前中の空気の澄んだうちに、写真機などの大荷物をかついで、パリなどの街中に出かけて行き、一つ一つ写真を撮っていた。でも彼は病魔におかされていて、クレープしか食べられなかったんですよ。その少ないエネルギーで写真を一枚一枚撮ってて二万枚ぐらい撮ったんです。ところがおもしろいのは、彼はそれらを趣味として撮っていたわけではなくて、あくまでそれを絵描きとか歴史美術館に入れようというので、とにかくモニュメンタルなものとか、特殊なあくまで彼の合目的的な行為として撮っていたから、非常に作品にアイデンティティーとか一貫したものがあるんです。娼婦を撮ったって非常に一貫したものがあるし、パリのモニュメントとか人物とか労働者を撮ったって、非常に一貫したアジェの目がある訳です。
――使命感みたいなものがあったんでしょうか。
石原 あったんでしょうね、強く。当時マン・レイなどもそれを買ったんですからね。当時は一枚千円から二千円位だったらしいけれど、アジェ自身が現像したものです。そういう意味で非常に絵と交差している次元があるわけですよ。アジェは悲劇的なもので、死ぬまで無名ですよね。死んでから、それだけ数を撮ったということと、それをマン・レイとかまわりの高名な芸術家が称賛したこと、日本では瀧口修造さんや藤田嗣治だとかが称賛したということで高名になった。とにかく、偶然もあるんですが、アジェは結局古典写真というか、今世紀最大のリアリズムの写真を残したということですね。
ただ、まだアジェの本質論という事になると問題は残っているんです。一応今まで、瀧口さんなり岡田隆彦さんなりいろいろな人が日本でも解明してきたし、フランスでも高名なプローフェッサーや美術学者がやってましたけれど、又今になって様々な問題が新しく提起しなおされているんです。非常に論争があるのですが、まあそれらはひとつの近代写真の原点と交差しているんですよね。これからもいろいろな問題が、写真というよりもむしろアートの問題として出てくると思います。
サイン・ナンバーについて
――写真と版画を比べた場合、多くの類似点 ―例えばプリンターの存在とかサイン・ナンバーの問題とか― があると思うんですが、まず作家とプリンターとの関係はどんなものなんですか。版画の場合、プリンターというのが公然と出てきて、版画の一つの分野になっているんですが、写真ではどうでしょう。
石原 それは写真の場合も全く同じです。例えば、ブレッソンのものをやっているディベロッパーといいますか現像技師のピエール・ガスマンという人は、現像技師として隠然たる勢力をもっていますしね。写真展会場へ行くと、ガスマンが焼いたということがでていますから。
――では、サインの問題は如何ですか。
石原 サインについても、全く版画でも写真でも同じですね。版画もレンブラントの時代にはそんな事しなかったでしょ。それと同じで、写真も昔のものには殆んどやっていませんでした。中にはやってあるものもありますが……。僕はディーラーですから、あくまでその作品を本人が焼いたということと、本人から直接扱ったということの証として、この画廊で収蔵したものはこの画廊独特のサインを求めるということがありますね。そういった時は、なるべく作品の表面に書いていただくんです。表面に書いても作品をこわさなければいいと思うので。
――ということは、まだ一つのルールとしては確立していないということですね。
石原 確立しつつあるということですね。中には限定番号を入れる人もいますしね。
――限定番号ということが出ましたが、限定部数は何部位が限度なんですか。
石原 限度というものも版画と同じで、何枚もやればそれは質が落ちますね。でも実際今まではそれ程需要がないということで、極めて少なかったんです。多いものでアボットの出したアジェが100部だったと思います。ブラッサイなどは、一般的には20部から30部ぐらいですね。
――ということは、今のところは限定部数にそんなに神経質になる必要はないわけですね。
石原 そう、そんなに神経質になる必要はないですね。まだまだこれからといったところですね。
――それともう一つ、プリントの場合、一つの原版から自由にサイズが変えられるわけですが、その問題は如何でしょう。
石原 一番写真で高いのはヴィンテージプリントといって、ブラッサイならばブラッサイが’35年ならば’35年に撮って自分の作品として当時に焼いたもの、それをヴィンテージプリントと言うんですが、それが一番高いんです。それからの距離によって値段が決まる訳ですが、それに近いものが高い訳です。
市場とコレクター
――次に市場、流通機構についてお聞きします。
オリジナルプリントの市場が出来はじめたのは、そんなに古いことではないと思うのですが。
石原 そうですね、アメリカが最初でしょう。まあ、ああいった国ですから、新しいものに飛びついて……。いろいろな理由があると思いますが、映像文化というものが進んでいて、ビジュアルな美術作品というものに対して非常に敏感な国ですから。写真をオリジナルプリントと呼んだのも、アメリカが最初ですしね。それがパリとかドイツに波及していった訳です。フランスではここ二~三年の間に、写真関係の画廊が七~八軒できましたし、ドイツでもベルリン、ハンブルグ、ケルン、デュッセルドルフなんかにありますね。それからウィーンにもありますよ。そういう所に最近急に増えてきました。
――では、美術全般の流通機構の中での写真の位置はどうなっているのですか。
石原 最近聞いた話では、ハウスマンという高名な写真家もある大きな財閥が管理しはじめたということですし、それからブラッサイなどもマルボローギャラリーと契約して、そういった大きな画廊から作品が流れますしね。ザブレフスキーなんて所も、フリートレンダのフォトやキャラハンとかブラッサイのフオトコラージュなどに手を出してますし、ですから相当大きな画廊が、写真というものを全く同じような形で流通機構にのせはじめているということです。それとアメリカのニューヨーク近代美術館では、写真のセクションに相当の予算と力を入れてますし、フランスのポンピドーセンターでも、写真作品の収蔵に対して力を入れてます。また、ドイツなどでも美術館サイドで収蔵をしていますからね。だから全く版画に近づいていくんではないでしょうかね、機構の面では。日本でもだんだんとそうなると思います。
――多くの美術館が写真のコレクションに力を入れてきているとのことですが、個人コレクターというのはやはりいるのですか。
石原 いるんですよ、日本でも表には出ませんけれど。従来は写真機材、例えばクルトベンツィとか又はトロッペンソホーなんていう有名な機械を集めている人が、二次的三次的なものとして、めずらしい例はブレッソンだとかブラッサイだとかスティグリッツ、マン・レイとかを集めるわけですね。ところが、最近ではそういう人もさることながら、今まで版画とか油絵を買っている人が、それと同じようなものとして写真を買うことがありますね。でそういう人達はやはり強烈ですからね。それと写真が買いよい値段であるということから、特に独・仏・米あたりでは相当大規模なコレクターがいます。スイスあたりにもいますね、日本にもいるようですし。
――市場、流通機構が整い、コレクターが増えてくれば、当然価格の面でも変化していくと思うんですが……。
石原 例えば銀板写真なんかは、僕が七~八年前にパリにいた時は一個五~六百円で買えたものが、ここへ来て一個いいものだと五万とか六万、時には色のついているようなものだと十万以上もするわけですね。アッという間に十倍以上にもなってしまったわけです。それには多少アンチック的な面も含まれていますけれど。それと同じで、アジェなんかでも三~四万から五~六万で買えると思っていたアボット版でも、米や英のオークションに出たものに僕が十万位で入れても一点もおちませんので、全く版画と同じように市場に出てきたというんでしょうね。ただあくまでも、いい作家であるという大前提がつきますけれどね。
――ということは、収集に関してもとても版画に近いわけですね。では実際にこれから写真を買うとしたならば、どういう作家どういう作品を、どんな事に注意して買ったらよいのでしょうか。
石原 どこに基準を持ってくるかということは、まさに油絵や彫刻、版画と同じでやはり作家の知名度でしょう。というのは、それが作品のよさと非常にくっついていると思うんです。知名度があるということは、作品の完成度が高いから知名度がでてきたわけですから。それとまた、それらの作品がいろいろな美術書とかにおもしろい形で紹介されているとか。またポートレートを買うなら、例えばヴァレリーならばヴァレリーが自分の青春時代の教科書だった、それで写真というものがどんな作品よりもヴァレリーをしのばせるというわけです、そのポートレートが……。そういうものを自分のそばに置いて自分の青春時代を回想するという、そういう人もいますね。そういった自分のモニュメンタルなものに対して、写真は適格にそれを再現してくれるから。しかもすぐれた人の撮ったものは、ヴァレリーならヴァレリーの持っているエッセンスみたいなものをとてもうまくとっている。それに対して非常に親しみを覚えられるという人もいるわけです。
――では最後に、これからこのツァイト・フォト・サロンでは、どういった作品、作家をやっていくのでしょうか。ひとつのものが市場なり拡がりをもつには、新しいものが生産されなければ古いものの価値もでてこないと思うのですが。
石原 今おっしゃった事が、まさに僕の今考えている一番大きな問題そのものなんです。墓堀り人足といわれてもいいんですが、死んだ作家なり今相当高名な作家はとにかく世界中を歩き回って、何か良いコネクションをみつけて捜してくる。或いは、スイスにコレクターがいればスイスへ行って、人の紹介でそのコレクターから手に入れてくる。そしてそういうものを私の個人的な絵のお客さんとかそういったところに入れて、商人として利益を上げさせていただく。その上げた利益で若い作家達の作品を、それはもう利益になるということを最初から考えないで、日本の若い作家を収蔵する。そして収蔵すると同時に展覧会をやって、とにかく外国の美術館やギャラリーの中にまとめて日本の作家のコーナーができるくらい、どんどん入れてしまう。時には贈与するかもしれない。とにかく利益とは関係なくやっていくわけです。この二本立てですね。そういう風にやっていきたいと思います。それがないと、確かに仕事として僕がやっていく意味がないと思いますから。大変骨の折れる難しい事ですが……。
’78年12月4日 ツァイト・フォト・サロンにて
■石原悦郎(いしはら・えつろう)
1941年 東京に生れる
1963年 立教大学法学部卒業
1965年~67年 渡仏、パリにて美術・仏語を学ぶ
1972年~74年 自由ヶ丘画廊勤務
1975年~76年 西独、ミュンヘンにてフォトグラフを学ぶ
1978年4月 ツァイト・フォト設立
*1979年1月1日 現代版画センター 発行『PRINT COMMUNICATION No.43』より再録
インタビューを担当したのは柳正彦さん
石原悦郎さん(左)と荒木経惟さん
1983年6月7日
渋谷パルコ「アンディ・ウォーホル展」オープニング
上掲のインタビュー記事を再読して、石原さんがちゃんと基礎を学び、しっかりとしたコンセプトで画廊を開いたことがいまさらながらよくわかります。
「商人として利益を上げさせていただく。その上げた利益で若い作家達の作品を、それはもう利益になるということを最初から考えないで、日本の若い作家を収蔵する。」
石原さんは宣言したとおりに若く無名な写真家たちを支援し続けた。なかなかできることではありません。
会えば「あの女はいいねえ」とか、だれそれの写真をまとめてん億円で売ったとか、人をけむにまくのが大好きな人でしたが、育ちの良さで大言壮語も大風呂敷も嫌味がなく、こちらまでが前向きにならなくちゃと思う人柄でした。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
*追記
飯沢耕太郎さんに追悼文「石原悦郎——写真をアートにした希代のギャラリスト」を執筆していただきました(3月9日ブログ)。
◆「アートブックラウンジ Vol.01“版画挿入本の世界”」
会期:2016年3月9日[水]~3月17日[木] ※日・月・祝日は休廊

今回より日・月・祝日は休廊しますので、実質7日間の会期です。
同時開催:文承根展
●ときの忘れもの・拾遺 ギャラリーコンサートのご案内
第1回「独奏チェロによるJ.S.バッハと現代の音楽~ガット(羊腸)弦の音色で~」
日時:2016年3月19日(土)18時~19時
出演:富田牧子(チェロ)、木田いずみ(歌)
プロデュース:大野幸
曲目:J.S.バッハ、クルターク・ジェルジュ、ジョン・ケージ、尾高惇忠
*要予約=料金:1,000円
予約:メールにてお申し込みください。
info@tokinowasuremono.com
●ときの忘れものは2016年3月より日曜、月曜、祝日は休廊します。
従来企画展開催中は無休で営業していましたが、今後は企画展を開催中でも、日曜、月曜、祝日は休廊します。
ツァイト・フォトの石原悦郎さんが2月27日、亡くなられました。
メーカーなどが運営する見せるだけの従来の写真ギャラリーではなく、写真を美術作品として売買する写真ギャラリーの文字通り先駆けでした。

ときの忘れものの二階事務所スペースの壁面にヴォルス(Wols)の写真がずっと掛けてあります。いつだったか石原さんにもらった作品です。
亭主が美術業界に入った1974年、四歳上の石原さんは自由ヶ丘画廊に勤めていました。当時の自由ヶ丘画廊の看板は駒井哲郎先生でしたが、オープニングなどでぐでんぐでんに酔っ払った駒井先生を車に乗せてご自宅にお送りするのが石原さんの役目でした。
オーナーの実川さんがいろいろな意味でたいへんな人だったのですが、ここに数年勤めた後、ヨーロッパに学び、1978年5月に「アジェ展」で写真専門のツァイト・フォト・サロンをオープンしました。
いきなり写真専門のギャラリーを開くというので、「石原さん、なぜ写真のギャラリーなんですか」と聞いたら、
「ワタヌキ君、銀座に画廊は400軒あるんだ。ボクが普通の画廊を開いたら401番目からのスタートだよ。誰もやっていない写真のギャラリーを開けば、ボクはその日からナンバーワンだからね。」、いかにも石原さんらしい答えでした。
あれから38年、見事に初志を貫いて「写真」を美術作品に押し上げ、日本の写真界に一時代を築いた功績は永く記憶されるでしょう。
オープンの年(1978年)に私たちが石原さんにインタビューした記事を、追悼の心をこめて再録します。
-------------
「オリジナルプリントの魅力
-石原悦郎氏に聞くー」
アジェとオリジナルプリント
――石原さんは日本で初めての本格的な写真専門のギャラリー(ツァイト・フォト・サロン)を今年5月に開かれましたが、今日は、オリジナルプリントについての基本的なことや作家について、それと、オリジナルプリントはその形式、機構に版画と共通の部分を多くもっていると思うのですが、例えば、プリンターのことやサインの問題、市場、コレクターなどについても伺いたいと思います。
では、まず初めに、写真専門ギャラリーであるツァイト・フォト・サロンを始められたきっかけについて。
石原 東京だけでも今約二千軒近くの画廊があるといわれています。まあ店を出していない所や、ブローカーなども含まれるわけですけど、五~六軒の例外を別とすればその殆んどが、特に個性的であるとはいえないようですね。そして僕の力でもそれ以上のものはなかなかできないと思っています。それならば余り人のやっていないものでと考えて、それがフォトグラフだったわけです。
――私達が日常目にしている写真は、殆んどがグラビア雑誌などの印刷されたものですが、そういった写真と、石原さんの扱っているオリジナル写真との差異はどういったことなんでしょうか。その辺がオリジナル写真の意義になると思うのですが……。
石原 僕は余りオリジナルプリントということを強調したくないんです。と云うのは、僕らはあくまでディーラーだから、ディーラーが扱う以上オリジナル云々というよりも、作品としてそれがステキかどうかが大切な訳です。だから僕は、ブレッソンでもブラッサイでも多少時代がかったものを扱ってきたし、来年(’79年)からは、日本の作家のもやる訳ですけれども、とにかく作品の持つ完成度というものが何よりも大切だと思うんです。
それがよければ、何もオリジナルプリントという大上段の論議をしなくても、作家が自分の一貫した思想と哲学をもって完成させて、それを美術作品として提示する行為は、油絵でも彫刻でも版画でも全く何も変わらないと思うんです。たまたまそこに、写真機とか現像とか三次的四次的行為が介在しているだけでね。
――そうすると、そういった作家の完成度とか作家の意識というものが、写真ということで明らかに意識されるようになった最初の作家は誰だったんですか。
石原 僕は、最初はあくまでも物売りで、日本のクライアント(客)はネームバリューで物を買うということだから、とにかく写真のエンサイプログレアというか百科事典を調べ、索引やうしろの人名事典に一番載っている人から集めた訳です。それがやはりアジェであり、ブレッソンでありブラッサイ、マン・レイ、スティグリッツであったんです。
――ではその中で、石原さんにとって最初の作家は誰だったんですか。
石原 やはりそれは一番いろいろな所で名前の売れているアジェでしたね。今も言ったように、外国の文献を片っ端から見て、それから日本のいろいろな、たとえば木村伊兵衛だとかそういう人の言葉の中に出てくる作家は誰だろうといったら、フランスのアジェだったわけ、そしてユトリロとかその他エコル・ド・パリの作家、それから日本人だったら藤田嗣治、そういった人達が関係をもった人も全部アジェだったんです。
――アジェについて少し話していただきたいのですが…
石原 アジェというのは、今から52年前に亡くなったフランスの写真家で、彼は死ぬまで無名だったんです。彼は8×10のガラス乾板と暗いレンズで撮っていたんですが、彼は自分で芸術作品として撮っていたわけではなくて、あくまで当時の絵描き、ユトリロとかシュールレアリズムの人達に、それを下絵として売ってたんです。
――そうすると、今でいう写真屋さんですか。
石原 一般的な写真屋さんではありません。午前中の空気の澄んだうちに、写真機などの大荷物をかついで、パリなどの街中に出かけて行き、一つ一つ写真を撮っていた。でも彼は病魔におかされていて、クレープしか食べられなかったんですよ。その少ないエネルギーで写真を一枚一枚撮ってて二万枚ぐらい撮ったんです。ところがおもしろいのは、彼はそれらを趣味として撮っていたわけではなくて、あくまでそれを絵描きとか歴史美術館に入れようというので、とにかくモニュメンタルなものとか、特殊なあくまで彼の合目的的な行為として撮っていたから、非常に作品にアイデンティティーとか一貫したものがあるんです。娼婦を撮ったって非常に一貫したものがあるし、パリのモニュメントとか人物とか労働者を撮ったって、非常に一貫したアジェの目がある訳です。
――使命感みたいなものがあったんでしょうか。
石原 あったんでしょうね、強く。当時マン・レイなどもそれを買ったんですからね。当時は一枚千円から二千円位だったらしいけれど、アジェ自身が現像したものです。そういう意味で非常に絵と交差している次元があるわけですよ。アジェは悲劇的なもので、死ぬまで無名ですよね。死んでから、それだけ数を撮ったということと、それをマン・レイとかまわりの高名な芸術家が称賛したこと、日本では瀧口修造さんや藤田嗣治だとかが称賛したということで高名になった。とにかく、偶然もあるんですが、アジェは結局古典写真というか、今世紀最大のリアリズムの写真を残したということですね。
ただ、まだアジェの本質論という事になると問題は残っているんです。一応今まで、瀧口さんなり岡田隆彦さんなりいろいろな人が日本でも解明してきたし、フランスでも高名なプローフェッサーや美術学者がやってましたけれど、又今になって様々な問題が新しく提起しなおされているんです。非常に論争があるのですが、まあそれらはひとつの近代写真の原点と交差しているんですよね。これからもいろいろな問題が、写真というよりもむしろアートの問題として出てくると思います。
サイン・ナンバーについて
――写真と版画を比べた場合、多くの類似点 ―例えばプリンターの存在とかサイン・ナンバーの問題とか― があると思うんですが、まず作家とプリンターとの関係はどんなものなんですか。版画の場合、プリンターというのが公然と出てきて、版画の一つの分野になっているんですが、写真ではどうでしょう。
石原 それは写真の場合も全く同じです。例えば、ブレッソンのものをやっているディベロッパーといいますか現像技師のピエール・ガスマンという人は、現像技師として隠然たる勢力をもっていますしね。写真展会場へ行くと、ガスマンが焼いたということがでていますから。
――では、サインの問題は如何ですか。
石原 サインについても、全く版画でも写真でも同じですね。版画もレンブラントの時代にはそんな事しなかったでしょ。それと同じで、写真も昔のものには殆んどやっていませんでした。中にはやってあるものもありますが……。僕はディーラーですから、あくまでその作品を本人が焼いたということと、本人から直接扱ったということの証として、この画廊で収蔵したものはこの画廊独特のサインを求めるということがありますね。そういった時は、なるべく作品の表面に書いていただくんです。表面に書いても作品をこわさなければいいと思うので。
――ということは、まだ一つのルールとしては確立していないということですね。
石原 確立しつつあるということですね。中には限定番号を入れる人もいますしね。
――限定番号ということが出ましたが、限定部数は何部位が限度なんですか。
石原 限度というものも版画と同じで、何枚もやればそれは質が落ちますね。でも実際今まではそれ程需要がないということで、極めて少なかったんです。多いものでアボットの出したアジェが100部だったと思います。ブラッサイなどは、一般的には20部から30部ぐらいですね。
――ということは、今のところは限定部数にそんなに神経質になる必要はないわけですね。
石原 そう、そんなに神経質になる必要はないですね。まだまだこれからといったところですね。
――それともう一つ、プリントの場合、一つの原版から自由にサイズが変えられるわけですが、その問題は如何でしょう。
石原 一番写真で高いのはヴィンテージプリントといって、ブラッサイならばブラッサイが’35年ならば’35年に撮って自分の作品として当時に焼いたもの、それをヴィンテージプリントと言うんですが、それが一番高いんです。それからの距離によって値段が決まる訳ですが、それに近いものが高い訳です。
市場とコレクター
――次に市場、流通機構についてお聞きします。
オリジナルプリントの市場が出来はじめたのは、そんなに古いことではないと思うのですが。
石原 そうですね、アメリカが最初でしょう。まあ、ああいった国ですから、新しいものに飛びついて……。いろいろな理由があると思いますが、映像文化というものが進んでいて、ビジュアルな美術作品というものに対して非常に敏感な国ですから。写真をオリジナルプリントと呼んだのも、アメリカが最初ですしね。それがパリとかドイツに波及していった訳です。フランスではここ二~三年の間に、写真関係の画廊が七~八軒できましたし、ドイツでもベルリン、ハンブルグ、ケルン、デュッセルドルフなんかにありますね。それからウィーンにもありますよ。そういう所に最近急に増えてきました。
――では、美術全般の流通機構の中での写真の位置はどうなっているのですか。
石原 最近聞いた話では、ハウスマンという高名な写真家もある大きな財閥が管理しはじめたということですし、それからブラッサイなどもマルボローギャラリーと契約して、そういった大きな画廊から作品が流れますしね。ザブレフスキーなんて所も、フリートレンダのフォトやキャラハンとかブラッサイのフオトコラージュなどに手を出してますし、ですから相当大きな画廊が、写真というものを全く同じような形で流通機構にのせはじめているということです。それとアメリカのニューヨーク近代美術館では、写真のセクションに相当の予算と力を入れてますし、フランスのポンピドーセンターでも、写真作品の収蔵に対して力を入れてます。また、ドイツなどでも美術館サイドで収蔵をしていますからね。だから全く版画に近づいていくんではないでしょうかね、機構の面では。日本でもだんだんとそうなると思います。
――多くの美術館が写真のコレクションに力を入れてきているとのことですが、個人コレクターというのはやはりいるのですか。
石原 いるんですよ、日本でも表には出ませんけれど。従来は写真機材、例えばクルトベンツィとか又はトロッペンソホーなんていう有名な機械を集めている人が、二次的三次的なものとして、めずらしい例はブレッソンだとかブラッサイだとかスティグリッツ、マン・レイとかを集めるわけですね。ところが、最近ではそういう人もさることながら、今まで版画とか油絵を買っている人が、それと同じようなものとして写真を買うことがありますね。でそういう人達はやはり強烈ですからね。それと写真が買いよい値段であるということから、特に独・仏・米あたりでは相当大規模なコレクターがいます。スイスあたりにもいますね、日本にもいるようですし。
――市場、流通機構が整い、コレクターが増えてくれば、当然価格の面でも変化していくと思うんですが……。
石原 例えば銀板写真なんかは、僕が七~八年前にパリにいた時は一個五~六百円で買えたものが、ここへ来て一個いいものだと五万とか六万、時には色のついているようなものだと十万以上もするわけですね。アッという間に十倍以上にもなってしまったわけです。それには多少アンチック的な面も含まれていますけれど。それと同じで、アジェなんかでも三~四万から五~六万で買えると思っていたアボット版でも、米や英のオークションに出たものに僕が十万位で入れても一点もおちませんので、全く版画と同じように市場に出てきたというんでしょうね。ただあくまでも、いい作家であるという大前提がつきますけれどね。
――ということは、収集に関してもとても版画に近いわけですね。では実際にこれから写真を買うとしたならば、どういう作家どういう作品を、どんな事に注意して買ったらよいのでしょうか。
石原 どこに基準を持ってくるかということは、まさに油絵や彫刻、版画と同じでやはり作家の知名度でしょう。というのは、それが作品のよさと非常にくっついていると思うんです。知名度があるということは、作品の完成度が高いから知名度がでてきたわけですから。それとまた、それらの作品がいろいろな美術書とかにおもしろい形で紹介されているとか。またポートレートを買うなら、例えばヴァレリーならばヴァレリーが自分の青春時代の教科書だった、それで写真というものがどんな作品よりもヴァレリーをしのばせるというわけです、そのポートレートが……。そういうものを自分のそばに置いて自分の青春時代を回想するという、そういう人もいますね。そういった自分のモニュメンタルなものに対して、写真は適格にそれを再現してくれるから。しかもすぐれた人の撮ったものは、ヴァレリーならヴァレリーの持っているエッセンスみたいなものをとてもうまくとっている。それに対して非常に親しみを覚えられるという人もいるわけです。
――では最後に、これからこのツァイト・フォト・サロンでは、どういった作品、作家をやっていくのでしょうか。ひとつのものが市場なり拡がりをもつには、新しいものが生産されなければ古いものの価値もでてこないと思うのですが。
石原 今おっしゃった事が、まさに僕の今考えている一番大きな問題そのものなんです。墓堀り人足といわれてもいいんですが、死んだ作家なり今相当高名な作家はとにかく世界中を歩き回って、何か良いコネクションをみつけて捜してくる。或いは、スイスにコレクターがいればスイスへ行って、人の紹介でそのコレクターから手に入れてくる。そしてそういうものを私の個人的な絵のお客さんとかそういったところに入れて、商人として利益を上げさせていただく。その上げた利益で若い作家達の作品を、それはもう利益になるということを最初から考えないで、日本の若い作家を収蔵する。そして収蔵すると同時に展覧会をやって、とにかく外国の美術館やギャラリーの中にまとめて日本の作家のコーナーができるくらい、どんどん入れてしまう。時には贈与するかもしれない。とにかく利益とは関係なくやっていくわけです。この二本立てですね。そういう風にやっていきたいと思います。それがないと、確かに仕事として僕がやっていく意味がないと思いますから。大変骨の折れる難しい事ですが……。
’78年12月4日 ツァイト・フォト・サロンにて
■石原悦郎(いしはら・えつろう)
1941年 東京に生れる
1963年 立教大学法学部卒業
1965年~67年 渡仏、パリにて美術・仏語を学ぶ
1972年~74年 自由ヶ丘画廊勤務
1975年~76年 西独、ミュンヘンにてフォトグラフを学ぶ
1978年4月 ツァイト・フォト設立
*1979年1月1日 現代版画センター 発行『PRINT COMMUNICATION No.43』より再録
インタビューを担当したのは柳正彦さん

1983年6月7日
渋谷パルコ「アンディ・ウォーホル展」オープニング
上掲のインタビュー記事を再読して、石原さんがちゃんと基礎を学び、しっかりとしたコンセプトで画廊を開いたことがいまさらながらよくわかります。
「商人として利益を上げさせていただく。その上げた利益で若い作家達の作品を、それはもう利益になるということを最初から考えないで、日本の若い作家を収蔵する。」
石原さんは宣言したとおりに若く無名な写真家たちを支援し続けた。なかなかできることではありません。
会えば「あの女はいいねえ」とか、だれそれの写真をまとめてん億円で売ったとか、人をけむにまくのが大好きな人でしたが、育ちの良さで大言壮語も大風呂敷も嫌味がなく、こちらまでが前向きにならなくちゃと思う人柄でした。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
*追記
飯沢耕太郎さんに追悼文「石原悦郎——写真をアートにした希代のギャラリスト」を執筆していただきました(3月9日ブログ)。
◆「アートブックラウンジ Vol.01“版画挿入本の世界”」
会期:2016年3月9日[水]~3月17日[木] ※日・月・祝日は休廊

今回より日・月・祝日は休廊しますので、実質7日間の会期です。
同時開催:文承根展
●ときの忘れもの・拾遺 ギャラリーコンサートのご案内
第1回「独奏チェロによるJ.S.バッハと現代の音楽~ガット(羊腸)弦の音色で~」
日時:2016年3月19日(土)18時~19時
出演:富田牧子(チェロ)、木田いずみ(歌)
プロデュース:大野幸
曲目:J.S.バッハ、クルターク・ジェルジュ、ジョン・ケージ、尾高惇忠
*要予約=料金:1,000円
予約:メールにてお申し込みください。
info@tokinowasuremono.com
●ときの忘れものは2016年3月より日曜、月曜、祝日は休廊します。
従来企画展開催中は無休で営業していましたが、今後は企画展を開催中でも、日曜、月曜、祝日は休廊します。
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