石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」第24回(最終回)
月夜の夜想曲 2012年7月7日 東京
24-1 これはなんだろう。
マン・レイと交流のあった日本人で、特に知られているのは画家の宮脇愛子さんである。裕福な家庭に生まれ、美しく、結婚の経験もあり、マン・レイと出会ったのは30代前半。イタリア在住時代にミラノやローマで個展、パリに移り住んでからも画業に専念し、「金属浮彫りに似た効果を出す」独自の絵肌を持った抽象絵画を制作されていた。マン・レイと会ったのは、ハンス・リヒターに連れられてフェルー通りのスタジオを訪問した1962年6月、その様子を「シュルレアリスムの裏方」と題して雑誌(『芸術新潮』 1963年8月号)に報告されている。わたしがマン・レイのライフスタイルを知ったのは彼女の軽妙な語り口からだったし、この記事が最初であったように思う。文中の「黒いサンド・ペーパーに、ダイヤモンドを入れた”月夜”の作品は、昨12月のシュール・レアリスム展(ポアン・キャルディナーレ画廊)でも、非常に評判であった。」(127頁)とある部分については、「画廊などで、若い女性に話しかけられているマン・レイは、いかにも、うれしそうで、若々しかった。若い女性と、話をするのが好きなようだった。」とするマン・レイ評に隠れて、読み過ごしてしまっていた。当時、マン・レイは71歳。
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『美術手帖』1973年10月号
112-113頁
マン・レイ再評価の動きが日本でも始まった頃、雑誌『美術手帖』(1973年10月号)で特集が組まれ、中原佑介、山口勝弘、吉岡康弘、井上武吉と共に、宮脇愛子さんも「いそがしい皮肉屋──マン・レイを語る」を寄稿された。吉岡、井上の両氏がフェルー通りのスタジオ訪問に言及している事から、スタジオの魅力、人を惹きつける面白さは格別だと証明出来そうだが、宮脇さんがされるマン・レイが住むパリの、生活に根ざした回想も堪能させてもらえた。この中で「去年、一昨年会ったときは、「せっかく作品をみんなが買い出したら、こっちは足が動かない。皮肉だね、人生は」なんていっていました。」(113頁)と紹介されるマン・レイに接してから、彼を益々好きになったと告白したい。この頁には5.2×8cmの図版が掲載されていて、下段に「紙ヤスリに宝石をはめ込んだ作品(マン・レイから宮脇氏に贈られたもの)」と注記されていた。──判りにくい図だけど、これはなんだろう。
24-2 仲間に入れてくれたら。
宮脇愛子さんが真鍮パイプを使った一連の作品から、空間に広がり、多様に変化するワイヤーを素材に「うつろひ」の仕事を始められ、日本で最初に野外設置をされた1980年、マン・レイ作品を購入した縁でギャラリーたかぎの沢島亮子さんに個展で紹介していただいた。宮脇さんからマン・レイとの交遊やスタジオの様子を直接うかがって、羨ましく思うと共に憧れた。
滋賀県立近代美術館
その後、滋賀県立近代美術館で催された『マン・レイ展』(1985年)での篠山紀信氏との記念講演「鬼才マン・レイをめぐって」を聴講、持参した『芸術新潮』の該当頁にサインをいただいた。講演の直前に刊行された雑誌『アールヴィヴァン』15号が「特集=篠山紀信─マン・レイのアトリエ」だったので、家人と訪問した新婚旅行を思い出し、こちらには篠山氏とお二人でのサインを依頼。スタジオの衝立の裏に回ったり、引出を開けてマン・レイの秘密を垣間見る感覚を味わった。平凡なファンが、宮脇さんの思い出話に導かれて、マン・レイと対面している感覚、仲間の末席に加えていただいたように思ってしまった。
24-3 振り向いちゃいけない。
マン・レイと宮脇愛子さんとの交流を物語る作品は、幾つもあるが、特にわたしが恋い焦がれたのが、先に「これはなんだろう。」と打ち明けた「黒いサンド・ペーパーに、ダイヤモンドを入れた”月夜”の作品」。雑誌での図版を超えて、原物と対面したのは『マン・レイ展「私は謎だ。」』の埼玉県立近代美術館(2004年9月)の会場だった。丁度、宮脇さんもおいでで、話をお聞きし、記念写真もパチリ。作品下段の献呈がよろしいな。静かな夜の海原に月が輝いている。
埼玉県立近代美術館
マン・レイから本作を贈られた経緯を彼女は東京国立近代美術館ニュース『現代の眼』(1984年10月号)に書いていて、わたしは、これを読んでいたものだから、「月夜のノクターンさ」と得意気に言いながら渡してくれたマン・レイの前に居る気分。詳しくは「私の好きな一点」を読んでいただかなければならないが、「この”月夜のノクターン”は、私がいつも傍らに大切に持っています。その後、ニューヨーク、東京と移り住んで、20何年もたった今、見ても見てもあきません。そして、どうして、マン・レイは私が、月夜の海がとくに好きだったことを知っていたのかしら、と不思議に思いながら、心の中では歓喜していました。」と教えてくれた作品。白く塗られた金属額に入った本作は、『月夜の夜想曲』と名付けられているが、1962年、1965年、1974年と三度に渡って、おおよそ各回10部程度作られたものの初期作品と思われる。一般的には『ガラスの星(L’Étoile de verre)』と呼ばれ、サンド・ペーパー(papier de verre)とマン・レイの代表的映画作品『ひとで(L’Étoile de mer)』を連想させる題名となっている。マルチプルではありながら、素材や月影の位置が微妙に異なり(手作業故に)、固有の風景を作っている。下段の「作家持ち、宮脇愛子へ」と書かれたマン・レイのサインを見ながら、エッセイの最後が彼の言葉で「このダイヤがほんものかにせものかは、後世の鑑定家にまかせるんだね──」と締めくくられていたのを思い出した。胸をしめつけられ、涙しながらの反復なのだから、夜の海は孤独で美しい。美術館の壁面から離れ、振り向いちゃいけないと京都まで戻った。
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『現代の眼』1984年10月号
6頁
24-4 ときの忘れもの
その宮脇さんから信頼を受け、長くお付き合いをされてこられた綿貫不二夫、令子ご夫妻と、親しく言葉を交わすようになるとは予測できなかった。人生は不思議である。画廊が『マン・レイ展』(2009年4月)を開催されるのに伴い、講演を依頼されたのが直接の経緯と思うが、最初に南青山をギャルリー・ワタリ側と反対に歩いたのは、この連載第19回で報告したフローリス・ノイスス氏から手紙を頂いた頃で、瑛九のフォトデッサンを観る為に訪ねたのだった。友人のお宅に庭から上がる案配の一軒家、型紙などもあったと記憶する。初対面だったので写真は撮らなかった。20年後の講演会の折に綿貫さんから「1970年代に先輩の画商から「マン・レイにはスタイルが無い、スタイルが無いのは売りづらい」と教わった。でも、僕が尊敬する瑛九も、まったく同じで、決まったスタイルがなかった。当時、日本で流通していたマン・レイ作品は版画しかなくて、これを沢山扱った。写真については、商品として考えられていなかったのが実情で、ツァイト・フォト・サロンの功績が大きかった。」と伺った。そして、マン・レイの版画を使った画廊の第2回企画展(1995年7月)案内状を頂く、時を遡るエフェメラの臨場感は、心地良い。参加された方々とイタリアンで歓談、有難い夜だった。
綿貫不二夫、令子ご夫妻
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『マン・レイ』展 講演会
参加者のみなさんと記念撮影
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ときの忘れものでは、翌年の秋、『マン・レイと宮脇愛子』展を開催。天上が高く、フェルー通りのマン・レイ・スタジオを連想させるときの忘れものの空間の、二階部分との間に『天文台の時刻に──恋人たち』が掛けられ、下の側には『月夜の夜想曲』。宮脇さんを撮った肖像写真や書棚を模したケースに飾られたカタログや写真集の数々。ブルーのボールペンで書かれた献辞に眼をやりながら、羨ましくて困った(売り物ではありません)。しかし、画廊内は宮脇さんの彫刻や油彩と相俟って、楽しい雰囲気になっている。せめてもの悦びにと、作品の前で写真を撮ってもらった。この時、救われたのは、装幀家でもある綿貫令子さんが記念に制作されたオブジェ本『Hommage à Man Ray』を入手できたことで、イオラス画廊のカタログからの引用が散りばめられた折り本仕立ての25部限定刊行。宮脇さんの新作版画とマン・レイとの思い出の品々との競演となっていた。もちろん『月夜の夜想曲』も紹介されていて、改めて惹かれてしまったのである。
『マン・レイと宮脇愛子』展
筆者、壁面に『月夜の夜想曲』
24-5 壁からはずして。
80歳を越えても精力的に新作の発表を続けてこられた宮脇愛子さんが、親交のあった作家たちから託された作品や資料をときの忘れもので『宮脇愛子、私が出逢った作家たち』と題して展覧されたのは、2012年6月25日から7月7日。マン・レイの他に瀧口修造、阿部展也、斎藤義重、南佳子、ジオ・ポンテイ、ジャスパー・ジョーンズ、堀内正和、サム・フランシス、辻邦生、菅野圭介、オノサト・トシノブ、グドゥムンドル・エロと云った錚々たる顔ぶれであった。画廊から送られてきたリストを拝見してビックリ仰天、マン・レイ作品に価格が付記されているのである。宮脇さんが思い出の品々を手放される決心をされたご様子。悲しい部分もあるけれど、どんな様子だろうかと、心騒いで新幹線に乗った。
美術品の評価尺度には諸説あるが、来歴は重要な意味を持っている。作者の手を離れてからたどった、作品の一生を証明する資料のそろった場合には、臨場感があってこたえられない。マン・レイが亡くなってから集め始めたわたしのようなコレクターにとっては、入手すれば言葉を交わし、家族の写真アルバムを一緒に観ているようで、縁戚に連なった特別の感情。もしも、彼女が手放されるのならば、わたし以上に、これを愛する人はいないと思ってしまうのだ。だから、価格の事は一切関係ないと、表明しておこう。
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ギャラリーときの忘れもの
東京都港区南青山3-3-3 青山Cube1F
『宮脇愛子、私が出逢った作家たち』展
展覧会の最終日だった。多くの作品に売約済みの印が付いている。入り口から向かって右奥窓側からマン・レイ作品が並べられている。『透明巨人』と『ジュリエットの肖像』に囲まれて、1962年から続く夜の海が奥行き深く広がっている。画面からの月の光が反射し、プレートには赤丸シール。──事前に「貼って」とお願いしていたのである。綿貫不二夫さんから宮脇さんのご様子をお聞きするとお元気との事。「他の記念品と別れるのは辛いだろうが、許してね」と、夕方、壁から外してもらい、その場面を記念写真に収めた。東京から京都への移動は、パリからニューヨーク、東京へと続いた旅に比べれば、部屋の中で模様替えをする程度の感覚だろうか。国内に本作が残る事を彼女は喜んでくれるのではないかと、自己弁護した。
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車椅子の不自由な生活にあっても続けられた制作を、2013年12月にときの忘れもので『宮脇愛子 新作展』として発表され、生の躍動と衰えぬ好奇心を示しておられた宮脇さんだったが、2014年8月20日、膵臓癌の為に帰らぬ人となってしまった。享年84。体調の変化をご存じで、見事に終活をなされた後の旅発ちだったと、謹んでご冥福をお祈りしたい。
24-6 おわりに
夕焼け時の名鉄瀬戸線特急900系の写真から始めた『マン・レイへの写真日記』を、7月7日夜9時、東京駅で出発を待つのぞみN700系で締めくくることにした。京都市在住の平凡なサラリーマン・コレクターによる個人史報告が、美術への関心と云う共通項によって、読んでいただいた皆さま方にも楽しんで頂けたとしたら、本人として望外の喜びである。そして、最終回までたどり着けたのは、綿貫不二夫・令子ご夫妻の励ましと画廊スタッフのサポートのお陰と感謝している。本当に有難うございました。
再雇用での会社勤めも残り僅かとなり、刀折れ矢尽きた身なれば、「マン・レイ作品と出会わない事を願って」の年金生活。せめて、家族への罪滅ぼしに、「終活」すると誓ったところであります。でもね、マン・レイを手放したコレクターでは、だれも相手にしてくれない。淋しくて、悲しくて、どうやって生きていったらよいのやら、煩悩ばかりの夜具の中です。
東京駅 のぞみN700系
(いしはらてるお)
■石原輝雄 Teruo ISHIHARA(1952-)
1952年名古屋市生まれ。中部学生写真連盟高校の部に参加。1973年よりマン・レイ作品の研究と収集を開始。エフェメラ(カタログ、ポスター、案内状など)を核としたコレクションで知られ、展覧会企画も多数。主な展示協力は、京都国立近代美術館、名古屋市美術館、資生堂、モンテクレール美術館、ハングラム美術館。著書に『マン・レイと彼の女友達』『マン・レイになってしまった人』『マン・レイの謎、その時間と場所』『三條廣道辺り』、編纂レゾネに『Man Ray Equations』『Ephemerons: Traces of Man Ray』(いずれも銀紙書房刊)などがある。京都市在住。
*画廊亭主敬白
二年間にわたる石原さんの連載が今回をもって終了します。
正直言って残念です。このブログがある限り書き続けてもらいたい、そんな気持ちにさせる毎回の興味深く、生々しく、それでいて品位を失わない、すばらしいコレクターの自叙伝であり、正確かつ豊富な資料に裏付けられた「マン・レイになってしまった人」による現代美術史といっても過言ではないでしょう。
石原輝雄さんにまだ会う前、私たちの周囲でマン・レイの話題になるときまって「石原さん」の名が飛び交い、その度に「どっちの石原さんよ。ツァイトの石原さん、それとも京都の石原さん?」となるのでした。
京都の石原さんのこの連載にも幾度となくツァイトの石原さんが登場しましたが、マン・レイの受容というより、世界的なレベルでの評価に二人の石原さんが果たした役割は大きい。
奇しくも石原輝雄さんの連載が終了する今日、ときの忘れものから僅か数分の梅窓院で石原悦郎さんの告別式が執り行われます。
二人の石原さんに深い感謝をささげるとともに、京都の石原さん、そして奥様の純子さんの末永い健康とますますのご活躍を祈る次第です。
ありがとうございました。
◆石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」目次
第1回「アンナ 1975年7月8日 東京」
第1回bis「マン・レイ展『光の時代』 2014年4月29日―5月4日 京都」
第2回「シュルレアリスム展 1975年11月30日 京都」
第3回「ヴァランティーヌの肖像 1977年12月14日 京都」
第4回「青い裸体 1978年8月29日 大阪」
第5回「ダダメイド 1980年3月5日 神戸」
第6回「プリアポスの文鎮 1982年6月11日 パリ」
第7回「よみがえったマネキン 1983年7月5日 大阪」
第8回「マン・レイになってしまった人 1983年9月20日 京都」
第9回「ダニエル画廊 1984年9月16日 大阪」
第10回「エレクトリシテ 1985年12月26日 パリ」
第11回「セルフポートレイト 1986年7月11日 ミラノ」
第12回「贈り物 1988年2月4日 大阪」
第13回「指先のマン・レイ展 1990年6月14日 大阪」
第14回「ピンナップ 1991年7月6日 東京」
第15回「破壊されざるオブジェ 1993年11月10日 ニューヨーク」
第16回「マーガレット 1995年4月18日 ロンドン」
第17回「我が愛しのマン・レイ展 1996年12月1日 名古屋」
第18回「1929 1998年9月17日 東京」
第19回「封印された星 1999年6月22日 パリ」
第20回「パリ・国立図書館 2002年11月12日 パリ」
第21回「まなざしの贈り物 2004年6月2日 銀座」
第22回「マン・レイ展のエフェメラ 2008年12月20日 京都」
第23回「天使ウルトビーズ 2011年7月13日 東京」
第24回「月夜の夜想曲 2012年7月7日 東京」
番外編「新刊『マン・レイへの写真日記』 2016年7月京都」
番外編─2『Reflected; 展覧会ポスターに見るマン・レイ』
番外編─2-2『マン・レイへの廻廊』
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●今日のお勧め作品は、宮脇愛子です。
宮脇愛子
「Work」(15)
2013年
紙に銀ペン
Image size: 24.5x24.5cm
Sheet size: 42.1x29.7cm
サインと年記あり
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
月夜の夜想曲 2012年7月7日 東京
24-1 これはなんだろう。
マン・レイと交流のあった日本人で、特に知られているのは画家の宮脇愛子さんである。裕福な家庭に生まれ、美しく、結婚の経験もあり、マン・レイと出会ったのは30代前半。イタリア在住時代にミラノやローマで個展、パリに移り住んでからも画業に専念し、「金属浮彫りに似た効果を出す」独自の絵肌を持った抽象絵画を制作されていた。マン・レイと会ったのは、ハンス・リヒターに連れられてフェルー通りのスタジオを訪問した1962年6月、その様子を「シュルレアリスムの裏方」と題して雑誌(『芸術新潮』 1963年8月号)に報告されている。わたしがマン・レイのライフスタイルを知ったのは彼女の軽妙な語り口からだったし、この記事が最初であったように思う。文中の「黒いサンド・ペーパーに、ダイヤモンドを入れた”月夜”の作品は、昨12月のシュール・レアリスム展(ポアン・キャルディナーレ画廊)でも、非常に評判であった。」(127頁)とある部分については、「画廊などで、若い女性に話しかけられているマン・レイは、いかにも、うれしそうで、若々しかった。若い女性と、話をするのが好きなようだった。」とするマン・レイ評に隠れて、読み過ごしてしまっていた。当時、マン・レイは71歳。
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112-113頁
マン・レイ再評価の動きが日本でも始まった頃、雑誌『美術手帖』(1973年10月号)で特集が組まれ、中原佑介、山口勝弘、吉岡康弘、井上武吉と共に、宮脇愛子さんも「いそがしい皮肉屋──マン・レイを語る」を寄稿された。吉岡、井上の両氏がフェルー通りのスタジオ訪問に言及している事から、スタジオの魅力、人を惹きつける面白さは格別だと証明出来そうだが、宮脇さんがされるマン・レイが住むパリの、生活に根ざした回想も堪能させてもらえた。この中で「去年、一昨年会ったときは、「せっかく作品をみんなが買い出したら、こっちは足が動かない。皮肉だね、人生は」なんていっていました。」(113頁)と紹介されるマン・レイに接してから、彼を益々好きになったと告白したい。この頁には5.2×8cmの図版が掲載されていて、下段に「紙ヤスリに宝石をはめ込んだ作品(マン・レイから宮脇氏に贈られたもの)」と注記されていた。──判りにくい図だけど、これはなんだろう。
24-2 仲間に入れてくれたら。
宮脇愛子さんが真鍮パイプを使った一連の作品から、空間に広がり、多様に変化するワイヤーを素材に「うつろひ」の仕事を始められ、日本で最初に野外設置をされた1980年、マン・レイ作品を購入した縁でギャラリーたかぎの沢島亮子さんに個展で紹介していただいた。宮脇さんからマン・レイとの交遊やスタジオの様子を直接うかがって、羨ましく思うと共に憧れた。

その後、滋賀県立近代美術館で催された『マン・レイ展』(1985年)での篠山紀信氏との記念講演「鬼才マン・レイをめぐって」を聴講、持参した『芸術新潮』の該当頁にサインをいただいた。講演の直前に刊行された雑誌『アールヴィヴァン』15号が「特集=篠山紀信─マン・レイのアトリエ」だったので、家人と訪問した新婚旅行を思い出し、こちらには篠山氏とお二人でのサインを依頼。スタジオの衝立の裏に回ったり、引出を開けてマン・レイの秘密を垣間見る感覚を味わった。平凡なファンが、宮脇さんの思い出話に導かれて、マン・レイと対面している感覚、仲間の末席に加えていただいたように思ってしまった。
24-3 振り向いちゃいけない。
マン・レイと宮脇愛子さんとの交流を物語る作品は、幾つもあるが、特にわたしが恋い焦がれたのが、先に「これはなんだろう。」と打ち明けた「黒いサンド・ペーパーに、ダイヤモンドを入れた”月夜”の作品」。雑誌での図版を超えて、原物と対面したのは『マン・レイ展「私は謎だ。」』の埼玉県立近代美術館(2004年9月)の会場だった。丁度、宮脇さんもおいでで、話をお聞きし、記念写真もパチリ。作品下段の献呈がよろしいな。静かな夜の海原に月が輝いている。

マン・レイから本作を贈られた経緯を彼女は東京国立近代美術館ニュース『現代の眼』(1984年10月号)に書いていて、わたしは、これを読んでいたものだから、「月夜のノクターンさ」と得意気に言いながら渡してくれたマン・レイの前に居る気分。詳しくは「私の好きな一点」を読んでいただかなければならないが、「この”月夜のノクターン”は、私がいつも傍らに大切に持っています。その後、ニューヨーク、東京と移り住んで、20何年もたった今、見ても見てもあきません。そして、どうして、マン・レイは私が、月夜の海がとくに好きだったことを知っていたのかしら、と不思議に思いながら、心の中では歓喜していました。」と教えてくれた作品。白く塗られた金属額に入った本作は、『月夜の夜想曲』と名付けられているが、1962年、1965年、1974年と三度に渡って、おおよそ各回10部程度作られたものの初期作品と思われる。一般的には『ガラスの星(L’Étoile de verre)』と呼ばれ、サンド・ペーパー(papier de verre)とマン・レイの代表的映画作品『ひとで(L’Étoile de mer)』を連想させる題名となっている。マルチプルではありながら、素材や月影の位置が微妙に異なり(手作業故に)、固有の風景を作っている。下段の「作家持ち、宮脇愛子へ」と書かれたマン・レイのサインを見ながら、エッセイの最後が彼の言葉で「このダイヤがほんものかにせものかは、後世の鑑定家にまかせるんだね──」と締めくくられていたのを思い出した。胸をしめつけられ、涙しながらの反復なのだから、夜の海は孤独で美しい。美術館の壁面から離れ、振り向いちゃいけないと京都まで戻った。
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6頁
24-4 ときの忘れもの
その宮脇さんから信頼を受け、長くお付き合いをされてこられた綿貫不二夫、令子ご夫妻と、親しく言葉を交わすようになるとは予測できなかった。人生は不思議である。画廊が『マン・レイ展』(2009年4月)を開催されるのに伴い、講演を依頼されたのが直接の経緯と思うが、最初に南青山をギャルリー・ワタリ側と反対に歩いたのは、この連載第19回で報告したフローリス・ノイスス氏から手紙を頂いた頃で、瑛九のフォトデッサンを観る為に訪ねたのだった。友人のお宅に庭から上がる案配の一軒家、型紙などもあったと記憶する。初対面だったので写真は撮らなかった。20年後の講演会の折に綿貫さんから「1970年代に先輩の画商から「マン・レイにはスタイルが無い、スタイルが無いのは売りづらい」と教わった。でも、僕が尊敬する瑛九も、まったく同じで、決まったスタイルがなかった。当時、日本で流通していたマン・レイ作品は版画しかなくて、これを沢山扱った。写真については、商品として考えられていなかったのが実情で、ツァイト・フォト・サロンの功績が大きかった。」と伺った。そして、マン・レイの版画を使った画廊の第2回企画展(1995年7月)案内状を頂く、時を遡るエフェメラの臨場感は、心地良い。参加された方々とイタリアンで歓談、有難い夜だった。

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ときの忘れものでは、翌年の秋、『マン・レイと宮脇愛子』展を開催。天上が高く、フェルー通りのマン・レイ・スタジオを連想させるときの忘れものの空間の、二階部分との間に『天文台の時刻に──恋人たち』が掛けられ、下の側には『月夜の夜想曲』。宮脇さんを撮った肖像写真や書棚を模したケースに飾られたカタログや写真集の数々。ブルーのボールペンで書かれた献辞に眼をやりながら、羨ましくて困った(売り物ではありません)。しかし、画廊内は宮脇さんの彫刻や油彩と相俟って、楽しい雰囲気になっている。せめてもの悦びにと、作品の前で写真を撮ってもらった。この時、救われたのは、装幀家でもある綿貫令子さんが記念に制作されたオブジェ本『Hommage à Man Ray』を入手できたことで、イオラス画廊のカタログからの引用が散りばめられた折り本仕立ての25部限定刊行。宮脇さんの新作版画とマン・レイとの思い出の品々との競演となっていた。もちろん『月夜の夜想曲』も紹介されていて、改めて惹かれてしまったのである。


24-5 壁からはずして。
80歳を越えても精力的に新作の発表を続けてこられた宮脇愛子さんが、親交のあった作家たちから託された作品や資料をときの忘れもので『宮脇愛子、私が出逢った作家たち』と題して展覧されたのは、2012年6月25日から7月7日。マン・レイの他に瀧口修造、阿部展也、斎藤義重、南佳子、ジオ・ポンテイ、ジャスパー・ジョーンズ、堀内正和、サム・フランシス、辻邦生、菅野圭介、オノサト・トシノブ、グドゥムンドル・エロと云った錚々たる顔ぶれであった。画廊から送られてきたリストを拝見してビックリ仰天、マン・レイ作品に価格が付記されているのである。宮脇さんが思い出の品々を手放される決心をされたご様子。悲しい部分もあるけれど、どんな様子だろうかと、心騒いで新幹線に乗った。
美術品の評価尺度には諸説あるが、来歴は重要な意味を持っている。作者の手を離れてからたどった、作品の一生を証明する資料のそろった場合には、臨場感があってこたえられない。マン・レイが亡くなってから集め始めたわたしのようなコレクターにとっては、入手すれば言葉を交わし、家族の写真アルバムを一緒に観ているようで、縁戚に連なった特別の感情。もしも、彼女が手放されるのならば、わたし以上に、これを愛する人はいないと思ってしまうのだ。だから、価格の事は一切関係ないと、表明しておこう。
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東京都港区南青山3-3-3 青山Cube1F

展覧会の最終日だった。多くの作品に売約済みの印が付いている。入り口から向かって右奥窓側からマン・レイ作品が並べられている。『透明巨人』と『ジュリエットの肖像』に囲まれて、1962年から続く夜の海が奥行き深く広がっている。画面からの月の光が反射し、プレートには赤丸シール。──事前に「貼って」とお願いしていたのである。綿貫不二夫さんから宮脇さんのご様子をお聞きするとお元気との事。「他の記念品と別れるのは辛いだろうが、許してね」と、夕方、壁から外してもらい、その場面を記念写真に収めた。東京から京都への移動は、パリからニューヨーク、東京へと続いた旅に比べれば、部屋の中で模様替えをする程度の感覚だろうか。国内に本作が残る事を彼女は喜んでくれるのではないかと、自己弁護した。
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車椅子の不自由な生活にあっても続けられた制作を、2013年12月にときの忘れもので『宮脇愛子 新作展』として発表され、生の躍動と衰えぬ好奇心を示しておられた宮脇さんだったが、2014年8月20日、膵臓癌の為に帰らぬ人となってしまった。享年84。体調の変化をご存じで、見事に終活をなされた後の旅発ちだったと、謹んでご冥福をお祈りしたい。
24-6 おわりに
夕焼け時の名鉄瀬戸線特急900系の写真から始めた『マン・レイへの写真日記』を、7月7日夜9時、東京駅で出発を待つのぞみN700系で締めくくることにした。京都市在住の平凡なサラリーマン・コレクターによる個人史報告が、美術への関心と云う共通項によって、読んでいただいた皆さま方にも楽しんで頂けたとしたら、本人として望外の喜びである。そして、最終回までたどり着けたのは、綿貫不二夫・令子ご夫妻の励ましと画廊スタッフのサポートのお陰と感謝している。本当に有難うございました。
再雇用での会社勤めも残り僅かとなり、刀折れ矢尽きた身なれば、「マン・レイ作品と出会わない事を願って」の年金生活。せめて、家族への罪滅ぼしに、「終活」すると誓ったところであります。でもね、マン・レイを手放したコレクターでは、だれも相手にしてくれない。淋しくて、悲しくて、どうやって生きていったらよいのやら、煩悩ばかりの夜具の中です。

(いしはらてるお)
■石原輝雄 Teruo ISHIHARA(1952-)
1952年名古屋市生まれ。中部学生写真連盟高校の部に参加。1973年よりマン・レイ作品の研究と収集を開始。エフェメラ(カタログ、ポスター、案内状など)を核としたコレクションで知られ、展覧会企画も多数。主な展示協力は、京都国立近代美術館、名古屋市美術館、資生堂、モンテクレール美術館、ハングラム美術館。著書に『マン・レイと彼の女友達』『マン・レイになってしまった人』『マン・レイの謎、その時間と場所』『三條廣道辺り』、編纂レゾネに『Man Ray Equations』『Ephemerons: Traces of Man Ray』(いずれも銀紙書房刊)などがある。京都市在住。
*画廊亭主敬白
二年間にわたる石原さんの連載が今回をもって終了します。
正直言って残念です。このブログがある限り書き続けてもらいたい、そんな気持ちにさせる毎回の興味深く、生々しく、それでいて品位を失わない、すばらしいコレクターの自叙伝であり、正確かつ豊富な資料に裏付けられた「マン・レイになってしまった人」による現代美術史といっても過言ではないでしょう。
石原輝雄さんにまだ会う前、私たちの周囲でマン・レイの話題になるときまって「石原さん」の名が飛び交い、その度に「どっちの石原さんよ。ツァイトの石原さん、それとも京都の石原さん?」となるのでした。
京都の石原さんのこの連載にも幾度となくツァイトの石原さんが登場しましたが、マン・レイの受容というより、世界的なレベルでの評価に二人の石原さんが果たした役割は大きい。
奇しくも石原輝雄さんの連載が終了する今日、ときの忘れものから僅か数分の梅窓院で石原悦郎さんの告別式が執り行われます。
二人の石原さんに深い感謝をささげるとともに、京都の石原さん、そして奥様の純子さんの末永い健康とますますのご活躍を祈る次第です。
ありがとうございました。
◆石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」目次
第1回「アンナ 1975年7月8日 東京」
第1回bis「マン・レイ展『光の時代』 2014年4月29日―5月4日 京都」
第2回「シュルレアリスム展 1975年11月30日 京都」
第3回「ヴァランティーヌの肖像 1977年12月14日 京都」
第4回「青い裸体 1978年8月29日 大阪」
第5回「ダダメイド 1980年3月5日 神戸」
第6回「プリアポスの文鎮 1982年6月11日 パリ」
第7回「よみがえったマネキン 1983年7月5日 大阪」
第8回「マン・レイになってしまった人 1983年9月20日 京都」
第9回「ダニエル画廊 1984年9月16日 大阪」
第10回「エレクトリシテ 1985年12月26日 パリ」
第11回「セルフポートレイト 1986年7月11日 ミラノ」
第12回「贈り物 1988年2月4日 大阪」
第13回「指先のマン・レイ展 1990年6月14日 大阪」
第14回「ピンナップ 1991年7月6日 東京」
第15回「破壊されざるオブジェ 1993年11月10日 ニューヨーク」
第16回「マーガレット 1995年4月18日 ロンドン」
第17回「我が愛しのマン・レイ展 1996年12月1日 名古屋」
第18回「1929 1998年9月17日 東京」
第19回「封印された星 1999年6月22日 パリ」
第20回「パリ・国立図書館 2002年11月12日 パリ」
第21回「まなざしの贈り物 2004年6月2日 銀座」
第22回「マン・レイ展のエフェメラ 2008年12月20日 京都」
第23回「天使ウルトビーズ 2011年7月13日 東京」
第24回「月夜の夜想曲 2012年7月7日 東京」
番外編「新刊『マン・レイへの写真日記』 2016年7月京都」
番外編─2『Reflected; 展覧会ポスターに見るマン・レイ』
番外編─2-2『マン・レイへの廻廊』
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●今日のお勧め作品は、宮脇愛子です。

「Work」(15)
2013年
紙に銀ペン
Image size: 24.5x24.5cm
Sheet size: 42.1x29.7cm
サインと年記あり
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