森下泰輔のエッセイ「戦後・現代美術事件簿」第8回
アンディ・ウォーホル来日と“謎の女”安斎慶子
今回は1974年ウォーホル来日騒動である。ファクトリーといえばドラッグ・パーティーがつきものだが、芸能人ならぬ美術家でドラッグで逮捕された御仁も知る限りにおいて多いはずなのだが、あまり表には出てこないのはなぜなのか? 海外ではバスキアがオーバードーズで死んでいる。ドラッグ死したアーティストも多数いるだろう。しかし、逮捕がもとでアーティスト生命が絶たれたなどという話は聞いたことがない。最近ではKのMが検挙、というのを確認している。マリファナで逮捕されている現代美術家も多いが、アメリカなど世界で解禁の流れがあって、刑法はマリファナに関しては再考の余地があるだろう。一説には三木富雄はドラッグ死ともいわれるがはっきりとはしていない。
さて、今回の事件簿は番外編として事件のかかわるものでないことを承知で取り上げたい。それほど影響力を持ちえたと認識するからだ。アンディ・ウォーホルはまだ芸術家としての評価のなかった1956年に世界一周旅行のついでに東京と京都を訪ねてはいるものの、芸術家となってからはこの時が最初で最後の来日だった。
ウォーホルは元来あまり旅行や外出そのものも好きな男ではない。社交的でもない。オープニングの際はトイレに隠れて出てこなかったという有名なエピソードすらある。
何といってもできるだけたくさんの作品を「生産」することしか興味のなかった男で、毎日きちんと定刻にファクトリーにいき、定時に退社するようなサラリーマンか中小工場主のような生活だった。
「ピカソは傑作を4000点作ったそうだ。僕なら1日で作れる。全部同じだから全部傑作だろ(*実際は無理で500点作るのに一か月かかっている。「The Philosophy of Andy Warhol」新潮社刊 p198を参照 1998 原著:1975)」とか「旅というのはハードだね。僕はずっとニューヨークにいたいのさ」など、それを物語るウォーホル語録も多い。
そんな彼がぶらりと訪日したのにはある仕掛けがあった。このときゼネラルプロデューサーの立場にいた安斎慶子である。安斎慶子とは元来アンダーグラウンドに生息する謎の人物でアート関係者ですらその素性はよく知られていなかった。ウォーホルは安斎の人となり、生きざまに共感したのだ。日本で初期の現代アートやポップアートを理解していたのはいわゆる60年代NYから始まったキャンプなアンダーグラウンドの人々だった。宮井陸郎はサイケデリックアート運動の走り、ユニットプロの主宰者だったし、原榮三郎はネオダダ以来の現代美術を写真で追いかけ、「空間の論理 : 日本の現代美術 」(1969 原榮三郎、 藤枝晃雄、篠原有司男 著 ブロンズ社刊)という名著を企画している。
安斎慶子
1974年ころ。
安斎慶子は、明治大学文学部卒業後に寺山修司、羽仁進共同脚本、羽仁進監督「初恋・地獄篇」に寺山の押しで出演し、SM嬢役で女優デビューするが、本業はファッションデザイナーをしておりGSのオックスの衣装で注目された。彫刻家の父が営むマネキン会社を手伝いながらだった。1968~1969年のことだ。一時はコシノジュンコのライバルともいわれルックスもよく似ていた。72年には梅宮辰夫主演「不良番長 一網打尽」(東映東京)で、ファッションデザイナーとして出演、衣装デザインも担当している。「梅宮がド派手な衣装で「ウッシッシッ節」を歌いながら安斎の体に触れようとして安斎が逃げる」展開もあった。
GSのオックス。
安斎慶子デザインの衣装。
1968年
安斎は寺山修司とのニアミスが多かったようだが、寺山修司というのは多面的な顔を持っていた人物で、60年代最大の文化的フィクサーだったとも考えられる。すでに六本木族のアイドル、加賀まりこデビューの背後にも存在していた。60年代後期(*1967年1月~2月から存在したといわれる)渋谷・南平台のお屋敷町の真ん中にアップルハウスという一種のコミューンがあった。ここは明治43年築のアメリカン・ヴィクトリア様式の洋館で、外交官・内田定槌邸(現在、山手イタリア山庭園に移築)があったが、その離れに初代ローリング・ストーンズ、ビートルズファンクラブ(BCC)の拠点があり、家出したファンの少年少女が集っていた。当時若者の外来文化への興味はこれらの台頭した新世代の世界的ロックバンドとウォーホルも話題の中心だった。洋館に「平凡パンチ」「an・an」の制作室だったアド・センター(堀内誠一主宰)があったためモデルの秋川リサやアドの社員だった立木義浩も出入りしていた。寺山は天井桟敷の旗揚げに際し素人の少年少女の役者を起用していたこともありアップルハウスとも関わりがあったと思われる。新しい文化の影にはいつも寺山修司がいた。
寺山は渋谷・並木橋に第一次・天井桟敷館を出した。1969年12月、ここで状況劇場と花輪をめぐり乱闘事件を起こした。この時の各社新聞記事をすべて封入した封筒に寺山は「『路頭劇 葬式の花輪』 主演・寺山修司、唐十郎、劇団天井桟敷、劇団状況劇場、渋谷警察署」と書いている。ちょっとタイムカプセルを思わせる。
1969年12月13日の当時の「朝日新聞」夕刊
1968年ころには安斎慶子と寺山修司はすでに知り合いだったと思われるが、どうして知り合ったかというと、当時世田谷に天井桟敷の秘書兼マネージャー、作曲家・画家の田中未知(*オランダ在住)の家があり、そこで寺山と安斎が意気投合したというから田中未知を介してだったのは間違いない。安斎を誘ったのは先日亡くなられた合田佐和子であったという。
「天井桟敷のドイツ公演の「毛皮のマリー」でかつらが必要になって、安斎さんに借りました。気前よく銀髪のバカでかいかつらを六、七個くれました」(萩原朔美)。
安斎のファッション観は既成のアパレルの考えを大きく逸脱しており、ほとんど現代アートの考え方に当時すでに同調していた。その意味で先駆者のひとりだろう。だが日本の風土はこうした変革的先駆者に非常に不寛容なのだ。「日本にはアートを育てる土壌がまったくない」「日本のファッションはアートではなく単純なビジネスだ」など、ファッション業界、美術業界を批判するような発言も多々あった。
日本に半ば愛想をつかした安斎は、73年に入ってNYにいき、ジョン&ヨーコ、サルバドール・ダリ、ローリング・ストーンズ、ボブ・ディラン、ヘンリー・ミラーらとヨーコの仲介もあって短期間に奇跡的に立て続けに知り合い、まずアンディ・ウォーホルを日本に紹介しようとした。(*70年代半ば、日本から安斎がディランにホットラインをかけていた事実も確認している)。
サルバドール・ダリと安斎慶子
1973年ころ。
ニューヨークにて。
リンゴ・スターと安斎慶子
1976年ころ。
ロスアンジェルスで。
アンディは1983年、ときの忘れものの前身の現代版画センターが「KIKU」「LOVE」の唯一の日本エディション作品展で招へいしようとした時も「アンディがNYを一週間離れるのは100万ドルの損失」といわれ実現しなかった。それより10年前とはいっても70年すでにホイットニー美術館で回顧展を開催している大物である、簡単に来日するわけもなく安斎慶子のキャラによるところが大きかったと思われる。
1974年9月30日にアメリカンセンターで開催されたウォーホル展の記者発表会見には、寺山修司、宮井陸郎と臨んだ。「寺山さん、アンディの作品は高くなると思います?」(安斎)、「僕は競馬の予想はするけど美術品の予想はしたことないのでわからない」(寺山)。
1974年9月30日、アメリカンセンターでの「アンディ・ウォーホル展」記者発表会見での寺山修司、安斎慶子、宮井陸郎。
実は筆者は1976年から77年まで寺山修司の連載(*「人生万才」)担当者をしていたこともあって、毎週会っていたので1年半で60回以上も会っていたことになる。その間、寺山が挿絵を「アンディ・ウォーホルにやってもらう。ウォーホルに電話する」といっていたので驚いたが、旧知の間柄だった。74年来日時に安斎を介して知り合ったのだろう。
展覧会そのものに関しては以前のとき忘れものブログ「私のAndy Warhol体験 - その4 大丸個展、1974年」を参照していただきたい。
http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53106253.html
来日したアンディ・ウォーホルを追い続けた写真家・原榮三郎による貴重なプリントが多数残されている。約2週間の滞在中、原は飛行機から降り立つ場面から個展の会場準備、テレビ出演、新幹線、東京・京都・神戸など帰国するまで密着した。35ミリのポジとネガフィルムで撮影しており、カラー5本、白黒28本の合わせて33本が残されていた。;
アンディ・ウォーホル来日時の写真。
黒柳徹子のインタヴューを受けるウォーホル。
撮影:原榮三郎
1974年
京都・桂離宮を散策するアンディ・ウォーホルと安斎慶子
1974年。(「アサヒグラフ」1974年11月22日号より)
観世能楽堂でのアンディ・ウォーホルと安斎慶子
1974年。(「アサヒグラフ」1974年11月22日号より)
「アサヒグラフ」(朝日新聞社刊)1974年11月22日号表紙。
一昨年森美術館で開催された「アンディ・ウォーホル展」ではピッツバーグに保管されているタイムカプセルを開陳、74年の来日時、どういったものが彼の興味の対象であったのがよくわかる。もともと物事を表層的情報ととらえるウォーホルは、ここでも写楽や光琳の画集、長嶋茂雄の本、富士山写真集など、通り一遍の観光客のようなグッズを買い求めたか贈られ、たぶんざっと見ただけでタイムカプセルの段ボールに放り込んで封印してナンバリングし保管している。しかしそのこと自体がウォーホルの概念と一致しているのだ。
「日本ではデパートで美術展を開催するのか。興味深い。」(アンディ・ウォーホル)。アンディは日本ではポップアートなど必要ない、と思ったかもしれない。すでに美術品は百貨店の高額商品だったからだ。アンディ・ウォーホル・エンタープライズを組織してAD部門、商業映画部門を立ち上げていたとしてもハイアートの価値づけはまた別であった。
アンディ・ウォーホル「タイムカプセル#102」に見る1974年来日当時に集めたものが中心と思しき日本関連の物品。手前に安斎慶子がウォーホルに贈った手作りの財布が見える。(森美術館 「Andy Warhol」展パンフレットより 2014)
アンディは新聞社が主催し(*当該展は朝日新聞社)、百貨店(*大丸東京店と神戸店)で開催することに興味は感じただろうが、あまり気分がよくなかった節がある。現在のようにバブルの遺産で箱もの美術館が乱立する以前だったため、このころは百貨店中心の展開だったが、そのことはグローバルアート界からすれば、芸術家の経歴を下げることになるのでウォーホルは公式履歴から74年の大丸展示をはずしていたと思われる。
同じことはテレビCM出演に関してもいえ、世界標準からいえば、アーティストが商業主義的コマーシャルなどに出演したなら一発で思考を疑われレベルダウンするのが常だ。ウォーホルがTDKのCMに出演したのは「日本だから」なのだ。このように日本の特殊性とハイアートの境には実は大きな河が流れているのだが、日本人一般は一切知らないだろう。日本ではブランドは「最高」なのだが、芸術の世界標準からいえば微妙だ。また、あまたの公立私立美術館が美術館・博物館本来の分析・収集業務を伴わない場合も「美術館」とは認められないのである。ハイアートとはそれほど厳密であり、「日本の常識は世界の非常識」である点は一応理解していたほうが良い。
TDKのCMに出演したアンディ・ウォーホル。
1983年。
大丸のポスターと会場を埋めた白地に蛍光ピンクの「CAW」(牛の壁紙)は1966~71のファクトリーエディション版を踏襲していたが、ファクトリーはこれを正式にエディション版画とはしなかったのも、デパートであったためかもしれない。(*来日と同期にイケバナシリーズをファクトリーは正式エディションしたが)
1974年大丸での「ウォーホル展」ポスター。
さて、ウォーホル来日はジャーナリズム、テレビメディアの一大関心事となり、テレビニュース、新聞記事、「週刊現代」「週刊新潮」をはじめとする週刊誌、「アサヒグラフ」といった月刊誌などがこぞって取り上げ、1966年の「ビートルズ来日」同様の社会現象の様相を呈した。だが、当時でも3000万円のキャンバスものをその値段で買おうという富裕層は皆無であった。
「画壇最高の梅原龍三郎よりも高い。」(当時の某百貨店美術部)との発言は現在おおむね50億以上していることからしてまったく的外れな考え方であることが証明されるだろう。現代美術のなんたるかも分かっていないのだ。アンディの作品が「塗り絵」のようなものであったとしても、では梅原龍三郎は丹念に描いているのか?
大丸の展覧会日程にしてもわずか2週間未満である(*神戸展もいれて約3週間)。この時のウォーホル来日に尽力し彼をエスコートした安斎慶子はまず、東京の観世能楽堂へ連れていき能の稽古を鑑賞してもらう。京都では桂離宮をめぐる、といった具合にウォーホル自体は急進的現代美術家であったとしても日本のパブリックイメージは相変わらず伝統的部分であることも忘れてはいなかった。安斎はレセプションパーティーを「蓮華王院・三十三間堂」を借り切って行おうともしたが実現には至らなかった(*もはや確認しようがないがウォーホルのオーダーもあったのか?)。以前にも書いたがアンディは56年の京都旅行の際、ここに立ち寄っていることが確認されているので、彼ののちの繰り返し概念に関し何らかの影響があったのではないのか、というのが持論である。
アンディ・ウォーホルと安斎慶子
1974年ころ。
ニューヨークにて。
敏腕ファクトリーマネージャー、フレッド・ヒューズと来日したウォーホルはあわただしく日程を終えて離日した。
安斎慶子もこのとき注目され「21世紀をつくる日本のリーダー110人のレディース」(1978年10月26日号 女性自身 光文社刊)で小沢遼子、中山千夏、中島梓、向田邦子、橋田寿賀子、池田理代子らと取り上げられている。
安斎は1978年には米コロンバス美術館所蔵品による「美の巨匠たち展」(新宿・伊勢丹7Fクローバーホール)ではレンブラント、ルーベンスなどの古典絵画のキュレーションも行った。すでに2007年に亡くなられたそうだが、現在、安斎慶子伝を出版しようという動きもある。この稀有な女傑の物語はその本によって長く語り継がれるかもしれない。(敬称略)
(もりした たいすけ)
●森下泰輔「戦後・現代美術事件簿」
第1回/犯罪者同盟からはじまった
第2回/模型千円札事件
第3回/泡沫芸術家の選挙戦
第4回/小山哲男、ちだ・ういの暴走
第5回/草間彌生・築地署連行事件
第6回/記憶の中の天皇制
第7回/ヘアヌード解禁前夜「Yellows」と「サンタ・フェ」
第8回/アンディ・ウォーホル来日と“謎の女”安斎慶子
第9回/性におおらかだったはずの国のろくでなし子
第10回/黒川紀章・アスベストまみれの世界遺産“候補”建築
■森下泰輔(Taisuke MORISHITA 現代美術家・美術評論家)
新聞記者時代に「アンディ・ウォーホル展 1983~1984」カタログに寄稿。1993年、草間彌生に招かれて以来、ほぼ連続してヴェネチア・ビエンナーレを分析、新聞・雑誌に批評を提供している。「カルトQ」(フジテレビ、ポップアートの回優勝1992)。ギャラリー・ステーション美術評論公募最優秀賞(「リチャード・エステスと写真以降」2001)。現代美術家としては、 多彩なメディアを使って表現。'80年代には国際ビデオアート展「インフェルメンタル」に選抜され、作品はドイツのメディア・アート美術館ZKMに収蔵。'90年代以降ハイパー資本主義、グローバリゼーション等をテーマにバーコードを用いた作品を多く制作。2010年、平城遷都1300年祭公式招待展示「時空 Between time and space」(平城宮跡)参加。個展は、2011年「濃霧 The dense fog」Art Lab AKIBAなど。Art Lab Group 運営委員。2014年、伊藤忠青山アートスクエアの森美術館連動企画「アンディ・ウォーホル・インスパイア展」でウォーホルに関するトークを行った。
●今日のお勧め作品は、アンディ・ウォーホルです。
アンディ・ウォーホル
「KIKU(小)」
1983年
シルクスクリーン
Image size: 22.0x29.0cm
Sheet size: 23.0x30.cm
*1983年の『アンディ・ウォーホル展』カタログに挿入したオリジナル作品の断裁前のフルマージンの作品です。
現在開催中の「アートブックラウンジ Vol.1 版画挿入本の魅力」に出品しています。
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
◆森下泰輔のエッセイ「 戦後・現代美術事件簿」は毎月18日の更新です。
アンディ・ウォーホル来日と“謎の女”安斎慶子
今回は1974年ウォーホル来日騒動である。ファクトリーといえばドラッグ・パーティーがつきものだが、芸能人ならぬ美術家でドラッグで逮捕された御仁も知る限りにおいて多いはずなのだが、あまり表には出てこないのはなぜなのか? 海外ではバスキアがオーバードーズで死んでいる。ドラッグ死したアーティストも多数いるだろう。しかし、逮捕がもとでアーティスト生命が絶たれたなどという話は聞いたことがない。最近ではKのMが検挙、というのを確認している。マリファナで逮捕されている現代美術家も多いが、アメリカなど世界で解禁の流れがあって、刑法はマリファナに関しては再考の余地があるだろう。一説には三木富雄はドラッグ死ともいわれるがはっきりとはしていない。
さて、今回の事件簿は番外編として事件のかかわるものでないことを承知で取り上げたい。それほど影響力を持ちえたと認識するからだ。アンディ・ウォーホルはまだ芸術家としての評価のなかった1956年に世界一周旅行のついでに東京と京都を訪ねてはいるものの、芸術家となってからはこの時が最初で最後の来日だった。
ウォーホルは元来あまり旅行や外出そのものも好きな男ではない。社交的でもない。オープニングの際はトイレに隠れて出てこなかったという有名なエピソードすらある。
何といってもできるだけたくさんの作品を「生産」することしか興味のなかった男で、毎日きちんと定刻にファクトリーにいき、定時に退社するようなサラリーマンか中小工場主のような生活だった。
「ピカソは傑作を4000点作ったそうだ。僕なら1日で作れる。全部同じだから全部傑作だろ(*実際は無理で500点作るのに一か月かかっている。「The Philosophy of Andy Warhol」新潮社刊 p198を参照 1998 原著:1975)」とか「旅というのはハードだね。僕はずっとニューヨークにいたいのさ」など、それを物語るウォーホル語録も多い。
そんな彼がぶらりと訪日したのにはある仕掛けがあった。このときゼネラルプロデューサーの立場にいた安斎慶子である。安斎慶子とは元来アンダーグラウンドに生息する謎の人物でアート関係者ですらその素性はよく知られていなかった。ウォーホルは安斎の人となり、生きざまに共感したのだ。日本で初期の現代アートやポップアートを理解していたのはいわゆる60年代NYから始まったキャンプなアンダーグラウンドの人々だった。宮井陸郎はサイケデリックアート運動の走り、ユニットプロの主宰者だったし、原榮三郎はネオダダ以来の現代美術を写真で追いかけ、「空間の論理 : 日本の現代美術 」(1969 原榮三郎、 藤枝晃雄、篠原有司男 著 ブロンズ社刊)という名著を企画している。

1974年ころ。
安斎慶子は、明治大学文学部卒業後に寺山修司、羽仁進共同脚本、羽仁進監督「初恋・地獄篇」に寺山の押しで出演し、SM嬢役で女優デビューするが、本業はファッションデザイナーをしておりGSのオックスの衣装で注目された。彫刻家の父が営むマネキン会社を手伝いながらだった。1968~1969年のことだ。一時はコシノジュンコのライバルともいわれルックスもよく似ていた。72年には梅宮辰夫主演「不良番長 一網打尽」(東映東京)で、ファッションデザイナーとして出演、衣装デザインも担当している。「梅宮がド派手な衣装で「ウッシッシッ節」を歌いながら安斎の体に触れようとして安斎が逃げる」展開もあった。

安斎慶子デザインの衣装。
1968年
安斎は寺山修司とのニアミスが多かったようだが、寺山修司というのは多面的な顔を持っていた人物で、60年代最大の文化的フィクサーだったとも考えられる。すでに六本木族のアイドル、加賀まりこデビューの背後にも存在していた。60年代後期(*1967年1月~2月から存在したといわれる)渋谷・南平台のお屋敷町の真ん中にアップルハウスという一種のコミューンがあった。ここは明治43年築のアメリカン・ヴィクトリア様式の洋館で、外交官・内田定槌邸(現在、山手イタリア山庭園に移築)があったが、その離れに初代ローリング・ストーンズ、ビートルズファンクラブ(BCC)の拠点があり、家出したファンの少年少女が集っていた。当時若者の外来文化への興味はこれらの台頭した新世代の世界的ロックバンドとウォーホルも話題の中心だった。洋館に「平凡パンチ」「an・an」の制作室だったアド・センター(堀内誠一主宰)があったためモデルの秋川リサやアドの社員だった立木義浩も出入りしていた。寺山は天井桟敷の旗揚げに際し素人の少年少女の役者を起用していたこともありアップルハウスとも関わりがあったと思われる。新しい文化の影にはいつも寺山修司がいた。
寺山は渋谷・並木橋に第一次・天井桟敷館を出した。1969年12月、ここで状況劇場と花輪をめぐり乱闘事件を起こした。この時の各社新聞記事をすべて封入した封筒に寺山は「『路頭劇 葬式の花輪』 主演・寺山修司、唐十郎、劇団天井桟敷、劇団状況劇場、渋谷警察署」と書いている。ちょっとタイムカプセルを思わせる。

1968年ころには安斎慶子と寺山修司はすでに知り合いだったと思われるが、どうして知り合ったかというと、当時世田谷に天井桟敷の秘書兼マネージャー、作曲家・画家の田中未知(*オランダ在住)の家があり、そこで寺山と安斎が意気投合したというから田中未知を介してだったのは間違いない。安斎を誘ったのは先日亡くなられた合田佐和子であったという。
「天井桟敷のドイツ公演の「毛皮のマリー」でかつらが必要になって、安斎さんに借りました。気前よく銀髪のバカでかいかつらを六、七個くれました」(萩原朔美)。
安斎のファッション観は既成のアパレルの考えを大きく逸脱しており、ほとんど現代アートの考え方に当時すでに同調していた。その意味で先駆者のひとりだろう。だが日本の風土はこうした変革的先駆者に非常に不寛容なのだ。「日本にはアートを育てる土壌がまったくない」「日本のファッションはアートではなく単純なビジネスだ」など、ファッション業界、美術業界を批判するような発言も多々あった。
日本に半ば愛想をつかした安斎は、73年に入ってNYにいき、ジョン&ヨーコ、サルバドール・ダリ、ローリング・ストーンズ、ボブ・ディラン、ヘンリー・ミラーらとヨーコの仲介もあって短期間に奇跡的に立て続けに知り合い、まずアンディ・ウォーホルを日本に紹介しようとした。(*70年代半ば、日本から安斎がディランにホットラインをかけていた事実も確認している)。

1973年ころ。
ニューヨークにて。

1976年ころ。
ロスアンジェルスで。
アンディは1983年、ときの忘れものの前身の現代版画センターが「KIKU」「LOVE」の唯一の日本エディション作品展で招へいしようとした時も「アンディがNYを一週間離れるのは100万ドルの損失」といわれ実現しなかった。それより10年前とはいっても70年すでにホイットニー美術館で回顧展を開催している大物である、簡単に来日するわけもなく安斎慶子のキャラによるところが大きかったと思われる。
1974年9月30日にアメリカンセンターで開催されたウォーホル展の記者発表会見には、寺山修司、宮井陸郎と臨んだ。「寺山さん、アンディの作品は高くなると思います?」(安斎)、「僕は競馬の予想はするけど美術品の予想はしたことないのでわからない」(寺山)。

実は筆者は1976年から77年まで寺山修司の連載(*「人生万才」)担当者をしていたこともあって、毎週会っていたので1年半で60回以上も会っていたことになる。その間、寺山が挿絵を「アンディ・ウォーホルにやってもらう。ウォーホルに電話する」といっていたので驚いたが、旧知の間柄だった。74年来日時に安斎を介して知り合ったのだろう。
展覧会そのものに関しては以前のとき忘れものブログ「私のAndy Warhol体験 - その4 大丸個展、1974年」を参照していただきたい。
http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53106253.html
来日したアンディ・ウォーホルを追い続けた写真家・原榮三郎による貴重なプリントが多数残されている。約2週間の滞在中、原は飛行機から降り立つ場面から個展の会場準備、テレビ出演、新幹線、東京・京都・神戸など帰国するまで密着した。35ミリのポジとネガフィルムで撮影しており、カラー5本、白黒28本の合わせて33本が残されていた。;

黒柳徹子のインタヴューを受けるウォーホル。
撮影:原榮三郎
1974年

1974年。(「アサヒグラフ」1974年11月22日号より)

1974年。(「アサヒグラフ」1974年11月22日号より)

一昨年森美術館で開催された「アンディ・ウォーホル展」ではピッツバーグに保管されているタイムカプセルを開陳、74年の来日時、どういったものが彼の興味の対象であったのがよくわかる。もともと物事を表層的情報ととらえるウォーホルは、ここでも写楽や光琳の画集、長嶋茂雄の本、富士山写真集など、通り一遍の観光客のようなグッズを買い求めたか贈られ、たぶんざっと見ただけでタイムカプセルの段ボールに放り込んで封印してナンバリングし保管している。しかしそのこと自体がウォーホルの概念と一致しているのだ。
「日本ではデパートで美術展を開催するのか。興味深い。」(アンディ・ウォーホル)。アンディは日本ではポップアートなど必要ない、と思ったかもしれない。すでに美術品は百貨店の高額商品だったからだ。アンディ・ウォーホル・エンタープライズを組織してAD部門、商業映画部門を立ち上げていたとしてもハイアートの価値づけはまた別であった。

アンディは新聞社が主催し(*当該展は朝日新聞社)、百貨店(*大丸東京店と神戸店)で開催することに興味は感じただろうが、あまり気分がよくなかった節がある。現在のようにバブルの遺産で箱もの美術館が乱立する以前だったため、このころは百貨店中心の展開だったが、そのことはグローバルアート界からすれば、芸術家の経歴を下げることになるのでウォーホルは公式履歴から74年の大丸展示をはずしていたと思われる。
同じことはテレビCM出演に関してもいえ、世界標準からいえば、アーティストが商業主義的コマーシャルなどに出演したなら一発で思考を疑われレベルダウンするのが常だ。ウォーホルがTDKのCMに出演したのは「日本だから」なのだ。このように日本の特殊性とハイアートの境には実は大きな河が流れているのだが、日本人一般は一切知らないだろう。日本ではブランドは「最高」なのだが、芸術の世界標準からいえば微妙だ。また、あまたの公立私立美術館が美術館・博物館本来の分析・収集業務を伴わない場合も「美術館」とは認められないのである。ハイアートとはそれほど厳密であり、「日本の常識は世界の非常識」である点は一応理解していたほうが良い。

1983年。
大丸のポスターと会場を埋めた白地に蛍光ピンクの「CAW」(牛の壁紙)は1966~71のファクトリーエディション版を踏襲していたが、ファクトリーはこれを正式にエディション版画とはしなかったのも、デパートであったためかもしれない。(*来日と同期にイケバナシリーズをファクトリーは正式エディションしたが)

さて、ウォーホル来日はジャーナリズム、テレビメディアの一大関心事となり、テレビニュース、新聞記事、「週刊現代」「週刊新潮」をはじめとする週刊誌、「アサヒグラフ」といった月刊誌などがこぞって取り上げ、1966年の「ビートルズ来日」同様の社会現象の様相を呈した。だが、当時でも3000万円のキャンバスものをその値段で買おうという富裕層は皆無であった。
「画壇最高の梅原龍三郎よりも高い。」(当時の某百貨店美術部)との発言は現在おおむね50億以上していることからしてまったく的外れな考え方であることが証明されるだろう。現代美術のなんたるかも分かっていないのだ。アンディの作品が「塗り絵」のようなものであったとしても、では梅原龍三郎は丹念に描いているのか?
大丸の展覧会日程にしてもわずか2週間未満である(*神戸展もいれて約3週間)。この時のウォーホル来日に尽力し彼をエスコートした安斎慶子はまず、東京の観世能楽堂へ連れていき能の稽古を鑑賞してもらう。京都では桂離宮をめぐる、といった具合にウォーホル自体は急進的現代美術家であったとしても日本のパブリックイメージは相変わらず伝統的部分であることも忘れてはいなかった。安斎はレセプションパーティーを「蓮華王院・三十三間堂」を借り切って行おうともしたが実現には至らなかった(*もはや確認しようがないがウォーホルのオーダーもあったのか?)。以前にも書いたがアンディは56年の京都旅行の際、ここに立ち寄っていることが確認されているので、彼ののちの繰り返し概念に関し何らかの影響があったのではないのか、というのが持論である。

1974年ころ。
ニューヨークにて。
敏腕ファクトリーマネージャー、フレッド・ヒューズと来日したウォーホルはあわただしく日程を終えて離日した。
安斎慶子もこのとき注目され「21世紀をつくる日本のリーダー110人のレディース」(1978年10月26日号 女性自身 光文社刊)で小沢遼子、中山千夏、中島梓、向田邦子、橋田寿賀子、池田理代子らと取り上げられている。
安斎は1978年には米コロンバス美術館所蔵品による「美の巨匠たち展」(新宿・伊勢丹7Fクローバーホール)ではレンブラント、ルーベンスなどの古典絵画のキュレーションも行った。すでに2007年に亡くなられたそうだが、現在、安斎慶子伝を出版しようという動きもある。この稀有な女傑の物語はその本によって長く語り継がれるかもしれない。(敬称略)
(もりした たいすけ)
●森下泰輔「戦後・現代美術事件簿」
第1回/犯罪者同盟からはじまった
第2回/模型千円札事件
第3回/泡沫芸術家の選挙戦
第4回/小山哲男、ちだ・ういの暴走
第5回/草間彌生・築地署連行事件
第6回/記憶の中の天皇制
第7回/ヘアヌード解禁前夜「Yellows」と「サンタ・フェ」
第8回/アンディ・ウォーホル来日と“謎の女”安斎慶子
第9回/性におおらかだったはずの国のろくでなし子
第10回/黒川紀章・アスベストまみれの世界遺産“候補”建築
■森下泰輔(Taisuke MORISHITA 現代美術家・美術評論家)
新聞記者時代に「アンディ・ウォーホル展 1983~1984」カタログに寄稿。1993年、草間彌生に招かれて以来、ほぼ連続してヴェネチア・ビエンナーレを分析、新聞・雑誌に批評を提供している。「カルトQ」(フジテレビ、ポップアートの回優勝1992)。ギャラリー・ステーション美術評論公募最優秀賞(「リチャード・エステスと写真以降」2001)。現代美術家としては、 多彩なメディアを使って表現。'80年代には国際ビデオアート展「インフェルメンタル」に選抜され、作品はドイツのメディア・アート美術館ZKMに収蔵。'90年代以降ハイパー資本主義、グローバリゼーション等をテーマにバーコードを用いた作品を多く制作。2010年、平城遷都1300年祭公式招待展示「時空 Between time and space」(平城宮跡)参加。個展は、2011年「濃霧 The dense fog」Art Lab AKIBAなど。Art Lab Group 運営委員。2014年、伊藤忠青山アートスクエアの森美術館連動企画「アンディ・ウォーホル・インスパイア展」でウォーホルに関するトークを行った。
●今日のお勧め作品は、アンディ・ウォーホルです。

「KIKU(小)」
1983年
シルクスクリーン
Image size: 22.0x29.0cm
Sheet size: 23.0x30.cm
*1983年の『アンディ・ウォーホル展』カタログに挿入したオリジナル作品の断裁前のフルマージンの作品です。
現在開催中の「アートブックラウンジ Vol.1 版画挿入本の魅力」に出品しています。
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
◆森下泰輔のエッセイ「 戦後・現代美術事件簿」は毎月18日の更新です。
コメント