森本悟郎のエッセイ その後・第24回

赤瀬川原平とライカ同盟 (4) パリ開放(上)


1998年3月、都内でのこと、翌月始まる三重県立美術館「三重視」展打合せの席で、次はどこへ行こうかという話になった。「まあ、冗談だけどパリはどうかな」といったのは赤瀬川さんである。実はライカ同盟が始まった頃からパリというのはひとつの目標だったようだ。

「パリ行きたいねー」
「だったらパリ解放だ!」
「でもパリはもう解放されちゃったからな」
「それなら開放値の違うレンズを揃えて、絞り開放で撮影する〈パリ開放〉ってのはどう?」
というようなぐあいで、ダジャレとはいえ話だけはできていたのだ。

「三重の次がパリですか」というぼくに、「見栄っ張り(三重パリ)だからね」と高梨家元。

パリとなると、名古屋や三重のようなわけには行かない、遠いだけでなく予算もかかる。そこでライカ同盟から提案されたのは、雑誌か写真集がらみで出版社をスポンサーにつけようということだった。その後、同盟員の仕事実績などからいろいろと検討した結果、H社に的を絞り、「三重視」名古屋展開催直前の6月10日、アポイントを取り、一同うち揃って勢いよく出掛けたが、結果は惨敗。出版不況というものを痛感させられた。

「こうなったらダメもとで、中京大学(正しくは梅村学園)の理事長に相談してみよう」と声をあげたのは、梅村清弘理事長(当時)の覚えめでたい秋山総督。それを名古屋展初日(13日)の夜、宴席で敢行した。この奇襲作戦は成功し、翌年のパリ撮影行が決まった(決まったが、上長と相談しながら起案をあげていくという組織の慣行破りだったため、この後、ぼくは学内でちょっとした苦労を味わうことになる。終わったことだし、十分楽しんだからいいけれど)。

日程は1999年5月20日から29日までの10日間で、実質撮影日は7日。メンバーは赤瀬川さん、秋山さん、高梨さん、高梨事務所の阿部さん、(後に博多展・倉敷展をプロデュースすることになる)アートプロデューサーの倉本さんの5人が東京組、従軍カメラマンの二塚さんとぼくの2人が名古屋組。他費自費とり混ぜての一団である。オランダ航空のビジネスクラスを使い、スキポール空港で飛行機を乗り換えてパリに入った。

宿舎のコンコルド・サン・ラザールに着いたのは雨の夜。翌日からの天気が気にはなったが、7日あれば撮れるだろうと、心配するほどではなかった。広々としたロビーのあるこのホテルは、1932年にアンリ・カルティエ=ブレッソンが水たまりを飛び越す男を撮ったサン・ラザール駅の前にあり、メトロの駅も近くて、移動には便利な立地だった。パリ第1日目はホテルで夕食を摂っただけで反省会もなく、すぐに就寝となった。(続く)

01撮影初日(アラブ世界研究所屋上)


02ホテルロビーの総督(コンコルド・サン・ラザール)
撮影:二塚一徹


03ドラクロワの墓を撮る宗匠(ペール=ラシェーズ墓地)
撮影:二塚一徹


04撮影中の家元(撮影場所不詳)
撮影:二塚一徹


もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年愛知県に生まれる。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。

●今日のお勧め作品は、横尾忠則細江英公です。
20160318_yokoo_17_barakei横尾忠則・細江英公
「薔薇刑(三島由紀夫)」
2007年
スクリーンプリント
103.0x72.8cm
Ed.150
サインあり(横尾忠則・細江英公)
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください


◆森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日の更新です。