新連載・杉山幸一郎のエッセイ「幸せにみちたくうかんを求めて」

第1回 アルプスの小さな村から


いま僕が文字を打ち始めたこのリビングは、東京から飛行機で12時間程離れたスイスのチューリッヒから、さらに電車で一時間半南下したところにあるクールという街です。

クールという名前でcoolと一瞬冗談を言いたくなるけれど、綴りはChur。
地域によってはフールとも呼ばれ、かつてアルプスを南北につなぐ交通の要所であったために栄えた、約5000年の歴史がある街です。

クールは数ある州の中でもスイスらしい山々の風景が広がるグラウビュンデン州の州都であり、日本人観光客に人気のある登山急行、氷河鉄道の主要駅でもあり、近くにはアルプスの少女ハイジで有名な村があるところ。ぼんやりと風景がイメージできてきたでしょうか?
また何よりスイス建築に興味がある人なら一度は聞いたことのある街です。
というのは、この周辺には日本でもよく知られている建築家ピーターズントー(ペーターツムトー)、ヴァレリオオルジアティ、その父ルドルフオルジアティ、ギオンカミナダなどが拠点としている村々があり、その他にも多くの素晴らしい建築家が設計事務所を構え、その所員たちが住んでいる街だからです。
人口一万人ほどの街にもかかわらず世界中から建築家が集まり、僕たち日本人建築家も少なからずここに住んでいます。

僕が通っているのはそのクールの隣にあるハルデンシュタインという人口1000人の村です。

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毎朝七時半、僕はクールの自宅から自転車に乗ってライン川の支流を渡り坂を上って、ハルデンシュタインへやってきます。村には一時間に2本だけバスがやってきて、日曜日にはありません。もちろん電車はありません。

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そのバスが車体を傷つけないように気をつけながら曲がる急カーブ。
僕はこの中腹で、疲れもあって自転車を止め、ふと奥に見える山々の谷を眺めるのが好きです。
雪が積もって険しく荘厳な表情を見せる時もあれば、朱から蒼に変わる美しい浮世絵のような空を見せてくれる時もあります。この澄み渡り、時に淀んだ谷の風景で、今日は透き通った空だから善いことがありそうだと。今日一日の自分を占い一喜一憂するのが日課です。

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ハルデンシュタインにはお城があります。城壁に囲まれた中庭からの風景は気持ちが良い。それでも多くの人はあまり関心がないかもしれません。キャッスルというほど仰々しい外観でもないので、気づいたようで気づいてなかった。なんてこともあり得ます。

先日友人がこう話していました。
「ハルデンシュタインに来る建築家、建築学生は皆、村の奥にあるズントーのアトリエばかりを見にやってくる。それはもの凄く残念。。村の入り口にはこんなに素晴らしいお城があるのに。そして教会もある。スイスの小さな村で活動する世界的な建築家。でも本当にすごいのは何百年もここに建ち続けているこのお城かもしれない。」

世界各国からこの小さく辺鄙な村に足を運んでズントー建築を見に来るのは、はっきり言ってコアな人たち。だけれどもいくらそこで素晴らしいスケッチを描きあげ、美しい写真を撮り、ズントーの作品を知ることができても、ズントーの姿勢を、彼の考えを知ることはできない。
なぜならズントー自身が「有名な建築」に全く興味を持っていないからです。

ある女性建築家が僕に尋ねてきたことがあります。
「ズントーがハルデンシュタインでなく、チューリッヒで活動していたらどうだったろう。」
僕は全く違ったアプローチをする建築家になっていたと。もとより、そういった選択は初めから彼にはなかったように思います。彼の建築はこの村でしかできないもの。つまり、彼を知るには村を歩いて自分なりの建築の欠片を集めてみることです。

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この先の探求は読者の皆さん自身に任せるとして、次回は新しく建てられた事務所ビルを見ていこうと思います。
すぎやま こういちろう

■杉山幸一郎 Koichiro SUGIYAMA
1984年生まれ。日本大学高宮研究室で建築を学び、2008年東京藝術大学大学院北川原研究室に入学。
在学中にETH Zurichに留学し大学院修了後、建築家として活動する。
2014年文化庁新進芸術家海外研修制度によりスイスにて研修。 2015年からアトリエ ピーターズントー アンド パートナー。
世の中に満ち溢れているけれどなかなか気づくことができないものを見落とさないように、感受性の幅を広げようと日々努力しています。

●今日のお勧め作品は、ル・コルビュジエです。
20160410_corbusier_30ル・コルビュジエ
「雄牛#6」
1964年
リトグラフ
イメージサイズ:60.0×52.0cm
シートサイズ:71.7×54.0cm
Ed.150
サインあり


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*画廊亭主敬白
小林紀晴さん、夜野悠さんに続き、スイスで活躍する若い建築家・杉山幸一郎さんの新連載エッセイが今日からスタートします。これでブログ執筆陣の再編が一段落しました。
このほかにも暖めている新企画がいくつかあるのですが、亭主がリハビリ最優先の毎日なので、お披露目は少し後になります。

ギャラリーときの忘れもののブログで、夜野悠氏が連載エッセイ『書斎の漂流物』をスタートさせた。詩的な雰囲気に包まれた海辺の写真に瀧口修造氏を想起させる言葉が置かれている。パリのグラン・パレで逃したトワイヤンのドローイングにまつわる興味深い話題を、氏の巧みな物語の進行に導かれて楽しく拝読させていただいた。氏の架蔵される稀覯本やエフェメラも素晴らしい(涎ですな)。「蒐集とは精神にぽっかりとあいた穴をふさごうとする代償行為」と氏は指摘されているが、引退した募集家であるわたしは、これから毎月5日の掲載を楽しみに、「穴をふさぐ」日々を過ごせてもらうつもりである。
石原輝雄さんのブログより>
大連載を終了したばかりの石原さんのブログにあるように夜野さんのエッセイは登場して早々、大好評で週間人気ランキングでもダントツの一位でした。
コレクター、作家、建築家、研究者などなど、ときの忘れもののブログはお客様が豊かなコレクションを形成するために手助けとなるような内容を目指しています。執筆者の皆さんのモチベーションは読者の皆さんの反応にかかっています、どうぞご愛読ください。

◆杉山幸一郎のエッセイ「幸せにみちたくうかんを求めて」は毎月10日の更新です。
 ・芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。
 ・藤本貴子のエッセイ「建築圏外通信」は毎月22日の更新です。
 ・八束はじめ・彦坂裕のエッセイ「建築家のドローイング」(再録)は毎月24日の更新です。
 ・植田実のエッセイ「美術展のおこぼれ」は、更新は随時行います。
  同じく植田実のエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」と合わせお読みください。
  「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。