「瀧口修造とマルセル・デュシャン」第21回
Shuzo TAKIGUCHI and Marcel Duchamp Vol.21

土渕信彦


1.米国旅行(その4)
はじめに前回の補足・訂正をひとつ。前回、綾子夫人宛て9月22日スタンプの絵葉書(図21-1)をご紹介したが、この文中でN.Y.の空港まで瀧口を出迎えてくれた人物として、荒川、マデリンとともに「ギンズバーグ」の名が挙げられていた。この「ギンズバーグ」はエリザベス・ギンズバーグのことで、アレン・ギンズバーグではないようなので、補足・訂正しておきたい。

図21-1 絵葉書文面図21-1
9月22日スタンプの絵葉書
(後出「「東京ローズ・セラヴィ―瀧口修造とマルセル・デュシャン」展図録より転載」


エリザベス・ギンズバーグの名前は、慶應義塾大学アート・センター「東京ローズ・セラヴィ―瀧口修造とマルセル・デュシャン」展図録(2012年。図21-2)の、朝木由香さんの論考”Personally Traveling”のなかで、瀧口が米国旅行で使用した手帖(図21-3)に名前が記載されている人物として挙げられている。この点は愛媛県在住の畏友清家克久氏からご教示いただいた。清家氏には30年以上お付合いいただいており、常々、啓発されている。記して感謝申し上げたい。なお、朝木さんの上記の論考は、米国旅行についての基本文献の1つといえるだろう。以下に旅程をまとめるに当たり、大いに参考にさせていただいた。

図21-2 慶應アートセンター図録図21-2
慶應義塾大学アート・センター
「東京ローズ・セラヴィ―瀧口修造とマルセル・デュシャン」展図録、2012年12月


図21-3 旅の手帖図21-3
瀧口修造「旅の手帖」
(慶應義塾大学アート・センター蔵)


上図のとおり、瀧口の「旅の手帖」には万年筆やボールペン(ないし鉛筆)によって、1日に1項目程度の簡潔な書き込みが認められる。記載された事柄は、実際の行動の記録かもしれないが、9月24日に瀧口がロックフェラー三世財団のオフィスを訪問した際に、ポーター・マックレイに組んでもらったスケジュールかもしれない。仮にそうだったとしても、瀧口がこのスケジュールどおり行動したか、確実なことは判らない(記載が訂正されている箇所も散見される)。

こうした留保の下ではあるが、この「旅の手帖」に記載された日程をベースに、すでに見てきた瀧口本人や東野芳明の回想、綾子夫人宛ての瀧口の絵葉書の記述などを参考に、改めて1973年の米国旅行全体の旅程をまとめると、以下のようなものだったと思われる。多少の推測も含まれている点は、予めお断りしておく。

9月18日(火) 羽田発JAL6便にてニューヨーク着。キタノ・ホテルに宿泊。
9月19日(水) 画商グザビエル・フォーケイドの車でフィラデルフィアに移動(ロックフェラー三世財団のポーター・マックレイも同乗)。フィラデルフィア美術館のオープニング・レセプションと記念晩餐会に出席。展覧会の会場を巡る。フランクリン・モーターインに宿泊。
9月20日(木) (おそらくフィラデルフィア美術館で過ごしたものと思われる)
9月21日(金) フィラデルフィア美術館の記念講演会に出席。講演者は次のとおり。
 午後2時から…アンヌ・ダナンクール(フィラデルフィア美術館キューレーター)。
 午後4時から…ジョン・ケージ
 午後6時から…ロベール・ルベル
 午後8時30分から…アルトゥーロ・シュヴァルツ
9月22日(土)夜 アムトラックでニューヨークに帰着。
9月23日(日) ティニー・デュシャンに招待され、デュシャンのアトリエを訪問。
9月24日(月) ロックフェラー三世財団のオフィスを訪問。マックレイに滞在中のスケジュールを組んでもらう。
9月25日(火) アーティストの大島加寿子らとMOMAを見学。
9月26日(水) グッゲンハイム美術館を見学。ジャスパー・ジョーンズのアトリエを訪問。
9月27日(木) メトロポリタン美術館を見学。
9月28日(金) ブロードウェイでピーター・ブルックの舞台を観る。
9月29日(土) ニューヨークのボタン店「テンダー・ボタン」で買い物。
10月2日(火)ないし3日(水) Hew Shiroo(浅岡慶子)のアトリエでパーティを開催。
10月4日(木) 帰国。
この間、おそらく9月24日以降に、ウィリアム・コプリー家を訪れ、マン・レイの大作「天文台の時間―愛人たち」を見ている。河出書房新社のシュルレアリスムと画家叢書「骰子の7の目」月報6号の瀧口「マン・レイはマン・レイである」末尾には、次のように記されている。

「私は1973年秋に、いまはニューヨークに住むコプリー家を訪ねて、主にシュルレアリストの傑作の数々を見ることができた。中国系の物静かな夫人から、ふと囁くように「もしお宜しかったら……」と言われ、導かれるままに階段を登ると、そこに寝室があり、そのダブルベッドの枕元の壁にあの大きな紅い唇が、いや抱き合った愛人たちが天体のように輝いていたのである。
 これはまだ物語の終りではない。おそらく絵のなかでも、絵のそとでも。」

10月2日ないし3日のパーティについては、瀧口訪米の前年(72年)に渡米し、その後長く米国で活動したアーティスト浅岡慶子さんによる「回想:『銀色の葉影』」で、証言されている(「橄欖」第2号、瀧口修造研究会、2012年7月。図21-4)。

図21-4 「橄欖」第2号図21-4
瀧口修造研究会会報「橄欖」第2号、瀧口修造研究会、2012年7月


詳細は原文をお読みいただくほかはないが、パーティ開催の経緯を簡単にご紹介すると、以下のとおりである。9月下旬のある日、浅岡さんのアトリエに(瀧口と同行した)森口陽氏から電話が架かってきて、「先生が『ぜひ君のところで』と、おっしゃっている」と告げられたのだが、ニューヨークに来てまだ日が浅く、十分なもてなしができないだろうからと、固辞していた。すると瀧口本人が電話口に出てきて、「安いワインとクラッカーが少しあればそれで十分ですから、肝心なのは貴女のところで、ということなのです」とまで言われ、とうとう引き受けることになった。パーティ当日に訪れて来たのはまさに錚々たる顔ぶれの人たちで、浅岡さんは初めて瀧口の深い意図に、つまりこうした人間関係を置き土産に残そうとしていたのだと、気が付いたそうである。

浅岡さんは72年の渡米に際して瀧口からリバティ・パスポートも贈られており(当時名乗っていた代尾飛Hew Shiroo宛)、瀧口と所縁の深かった最も若い世代のアーティストかもしれない。その後帰国し、現在は主に日本で活動を続けておられる。

なお、綾子夫人による「年譜・補遺」の「1978年」の項には、以下のように記載されている(思潮社「現代詩読本 瀧口修造」1980年6月。図21-5)。

「3月、雅陶堂ギャラリーにて開催予定のジョゼフ・コーネル展のカタログのために七つの献詩と訳を載せました。前年末からコーネルに憑かれてしまいました。地下の会場に並ぶ7つの作品は見る人の心を虜にしてしまいます。先年渡米の際にはその死を知らずに行き、会うことが出来ず残念がりました」

図21-5 現代詩読本図21-5
思潮社「現代詩読本 瀧口修造」
(1980年6月)


もしもコーネルがまだ存命中で、2人の会談が実現していたとしたら、どのようなものとなっていただろうか。たいへん興味深く思われる。参考までに、綾子夫人の「年譜・補遺」で言及されたコーネル展のための瀧口による序詩を、雅陶堂ギャラリーの図録「Joseph Cornell」(図21-6)から引用しておきたい。

「時のあいだを
ジョゼフ・コーネルに

ほとんどふたつの時間、いわば時と時とのあいだを歩くのに、あなたはまる一生かかった。 ……人には見えず時空を旅する鳥たちの時間、過ぎ去った遙かな国の物語も、星辰の運行とともに現存する時間…… もうひとつの時とは、生まれて住みついた土地と生活の時間、霧と煙り、水と血液、パンとミルクの時間、おそらく手や顔の皺の時間でもあろう。あなたが狷介な孤独者のように見られたとすれば、なんと愛の充溢のためだ。秘密はあなたが遺した窓のある筐とイメージのかずかず、実は未だ名付けようのない物たちのなかにある。まるで天からやって来た職人の指紋の魔法か。しかし秘密はまた乳いろの光につつまれている。こんなに身近な親しさで。かつてマラルメが詩のなかにptyxという謎の一語でしか表わさなかった、捉え難い虚空の貝殻とも断じえないものを、何ひとつ傷つけず、あなたは時の波打際で手に拾い、視えるようにしてくれた。風のいのちのシャボン玉とて例外ではない………」

図21-6 ジョゼフ・コーネル展図録図21-6
雅陶堂ギャラリー Joseph Cornell展図録
(1978年3月)


つちぶちのぶひこ

●今日のお勧め作品は、瀧口修造です。
20160513_takiguchi2014_III_03瀧口修造
「III-3」
デカルコマニー、紙
イメージサイズ:13.7×9.8cm
シートサイズ :13.7×9.8cm


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