「瀧口修造とマルセル・デュシャン」第25回(最終回)

土渕信彦


25-1.「マルセル・デュシャン小展示」
「大ガラス」レプリカの制作と並行して、この頃にはマルセル・デュシャン展の計画も進められていた。自由が丘画廊の「マルセル・デュシャン小展示」(1978年1月)で、デュシャンのコレクター笠原正明氏のコレクションを中心として展示するものだった(図25-1)。

図25-1図25-1
「マルセル・デュシャン小展示」を観る瀧口修造
(撮影:笠原正明)


笠原氏は瀧口と親交が深く、西落合の部屋を訪ねてはデュシャン談義に花を咲かせたそうである。笠原氏に捧げられた以下のような川柳と解説も残されている。

「笠原正明に 余白考に余白なければ
塩売りや
言問団子を
家苞[いえづと]に
笠原氏は言問橋近くに住む。しばしば言問団子を土産に貰う。「塩売り」は言うまでもなく「マルシャン・デュ・セル」より、「塩売り」なるものたとえ江戸時代にありても存在せしや知らず」

ただし笠原氏によれば、実際に手土産に携えたのは、言問団子よりも長命寺の桜餅のことが多かったそうである(図25-2)。

図25-2図25-2
西落合の部屋の瀧口修造
(撮影:笠原正明)


「マルセル・デュシャン小展示」についてもいろいろと助言を受け、「小展示」という名称も、瀧口の示唆によって採用したものだそうである。つまり瀧口の見解では、代表作である「大ガラス」も「遺作」も展示されない以上、「展覧会」と称するのは問題なしとしないというので、この名称に落ち着いたとのことである。展覧会リーフレットに寄稿された「窓越に…」を引用しておく(図25-3,4)。

「なんと近づきがたく、なんと親しげな存在。
その全作品を一堂に眺めることは、もういろ
んな意味で不可能になった。しかし、かつて
全作品を鞄に収めることを想いついた人。
いまは窓越しに、足跡の一端をしのび、おそ
らくその人が微笑みかけるのを待つ。」

図25-3 リーフレット図25-3
「マルセル・デュシャン小展示」リーフレット、自由が丘画廊、1978年
(笠原正明氏蔵。千葉市美術館「瀧口修造とマルセル・デュシャン」展図録より転載。“Rrose Sélavy, ici…”の書き込みは瀧口によるもの)


図25-4 リーフレット裏面図25-4
リーフレット裏面


「小展示」を観に自由が丘画廊を訪れた78年1月、筆者(土渕)は瀧口本人と遭遇したのだが、この時の模様は前に述べたことがあるので(「瀧口修造の箱舟」第2回)、ここでは省略する。


25-2.「絵本」
最晩年の瀧口には、当時米国に在住していた写真家奈良原一高が撮影した「大ガラス」の細部の写真と、自らの言葉を組み合わせて、「絵本」を作る構想もあった。「ユリイカ」1977年10月号(図25-5)に掲載された瀧口の「私製草子のための口上」(連載第22回参照)の末尾で、次のように触れられている。デュシャンや「大ガラス」に関わることが、瀧口のライフワークと化していたことが判るだろう。

「つい先頃、岡崎和郎氏と協力して作った「檢眼圖」と名づけたマルティプルについて、「檢眼圖傍白」と題して、同じような手製草子のために折りにふれてノートしているが、つぎつぎに問題が出てきて、いっかな終止符が打てそうにない。それよりもフィラデルフィアで奈良原一高氏に特写して貰った素晴らしい「大ガラス」のカラー・フィルムの連作で一種の「絵本」のようなものをつくる計画もいまだに宙吊りのまま、奈良原氏にも申しわけがなく、このままおさらばするわけにはゆかない。 ― たしかに私の旅はまだ終わっていないらしいのである。」

図25-5 ユリイカ図25-5
「ユリイカ」1977年10月号


「このままおさらばするわけにはゆかない」と記されているが、結局、「絵本」を完成することなく逝去した。計画されていた「絵本」は、どのようなものだったのだろうか? 『マルセル・デュシャン語録』、「檢眼圖」と、続けて産み出されてきた素晴らしい成果を見るとなおさら、具体的な姿や内容を見てみたかった気がするが、未完に終わった以上、想像するしかない。手掛かりとなるのは、奈良原宛の私信のなかの、次の一節かもしれない(後出『奈良原一高デュシャン大ガラスと瀧口修造シガー・ボックス』の奈良原のエッセイに引用されている)。

「私の夢想している本は、いわゆる美術書ではなく、詩のような断片的な言葉をカラー写真の間に散らして、カラーと白のページと活字をレイアウトして、spacyな本にしたいと思います」

引用にある「詩のような断片的な言葉」とは、単なる「詩」でも「断片的な言葉」でもなく、あくまでも「詩のような断片的な言葉」で、つまるところ、この頃しばしば産み出されていた、諺のような言葉だったのかもしれない。しかも、長年にわたってデュシャンに傾倒してきた瀧口であるから、おそらくブルトンの「<花嫁>の灯台」と並ぶような、「大ガラス」についての見事な解釈が与えられ、その解釈を土台にして産み出された「詩のような断片的な言葉」であったものと思われる。そうした言葉を(『マルセル・デュシャン語録』本文のように)一種のオブジェとしてカラー写真の間に配置する構想だったのではなかろうか。何にしても、言葉と写真とがそれぞれ存在感を有した、しかも数々の手づくり本のように簡素で軽装だが物質感のある、素晴らしい「絵本」となったことは間違いないだろう。実現しなかったのは、まことに残念である。

瀧口の没後、奈良原の写真だけは、写真集『奈良原一高デュシャン大ガラスと瀧口修造シガー・ボックス』(図25-6)として、みすず書房から刊行された。上で触れた「シガー・ボックス」と、メモ全点の写真も併せて掲載されているので、ご紹介しておきたい。この写真集のために書き下ろされた奈良原のエッセイ「”ガラスが割れたとき”―二人のローズ・セラヴィに……」には、「大ガラス」の撮影の経緯について、タケミヤ画廊当時の交流にまで遡って、詳細に述べられている。撮影を依頼されてから、作業を進め、出来上ったカラー・ポジフィルムを米国から送り、帰国後にはフィルムから改めて紙焼きしてカラー写真を届けたことなど、瀧口とのやり取りも含め、具体的に記されており、きわめて貴重な証言と思われる。是非ご一読いただきたい。

図25-6 奈良原「大ガラス」図25-6
『奈良原一高デュシャン大ガラスと瀧口修造シガー・ボックス』、みすず書房、1992年


さて、瀧口修造の多面的な仕事のなかで、特にマルセル・デュシャンとの関わりに焦点を当てたこの連載も、いつの間にか25回となった。ひとわたりは目配りしたように思うので、このあたりで筆を擱くこととする。約2年の間お付合いいただき、どうも有難うございました。
つちぶちのぶひこ

*画廊亭主敬白
25回を数えた土渕さんの連載(一回ごとの文章量がとても多いので、実質的には他の方たちの50回にも匹敵します)が終了します。長い間、ご苦労さまでした。
瀧口修造の作品紹介を企画の柱にしているときの忘れものにとっては「ブログの顔」であり、研究者であり、コレクターでもある土渕さんの卓見にはしばしば目を瞠る思いでした。いずれ別のテーマでの復活を期待しましょう。

昨日12日は青山では「山口長男とM氏コレクション展」の初日、主力スタッフが乗り込んだ韓国ソウルのアートフェアKIAFではオープニングと、東西二つのイベントが重なりました。
20161012_大野様1 (1)「山口長男とM氏コレクション展」には朝一番で旧蔵者のMさんが来廊、続いて舞踏家の大野慶人さんがいらっしゃいました。秋田で開館間近の鎌鼬美術館のこと、土方巽のこと、ご自身が子供時代に花岡事件で有名な花岡鉱山に疎開していたこと、今年訪れたブラジル、中国での公演とワークショップのことなど、お話は尽きませんでした。
大野慶人さん(左)と亭主

KIAF_野口さん撮影
同じ頃、韓国ソウルではKIAFの開会式(撮影:野口琢郎)

20161012_KIAFオープニング (4)
続々とVIPたちが来場

20161012_KIAFオープニング (3)
ときの忘れもののブース

20161012_KIAFオープニング (8)
ナム・ジュンパイク野口琢郎さんの箔画に注目が集まっています。


●今日のお勧め作品は、瀧口修造です。
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瀧口修造
『マルセル・デュシャン語録』
1968年
本、版画とマルティプル
外箱サイズ:36.7×29.8×5.0cm
本サイズ:33.1×26.0cm
サインあり
A版(限定部数50部)
発行:東京ローズ・セラヴィ
刊行日:1968年7月28日
販売:南画廊

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◆土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」は今回で終了です。
「瀧口修造の世界」は造形作家としての瀧口の軌跡と作品をテキストや資料によって紹介します。
土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」、「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。