追悼
企画展画廊を貫いた上田浩司さんのこと

中村光紀


 盛岡で長年にわたり、現代美術の紹介と多くの県人作家を育てたMORIOKA第一画廊主の上田浩司さんが6月25日に享年83で亡くなられた。ご冥福を祈ります。
 上田さんとの出会いは、私が岩手日報社へ入社まもない昭和43年、盛岡の有名専門店10店で「盛岡トップチェーン」を組織して、毎月文化的なイベントを行い、展覧会に取り組んだときである。上田さんや村上善男の協力を得て、この年の1月にパリで亡くなった藤田嗣治の県内にある作品を集めた『いわてのフジタ展』を、11月8日から12日まで中央通りの明治生命ホールで開催した。藤田嗣治の弟子澤田哲郎畑山昇麓細川泰子らの県人15人のコレクションに、東京のコレクターからも出品してもらい、63点を展示した。そのとき、藤田作品を持っている数人から見てほしいと言われて、畑山、上田さんらと訪れたが、すべて贋作であった。「藤田の線は長いのが特徴で、ためらいがない」ことが真贋の一つの決め手となると教わった。
 そのころ上田さん経営の「盛岡画廊」は、公園下の菜園にあり、彼が東京で見出した『相笠昌義の銅版画展』が開かれ、私はその作品に一目で魅了され、ささやかなコレクションの始まりとなった。まもなく、大通2丁目の日活横通りの平屋に移った。周囲は飲食店が多く、にぎやかなところであったが、いつも作家や美術愛好家が集まって、5時過ぎにはウイスキーなどを飲みながらの談笑が始まり、延々と午前様になるまで続いた。翌日に出す酒瓶の多さに飲み屋と間違われたと言っていた。上田さんは、深い学識を持ち、話題も豊富でユーモアもあり、座談の名手で、多くの人が画廊に集まる芸術サロンであった。
 昭和40年代の盛岡で、吹田文明、オノサトトシノブ、高松次郎、駒井哲郎、福井良之助、脇田和、司修やニューヨーク在住の池田満寿夫などの作品をいながらにして見ることができたのは刺激的なアートシーンで、美術愛好家にとって印象深い。
 その後、昭和46年に元第一書店の3階に移転、ギャラリー名を「MORIOKA第一画廊」と変えた。床面積200平方メートルの展示スペースは画廊の規模としては全国的にも最大級である。なかでも県立博物館のオープン時に設置されたマイヨール「トロワニンフ」を記念して『マイヨール展』を開催し、美術関係者から称賛された。保険、運送費などの経費が大きくかかるので、本人もかなり覚悟を決めてやったと言っていた。
 平成2年に、テレビ岩手の当時の故伊勢卓夫社長から1階を文化的空間にしたいと請われて出店し、現在で26年になる。優れた現代美術の作家を紹介し、本県美術家の多くを取り上げた展覧会の総数は660展を超えている。これは、地方都市では稀有である。9月7日に偲ぶ会が行われ、会場の画廊には東京から著名な美術関係者や県人作家ら立錐の余地がないほどの人が集まり追悼した。

(なかむらみつのり 萬鉄五郎記念美術館館長)

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*『街 もりおか』2016年10月号より、著者の許可を得て転載しました。

「杉本みゆき展」が現在開催中です。
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*画廊亭主敬白
今年の6月25日に亡くなられたMORIOKA第一画廊の上田浩司さんのことを幾度か取り上げてきました。
8月7日ブログ 『てんぴょう 010』(2002年1月25日発行)の再録
8月29日ブログ <MORIOKA第一画廊「展」 9月5日~9月17日>
9月20日ブログ <上田浩司さんを偲んで、ウォーホルのあるラーメン屋さん>
本日、再録させていただいたのは盛岡のタウン誌『街 もりおか』10月号に中村光紀さんが寄稿した追悼文です。中村さんからファックスで送っていただいたものですが、長い交友関係から上田さんの人となりを良く知り、また人口30万人の地方都市で半世紀に渡り、貸し画廊ではなく企画のみで営業するのがいかに大変かを知る人ならではの心のこもった追悼文です。
中村さんのご許可を得て、再録させていただきました。

1974年7月20日_盛岡第一画廊_版画への招待展_オークション_8
1974年7月20日 MORIOKA第一画廊にて
全国縦断「現代版画への招待展」開催記念オークション

1974年7月20日_盛岡第一画廊_版画への招待展_オークション_9
1974年7月20日 
後列左から、牛久保公典さん(版画蒐集家)、島州一先生、上田浩司さん、膝の上には長女のリ土さん、森義利先生

上田さんの画廊は幾度か引越しされていますが、私達が初めてMORIOKA第一画廊を訪ねた1974年には大通の第一書店3階の時代でした。狭くて急な階段を上ると突然200平米の広大なスペースが現れ、盛岡の人たちのサロンとして活気に満ちていました。
1989年1月29日
1989年1月29日 MORIOKA第一画廊にて
左から、石田俊子さん、綿貫令子、シュロウイッツ・アツコさん、上田浩司さん、綿貫不二夫

靉光を瑛九を見るうれしさに画廊の階段駆け上りし日
  (コスモス短歌会 吉田史子さんの短歌<記憶が回る>より)

1991年3月29日
1991年3月29日直利庵にて
左から、百瀬寿先生、中村光紀さん、上田浩司さん、女将の松井裕子さん、萬木康博さん(後ろ姿)、綿貫不二夫

画廊の閉まったあと、作家たちとわんこそば発祥の名店「直利庵」の二階にあがり宴会が始まるのですが、女将の裕子さんのコレクションを拝見するのも楽しみの一つでした。
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1992年5月MORIOKA第一画廊にて「難波田龍起展」開催
左から、六岡康光さん(当時岩手日報文化部記者、後に石神の丘美術館の芸術監督)、上田浩司さん、難波田龍起先生、夫人の澄江さん、中村光紀さん(当時岩手日報事業部)
撮影:梅田裕一

1990年に今の場所(テレビ岩手1階)に移った上田さんは以前にも増して現代美術の企画に精力的に取り組まれました。上掲の写真は難波田先生を囲んでの談笑のひととき。上田さんの周りにはいつも盛岡の文化の担い手たちが集まり、東京から来る作家たちを歓待されていました。写真に写る5人のうち、中村さん以外の4人は鬼籍に入られました。
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1994年2月2日ローマにて
左から綿貫令子、上田浩司さん、中村光紀さん、松井裕子さん、中村静子さん
ミケランジェロのピエタ像4体のすべてを観るローマ、フィレンツェ、ミラノの旅

岩手日報社の事業局に勤めていた中村さんが近畿日本ツーリストと組んで、誰でも知っているローマのサン・ピエトロ大聖堂のピエタから、晩年の視力を失いながら手探りで制作を続けたといわれる遺作『ロンダニーニのピエタ』(ミラノ、スフォルツェスコ城)までのミケランジェロが生涯に制作した四つすべてを見るという実にマニアックなツアーを企画したことがありました。
新聞の第一面に大々的に社告まで打ったのですがこれが大はずれ(笑)、応募者が少なく中止の瀬戸際に。窮地を救うべく上田さんからの大号令が東京の私たちにまでかかり、作家の戸村茂樹さん、直利庵の女将さんまでが生まれてはじめてのパック旅行に参加するはめになりました。責任上中村さんもご夫妻で参加、あっという間に定員の倍も集まってしまった。実はこのツアーにはミラノ・スカラ座のオペラ観劇も含まれていたのですが、定員分しか確保していなかったスカラ座のチケットが足りなくなり、慌てた近畿日本ツーリストの担当社員が千円だかのチケットをダフ屋に頼んで数万円から10万円近い金額でかき集めたという涙ぐましいエピソード(当然ツアーは赤字)もありました。

●上田さんの愛した作家たちの作品をいくつか紹介します。
松本竣介_2
松本竣介
(女性像)
素描
イメージサイズ:18.5×16.0cm
シートサイズ:27.0×19.2cm


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難波田龍起
《(作品)》
1994年
コラージュ
29.0×20.0cm
Signed


06_Square_lame-G_Y_R_V_around_White
百瀬寿
"Square lame' - G, Y, R, V around White"
2009
42.5×42.5cm
Ed.90 Signed


DSCF8520_600
舟越桂
「教会とカフェのために 2」
1987年 銅版
14.8×9.6cm  
Ed.50 Singed


晩夏IV_600
戸村茂樹
「晩夏IV」
インク・紙
19.0x13.5cm Signed

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