夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」
第八回◇キューバからの贈り物―南方への憧憬
書斎の窓を開け放つと急に南方の風を感じたい時がある。ふっと頬をなで横切っていく風。遠い地の果てから運ばれてきた風。それは爽やかな風なのか?はたまた微量の毒素と血の匂いを含んだ遠い歴史の怨念がまじりあった南米やアフリカからの熱い風だろうか?幼年時代からの南方への憧れ。想像するだけで、ぞくぞくするような興奮を呼び起こす熱帯のジャングル。いつか南方の地へと、思いを抱き続けていた。「南国のひなびた保養地は北国の大都市の実体をきわだたせ、モスクワはパリの肖像の欠落を埋める。… 空間的な隔たりは容易に時間的な隔たりへの感覚を鋭敏にする」(『ヘルメース』カール・ケーレニイ-『モスクワの冬』ベンヤミン 訳者あとがき 晶文社 藤川芳朗訳)。日差しが衰弱した冬の日、書斎の一隅で、熱い風の吹く遠い異国の辺境を夢見ることがある。
2011年の大地震と原発事故以降、日本をしばらく遠ざかっていた2013年夏、ふとしたきっかけで、憧憬の地のひとつだったキューバを訪れる機会があった。スペイン植民地時代、独立戦争、アメリカの半植民地時代、そして1959年のキューバ革命と半世紀ぶりの歴史的な国交回復…。時代に翻弄されたキューバ。ハバナの裏町は、スペイン植民地時代のコロニアル建築様式の建物群が廃墟然と立ち並ぶ。過酷な歴史を乗り越えてきた人々の表情は貧しい中にも不思議な明るさを持っているように感じた。
写真<1>
ハバナの裏町 裏町や路地裏、そこではゲニウス・ロキ(土地の精霊)が旅人の導き手となる。「裏町を行こう、横道を歩もう。…理窟にも議論にもならぬ馬鹿々々しい処に、よく考えて見ると一種物哀れなような妙な心持のする処があるからである」(『日和下駄 一名東京散策記』永井荷風)
わずか十日間の滞在だったが、着いて数日後にひどい腹痛に襲われた。目を閉じると頭の周りを妖怪や悪魔、魑魅魍魎が飛び交う悪夢の連続。滞在期間の半分近くを裏町の民宿のベッドの上で過ごし最後は病院へ。どうにか回復して、残された最後の三日間、もう二度と来られないかもしれないと思うと矢も楯もたまらず、日の出とともに裏町に繰り出し、路上を撮影しながら深夜まで徘徊。この時の撮影記録が、ひょんなことから昨年5月の京都国際写真祭KYOTO GRAPHIE(「KG+」)の写真展「古巴(キューバ)-モノクロームの午後」の開催につながった。
写真<2>
写真展「古巴(キューバ)-モノクロームの午後」のインスタレーション展示のひとつとして限定一部(大、小サイズ)で手作りの写真集『Cuba monochrome』を作った。
写真<3>
手作り写真集『Cuba monochrome』から。ハバナの裏町。
ハバナの街には意外にも古書店が多かった。街の中心街近くの広場には常設で古書市が開かれている。もちろんチェ・ゲバラやフィデル・カストロら革命にからんだ本も多いが、なかにはアメリカの半植民地時代に持ち込まれたとみられる稀少な書物もある。
写真<4>
キューバで出版された写真集『EL CUBANO SE OFRECE』(Iván Gañas 1986年)
写真<5>
内容は素晴らしいが、紙質がわら半紙に近く、恐ろしく印刷が悪い。
写真<6>
ハバナの古書店に秘蔵されていたバレーデッサンの稀覯本『ADAGES & PAS DE DEUX』(MONIQUE LANCELOT,SERGE LIFAR Paris, éditions Arabesques 1950年 限定130部版)を入手。オリジナルデッサン二葉 デュシャン風の横顔をデザインした表紙が面白い。
写真<7>
バレーデッサンの稀覯本『ADAGES & PAS DE DEUX』の躍動感あふれるオリジナルデッサン
写真<8>
バレーデッサンの稀覯本『ADAGES & PAS DE DEUX』から
シュルレアリスム関連の文献を調べるうち出会ったのがメキシコの写真家アルバレス・ブラボ(1902年-2002年)。アッジェらの影響を受け、ニューヨークのジュリアン・レヴィ・ギャラリーで1935年、アンリ・カルティエ・ブレッソン、ウォーカー・エバンスとともに参加した「ドキュメンタリーとアンチグラフィック」と題された三人展の後、1938年、ディエゴ・リベラの紹介でシュルレアリスムの指導者アンドレ・ブルトンとメキシコに亡命中のレフ・トロツキーと出会い、貴重な記録写真を撮影。その後もブルトンに評価されたブラボはシュルレアリスムの雑誌に写真を掲載している。ブラボの写真に、ありふれた日常風景の中に潜む静謐な「死の影」を読み取ることができる。
写真<9>
マヌエル・アルバレス・ブラボと元妻ロラ・アルバレス・ブラボ(左下隅)の写真集
写真<10>
マヌエル・アルバレス・ブラボの写真
メキシコは暗黒の歴史を持っている。「マヤ人が『太陽の排泄物』と名付けた黄金」(参照:『メキシコの夢』ル・クレジオ 新潮社 1991年 望月芳郎訳)を求め、スペインの征服者(コンキスタドール)により破壊し尽くされたアステカ文明。呪術の夢で覆われた都市は一握りのコンキスタドールによって血なまぐさい殺戮の原野と化し消滅した。「Ducunt fata volentem,nolentem trahunt. (運命は欲する者を導いて行き、欲しない者を引きずって行く)」(セネカの言葉 -『西洋の没落』第二巻 オスヴァルト・シュペングラー 五月書房)。運命に引きずられた悲劇のアステカ王モクテスマ。太陽信仰と血の生贄、呪術に満たされた神話と夢の世界は彼とともに消え去っていく。
メキシコには「死者の日」があり、盛大に祝われる。死と生まれ変わりの象徴としての骸骨が飾られ、「死」を明るく祝福する。マヤ、アステカを源流とする過去の文明はメキシコに独特の死の美学をもたらした。骸骨の絵師として知られるメキシコの画家ホセ・グアダルーペ・ポサダ(1852年-1913年)。骸骨に姿を変えた人間たちを登場させ、あざ笑うかのように醜い現実を風刺する。「骸骨は用い方さえうまければ、いかなる主題にとり入れてもすぐれた装飾となりうる…」(『幻想芸術』マルセル・ブリヨン-『晩年のボードレール』松井好夫 煥呼堂 1979年)。ポサダは、「阿呆船」に乗り阿呆頭巾をかぶって死の踊りを舞い続ける人間どもを骸骨として描くことでその愚かさを喝破する。
同じあしたは二度来ない、
雪のように溶けてゆく。
魂が消えてゆくときに、
はじめてあしたがやってくる
(『阿呆船』 ブラント 尾崎盛景訳 現代思潮社)
写真<11>
書棚から抜き出したポサダの本の一部と、ペルー製の骸骨のオブジェ。
写真<12>
骸骨をモチーフにしたポサダのイラスト。人は一生涯、ダンス・マカーブル(Danse Macabre 死の舞踏)に明け暮れる。
南国とシュルレアリスムと言えば、キューバのシュルレアリストの画家ウィフレード・ラムを思い浮かべるが、カリブ海のマルティニーク島ともかかわりが深い。数年前、カナダのモントリオールの古書店で「南国の再発見」を特集した雑誌『HERMISPHERS』(Editions Hémisphères New York 1944年 YVAN GOLL編集)を入手した。アンドレ・ブルトンがカリブ海のマルティニーク島を訪れた際の印象を元にした『蛇使いの女』『偉大なる黒人詩人』『震えるピン』所収で、『HERMISPHERS』はエグゾティスムとシュルレアリスムに焦点を当てている。
「…よく笑う混血の少女たちが四方へ散っていく。たいていは肌より明るい色の髪をした少女たち。これら虹色の影を伴った美しい肉体は、どんな木の精に暖められるのかしら。カカオの木?コーヒーの木?ヴァニラの木かしら?それらの葉っぱは幼年期の未知の欲望が身を潜めたコーヒー袋の紙に象られ、永続的な神秘を飾り立てる」(アンドレ・ブルトン 『マルティニーク島 蛇使いの女』-「震えるピン」より エディション・イレーヌ 松本完治訳)
南国とは、扉が開かれた書物である。失われた古代の感覚と夢に一瞬にして到達する「野をひらく鍵」(アンドレ・ブルトン)が密林の奥に秘匿されている。
写真<13>
「南国の再発見」を特集した雑誌『HERMISPHERS』。
写真<14>
雑誌『HERMISPHERS』から。アンドレ・マッソンによる挿絵。未踏の密林は熱帯の暗黒の夢に満ちている。「ジャングルに棲む捕食動物にとっては、規則は<殺すか、殺されるか>であるのに対し、社会に棲む人間にとっての規則は<社会から閉めだされるか、閉め出されないか>である」(『内面への亡命』R・ジャカール 第2章・忍従と抑圧の原注 誠信書房)。都会の密林には精神を食い散らす「疎外」という名の猛禽類が潜んでいる。
晩年のランボーは詩作を捨て、ひたすら南方の最果ての地アフリカやアラブへと向かった。「ヨーロッパを離れるのだ。海の風がぼくの肺腑を焼くだろう。辺境の気候がぼくの肌をなめして浅黒くするだろう。泳ぎ、草を踏みしだき…ぼくは戻ってくるだろう。鉄の四肢、褐色の肌、荒々しい眸をして…」(『地獄の一季節』アルチュール・ランボー 『ランボー全詩集』(湯浅博雄ほか訳)。精神の南下。精神の上昇と下降。極から極へ。ランボーにとって「遠方とは追放の地」(『意識産業』-旅行の理論 エンツェンスベルガー)だったのである。
写真<15>
アフリカやアラブからのランボーの手紙を集めた『Les lettres manuscrites de RIMBAUD』(Claude Jeancolas編集 Editions Textuel 1997年)と、「その後」のランボーの軌跡を描いた『Passion L’album d’une vie Rimbaud』(Claude Jeancolas Edité par Textuel 1998年))
写真<16>
Les lettres manuscrites de RIMBAUD』から。ランボーの手紙と筆跡。
写真<17>
『Passion L’album d’une vie Rimbaud』から。「詩人ランボー」から「商人ランボー」へ。地獄陥ちの軌跡を描く。
死の前日、ランボーが妹イザベルに口述筆記させた奇怪な「最後の通信(メッセージ)」。
一荷 歯一本のみ ( Un lot 1 dent seul )
一荷 歯二本 ( Un lot 2 dents )
一荷 歯三本 ( Un lot 3 dents )
一荷 歯四本 ( Un lot 4 dents )
一荷 歯二本 ( Un lot 2 dents )
(『ランボーの沈黙』竹内健 紀伊國屋新書 カッコ内は仏語原文)
「歯」とは現実的には貿易品の「牙」(象牙?)のことか。しかし筆者もこの訳(dent,dents)を「歯」ととらえたい。詩を捨て、南方アフリカの奥地を商人として彷徨ったランボーが死の床で発した解釈不能なシュルレアリスティックな最期の「詩」として…。この翌日1891年11月10日午前10時30分、ランボーは37歳の生涯を終えた。「遊民の最後の旅は死であり、その目標は新しさである。<未知の底に 新たなるものを見いだすために>」(『ベンヤミン著作集6』-「ボードレール」 晶文社)。詩の極北を極めたランボーがたどり着いたのは、過酷な南方の「言語なき砂漠」だった。
また見つかった!
なにが?永遠。
太陽と
溶け合う海
(『地獄の一季節』アルチュール・ランボー 『ランボー全詩集』 青土社 湯浅博雄訳)
作成日: 2016年10月23日(日)
(よるの ゆう)
■夜野 悠 Yu YORUNO
通信社記者を50代前半で早期退職後、パリを中心にカナダ、ドイツ、モロッコなど海外を中心に滞在、シュルレアリスム関係を中心に稀少書や作品などを蒐集する。2015年5月に国際写真祭『KYOTO GRAPHIE』のサテライトイベント『KG+』で、モノクロの写真・映像、キューバの詩で構成した写真展『古巴(キューバ)-モノクロームの午後』を開催。同年12月には京都写真クラブ主催の『第16回京都写真展 記憶論Ⅲ』で、『北朝鮮1987-消えゆく夢幻の風景』を展示。京都市在住。
●本日のお勧め作品は、ロベール・ドアノーです。
ロベール・ドアノー
「L'ENFER キャバレー地獄」
1952年
ゼラチンシルバープリント
35.0×24.5cm
サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
◆ときの忘れもののブログは下記の皆さんのエッセイを連載しています。
・大竹昭子のエッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。
・frgmメンバーによるエッセイ「ルリユール 書物への偏愛」は毎月3日の更新です。
・夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」は毎月5日の更新です。
・笹沼俊樹のエッセイ「現代美術コレクターの独り言」はしばらく休載します。
・杉山幸一郎のエッセイ「幸せにみちたくうかんを求めて」は毎月10日の更新です。
・芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。
・普後均のエッセイ「写真という海」は毎月14日の更新です。
・野口琢郎のエッセイ「京都西陣から」は毎月15日の更新です。
・小林紀晴のエッセイ「山の記憶」は毎月19日の更新です。
・藤本貴子のエッセイ「建築圏外通信」は毎月22日の更新です。
・八束はじめ・彦坂裕のエッセイ「建築家のドローイング」(再録)は毎月24日の更新です。
・小林美香のエッセイ「写真集と絵本のブックレビュー」は毎月25日の更新です。
・スタッフSの「海外ネットサーフィン」は毎月26日の更新です。
・森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日の更新です。
・光嶋裕介のエッセイ「和紙に挑む」は毎月30日の更新です。
・植田実のエッセイ「美術展のおこぼれ」は、更新は随時行います。
同じく植田実のエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」と合わせお読みください。
「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。
・中村茉貴のエッセイ「美術館に瑛九を観に行く」は随時更新します。
・飯沢耕太郎のエッセイ「日本の写真家たち」は英文版とともに随時更新します。
・深野一朗のエッセイは随時更新します。
・「久保エディション」(現代版画のパトロン久保貞次郎)は随時更新します。
・石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」は終了しました。
・荒井由泰のエッセイ「いとしの国ブータン紀行」は終了しました。
・森下泰輔のエッセイ「戦後・現代美術事件簿」は終了しました。
・「殿敷侃の遺したもの」はゆかりの方々のエッセイや資料を随時紹介します。
・「オノサト・トシノブの世界」は円を描き続けた作家の生涯と作品を関係資料や評論によって紹介します。
・「瀧口修造の世界」は造形作家としての瀧口の軌跡と作品をテキストや資料によって紹介します。
土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」、「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。
・「関根伸夫ともの派」はロスアンゼルスで制作を続ける関根伸夫と「もの派」について作品や資料によって紹介します。
・「現代版画センターの記録」は随時更新します。
今までのバックナンバーの一部はホームページに転載しています。
◆ときの忘れものは「ルリユール 書物への偏愛―テクストを変換するもの―展」を開催します。
会期:2016年11月8日[火]~11月19日[土] *日曜、月曜、祝日休廊

造本作家グループLes fragments de M(略称frgm)は2011年10月、三人の製本家と一人の箔押し師が集まり、ルリユールをもっと多くの方々に知っていただき、より身近なものとして慈しんでもらうことを願い、活動を始めました。
メンバーは羽田野麻吏さん、平まどかさん、市田文子さん、中村美奈子さんで、2014年11月よりブログでfrgmのエッセイ「ルリユール 書物への偏愛」を連載しています。
「ルリユール」とはフランス語で「製本」を意味し、書店で売られているいわゆる機械製本も含める語ではありますが、一方で工芸としての製本を強く想起する言葉として、フランス語圏の国々では使われています。工芸としての製本とは、読書家・愛書家が自らの蔵書を製本家に依頼して、世界に一つの作品に仕立て直す(具体的には山羊革や仔牛革などを表装材に用い、その上に革や他の素材による)装飾を施していきます。
本展ではfrgm皆さんのルリユール作品約35点をご覧いただきます。
●イベントのご案内
展覧会最終日の11月19日(土)19時より、港千尋さん(写真家、著述家)を招いてギャラリートークを開催します(要予約/参加費1,000円)。
※必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記の上、メールにてお申込ください。
E-maii. info@tokinowasuremono.com
第八回◇キューバからの贈り物―南方への憧憬
書斎の窓を開け放つと急に南方の風を感じたい時がある。ふっと頬をなで横切っていく風。遠い地の果てから運ばれてきた風。それは爽やかな風なのか?はたまた微量の毒素と血の匂いを含んだ遠い歴史の怨念がまじりあった南米やアフリカからの熱い風だろうか?幼年時代からの南方への憧れ。想像するだけで、ぞくぞくするような興奮を呼び起こす熱帯のジャングル。いつか南方の地へと、思いを抱き続けていた。「南国のひなびた保養地は北国の大都市の実体をきわだたせ、モスクワはパリの肖像の欠落を埋める。… 空間的な隔たりは容易に時間的な隔たりへの感覚を鋭敏にする」(『ヘルメース』カール・ケーレニイ-『モスクワの冬』ベンヤミン 訳者あとがき 晶文社 藤川芳朗訳)。日差しが衰弱した冬の日、書斎の一隅で、熱い風の吹く遠い異国の辺境を夢見ることがある。
2011年の大地震と原発事故以降、日本をしばらく遠ざかっていた2013年夏、ふとしたきっかけで、憧憬の地のひとつだったキューバを訪れる機会があった。スペイン植民地時代、独立戦争、アメリカの半植民地時代、そして1959年のキューバ革命と半世紀ぶりの歴史的な国交回復…。時代に翻弄されたキューバ。ハバナの裏町は、スペイン植民地時代のコロニアル建築様式の建物群が廃墟然と立ち並ぶ。過酷な歴史を乗り越えてきた人々の表情は貧しい中にも不思議な明るさを持っているように感じた。

ハバナの裏町 裏町や路地裏、そこではゲニウス・ロキ(土地の精霊)が旅人の導き手となる。「裏町を行こう、横道を歩もう。…理窟にも議論にもならぬ馬鹿々々しい処に、よく考えて見ると一種物哀れなような妙な心持のする処があるからである」(『日和下駄 一名東京散策記』永井荷風)
わずか十日間の滞在だったが、着いて数日後にひどい腹痛に襲われた。目を閉じると頭の周りを妖怪や悪魔、魑魅魍魎が飛び交う悪夢の連続。滞在期間の半分近くを裏町の民宿のベッドの上で過ごし最後は病院へ。どうにか回復して、残された最後の三日間、もう二度と来られないかもしれないと思うと矢も楯もたまらず、日の出とともに裏町に繰り出し、路上を撮影しながら深夜まで徘徊。この時の撮影記録が、ひょんなことから昨年5月の京都国際写真祭KYOTO GRAPHIE(「KG+」)の写真展「古巴(キューバ)-モノクロームの午後」の開催につながった。

写真展「古巴(キューバ)-モノクロームの午後」のインスタレーション展示のひとつとして限定一部(大、小サイズ)で手作りの写真集『Cuba monochrome』を作った。

手作り写真集『Cuba monochrome』から。ハバナの裏町。
ハバナの街には意外にも古書店が多かった。街の中心街近くの広場には常設で古書市が開かれている。もちろんチェ・ゲバラやフィデル・カストロら革命にからんだ本も多いが、なかにはアメリカの半植民地時代に持ち込まれたとみられる稀少な書物もある。

キューバで出版された写真集『EL CUBANO SE OFRECE』(Iván Gañas 1986年)

内容は素晴らしいが、紙質がわら半紙に近く、恐ろしく印刷が悪い。

ハバナの古書店に秘蔵されていたバレーデッサンの稀覯本『ADAGES & PAS DE DEUX』(MONIQUE LANCELOT,SERGE LIFAR Paris, éditions Arabesques 1950年 限定130部版)を入手。オリジナルデッサン二葉 デュシャン風の横顔をデザインした表紙が面白い。

バレーデッサンの稀覯本『ADAGES & PAS DE DEUX』の躍動感あふれるオリジナルデッサン

バレーデッサンの稀覯本『ADAGES & PAS DE DEUX』から
シュルレアリスム関連の文献を調べるうち出会ったのがメキシコの写真家アルバレス・ブラボ(1902年-2002年)。アッジェらの影響を受け、ニューヨークのジュリアン・レヴィ・ギャラリーで1935年、アンリ・カルティエ・ブレッソン、ウォーカー・エバンスとともに参加した「ドキュメンタリーとアンチグラフィック」と題された三人展の後、1938年、ディエゴ・リベラの紹介でシュルレアリスムの指導者アンドレ・ブルトンとメキシコに亡命中のレフ・トロツキーと出会い、貴重な記録写真を撮影。その後もブルトンに評価されたブラボはシュルレアリスムの雑誌に写真を掲載している。ブラボの写真に、ありふれた日常風景の中に潜む静謐な「死の影」を読み取ることができる。

マヌエル・アルバレス・ブラボと元妻ロラ・アルバレス・ブラボ(左下隅)の写真集

マヌエル・アルバレス・ブラボの写真
メキシコは暗黒の歴史を持っている。「マヤ人が『太陽の排泄物』と名付けた黄金」(参照:『メキシコの夢』ル・クレジオ 新潮社 1991年 望月芳郎訳)を求め、スペインの征服者(コンキスタドール)により破壊し尽くされたアステカ文明。呪術の夢で覆われた都市は一握りのコンキスタドールによって血なまぐさい殺戮の原野と化し消滅した。「Ducunt fata volentem,nolentem trahunt. (運命は欲する者を導いて行き、欲しない者を引きずって行く)」(セネカの言葉 -『西洋の没落』第二巻 オスヴァルト・シュペングラー 五月書房)。運命に引きずられた悲劇のアステカ王モクテスマ。太陽信仰と血の生贄、呪術に満たされた神話と夢の世界は彼とともに消え去っていく。
メキシコには「死者の日」があり、盛大に祝われる。死と生まれ変わりの象徴としての骸骨が飾られ、「死」を明るく祝福する。マヤ、アステカを源流とする過去の文明はメキシコに独特の死の美学をもたらした。骸骨の絵師として知られるメキシコの画家ホセ・グアダルーペ・ポサダ(1852年-1913年)。骸骨に姿を変えた人間たちを登場させ、あざ笑うかのように醜い現実を風刺する。「骸骨は用い方さえうまければ、いかなる主題にとり入れてもすぐれた装飾となりうる…」(『幻想芸術』マルセル・ブリヨン-『晩年のボードレール』松井好夫 煥呼堂 1979年)。ポサダは、「阿呆船」に乗り阿呆頭巾をかぶって死の踊りを舞い続ける人間どもを骸骨として描くことでその愚かさを喝破する。
同じあしたは二度来ない、
雪のように溶けてゆく。
魂が消えてゆくときに、
はじめてあしたがやってくる
(『阿呆船』 ブラント 尾崎盛景訳 現代思潮社)

書棚から抜き出したポサダの本の一部と、ペルー製の骸骨のオブジェ。

骸骨をモチーフにしたポサダのイラスト。人は一生涯、ダンス・マカーブル(Danse Macabre 死の舞踏)に明け暮れる。
南国とシュルレアリスムと言えば、キューバのシュルレアリストの画家ウィフレード・ラムを思い浮かべるが、カリブ海のマルティニーク島ともかかわりが深い。数年前、カナダのモントリオールの古書店で「南国の再発見」を特集した雑誌『HERMISPHERS』(Editions Hémisphères New York 1944年 YVAN GOLL編集)を入手した。アンドレ・ブルトンがカリブ海のマルティニーク島を訪れた際の印象を元にした『蛇使いの女』『偉大なる黒人詩人』『震えるピン』所収で、『HERMISPHERS』はエグゾティスムとシュルレアリスムに焦点を当てている。
「…よく笑う混血の少女たちが四方へ散っていく。たいていは肌より明るい色の髪をした少女たち。これら虹色の影を伴った美しい肉体は、どんな木の精に暖められるのかしら。カカオの木?コーヒーの木?ヴァニラの木かしら?それらの葉っぱは幼年期の未知の欲望が身を潜めたコーヒー袋の紙に象られ、永続的な神秘を飾り立てる」(アンドレ・ブルトン 『マルティニーク島 蛇使いの女』-「震えるピン」より エディション・イレーヌ 松本完治訳)
南国とは、扉が開かれた書物である。失われた古代の感覚と夢に一瞬にして到達する「野をひらく鍵」(アンドレ・ブルトン)が密林の奥に秘匿されている。

「南国の再発見」を特集した雑誌『HERMISPHERS』。

雑誌『HERMISPHERS』から。アンドレ・マッソンによる挿絵。未踏の密林は熱帯の暗黒の夢に満ちている。「ジャングルに棲む捕食動物にとっては、規則は<殺すか、殺されるか>であるのに対し、社会に棲む人間にとっての規則は<社会から閉めだされるか、閉め出されないか>である」(『内面への亡命』R・ジャカール 第2章・忍従と抑圧の原注 誠信書房)。都会の密林には精神を食い散らす「疎外」という名の猛禽類が潜んでいる。
晩年のランボーは詩作を捨て、ひたすら南方の最果ての地アフリカやアラブへと向かった。「ヨーロッパを離れるのだ。海の風がぼくの肺腑を焼くだろう。辺境の気候がぼくの肌をなめして浅黒くするだろう。泳ぎ、草を踏みしだき…ぼくは戻ってくるだろう。鉄の四肢、褐色の肌、荒々しい眸をして…」(『地獄の一季節』アルチュール・ランボー 『ランボー全詩集』(湯浅博雄ほか訳)。精神の南下。精神の上昇と下降。極から極へ。ランボーにとって「遠方とは追放の地」(『意識産業』-旅行の理論 エンツェンスベルガー)だったのである。

アフリカやアラブからのランボーの手紙を集めた『Les lettres manuscrites de RIMBAUD』(Claude Jeancolas編集 Editions Textuel 1997年)と、「その後」のランボーの軌跡を描いた『Passion L’album d’une vie Rimbaud』(Claude Jeancolas Edité par Textuel 1998年))

Les lettres manuscrites de RIMBAUD』から。ランボーの手紙と筆跡。

『Passion L’album d’une vie Rimbaud』から。「詩人ランボー」から「商人ランボー」へ。地獄陥ちの軌跡を描く。
死の前日、ランボーが妹イザベルに口述筆記させた奇怪な「最後の通信(メッセージ)」。
一荷 歯一本のみ ( Un lot 1 dent seul )
一荷 歯二本 ( Un lot 2 dents )
一荷 歯三本 ( Un lot 3 dents )
一荷 歯四本 ( Un lot 4 dents )
一荷 歯二本 ( Un lot 2 dents )
(『ランボーの沈黙』竹内健 紀伊國屋新書 カッコ内は仏語原文)
「歯」とは現実的には貿易品の「牙」(象牙?)のことか。しかし筆者もこの訳(dent,dents)を「歯」ととらえたい。詩を捨て、南方アフリカの奥地を商人として彷徨ったランボーが死の床で発した解釈不能なシュルレアリスティックな最期の「詩」として…。この翌日1891年11月10日午前10時30分、ランボーは37歳の生涯を終えた。「遊民の最後の旅は死であり、その目標は新しさである。<未知の底に 新たなるものを見いだすために>」(『ベンヤミン著作集6』-「ボードレール」 晶文社)。詩の極北を極めたランボーがたどり着いたのは、過酷な南方の「言語なき砂漠」だった。
また見つかった!
なにが?永遠。
太陽と
溶け合う海
(『地獄の一季節』アルチュール・ランボー 『ランボー全詩集』 青土社 湯浅博雄訳)
作成日: 2016年10月23日(日)
(よるの ゆう)
■夜野 悠 Yu YORUNO
通信社記者を50代前半で早期退職後、パリを中心にカナダ、ドイツ、モロッコなど海外を中心に滞在、シュルレアリスム関係を中心に稀少書や作品などを蒐集する。2015年5月に国際写真祭『KYOTO GRAPHIE』のサテライトイベント『KG+』で、モノクロの写真・映像、キューバの詩で構成した写真展『古巴(キューバ)-モノクロームの午後』を開催。同年12月には京都写真クラブ主催の『第16回京都写真展 記憶論Ⅲ』で、『北朝鮮1987-消えゆく夢幻の風景』を展示。京都市在住。
●本日のお勧め作品は、ロベール・ドアノーです。

「L'ENFER キャバレー地獄」
1952年
ゼラチンシルバープリント
35.0×24.5cm
サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
◆ときの忘れもののブログは下記の皆さんのエッセイを連載しています。
・大竹昭子のエッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。
・frgmメンバーによるエッセイ「ルリユール 書物への偏愛」は毎月3日の更新です。
・夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」は毎月5日の更新です。
・笹沼俊樹のエッセイ「現代美術コレクターの独り言」はしばらく休載します。
・杉山幸一郎のエッセイ「幸せにみちたくうかんを求めて」は毎月10日の更新です。
・芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。
・普後均のエッセイ「写真という海」は毎月14日の更新です。
・野口琢郎のエッセイ「京都西陣から」は毎月15日の更新です。
・小林紀晴のエッセイ「山の記憶」は毎月19日の更新です。
・藤本貴子のエッセイ「建築圏外通信」は毎月22日の更新です。
・八束はじめ・彦坂裕のエッセイ「建築家のドローイング」(再録)は毎月24日の更新です。
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・スタッフSの「海外ネットサーフィン」は毎月26日の更新です。
・森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日の更新です。
・光嶋裕介のエッセイ「和紙に挑む」は毎月30日の更新です。
・植田実のエッセイ「美術展のおこぼれ」は、更新は随時行います。
同じく植田実のエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」と合わせお読みください。
「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。
・中村茉貴のエッセイ「美術館に瑛九を観に行く」は随時更新します。
・飯沢耕太郎のエッセイ「日本の写真家たち」は英文版とともに随時更新します。
・深野一朗のエッセイは随時更新します。
・「久保エディション」(現代版画のパトロン久保貞次郎)は随時更新します。
・石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」は終了しました。
・荒井由泰のエッセイ「いとしの国ブータン紀行」は終了しました。
・森下泰輔のエッセイ「戦後・現代美術事件簿」は終了しました。
・「殿敷侃の遺したもの」はゆかりの方々のエッセイや資料を随時紹介します。
・「オノサト・トシノブの世界」は円を描き続けた作家の生涯と作品を関係資料や評論によって紹介します。
・「瀧口修造の世界」は造形作家としての瀧口の軌跡と作品をテキストや資料によって紹介します。
土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」、「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。
・「関根伸夫ともの派」はロスアンゼルスで制作を続ける関根伸夫と「もの派」について作品や資料によって紹介します。
・「現代版画センターの記録」は随時更新します。
今までのバックナンバーの一部はホームページに転載しています。
◆ときの忘れものは「ルリユール 書物への偏愛―テクストを変換するもの―展」を開催します。
会期:2016年11月8日[火]~11月19日[土] *日曜、月曜、祝日休廊

造本作家グループLes fragments de M(略称frgm)は2011年10月、三人の製本家と一人の箔押し師が集まり、ルリユールをもっと多くの方々に知っていただき、より身近なものとして慈しんでもらうことを願い、活動を始めました。
メンバーは羽田野麻吏さん、平まどかさん、市田文子さん、中村美奈子さんで、2014年11月よりブログでfrgmのエッセイ「ルリユール 書物への偏愛」を連載しています。
「ルリユール」とはフランス語で「製本」を意味し、書店で売られているいわゆる機械製本も含める語ではありますが、一方で工芸としての製本を強く想起する言葉として、フランス語圏の国々では使われています。工芸としての製本とは、読書家・愛書家が自らの蔵書を製本家に依頼して、世界に一つの作品に仕立て直す(具体的には山羊革や仔牛革などを表装材に用い、その上に革や他の素材による)装飾を施していきます。
本展ではfrgm皆さんのルリユール作品約35点をご覧いただきます。
●イベントのご案内
展覧会最終日の11月19日(土)19時より、港千尋さん(写真家、著述家)を招いてギャラリートークを開催します(要予約/参加費1,000円)。
※必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記の上、メールにてお申込ください。
E-maii. info@tokinowasuremono.com
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