<青山の交差点で大きな事故があったとのこと。歩道でも病院の待ち合い室でも、車が突っ込んでくる世の中です。気を付けましょう。避ける自信はありませんが。
(Tさんからのメール)>
Tさん、メールをありがとう。
昨日朝、ときの忘れものから直ぐ傍の南青山三丁目交差点で、タクシーや乗用車など車3台とオートバイが絡む事故があり、一時は騒然としました。重傷を負われた方には心よりりお見舞い申しあげます。
毎朝通っている所であり、亭主の今春の事故を思い出し、ぞっとしました。
「戦後の前衛美術‘50~‘70 Part Ⅲ S氏&Y氏コレクション(入札)」が始まりました。
好評だったPart I及びPart IIに続き、1950年代から「夜の会」など前衛美術運動に参加、国際的な視野にたって活躍したS氏旧蔵の作品と、今春亡くなられたY氏旧蔵の作品群を出品しています。







出品作品を順次ご紹介しています。
ロットNo.39 緑川俊一
(ドローイング)
1975年
ミクストメディア
55.0×40.5cm
サインあり
■緑川俊一 Shunichi MIDORIKAWA(1947-)
東京生まれ。一貫して人物と顔をモチーフにギャラリー川船など個展で発表を続けている。
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ロットNo.40 南桂子+浜口陽三
パリからの年賀状
1964年
エッチング
シートサイズ:11.0×18.0cm
Ed.100
サインあり
(南・浜口の二人サインあり)
南桂子と浜口陽三夫妻からのパリからの年賀状で、南桂子の銅版画と、片面には浜口陽三のサインも記されている珍品。
■南桂子 Keiko MINAMI(1911-2004)
富山県高岡市生まれ。1928年高岡の女学校卒業。 この頃から詩作と絵画に興味を持つ。1945年東京に移住し、小説家・佐多稲子の紹介で壷井栄に師事し童話を学ぶ。 1949年自由美術展に出品。以後1958年まで毎回出品。この頃油絵を習っていた森芳雄のアトリエで、後の夫となる 浜口陽三と出会い版画の面白さを知る。1954年渡仏、銅版画指導者・フリードランデルの研究所で2年学ぶ。 1961年神奈川県立近代美術館で「フリードランデル・浜口陽三・南桂子版画展」開催。 1982年にパリからサンフランシスコに移り、1996年に帰国。世界各地で個展を開くほか、本の挿画も数多く手掛けた。
■浜口陽三 Yozo HAMAGUCHI(1909-2000)
和歌山県生まれ。1927年東京美術学校塑像科に入学するが、梅原龍三郎の助言により1930年中退、渡仏し、途中2年間ニューヨークにも滞在するが、1939年までパリで油彩画と銅版画を独学する。1953年再び渡仏、1955年頃よりカラーメゾチントによる制作を始める。1957年第1回東京国際版画ビエンナーレで東京国立近代美術館賞を受賞、同年サンパウロ・ビエンナーレで日本人初の大賞を受賞。その後もリュブリアナ、クラコワの国際版画ビエンナーレで受賞。
1981年にサンフランシスコに移住、翌年には北カリフォルニア版画大賞展でグランプリを受賞、エンサイクロペディア・ブリタニカの「メゾチント」の項目で、「20世紀の半ばの最も名高い、孤高ともいえる主導者」、「カラーメゾチントの新しい技法を開拓した作家」と紹介される。その高度な技術から生まれる繊細で静謐な作風は、他の追随を許さず高く評価されており、今日、世界の代表的銅版画作家の一人として広くその名を知られています。1996年に帰国。
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ロットNo.41 元永定正
年賀状
1962年 アクリル
シートサイズ:14.1×9.1cm
サインあり
具体を代表する作家として評価が急騰している元永が「たらしこみ」技法で描いた作品。
■元永定正 Sadamasa MOTONAGA(1922-2011)
三重県生まれ。1955年関西を拠点にする「具体美術協会」に参加、 吉原治良に師事する。絵具のたらし込みなど流動感ある絵画によって、折から世界を席巻したアンフォルメルの画家として一躍注目を浴びる。1964年現代日本美術展で受賞したのをはじめ、各種国際展などで活躍。1983年には日本芸術大賞を受賞し、名実共に日本を代表する抽象画家としての地位を確立した。2015年アメリカ・ダラス美術館で白髪一雄との二人展「Between Action and the Unknown: The Art of Kazuo Shiraga and Sadamasa Moto」が開催され大きな反響を呼んだ。
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ロットNo.42 横尾忠則
美術館―富士とキリン
2005年
シルクスクリーン
28.0×42.0cm
Ed.200 サインあり
*池田20世紀美術館 開館30周年記念作品
■横尾忠則 Tadanori YOKOO(1936-)
兵庫県生まれ。池田満寿夫と並ぶ戦後60年代が生んだ文字通りスーパースターです。幼少のころから絵や文字に興味を持ち、小学校時代には既に《漫画少年》に投稿していた。高校のときに漫画家から挿絵画家へ志望を変え、通信教育を受ける。また、同じころ油絵の制作を始め、絵画展へ応募し、入賞を重ねた。太平洋画会会友に推挙されたが、高校生であるということで断る。高齢の両親のことを思い、美大へ進学せず就職するが半年で解雇される。1956年カットの投稿や公募展への出品などを重ねるうち、神戸新聞宣伝技術研究所の助手として入社、翌年には神戸新聞社事業部関係のポスターを一手に引き受けるようになった。
1959年ナショナル宣伝研究所へ移るが、翌年には念願の日本デザインセンターへ入社、その才能を存分に発揮し、存在が広く知られるようになる。1965年の初個展の会場で三島由紀夫と出会う。1967年寺山修司主宰の天井桟敷に参加、美術を担当する。このころから海外での個展など、その活躍の場が世界的なものになった。グラフィックアーティストとして第一線で活躍を続けていた1980年、ニューヨークで見たピカソ展に衝撃を受け、画家への転向を表明、油彩の制作を本格的に開始する。その後もさまざまなジャンルのアーティストとのコラボレーションを行うなど、いまなおその活動は注目を集める現在稀有な作家である。
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ロットNo.43 吉仲太造
(作品名不詳)
1974年
シルクスクリーン
50.5×36.5cm
Ed.50 サインあり
■吉仲太造 Taizo YOSHINAKA(1928-1985) 京都生まれ。早くから画家を志し、小学校卒業後に京都市立美術工芸学校を受験するが、小児麻痺により左足が不自由であったため不合格となる。1946年のちの行動美術京都研究所となる京都人文学園絵画部に入所し、画家としての第一歩を踏み出す。1952年に上京し岡本太郎の呼びかけで美術家の国際交流と連帯をめざしたアートクラブに参加。1955年には前衛作品を結集させ新たなう ねりを生み出そうとしていた岡本の招きにより、二科会第九室に出品。43歳でうつ病を発病して以後は、無彩色のキャンバスにシルクスクリーンを用いて静物などの映像を浮かび上がらせる作品や、無駄な要素をそぎ落として白い絵具を主とした作品へと移行していった。病により56歳で歿したが、1999年渋谷区立松濤美術館と京都市美術館で「戦後美術を読み直す 吉仲太造」が開催されるなど、再評価の声が高い。
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ロットNo.44 吉原治良
『季刊書の美』復刊19号 (1980年春・夏)
「吉原治良と書」
出版社:書の美研究会
1980年8月1日発行
雑誌(15頁)
21.5×15.0cm
■吉原治良 Jiro YOSHIHARA(1905-1972)
抽象画家、および実業家。吉原製油社長。大阪の北野中学校在学中に油絵をはじめる。関西学院高等商業学部卒業。渡仏後の1928年に初個展を開き公募展などにも絵画を出展した。当初は魚を題材に描き、敬愛する藤田嗣治に作品を見てもらう機会を得るが独自性のなさを指摘され、幾何学的な抽象絵画へと徐々に転換した。1938年には東郷青児主催の二科会の抽象画家らと「九室会」を結成。戦後は吉原製油社長としての実業のかたわら絵画・デザインの発表を再開し、やがて不定形の形を激しい筆致で描いた抽象画を描き始めた。
当時、最先端の流行でもあった海外オートクチュールメゾンのファッションショーの舞台装置をプロデュースするなど時代の波にも乗る。同時に、居住していた芦屋市で若い美術家らを集めて画塾などを行っており、そこから1954年に前衛的な美術を志向する「具体美術協会」を結成しリーダーとなった。1962年には中之島にあった自分の所有する土蔵を改造して具体美術協会の本拠となるギャラリー「グタイピナコテカ」を開き、会員たちの個展を開催した。1972年67歳で死去とともに「具体」は解散した。
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ロットNo.45 依田邦子
蛾
1971年 油彩・布
14.0×18.0cm
サインあり
■依田邦子 Kuniko YODA(1944-)
東京生まれ。能仲ヤツヲに師事。創元会会員。
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ロットNo.46 K.Noriko
(作品名不詳)
オブジェ(ケース入り)
10.0×14.0×5.5cm
サインあり
K.Norikoとサインされているオブジェですが不勉強で詳細がわかりません。どなたかご教示ください。
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ロットNo.47
ジャン・ティンゲリー Jean TINGUELY
(ドローイング)
紙にインク
23.5×23.5cm
サインあり
■ジャン・ティンゲリー Jean TINGUELY(1925-1991)
スイスの画家、彫刻家。廃物を利用して機械のように動く彫刻を制作、キネティック・アートの代表的な作家である。ダダイスムの影響を濃く受け、第二次世界大戦後のフランスで誕生した美術運動、ヌーヴォー・レアリスムのメンバーでもあった。1950年代半ば以降はパリで活動し、イヴ・クラインやニキ・ド・サンファルらの美術家たちと知り合う。1960年にはヌーヴォー・レアリスムの結成に関わり、ニューヨーク近代美術館で開催された展覧会では不器用に動いて音を立て最後は自ら炎上して崩壊する巨大な機械『ニューヨーク賛歌』を出展した。
1971年にニキ・ド・サンファルと結婚。1977年にはバーゼルに『噴水の劇場』(ティンゲリーの噴水)を制作。1982年にはポンピドゥー・センターに隣接するストラヴィンスキー広場に、『自動人形の噴水』をニキ・ド・サンファルと共同制作した。1984年高輪美術館(後のセゾン現代美術館)から『地獄の首都 No.1』を制作依頼され、来日している。没後1996年にはバーゼルにマリオ・ボッタの設計で「ティンゲリー美術館」が開館した。
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ロットNo.48
ダリ Salvador y Domenech DALI
神曲より
布にシルクスクリーン
30.5×25.0cm
Ed.2 サインあり
■サルヴァドール・ダリ Salvador y Domenech DALI(1904-1989)
スペイン生まれ。1921年サンフェルナンド美術学校に入学、1925年マドリードのダルマウ画廊で初個展を開く。1927年パリに赴き、ピカソやアンドレ・ブルトンなどの面識を得る。1929年夏、詩人のポール・エニュアールが家族と共にダリの元を訪れたが、その妻であったガラとダリは強く惹かれ合い1932年に結婚、ガラはダリの永遠のミューズであり支配者でありマネージャーという存在になる。ガラと共に世界に進出したダリは独自の価値観を作品の中で展開し、時間・宗教・量子力学・遺伝子学などをモチーフにした作品を次々に制作。各地で開かれた個展や回顧展はいずれも成功をおさめる。フロリダのセントピーターズ・バーグには絵画では最大のコレクションを集めたダリ美術館がオープンした。1982年にガラが亡くなったことで拠りどころを失い、翌年の「燕の尾」が生涯最後の作品となる。1989年、歿。自分の出生地フィゲーラスに自ら計画したダリ劇場美術館内に埋葬されている。
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ロットNo.49
ピエール・アレシンスキー Pierre ALECHINSKY
(ドローイング)
1964年 水彩、ペン
21.5×27.5cm
サインあり
■ピエール・アレシンスキー Pierre ALECHINSKY (1927-)
ベルギーに生まれる。当初はキュビスムの影響下にあったが、アンソー ルの作品を知り表現主義的色彩を強める。「若きベルギー絵画」「コブラ」などの運動に参加。日本の書にも興味を持ち、森田子龍の「墨美」グループと交 流。1955年には来日して映画「日本の書」を制作。1960年代初頭にアメリカを訪問して以降は油彩を放棄し、アクリル画や版画を制作。渦巻くような独特の魅力的な線による、幻想的ヴィジョンに満ちたエネルギッシュな作風を得意とする。
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ロットNo.50
ロベルト・クリッパ Roberto CRIPPA
(コラージュ)
1962年
コラージュ、グワッシュ
63.0×48.0cm
■ロベルト・クリッパ Roberto CRIPPA (1921ー1972)
イタリア出身の画家・彫刻家。ミラノ・モンツァ生まれ。ミラノのブレラアカデミーで美術を学ぶ。短い抽象画作成の後、ルシオ・フォンタナと共にスペシャリズム運動に参加。1950~53年のスペシャリズムマニフェストの署名者の一人となる。1949~52年にかけて、イタリアのアクションペインティングの先駆者として活動。50年代半ばからは知人のシュルレアリスム作家達の影響からトーテム風の人物画の制作を開始。56年からはそれらを鉄で鋳造した立体の制作も始める。58年以降は木片や新聞など多彩な材料を用いたコラージュレリーフを制作。その色彩は年を経る毎に豊かになっていった。空中アクロバティックのチャンピオンでもあったが、1972年にミラノ・ブレッソにて飛行機事故により逝去。
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ロットNo.51
マーク・トビー Mark TOBEY
(ドローイング)
1964年 水彩
3.8×40.0cm
裏面にサインあり
■マーク・トビー Mark TOBEY (1890ー1976)
アメリカ・ウィスコンシン生まれ。シカゴ・アート・インスティテュートなどで学び、コマーシャル美術の仕事を経て1918年にバハイ教に入信。1934年日本旅行の際に書道に接し、その影響からホワイト・ライティングと呼ばれる神秘的、宗教的抽象絵画を開発。跳ねるように錯綜する線の無限連続でイメージを捉えようとした作風は、
バハイ信仰と禅に由来しているものであり、ニューヨークの抽象表現主義の先駆的位置を占める存在となった。代表作に「ブロードウェイ」(1935年)があり、1958年にはベネチア国際ビエンナーレ美術展で国際大賞を受賞している。
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ロットNo.52
ゲラルド・シュネーデル Gerard SCHNEIDER
(ドローイング)
1964年 水彩
10.5×14.3cm
サインあり
■ゲラルド・シュネーデル Gerard Schneider(1896―1986)
フランスのアンフォルメル画家。スイスのサント・クロワに生まれ、フランスに帰化する。1916年にパリに出、18年まで装飾美術学校で、ついでエコール・デ・ボザール(国立美術学校)で学ぶ。一時帰国後、24年にパリに定住。後期印象派、キュビスム、シュルレアリスム、さらには表現主義と近代美術のあらゆる探究を試みたのち、44年ころから抽象に転じる。最初は一種の表現主義的な残像もあったが、まもなく真の抽象に向かった。
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ロットNo.53
ベアトリス・サンチェス Beatriz SANCHEZ
En su fiestade Azul
(彼の青の祝賀会)
1992年 油彩・布
69.5×94.5cm
サインあり
■ベアトリス・サンチェス Beatriz SANCHEZ
メキシコの画家。2014年4月に"Paralelismo cultural. Tres miradas de Mexico en Japon"(プラザギャラリー・東京)、2015年10月に《Mexicoanidad メキシコチック》(創形美術学校・東京)など、日本でも幾度に渡って作品を発表している。
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ロットNo.54
ユージーン・ブランズ Eugene BRANDS
(作品名不詳)
1966年 ガッシュ
25.5×33.7cm
サインあり
■ユージーン・ブランズ Eugene BRANDS(1913-2002)
オランダの画家。COBRA美術運動の初期メンバー。1946年にアムステルダム市立美術館で開催された"Young Painters"展で、一室すべてを自分の作品で埋めた。1948年にはオランダの実験グループに加わり、1949年11月には国際実験美術展で作品を展示した。この間に彼が所属する実験グループはCOBRA運動の立役者の一つとなり、ブランズはグループの刊行していた雑誌「Reflex」においてグループステートメントの成立に貢献することとなったが、後に意見の相違や不合意などからグループを去り、以後ソロ活動を続けた。1950年代は、子供の絵から着想を得ていたと言われる。現在作品の多くはヤン・ファン・デル・トフトミュージアムに所蔵されている。
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ロットNo.55
吉原治良 他
『具体』4号
出版:具体編集委員会
1956年7月1日発行
機関紙(34頁)
24.2×26.0×0.3cm
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ロットNo.56
吉原治良 他
『具体』8号
出版:具体編集委員会
1957年9月29日発行
機関紙(88頁)
25.0×26.5×0.6cm

『具体』8号奥付

『具体』8号のケースと本体
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ロットNo.57
五人組写真集編集委員会
(池田昇一、伊藤久、鈴木完侍、彦坂尚嘉、矢野直一)
『五人組写真集 REVOLUTION』
季刊第1号(1972年)
出版社:写真集編集委員会
1972年3月20日発行
写真集
29.0×21.0cm
55部限定

『五人組写真集 REVOLUTION』奥付
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ロットNo.58
磯崎新、山口勝弘、アン・トルーイット、サム・フランシス、三木富雄、田中信太郎、湯原和夫、五東衛(清水九兵衛)、東野芳明
「色彩と空間展」南画廊ポスター
1966年
オフセット
105.0×74.5cm
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ロットNo.59
荒川修作、岡本信次郎、馬場彬、三木富雄、元永定正、山口勝弘、吉仲太造、村上善男、伊藤隆道、野田哲也、高松次郎、柵山龍司、池田満寿夫、若尾和呂、瀬木愼一
「現代美術フェスティバル」ポスター
1970年
オフセット
72.0×47.5cm
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◆「戦後の前衛美術‘50-70 Part III S氏 & Y氏コレクション(入札)」
会期:2016年12月3日[土]―12月10日[土] *日曜、月曜、祝日休廊
入札締切り:12月10日[土] 17時必着

1950年代から「夜の会」など前衛美術運動に参加、国際的な視野にたって活躍したS氏と、同じく50年代から丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」を携えて全国を巡回した反骨の評論家Y氏の旧蔵作品を入札方式で頒布します。
好評だったPart I及びPart IIに続き、1950~70年代の前衛の時代を駆け抜けた作家たちの希少なコレクションです。
*下記の画像はクリックすると拡大しますが容量の関係で鮮明ではありません。より鮮明な作品画像は下記のURLにてご覧ください(クリックすると拡大します)。
http://www.tokinowasuremono.com/tenrankag/izen/tk1612/284/284_list.jpg

●本日の瑛九情報!
~~~
父は子のために祈り 子は父のために祈った
父は子の健康を祈り 子は父の無事を祈った
父は子を信愛し 子は父を敬愛した
父は貧苦のうちに学び子は裕福のうちに育った
父は子を遊学させ 子は父に報いむと努めた
父はその妻を亡くし 子はその健康を害した
父は再び良妻を得 子は再び健康を得た
同居五十年 同業三十年
父は子の父であり師であり友であった
幽明相隔つる今も父は子のうちに生きている
*杉田正臣『父』(1969年 杉田眼科内「根」発行 非売品)より~~~
本日12月7日は瑛九の父杉田直(すぎた なお)の命日です。
1960年(昭和35)3月10日瑛九(本名杉田秀夫)が48歳で死去。その九ヵ月後、子どもたちを愛してやまなかった杉田直が92歳の生涯を終えました。
この父(杉田直)にしてこの子あり、
この兄(杉田正臣)にしてこの弟(瑛九)ありと思わずにはおられません。
宮崎きっての眼科医だった瑛九の父直については、今回の展覧会の主人公である山田光春さんの著書にもたびたび登場し、瑛九の画業をやさしく見守り支え続けました。長男正臣さんは父や弟について多くのことを書き残しています。少しづつ紹介しましょう。
<瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で始まりました(11月22日~2017年2月12日)。ときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。
(Tさんからのメール)>
Tさん、メールをありがとう。
昨日朝、ときの忘れものから直ぐ傍の南青山三丁目交差点で、タクシーや乗用車など車3台とオートバイが絡む事故があり、一時は騒然としました。重傷を負われた方には心よりりお見舞い申しあげます。
毎朝通っている所であり、亭主の今春の事故を思い出し、ぞっとしました。
「戦後の前衛美術‘50~‘70 Part Ⅲ S氏&Y氏コレクション(入札)」が始まりました。
好評だったPart I及びPart IIに続き、1950年代から「夜の会」など前衛美術運動に参加、国際的な視野にたって活躍したS氏旧蔵の作品と、今春亡くなられたY氏旧蔵の作品群を出品しています。







出品作品を順次ご紹介しています。

(ドローイング)
1975年
ミクストメディア
55.0×40.5cm
サインあり
■緑川俊一 Shunichi MIDORIKAWA(1947-)
東京生まれ。一貫して人物と顔をモチーフにギャラリー川船など個展で発表を続けている。
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パリからの年賀状
1964年
エッチング
シートサイズ:11.0×18.0cm
Ed.100
サインあり
(南・浜口の二人サインあり)
南桂子と浜口陽三夫妻からのパリからの年賀状で、南桂子の銅版画と、片面には浜口陽三のサインも記されている珍品。
■南桂子 Keiko MINAMI(1911-2004)
富山県高岡市生まれ。1928年高岡の女学校卒業。 この頃から詩作と絵画に興味を持つ。1945年東京に移住し、小説家・佐多稲子の紹介で壷井栄に師事し童話を学ぶ。 1949年自由美術展に出品。以後1958年まで毎回出品。この頃油絵を習っていた森芳雄のアトリエで、後の夫となる 浜口陽三と出会い版画の面白さを知る。1954年渡仏、銅版画指導者・フリードランデルの研究所で2年学ぶ。 1961年神奈川県立近代美術館で「フリードランデル・浜口陽三・南桂子版画展」開催。 1982年にパリからサンフランシスコに移り、1996年に帰国。世界各地で個展を開くほか、本の挿画も数多く手掛けた。
■浜口陽三 Yozo HAMAGUCHI(1909-2000)
和歌山県生まれ。1927年東京美術学校塑像科に入学するが、梅原龍三郎の助言により1930年中退、渡仏し、途中2年間ニューヨークにも滞在するが、1939年までパリで油彩画と銅版画を独学する。1953年再び渡仏、1955年頃よりカラーメゾチントによる制作を始める。1957年第1回東京国際版画ビエンナーレで東京国立近代美術館賞を受賞、同年サンパウロ・ビエンナーレで日本人初の大賞を受賞。その後もリュブリアナ、クラコワの国際版画ビエンナーレで受賞。
1981年にサンフランシスコに移住、翌年には北カリフォルニア版画大賞展でグランプリを受賞、エンサイクロペディア・ブリタニカの「メゾチント」の項目で、「20世紀の半ばの最も名高い、孤高ともいえる主導者」、「カラーメゾチントの新しい技法を開拓した作家」と紹介される。その高度な技術から生まれる繊細で静謐な作風は、他の追随を許さず高く評価されており、今日、世界の代表的銅版画作家の一人として広くその名を知られています。1996年に帰国。
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年賀状
1962年 アクリル
シートサイズ:14.1×9.1cm
サインあり
具体を代表する作家として評価が急騰している元永が「たらしこみ」技法で描いた作品。
■元永定正 Sadamasa MOTONAGA(1922-2011)
三重県生まれ。1955年関西を拠点にする「具体美術協会」に参加、 吉原治良に師事する。絵具のたらし込みなど流動感ある絵画によって、折から世界を席巻したアンフォルメルの画家として一躍注目を浴びる。1964年現代日本美術展で受賞したのをはじめ、各種国際展などで活躍。1983年には日本芸術大賞を受賞し、名実共に日本を代表する抽象画家としての地位を確立した。2015年アメリカ・ダラス美術館で白髪一雄との二人展「Between Action and the Unknown: The Art of Kazuo Shiraga and Sadamasa Moto」が開催され大きな反響を呼んだ。
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美術館―富士とキリン
2005年
シルクスクリーン
28.0×42.0cm
Ed.200 サインあり
*池田20世紀美術館 開館30周年記念作品
■横尾忠則 Tadanori YOKOO(1936-)
兵庫県生まれ。池田満寿夫と並ぶ戦後60年代が生んだ文字通りスーパースターです。幼少のころから絵や文字に興味を持ち、小学校時代には既に《漫画少年》に投稿していた。高校のときに漫画家から挿絵画家へ志望を変え、通信教育を受ける。また、同じころ油絵の制作を始め、絵画展へ応募し、入賞を重ねた。太平洋画会会友に推挙されたが、高校生であるということで断る。高齢の両親のことを思い、美大へ進学せず就職するが半年で解雇される。1956年カットの投稿や公募展への出品などを重ねるうち、神戸新聞宣伝技術研究所の助手として入社、翌年には神戸新聞社事業部関係のポスターを一手に引き受けるようになった。
1959年ナショナル宣伝研究所へ移るが、翌年には念願の日本デザインセンターへ入社、その才能を存分に発揮し、存在が広く知られるようになる。1965年の初個展の会場で三島由紀夫と出会う。1967年寺山修司主宰の天井桟敷に参加、美術を担当する。このころから海外での個展など、その活躍の場が世界的なものになった。グラフィックアーティストとして第一線で活躍を続けていた1980年、ニューヨークで見たピカソ展に衝撃を受け、画家への転向を表明、油彩の制作を本格的に開始する。その後もさまざまなジャンルのアーティストとのコラボレーションを行うなど、いまなおその活動は注目を集める現在稀有な作家である。
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(作品名不詳)
1974年
シルクスクリーン
50.5×36.5cm
Ed.50 サインあり
■吉仲太造 Taizo YOSHINAKA(1928-1985) 京都生まれ。早くから画家を志し、小学校卒業後に京都市立美術工芸学校を受験するが、小児麻痺により左足が不自由であったため不合格となる。1946年のちの行動美術京都研究所となる京都人文学園絵画部に入所し、画家としての第一歩を踏み出す。1952年に上京し岡本太郎の呼びかけで美術家の国際交流と連帯をめざしたアートクラブに参加。1955年には前衛作品を結集させ新たなう ねりを生み出そうとしていた岡本の招きにより、二科会第九室に出品。43歳でうつ病を発病して以後は、無彩色のキャンバスにシルクスクリーンを用いて静物などの映像を浮かび上がらせる作品や、無駄な要素をそぎ落として白い絵具を主とした作品へと移行していった。病により56歳で歿したが、1999年渋谷区立松濤美術館と京都市美術館で「戦後美術を読み直す 吉仲太造」が開催されるなど、再評価の声が高い。
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『季刊書の美』復刊19号 (1980年春・夏)
「吉原治良と書」
出版社:書の美研究会
1980年8月1日発行
雑誌(15頁)
21.5×15.0cm
■吉原治良 Jiro YOSHIHARA(1905-1972)
抽象画家、および実業家。吉原製油社長。大阪の北野中学校在学中に油絵をはじめる。関西学院高等商業学部卒業。渡仏後の1928年に初個展を開き公募展などにも絵画を出展した。当初は魚を題材に描き、敬愛する藤田嗣治に作品を見てもらう機会を得るが独自性のなさを指摘され、幾何学的な抽象絵画へと徐々に転換した。1938年には東郷青児主催の二科会の抽象画家らと「九室会」を結成。戦後は吉原製油社長としての実業のかたわら絵画・デザインの発表を再開し、やがて不定形の形を激しい筆致で描いた抽象画を描き始めた。
当時、最先端の流行でもあった海外オートクチュールメゾンのファッションショーの舞台装置をプロデュースするなど時代の波にも乗る。同時に、居住していた芦屋市で若い美術家らを集めて画塾などを行っており、そこから1954年に前衛的な美術を志向する「具体美術協会」を結成しリーダーとなった。1962年には中之島にあった自分の所有する土蔵を改造して具体美術協会の本拠となるギャラリー「グタイピナコテカ」を開き、会員たちの個展を開催した。1972年67歳で死去とともに「具体」は解散した。
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蛾
1971年 油彩・布
14.0×18.0cm
サインあり
■依田邦子 Kuniko YODA(1944-)
東京生まれ。能仲ヤツヲに師事。創元会会員。
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(作品名不詳)
オブジェ(ケース入り)
10.0×14.0×5.5cm
サインあり
K.Norikoとサインされているオブジェですが不勉強で詳細がわかりません。どなたかご教示ください。
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ジャン・ティンゲリー Jean TINGUELY
(ドローイング)
紙にインク
23.5×23.5cm
サインあり
■ジャン・ティンゲリー Jean TINGUELY(1925-1991)
スイスの画家、彫刻家。廃物を利用して機械のように動く彫刻を制作、キネティック・アートの代表的な作家である。ダダイスムの影響を濃く受け、第二次世界大戦後のフランスで誕生した美術運動、ヌーヴォー・レアリスムのメンバーでもあった。1950年代半ば以降はパリで活動し、イヴ・クラインやニキ・ド・サンファルらの美術家たちと知り合う。1960年にはヌーヴォー・レアリスムの結成に関わり、ニューヨーク近代美術館で開催された展覧会では不器用に動いて音を立て最後は自ら炎上して崩壊する巨大な機械『ニューヨーク賛歌』を出展した。
1971年にニキ・ド・サンファルと結婚。1977年にはバーゼルに『噴水の劇場』(ティンゲリーの噴水)を制作。1982年にはポンピドゥー・センターに隣接するストラヴィンスキー広場に、『自動人形の噴水』をニキ・ド・サンファルと共同制作した。1984年高輪美術館(後のセゾン現代美術館)から『地獄の首都 No.1』を制作依頼され、来日している。没後1996年にはバーゼルにマリオ・ボッタの設計で「ティンゲリー美術館」が開館した。
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ダリ Salvador y Domenech DALI
神曲より
布にシルクスクリーン
30.5×25.0cm
Ed.2 サインあり
■サルヴァドール・ダリ Salvador y Domenech DALI(1904-1989)
スペイン生まれ。1921年サンフェルナンド美術学校に入学、1925年マドリードのダルマウ画廊で初個展を開く。1927年パリに赴き、ピカソやアンドレ・ブルトンなどの面識を得る。1929年夏、詩人のポール・エニュアールが家族と共にダリの元を訪れたが、その妻であったガラとダリは強く惹かれ合い1932年に結婚、ガラはダリの永遠のミューズであり支配者でありマネージャーという存在になる。ガラと共に世界に進出したダリは独自の価値観を作品の中で展開し、時間・宗教・量子力学・遺伝子学などをモチーフにした作品を次々に制作。各地で開かれた個展や回顧展はいずれも成功をおさめる。フロリダのセントピーターズ・バーグには絵画では最大のコレクションを集めたダリ美術館がオープンした。1982年にガラが亡くなったことで拠りどころを失い、翌年の「燕の尾」が生涯最後の作品となる。1989年、歿。自分の出生地フィゲーラスに自ら計画したダリ劇場美術館内に埋葬されている。
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ピエール・アレシンスキー Pierre ALECHINSKY
(ドローイング)
1964年 水彩、ペン
21.5×27.5cm
サインあり
■ピエール・アレシンスキー Pierre ALECHINSKY (1927-)
ベルギーに生まれる。当初はキュビスムの影響下にあったが、アンソー ルの作品を知り表現主義的色彩を強める。「若きベルギー絵画」「コブラ」などの運動に参加。日本の書にも興味を持ち、森田子龍の「墨美」グループと交 流。1955年には来日して映画「日本の書」を制作。1960年代初頭にアメリカを訪問して以降は油彩を放棄し、アクリル画や版画を制作。渦巻くような独特の魅力的な線による、幻想的ヴィジョンに満ちたエネルギッシュな作風を得意とする。
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ロベルト・クリッパ Roberto CRIPPA
(コラージュ)
1962年
コラージュ、グワッシュ
63.0×48.0cm
■ロベルト・クリッパ Roberto CRIPPA (1921ー1972)
イタリア出身の画家・彫刻家。ミラノ・モンツァ生まれ。ミラノのブレラアカデミーで美術を学ぶ。短い抽象画作成の後、ルシオ・フォンタナと共にスペシャリズム運動に参加。1950~53年のスペシャリズムマニフェストの署名者の一人となる。1949~52年にかけて、イタリアのアクションペインティングの先駆者として活動。50年代半ばからは知人のシュルレアリスム作家達の影響からトーテム風の人物画の制作を開始。56年からはそれらを鉄で鋳造した立体の制作も始める。58年以降は木片や新聞など多彩な材料を用いたコラージュレリーフを制作。その色彩は年を経る毎に豊かになっていった。空中アクロバティックのチャンピオンでもあったが、1972年にミラノ・ブレッソにて飛行機事故により逝去。
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ロットNo.51
マーク・トビー Mark TOBEY
(ドローイング)
1964年 水彩
3.8×40.0cm
裏面にサインあり
■マーク・トビー Mark TOBEY (1890ー1976)
アメリカ・ウィスコンシン生まれ。シカゴ・アート・インスティテュートなどで学び、コマーシャル美術の仕事を経て1918年にバハイ教に入信。1934年日本旅行の際に書道に接し、その影響からホワイト・ライティングと呼ばれる神秘的、宗教的抽象絵画を開発。跳ねるように錯綜する線の無限連続でイメージを捉えようとした作風は、
バハイ信仰と禅に由来しているものであり、ニューヨークの抽象表現主義の先駆的位置を占める存在となった。代表作に「ブロードウェイ」(1935年)があり、1958年にはベネチア国際ビエンナーレ美術展で国際大賞を受賞している。
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ゲラルド・シュネーデル Gerard SCHNEIDER
(ドローイング)
1964年 水彩
10.5×14.3cm
サインあり
■ゲラルド・シュネーデル Gerard Schneider(1896―1986)
フランスのアンフォルメル画家。スイスのサント・クロワに生まれ、フランスに帰化する。1916年にパリに出、18年まで装飾美術学校で、ついでエコール・デ・ボザール(国立美術学校)で学ぶ。一時帰国後、24年にパリに定住。後期印象派、キュビスム、シュルレアリスム、さらには表現主義と近代美術のあらゆる探究を試みたのち、44年ころから抽象に転じる。最初は一種の表現主義的な残像もあったが、まもなく真の抽象に向かった。
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ベアトリス・サンチェス Beatriz SANCHEZ
En su fiestade Azul
(彼の青の祝賀会)
1992年 油彩・布
69.5×94.5cm
サインあり
■ベアトリス・サンチェス Beatriz SANCHEZ
メキシコの画家。2014年4月に"Paralelismo cultural. Tres miradas de Mexico en Japon"(プラザギャラリー・東京)、2015年10月に《Mexicoanidad メキシコチック》(創形美術学校・東京)など、日本でも幾度に渡って作品を発表している。
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ユージーン・ブランズ Eugene BRANDS
(作品名不詳)
1966年 ガッシュ
25.5×33.7cm
サインあり
■ユージーン・ブランズ Eugene BRANDS(1913-2002)
オランダの画家。COBRA美術運動の初期メンバー。1946年にアムステルダム市立美術館で開催された"Young Painters"展で、一室すべてを自分の作品で埋めた。1948年にはオランダの実験グループに加わり、1949年11月には国際実験美術展で作品を展示した。この間に彼が所属する実験グループはCOBRA運動の立役者の一つとなり、ブランズはグループの刊行していた雑誌「Reflex」においてグループステートメントの成立に貢献することとなったが、後に意見の相違や不合意などからグループを去り、以後ソロ活動を続けた。1950年代は、子供の絵から着想を得ていたと言われる。現在作品の多くはヤン・ファン・デル・トフトミュージアムに所蔵されている。
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吉原治良 他
『具体』4号
出版:具体編集委員会
1956年7月1日発行
機関紙(34頁)
24.2×26.0×0.3cm
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ロットNo.56
吉原治良 他
『具体』8号
出版:具体編集委員会
1957年9月29日発行
機関紙(88頁)
25.0×26.5×0.6cm

『具体』8号奥付

『具体』8号のケースと本体
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五人組写真集編集委員会
(池田昇一、伊藤久、鈴木完侍、彦坂尚嘉、矢野直一)
『五人組写真集 REVOLUTION』
季刊第1号(1972年)
出版社:写真集編集委員会
1972年3月20日発行
写真集
29.0×21.0cm
55部限定

『五人組写真集 REVOLUTION』奥付
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磯崎新、山口勝弘、アン・トルーイット、サム・フランシス、三木富雄、田中信太郎、湯原和夫、五東衛(清水九兵衛)、東野芳明
「色彩と空間展」南画廊ポスター
1966年
オフセット
105.0×74.5cm
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荒川修作、岡本信次郎、馬場彬、三木富雄、元永定正、山口勝弘、吉仲太造、村上善男、伊藤隆道、野田哲也、高松次郎、柵山龍司、池田満寿夫、若尾和呂、瀬木愼一
「現代美術フェスティバル」ポスター
1970年
オフセット
72.0×47.5cm
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◆「戦後の前衛美術‘50-70 Part III S氏 & Y氏コレクション(入札)」
会期:2016年12月3日[土]―12月10日[土] *日曜、月曜、祝日休廊
入札締切り:12月10日[土] 17時必着

1950年代から「夜の会」など前衛美術運動に参加、国際的な視野にたって活躍したS氏と、同じく50年代から丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」を携えて全国を巡回した反骨の評論家Y氏の旧蔵作品を入札方式で頒布します。
好評だったPart I及びPart IIに続き、1950~70年代の前衛の時代を駆け抜けた作家たちの希少なコレクションです。
*下記の画像はクリックすると拡大しますが容量の関係で鮮明ではありません。より鮮明な作品画像は下記のURLにてご覧ください(クリックすると拡大します)。
http://www.tokinowasuremono.com/tenrankag/izen/tk1612/284/284_list.jpg

●本日の瑛九情報!
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父は子のために祈り 子は父のために祈った
父は子の健康を祈り 子は父の無事を祈った
父は子を信愛し 子は父を敬愛した
父は貧苦のうちに学び子は裕福のうちに育った
父は子を遊学させ 子は父に報いむと努めた
父はその妻を亡くし 子はその健康を害した
父は再び良妻を得 子は再び健康を得た
同居五十年 同業三十年
父は子の父であり師であり友であった
幽明相隔つる今も父は子のうちに生きている
*杉田正臣『父』(1969年 杉田眼科内「根」発行 非売品)より~~~
本日12月7日は瑛九の父杉田直(すぎた なお)の命日です。
1960年(昭和35)3月10日瑛九(本名杉田秀夫)が48歳で死去。その九ヵ月後、子どもたちを愛してやまなかった杉田直が92歳の生涯を終えました。
この父(杉田直)にしてこの子あり、
この兄(杉田正臣)にしてこの弟(瑛九)ありと思わずにはおられません。
宮崎きっての眼科医だった瑛九の父直については、今回の展覧会の主人公である山田光春さんの著書にもたびたび登場し、瑛九の画業をやさしく見守り支え続けました。長男正臣さんは父や弟について多くのことを書き残しています。少しづつ紹介しましょう。
<瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で始まりました(11月22日~2017年2月12日)。ときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。
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