皆様、長い休みでご迷惑をおかけしました。ときの忘れものは本日1月17日より新年2017年の営業を開始します。
お正月早々、シンガポールのアートフェアに出展したスタッフたちも何事もなければ本日帰国の予定です。
先日のブログでご紹介したとおり、銀座のギャラリーせいほうでは「石山修武・六角鬼丈 二人展―遠い記憶の形―」が開催されています。

<足を踏み入れた瞬間に作者を慕う気持ちが湧いてくるような展示だったよかった。 | 石山修武・六角鬼丈2人展ー遠い記憶の形ー >(hsmさんのtwitterより 1月11日)

2017年1月10日
右から、石山修武、山本理顕、六角鬼丈、淵上正幸

主催/会場:ギャラリーせいほう
協力:ときの忘れもの
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長年の友人である石山修武先生と六角鬼丈先生の二人展であり、お二人が昨年からお正月にかけて制作したときの忘れものの新作エディションと、立体作品が展示されています。
この展覧会にはもう一人影の出品者とでもいうべき建築家がいます。
2001年9月2日に59歳で亡くなった毛綱毅曠先生です。
<若い頃、六角鬼丈はわたくしよりも数歩先を歩いていた。本人は嫌がるだろうがスターであった。何によってスターであったかと言えば、この自邸の設計により歴然とその才能の形を世に知らしめたのである。建築ジャーナリズム最盛期の頃でもあり、六角さんは今から考えれば驚く程にあった建築雑誌、振り返れば「ペーパー」の時代の歴然とした先頭を走っていた。ただし我々とは違って良い品格の持主であったから、自分で「俺は今、先頭に居るぞ」と大言壮語の一切が無かった。
我々と言うのは毛綱モン太、石井和紘、石山修武、そして六角鬼丈である。後年、と言いたいところだが、出会ってすぐに血気盛ん、と言うよりも早く早く成り上がりたいの気持が強かった我々は「婆娑羅」の名を冠したグループを結成した。気持ちだけは「メタボリズム」グループに対抗してやれとの意気があった。当時華の中の華であった黒川紀章、菊竹清訓のスター達に、背伸びしてでも立ち向かってやれのヤクザ言葉で言えば鉄砲玉みたいな連中ではあった。 石山修武 スタジオGAYA日記より>
1970年代に「婆娑羅」という会を結成し、建築界のゲリラとして暴れまわったのが石山先生たちでした。石井和紘、毛綱毅曠のお二人は既に鬼籍に入られ不在です。
石山先生と故・毛綱先生の共著が昨秋発刊され、この展覧会でも販売しています。

『異形建築巡礼』
石山修武編著/毛綱毅曠著
2016年 国書刊行会
335ページ 26.5x19.5cm
価格:5,400円(税込、送料別途)
*ときの忘れもので扱っています。
*全402項目の註釈を執筆した佐藤研吾さんの<『異形建築巡礼』を注釈する>をぜひお読みください。
目次
(クリックしてください)
<今は昔、病死した毛綱モン太が「建築への想い忘れ難し、君傾城の婆娑羅事」らしきを書いたのを読んで共感を覚えたことを想い出す。(石山修武)>
婆娑羅の会のメンバー、毛綱モン太(毅曠)、石井和紘、石山修武、六角鬼丈たちの中では、本業の建築設計から飛翔し最も精力的に絵を描き、版画をつくり、そして展覧会を開いたのが毛綱先生でした。
亭主はそのとき近くにおりながら、毛綱先生の毒気にあたるのが怖くて近寄らなかった。
もし今、毛綱先生健在でありせば、ギャラリーせいほうの会場に殴りこみをかけて「俺も入れろ」と言っていたに違いない。
毛綱先生の建築作品についてはコチラのサイトにたくさん紹介されています。


■石山修武 Osamu ISHIYAMA
建築家。1944年生まれ。
1966年早稲田大学卒業。1968同大学院建設工学科修士課程修了後、設計事務所開設。1988年早稲田大学教授。2014年退任、同大学名誉教授。設計事務所「スタジオGAYA」開設。
主な建築作品:幻庵、開拓者の家、伊豆の長八美術館(吉田五十八賞)、リアス・アーク美術館(日本建築学会賞)、世田谷村(芸術選奨文部科学大臣賞)、ひろしまハウス(カンボジア・プノンペン)など。
1996年ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展では瓦礫が散乱する廃墟を出現させ金獅子賞を受賞。2008年世田谷美術館「建築がみる夢-石山修武と12の物語」展開催。
主な著書:『笑う住宅』(1986年、筑摩書房)、『現代の職人』(1991年 晶文社)『建築家、突如雑貨商となり至極満足に生きる』(1999年、デジタルハリウッド出版局)、『石山修武画文集 世田谷村日記』(2004年、ときの忘れもの)など。
■六角鬼丈 Kijo ROKKAKU
建築家。1941年生まれ。
1965年、東京藝術学美術学部建築科卒業 磯崎新アトリエ勤務。
1969年 六角鬼丈計画工房主幹。
1991年~2009 東京藝術大学美術学部建築科教授。名誉教授。
2009~2016 北京・を中央美術学院・建築学院特聘教授。
2001年~現在 臨床美術学会会長。
1967年 都市住宅創刊号、クレバスの家、八卦ハウスでデビュー。
1969年 スコピエ都市計画、万博お祭り広場など担当後独立。
1969年 六角鬼丈計画工房設立する。
1977年 風の造形頂部に乗せた「雑創の森学園」で第4回吉田五十八賞を受賞。
1990年 菱形を武道の遺伝子にたとえた「東京武道館」で日本建築学会賞。
2000年 人の五感をテーマにした「感覚ミュージアム」で毎日デザイン賞を受賞している。
1971年 解体の世代と称されたワーキング「狂気の時代を生き抜く私自身のためのプロジェクト」で「伝家の宝塔」を提案、以降、六角の住宅づくりの核となり、また、1985年以降 自らの創作方法を「新鬼流八道」と称し、陰陽、善悪、虚実など二極、二律背反を合体。建築をジキルハイド的生態へと変容させようとしている。
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●本日の瑛九情報!
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瑛九の会の機関誌『眠りの理由』を順次ご紹介しています。

『眠りの理由 No.14』
「現代美術の父・瑛九展」記念
1970年以後の瑛九に関する論文集
1979年6月8日 瑛九の会発行
編集・発行者:原田勇
60ページ+付録2ページ 19.0×24.2cm
*本文はヨコ組

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<瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催されています(2016年11月22日~2017年2月12日)。外野応援団のときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。
お正月早々、シンガポールのアートフェアに出展したスタッフたちも何事もなければ本日帰国の予定です。
先日のブログでご紹介したとおり、銀座のギャラリーせいほうでは「石山修武・六角鬼丈 二人展―遠い記憶の形―」が開催されています。

<足を踏み入れた瞬間に作者を慕う気持ちが湧いてくるような展示だったよかった。 | 石山修武・六角鬼丈2人展ー遠い記憶の形ー >(hsmさんのtwitterより 1月11日)

2017年1月10日
右から、石山修武、山本理顕、六角鬼丈、淵上正幸

主催/会場:ギャラリーせいほう
協力:ときの忘れもの
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長年の友人である石山修武先生と六角鬼丈先生の二人展であり、お二人が昨年からお正月にかけて制作したときの忘れものの新作エディションと、立体作品が展示されています。
この展覧会にはもう一人影の出品者とでもいうべき建築家がいます。
2001年9月2日に59歳で亡くなった毛綱毅曠先生です。
<若い頃、六角鬼丈はわたくしよりも数歩先を歩いていた。本人は嫌がるだろうがスターであった。何によってスターであったかと言えば、この自邸の設計により歴然とその才能の形を世に知らしめたのである。建築ジャーナリズム最盛期の頃でもあり、六角さんは今から考えれば驚く程にあった建築雑誌、振り返れば「ペーパー」の時代の歴然とした先頭を走っていた。ただし我々とは違って良い品格の持主であったから、自分で「俺は今、先頭に居るぞ」と大言壮語の一切が無かった。
我々と言うのは毛綱モン太、石井和紘、石山修武、そして六角鬼丈である。後年、と言いたいところだが、出会ってすぐに血気盛ん、と言うよりも早く早く成り上がりたいの気持が強かった我々は「婆娑羅」の名を冠したグループを結成した。気持ちだけは「メタボリズム」グループに対抗してやれとの意気があった。当時華の中の華であった黒川紀章、菊竹清訓のスター達に、背伸びしてでも立ち向かってやれのヤクザ言葉で言えば鉄砲玉みたいな連中ではあった。 石山修武 スタジオGAYA日記より>
1970年代に「婆娑羅」という会を結成し、建築界のゲリラとして暴れまわったのが石山先生たちでした。石井和紘、毛綱毅曠のお二人は既に鬼籍に入られ不在です。
石山先生と故・毛綱先生の共著が昨秋発刊され、この展覧会でも販売しています。

『異形建築巡礼』
石山修武編著/毛綱毅曠著
2016年 国書刊行会
335ページ 26.5x19.5cm
価格:5,400円(税込、送料別途)
*ときの忘れもので扱っています。
*全402項目の註釈を執筆した佐藤研吾さんの<『異形建築巡礼』を注釈する>をぜひお読みください。

(クリックしてください)
<今は昔、病死した毛綱モン太が「建築への想い忘れ難し、君傾城の婆娑羅事」らしきを書いたのを読んで共感を覚えたことを想い出す。(石山修武)>
婆娑羅の会のメンバー、毛綱モン太(毅曠)、石井和紘、石山修武、六角鬼丈たちの中では、本業の建築設計から飛翔し最も精力的に絵を描き、版画をつくり、そして展覧会を開いたのが毛綱先生でした。
亭主はそのとき近くにおりながら、毛綱先生の毒気にあたるのが怖くて近寄らなかった。
もし今、毛綱先生健在でありせば、ギャラリーせいほうの会場に殴りこみをかけて「俺も入れろ」と言っていたに違いない。
毛綱先生の建築作品についてはコチラのサイトにたくさん紹介されています。


■石山修武 Osamu ISHIYAMA
建築家。1944年生まれ。
1966年早稲田大学卒業。1968同大学院建設工学科修士課程修了後、設計事務所開設。1988年早稲田大学教授。2014年退任、同大学名誉教授。設計事務所「スタジオGAYA」開設。
主な建築作品:幻庵、開拓者の家、伊豆の長八美術館(吉田五十八賞)、リアス・アーク美術館(日本建築学会賞)、世田谷村(芸術選奨文部科学大臣賞)、ひろしまハウス(カンボジア・プノンペン)など。
1996年ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展では瓦礫が散乱する廃墟を出現させ金獅子賞を受賞。2008年世田谷美術館「建築がみる夢-石山修武と12の物語」展開催。
主な著書:『笑う住宅』(1986年、筑摩書房)、『現代の職人』(1991年 晶文社)『建築家、突如雑貨商となり至極満足に生きる』(1999年、デジタルハリウッド出版局)、『石山修武画文集 世田谷村日記』(2004年、ときの忘れもの)など。
■六角鬼丈 Kijo ROKKAKU
建築家。1941年生まれ。
1965年、東京藝術学美術学部建築科卒業 磯崎新アトリエ勤務。
1969年 六角鬼丈計画工房主幹。
1991年~2009 東京藝術大学美術学部建築科教授。名誉教授。
2009~2016 北京・を中央美術学院・建築学院特聘教授。
2001年~現在 臨床美術学会会長。
1967年 都市住宅創刊号、クレバスの家、八卦ハウスでデビュー。
1969年 スコピエ都市計画、万博お祭り広場など担当後独立。
1969年 六角鬼丈計画工房設立する。
1977年 風の造形頂部に乗せた「雑創の森学園」で第4回吉田五十八賞を受賞。
1990年 菱形を武道の遺伝子にたとえた「東京武道館」で日本建築学会賞。
2000年 人の五感をテーマにした「感覚ミュージアム」で毎日デザイン賞を受賞している。
1971年 解体の世代と称されたワーキング「狂気の時代を生き抜く私自身のためのプロジェクト」で「伝家の宝塔」を提案、以降、六角の住宅づくりの核となり、また、1985年以降 自らの創作方法を「新鬼流八道」と称し、陰陽、善悪、虚実など二極、二律背反を合体。建築をジキルハイド的生態へと変容させようとしている。
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●本日の瑛九情報!
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瑛九の会の機関誌『眠りの理由』を順次ご紹介しています。

『眠りの理由 No.14』
「現代美術の父・瑛九展」記念
1970年以後の瑛九に関する論文集
1979年6月8日 瑛九の会発行
編集・発行者:原田勇
60ページ+付録2ページ 19.0×24.2cm
*本文はヨコ組

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<瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催されています(2016年11月22日~2017年2月12日)。外野応援団のときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。
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