森本悟郎のエッセイ その後
第34回 合田佐和子 (1) 不在の展覧会
C・スクエア最後の公式な企画展は、映像作家のかわなかのぶひろさん、美術家の鴻池朋子さん、そして写真家の畠山直哉さんによる「ラスト・シーン」展(2013年12月16日~2014年1月25日)だった。だが、この展覧会にはもう一人出展するはずだった作家がいた。合田佐和子さんである。
「ラスト・シーン」展リーフレット

「90度のまなざし」2003
「ポーラ・ネグリの眼」1988
合田さんに出展の意向を尋ねると、嬉しそうに「いいわよ、でも身体の調子が良くないから新作は無理かも」と答えた。その時ぼくが思い描いたのは、個展(「記憶ファンタジー」2003年)と被らない作品であること、できる限り新しいものであること、という作品イメージである。まだ1年半の猶予をもってすれば、新作の1点や2点は出してもらえるだろうと期待もしていた。
1時間待ったところで、書き置きを戸口に残して辞去した。ひょっとしたら道すがら出会うことがあるかも知れないと、歩いて鎌倉駅に向かった。鶴岡八幡宮にさしかかるあたりだったろうか、携帯電話が鳴った。電話の主は娘さん、合田ノブヨさんだった。電話口で、合田さんはぼくが到着する少し前に緊急入院したこと、フィジカルではなくメンタルな原因のため見舞い無用であること、コミュニケーションに支障があり退院がいつになるか不詳ゆえ今回の出展は難しいこと、などを伝えられた。
合田さんは「種村季弘 奇想の展覧会―戯志画人伝[実物大]」展、「記憶ファンタジー 合田佐和子展」、「巖谷國士美術論集出版記念展『封印された星 瀧口修造と日本のアーティストたち』」展の3回、C・スクエアに出展している。次回はそのあたりについて触れてみたい。
(もりもと ごろう)
■森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年名古屋市生まれ。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーC・スクエアキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。現在、表現研究と作品展示の場を準備中。
●今日のお勧め作品は、浮田要三です。
浮田要三
「巻物」
油彩・キャンバス
130.5×95.0cm
サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●本日の瑛九情報!
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瑛九没後も半世紀にわたり浦和のアトリエを守り、瑛九顕彰に尽力し、他によくある「独り占め」などせずに、遺されたすべてを快く公開したのが今もご健在の都夫人です。

瑛九作品集刊行記念展オープニング
1997年9月5日
会場:フジテレビギャラリー(お台場)
綿貫不二夫と杉田都(瑛九夫人)
後列左から、秋山祐徳太子、中上光雄、森下啓子、靉嘔
都夫人の物心両面にわたるご協力により実現したのが『瑛九作品集』です。
『瑛九作品集』
1997年10月1日
日本経済新聞社発行
204ページ
B4変形判(32.0×26.0cm)
クロス装
図版 : 油彩130点、コラージュ・フォトデッサン45点、銅版画39点、リトグラフ23点、
他に参考図版68点
監修 : 本間正義
(美術評論家連盟会長、前埼玉県立近代美術館長)
作家論 : 五十殿利治(筑波大学助教授)
年譜・文献 : 横山勝彦(練馬区立美術館学芸員)
編集:綿貫不二夫、三上豊
都夫人のご健康を心から祈っています。
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<瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催されています(11月22日~2017年2月12日)。外野応援団のときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。
◆森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日の更新です。
第34回 合田佐和子 (1) 不在の展覧会
C・スクエア最後の公式な企画展は、映像作家のかわなかのぶひろさん、美術家の鴻池朋子さん、そして写真家の畠山直哉さんによる「ラスト・シーン」展(2013年12月16日~2014年1月25日)だった。だが、この展覧会にはもう一人出展するはずだった作家がいた。合田佐和子さんである。
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この展覧会はC・スクエアという長編映画の掉尾を飾るラスト・シーンに見立てて開催しようというもので、発案者は専門家委員で写真家の高梨豊さんだった。かわなかさんは自身のがんによる胃の全摘手術体験を経たからだろうか、近年、親しい友人や自らの〈死〉と向きあう、まさに人生のラスト・シーンを見つめるような作品を作り続けている。鴻池さんは壮大な神話的世界をさまざまな表現手法を駆使して構築しているが、それは結末のない物語である。しかしそれゆえに、どこを採ってもラスト・シーンと見做すことができる。畠山さんは東日本大震災で肉親と故郷の風景を失うというアイデンティティに関わる体験から、以後、故郷である陸前高田を撮り続けている。未曾有のカタルシス以後、つまり〈ラスト・シーン以後〉への視線を持ち続けている。選ばれたのはそのような理由からだった。

*
展覧会の企画会議で合田さんが選ばれたのは、委員で名古屋ボストン美術館館長の馬場駿吉さんが発した、「合田さんの絵は映画のシーンから採ったものだからというわけではないけれど、どの作品もラスト・シーンみたいに見えないだろうか」という言葉がきっかけとなったものだ。言われてみれば、合田さんが描いたあの潤むような瞳の後ろにはエンドマークが控えていそうではないか、と会議出席者は思い浮かべたことだろう。

合田さんに出展の意向を尋ねると、嬉しそうに「いいわよ、でも身体の調子が良くないから新作は無理かも」と答えた。その時ぼくが思い描いたのは、個展(「記憶ファンタジー」2003年)と被らない作品であること、できる限り新しいものであること、という作品イメージである。まだ1年半の猶予をもってすれば、新作の1点や2点は出してもらえるだろうと期待もしていた。
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年末にラスト・シーン展開催を控えた秋日、出品作品選定のため、約束の時間に鎌倉市浄妙寺の合田邸を訪ねた。ところが、呼鈴を押しても声をかけてもまったく応答がない。事前に確認してあったから留守はないはずとはいえ、不意の用向きでちょっと近所へ、という可能性も無くはなかろうとしばらく待つことにした。1時間待ったところで、書き置きを戸口に残して辞去した。ひょっとしたら道すがら出会うことがあるかも知れないと、歩いて鎌倉駅に向かった。鶴岡八幡宮にさしかかるあたりだったろうか、携帯電話が鳴った。電話の主は娘さん、合田ノブヨさんだった。電話口で、合田さんはぼくが到着する少し前に緊急入院したこと、フィジカルではなくメンタルな原因のため見舞い無用であること、コミュニケーションに支障があり退院がいつになるか不詳ゆえ今回の出展は難しいこと、などを伝えられた。
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こうしてラスト・シーン展は合田さん不参加のまま開催することになった。出展作家たちはそれをとても残念がっていた。そこには合田さんの作品が一緒に並ばないこと、合田さんに会うことができないという無念の思いがあったのではないか。合田さんは「種村季弘 奇想の展覧会―戯志画人伝[実物大]」展、「記憶ファンタジー 合田佐和子展」、「巖谷國士美術論集出版記念展『封印された星 瀧口修造と日本のアーティストたち』」展の3回、C・スクエアに出展している。次回はそのあたりについて触れてみたい。
(もりもと ごろう)
■森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年名古屋市生まれ。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーC・スクエアキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。現在、表現研究と作品展示の場を準備中。
●今日のお勧め作品は、浮田要三です。

「巻物」
油彩・キャンバス
130.5×95.0cm
サインあり
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●本日の瑛九情報!
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瑛九没後も半世紀にわたり浦和のアトリエを守り、瑛九顕彰に尽力し、他によくある「独り占め」などせずに、遺されたすべてを快く公開したのが今もご健在の都夫人です。

瑛九作品集刊行記念展オープニング
1997年9月5日
会場:フジテレビギャラリー(お台場)
綿貫不二夫と杉田都(瑛九夫人)
後列左から、秋山祐徳太子、中上光雄、森下啓子、靉嘔
都夫人の物心両面にわたるご協力により実現したのが『瑛九作品集』です。

1997年10月1日
日本経済新聞社発行
204ページ
B4変形判(32.0×26.0cm)
クロス装
図版 : 油彩130点、コラージュ・フォトデッサン45点、銅版画39点、リトグラフ23点、
他に参考図版68点
監修 : 本間正義
(美術評論家連盟会長、前埼玉県立近代美術館長)
作家論 : 五十殿利治(筑波大学助教授)
年譜・文献 : 横山勝彦(練馬区立美術館学芸員)
編集:綿貫不二夫、三上豊
都夫人のご健康を心から祈っています。
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<瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催されています(11月22日~2017年2月12日)。外野応援団のときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。
◆森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日の更新です。
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