新連載・倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」

第1回「建築家の欲望――国立西洋美術館」

倉方俊輔(建築史家/大阪市立大学准教授)


画:光嶋裕介(建築家)
原画

 ル・コルビュジエの作品が世界文化遺産になった意味は大きい。なぜなら、彼は悪党だから。
 「彼は独学者であった。公の教育を逃げ出したのであった。かくて慣例も規則も、アカデミーの学者から口述され法典化された原理も知らなかった。アカデミズムをまぬがれ、頭は自由であり、昂然たり得たのである(※1)」
 そう彼は得意げに語る。自分は突出しているのだと。
 確かに、20世紀に支配的になる世界的なルール付け、洗練された統治、次第に個から意味を失わせる傾向に対して、彼は反逆していた。輝ける星だった。
 したがって、彼は「悪」である。
 「悪」は「突出した」という意味合いももつ。突出して平均から外れた人間は、広範囲かつ支配的な統治、あるいは徴兵した軍隊における連携的な行動の妨げになり、これゆえ古代中国における「悪」概念は、「命令・規則に従わないもの」に対する価値評価となったとされる。
 自分たちのルールに共感しようとしないものを排除し、いっそう「善」になろうとするこの21世紀に、彼の「悪」はいっそう輝いている。われわれが見たいのは、そんなコルビュジエではないか。

1_01
国立西洋美術館
竣工年│1959年
所在地│東京都台東区上野公園7番7号
用途│美術館
戦後のコルビュジエの有機的な形態や、むき出しの粗野さは見られないものの、その分、戦前の邸宅のような変化に富んだ内部空間を、理念性とともに堪能できるのが美質
(撮影:倉方俊輔)

*****

 東京・上野公園に1959年に開館した国立西洋美術館が世界文化遺産になったというニュースはワイドショーでも取り上げられ、この四角い建物がなんだか知らないけどすごいという空気に世間は一変した。
 『吉阪隆正とル・コルビュジエ』を書いた筆者も、これをモダニズム建築保存の追い風にと企てている専門家の一人である。前川國男、坂倉準三、吉阪隆正ら、何人もの日本人がコルビュジエのアトリエで学んだ。
 1920年代から新時代を担う建築家の一人として積極的に日本で紹介されてきた事実がなかったら、丹下健三もいなかった。槇文彦、磯崎新、安藤忠雄といった続く建築家も含め、強くコルビュジエの影響を受けてきた。その親玉が世界的価値を持つのだから、彼らの建築も同じだと。
 また、コルビュジエも日本を尊敬し、美しい文化に影響を受けたのであり、そうした相互交流の証が国立西洋美術館…と言えたのなら、どんなに善く、したがって退屈なことか。
 現実はそうではない。作品集を開いてみよう。国立西洋美術館の丸柱の写真に添えられた解説文は一見すると、日本の伝統に感銘を受けているようである。
 「鉄筋コンクリートの仮枠は木製(桜)でその質のよさは、日本人独自の完全な工作の腕と、素晴らしい職業的良心のたまものだ。
日本人は住宅を木造で建てるが本当に美しい。彼らは木目が何であるかを知っていて、コンクリートにも、望むならば木目の最も完璧な鋳型をつくり出すことができる(※2)」
 残念ながら、これは建築家がよく行う類のリップサービスだ。円柱に関しては鋼板を型枠として用いるよう、実施設計付属説明書で指示していた。木目が出るようになったのは、施工を担当した清水建設の現場主任が技術的な不安を抱き、コルビュジエに了承を得て、木造の型枠に変えた結果である(※3)。コルビュジエが希望していたのは工業的に滑らかなコンクリート面であって、先の解説文は後付けの観察に過ぎない。
 来日したコルビュジエは日本が木造都市であることを非難した。桂離宮も龍安寺も正倉院も「死んだ過去のもの」とまとめた(※4)。そもそも生涯を通じて、コルビュジエが日本について述べた言葉は乏しく、その内容に非西洋一般に対するもの以上の意味を見出すのは難しい。国立西洋美術館という経験の前後で、作風に微塵の変化もない。継続的にかかわったインドに対してはともかく、コルビュジエは日本を歯牙にもかけていない。
 国立西洋美術館は、今でもなお新しい。それは近現代の日本においては例外的に、国を代表する施設が外国人によって設計されているからだ。明治の移入期と戦後占領期を除いた時、バブル期の国際コンペの成果物とザハ・ハディドによる当初の国立競技場が顕著なものである。背景にあるのは当時の日本の貿易黒字に伴う非関税障壁に対する批判と、2020年の東京オリンピック招致。外国人に建てさせることが肝心だ、そう思った瞬間だけ、わが国は外国人アーキテクトをおもてなしするようだ。
 こうした特殊な国際政治案件だったから、国立西洋美術館はコルビュジエの作品となった。スイス生まれの彼がフランス人とみなされていたことが幸運だった。第二次世界大戦中に敵国財産として没収した松方コレクションを日本に返還するにあたってのフランス政府の条件が、専用の美術館の建設だった。直接に要求されてはいないが、相手国の建築家に設計させれば、外交上の儀礼にも叶う。建築としての中身を見る前にこうして、国際政治案件として設計依頼がトップダウンで舞い降り、コルビュジエは自らの作品集に一つの実作を加えることができた。彼にとって国立西洋美術館の仕事は、それ以上でも以下でもない。
 コルビュジエから日本へ、というこの一方的な輸入超過は驚くべき現象だ。同じ20世紀でも、ライトやミース、グロピウスと日本の間には、ここまでの片思いはないのだから。

*****

 最初のコンタクトは1954年4月14日。奥村勝蔵外務事務次官の依頼により、前川國男がコルビュジエに設計依頼を打診した。
 こういう時の返事は敏速で、抜け目がない。5月10日には前川に設計を受諾する旨を回答し、訪日の予定、謝金を前払いとする条件を提示する。9日後には事務所から前川に設計解約の金銭的条件が示される。やり取りを重ねて翌年、設計料は前払いで1000万フランとする設計契約書が成立した(※5)。
 1955年11月2日、コルビュジエは完成したばかりの羽田空港に降り立った。恒例となったインド行きと抱き合わせにした1週間の滞在で敷地を検分した成果が翌年、図面としてやってきた。そこには依頼した松方コレクションの美術館だけでなく、ほかに2つの建築が計画敷地を超えて描かれていた。松方コレクションは「玉石混交」であるから、その一部だけを展示して全体を文化センターとすべきだという提案で、ほかの2つの建築企画・巡回展パビリオンと「不思議の箱」と名付けられた劇場は「他の人にやってもらっても良い」と述べてはいるが、パビリオンは何度も提案済みのデザインだ。
 やる気満々だろう。当然のことながら、これらは拒否され、パビリオンとそっくりのものはコルビュジエの没後、スイスにコルビュジエセンターとして建った。
 国立西洋美術館そのものも、1930年代から無限成長美術館として考えていたものの焼き直しであって、敷地検分は条件の洗い出しという以上に、温めていた案が実現するかどうかの検討だったかもしれない。新しく執着したのは、日光を導入する装置だった。日本側が提案段階から難色を示したが、最終の設計図でも修正せずに押し通している。
 契約書において、設備設計はコルビュジエの管轄外とされていたが、最終的に送られた9枚の図面の中には、そればかりか構造設計図や内部詳細図も存在せず、寸法も1枚を除いて記入されていなかった。これでは入札もできないが、設計料は全額コルビュジエに支払い済みだ。前川、坂倉、吉阪がコルビュジエと連絡を取りながら、わずかな追加金額で実施設計を行なうことになった。こんな不備が起こるのは国際政治案件だからと、慣れない外務省と文部省が抱え込んだからであって、始めから自分たちに任せるべきだったのにと、建設省(現・国土交通省)は言っただろうか。しかし、当時の日本はアメリカに手ひどく負けて10年、4年前に独立を回復したばかり。2015年のようにザハ・ハディドとの契約を反故にして、オールジャパンで国立競技場をやり直せる力が当時あれば良かったのだが…。
 中心の19世紀ホールに、コルビュジエは自らを刻印するつもりだった。降り注ぐ光も白い壁も、自らがプロデュースした一面の写真壁画を引き立てるはずだった。コレクションに肩を並べるような役割は望んでいないのだが、この機にやれると踏んでいたのだろう。
 だが、壁画の詳細は吉阪が催促したが到着せず、予算追加の時期を逸したとして、見送りになった。コルビュジエは1959年3月の竣工後、壁画費用を募金で集め8月の実施を提案。6月の開館後、彼は工事の確認と企画巡回展示館の位置決定を兼ねて10月の来日を希望したが、日本側は対応しなかった。
 その後、竣工作の見学のためにとコルビュジエ側に11月の来日を提案したが返事はなく、3カ月経って届いた答えは「多忙につき日本への招待を受けることはできない」というものだった。自分の作品につながらないのに時間を費やす義理などない。姿勢は明快である。

*****

 国立西洋美術館が示しているのは、いつどこだろうと「自分の作品をつくりたい」というコルビュジエの巨大な欲望だ。私たちは、いつでも後からやってきた「善」によって「悪」と名付けられる独立、孤立したプリミティブな欲望の産物が、時代の産物として東京の真ん中に降り立った偶然を喜ぶべきだろう。コルビュジエは耳当たりの良い流行りの概念で塗り込められず、国立西洋美術館はその作品の一つとして素晴らしい。
 しかし、軽やかに政治的で、弁舌巧み、クライアントの要望など聞かず、他分野にも口出ししてはばからない、この「建築家」という人種はいったい何者だろう?
くらかた しゅんすけ

※1…『モデュロール I』(鹿島出版会、1976)p.20
※2…ウィリ・ボジガー編、吉阪隆正訳『ル・コルビュジエ全作品集 第7巻』( ADA Edita Tokyo、1977)p.184
※3…藤木忠善『ル・コルビュジエの国立西洋美術館』(鹿島出版会、2011)p.20
※4…吉阪隆正「ル・コルビュジエの見た日本」『朝日新聞』1955年11月10日朝刊 p.5
※5…以下の経緯は次の資料に従った。寺島洋子編集『ル・コルビュジエと国立西洋美術館』図録(国立西洋美術館、2009)

■倉方俊輔 Shunsuke KURAKATA
建築史家。大阪市立大学大学院工学研究科准教授。1971年東京都生まれ。著書に『東京レトロ建築さんぽ』『ドコノモン』『吉阪隆正とル・コルビュジエ』、編著に『吉祥寺ハモニカ横丁のつくり方』『これからの建築士』ほか


表紙
『建築ジャーナル』2017年1月号
今年の『建築ジャーナル』誌の1月~12月号の表紙を光嶋裕介さんが担当することになりました。
テーマはル・コルビュジエ。
一年間にわたり、倉方俊輔さんのエッセイ「『悪』のコルビュジエ」と光嶋裕介さんのドローイング「コルビュジエのある幻想都市風景」が同誌に掲載されます。ときの忘れものが企画のお手伝いをしました。
月遅れになりますが、気鋭のお二人のエッセイとドローイングをこのブログにも再録掲載します。毎月17日が掲載日です。どうぞご愛読ください。

●今日のお勧め作品は、光嶋裕介です。
20170217_01光嶋裕介
「幻想都市風景2016-01」
2016年  和紙にインク
45.0×90.0cm  サインあり

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

◆ニューヨークで開催されるArt on Paperに出展します。
artonpaper_small_600


会期:2017年3月2日[木]~3月5日[日]
VIPプレビュー:2017年3月2日(木)
一般公開:2017年3月3日(金)~5日(日)11:00~19:00
(5日は12:00から18:00まで)
会場:Pier 36 New York
299 South St, New York, NY 10002
ときの忘れものブースナンバー:G15
公式サイト:http://thepaperfair.com/ny
出品作家:磯崎新安藤忠雄内間安瑆野口琢郎光嶋裕介細江英公植田正治堀尾貞治ジョナス・メカス草間彌生マイケル・グレイヴス

◆新連載・倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」は毎月17日の更新です。