日本のアジェ死す
~写真家・風間健介さんの訃報に接して~
原茂
以前「ときの忘れもの」のフォトビューイングにも登場していただいた写真家の風間健介さんが死去されました。17日頃からSNSで情報が飛び交っていたようでしたが、私と同年代の若さで、しかもブログの更新も頻繁でしたから、いつもの「身体の調子悪い」「パソコン動かない」の類いではと半信半疑でした。しかし、6月20日に「北方ジャーナル」の公式ブログが報じ、北海道新聞が 6月23日朝刊で訃報を掲載したことで、動かしがたい事実であることを受け入れざるを得ませんでした。
風間健介さん死去 写真家、56才
夕張市内で約18年間暮らし、写真集「夕張」(2005年、寿郎社)で06年度日本写真協会新人賞、第18回写真の会賞、第19回地方出版文化功労賞奨励賞をトリプル受賞した写真家風間健介(かざま・けんすけ)さんが千葉県館山の自宅で亡くなっていたことが、22日分かった。56才。死因は不明。
風間さんは三重県出身で1989年、夕張に移住。炭鉱跡や炭鉱住宅を撮影しながら炭鉱遺産としての活用に取り組んだ。
「そらち炭鉱遺産散歩」(北海道新聞空知「炭鉱」取材班編著、03年、共同文化社刊)の写真も担当した。
私が風間さんの作品を最初に拝見したは、安友志乃さんの『撮る人へ』(窓社)でした。なんと綺麗な写真なのだろうと思いました。写っているものはゴツいコンクリート打ちっ放しのうち捨てられた炭鉱施設なのに、背景に流れる白い雲の下、古代の神殿か何かのような神聖さを感じさせる不思議な写真でした。
さらに、今はなき写真雑誌「TIDE」第3号に、夕張のシリーズから「星啼の街」が掲載され、「プリント販売いたします」との一文にふらふらと「注文」をしてしまったのが風間さんとのお付き合いの始まりでした。
文字通り「直販」「手売り」でプリントを販売されていた風間さんはいつもお金がなく、軍艦島を撮りに行きたいがお金がないのでプリント買ってくださいとのメールをいただいて、先物買いで軍艦島のプリントを購入させていただいたこともありました。
写真家は写真を売って生活するもの、写真家にとって写真は商品ではなく作品、という、ある意味あたりまえでありながら現実的にはあまりに困難な生き方を貫かれた風間さんの作品は、重厚でありながら重苦しさを感じさせない、軽やかさに満たされていながら軽薄さとは無縁な、濃密で端正な写真でした。
けれども、ドキュメンタリー写真でも風景写真でもない、真の意味でのシリアスフォトグラフィーである風間さんの写真は、写真に「わかりやすさ」を求め、「なんとか」写真、「かんとか」写真と肩書きがつかないと落ち着かない日本の写真界で評価されるには時間がかかるだろうなと思わせられました。しかし時間はかかってもかならず評価されるに違いないと確信していました。
実際、その作品は頻繁にというわけではなくても、コンスタントにカメラ雑誌にも掲載されてきましたし、2004年には、新宿ペンタックスフォーラムで「夕張」のシリーズから「風を映した街」の大規模な展示が行われました。
この時、風間さんと初めてお目にかかることができました。第一印象は「え、この人がこの写真を」という実に失礼なものでしたが、話を聞くうちに、「ああ、この人だからこそこの写真なのだ」という思いが湧いてきたことです。ご一緒に新宿西口の居酒屋でホッケの塩焼きを口にしながら、アジェに初めてあったアボットもきっとこんな気持ちだったのではないかと想像したことを思い起こします。
そして、2005年に写真集『夕張』を発表され、2006年に「日本写真協会新人賞」、「写真の会賞」、「地方出版文化功労賞奨励賞」を立て続けに受賞されます。特に、一部では「木村伊兵衛賞を取るより難しい」と言われる「写真の会賞」を、かの傑作、瀬戸正人さんの『picnic』を抑えて受賞されたことは、風間さんのお仕事にようやく写真界の評価が追いついてきたと胸のすくような思いをしたことです。
その後、体を壊されたこともあって東京、さらに館山に居を移され、新しいシリーズを展開されていました。東日本大震災に際しては被災地にも足を運ばれ、報道写真とはひと味もふた味も違う-誤解を招く言い方かもしれませんが-本当に「美しい作品」を残されています。さらに、実験的な作品も試みておられ、その世界はますます彩りと深みを加えておられたように思っていました。
その一方、生活と健康は好転せず、ブログには、毎回のように、体の不調とパソコンの不調を嘆くコメントが載せられていました。下の文章は、風間さんが6月3日にご自身のブログに書き込んだ最後のコメントです。
館山日記 6月3日
震える
好みの強い光なのだが、暑くて寒いのだ。
薄着で寝て毛布や布団を掛けていたのだが、
2~3分で暑くなり布団を除けていた。
そして2~3分で寒くなって布団を掛けていた。
これでは眠れないし28度でも寒いし、
汗ももの凄い。
トイレの帰りでも動悸と眼の痛みが痛い。
パソは騙し騙し使っているが、
薬を買いたいがアマゾンが使えないし、
動画も見えないし心臓が痛い。
友人に貰ったパソに変えたい。
しかし、データが移せないし、
体がもたない。汗びっしょり。
作業も遅れていて申し訳ありません。
恐らく、その後容態が急変し、助けを求める間もなく意識を失われ、そのままになられたのではないかと思われます。56歳という若さでの急逝、そして孤独死という最期に言葉を失います。けれども、その2日前のブログにはこうもありました。
問題
この時期は光が多く一番よいと思う。
しかし、体調や精神が悪いとその時間を活用出来ない。
解決出来ない問題は辛いし苦しいし、
金がいくらあっても解決出来ないのは辛い。
もちろん金はないし、作品だけなので幸福な人生なのだが。
そして、最期のブログに添えられた作品は、白い雲の浮かぶ真っ青な空に飛び立つ幾羽もの鳥の群れの写真でした。ひょっとしたらこのときすでに風間さんはその最期を覚悟しておられたのかも知れません。いくつもの珠玉の作品を残してこの世界から飛び立って行かれた風間さんの魂が安らかであることを祈るのみです。
その後、ご友人で現在沖縄に拠点をおいて活動しておられるミュージシャンの方がご遺族と連絡を取られ、ご自宅の整理と残された作品の管理を引き受けてくださっておられるようです。今後写真展や写真集の出版も考えておられ、その資金のために、風間さんの遺志を受け継いで、現在、一枚1000円でRCペーパーの六つ切りの作品を販売しておられます。関心のある方は、ネットで「風間健介」で検索していただければ、当該のツイッターやフェイスブックに辿り着けるかと思います。
56歳で自宅で孤独死という最期は、普通に考えればショッキングで悲惨ということになるのでしょうが、生前何度も聞かされた「自分は写真家だから、何が何でも写真を売って生きていく」という覚悟と、その類い希な撮影のセンスとプリントの超絶技巧と、それと引き替えのような徹底して不器用な(パソコンを含む)生き方があればこその、あの凛として涼やかな作品世界を知る者としては、不思議に「やっぱり」という思いと「でも早すぎる」という思いが交錯しています。
これだけの作家を日の当たる場所に出すことのできなかった不明を恥じます。
ただ、作家の場合は肉体は土に帰っても、作品は永遠に残りますから、あとは残された作品の保全と顕彰が残された者の責任となるかと思います。アジェにアボットがいたように、またシャーカフスキーがその評価を決定づけたように、風間健介の評価はこれから時間をかけて高まっていくことを信じて疑いません。
(はら しげる)
・風間さんのサイト http://kazama2.sakura.ne.jp/
・館山日記(風間さんのブログ) http://sayamanikki.seesaa.net/
●画廊コレクションより風間健介さんの作品をご紹介します。
風間健介
「夕張 清水沢発電所(1)」
1991年
ゼラチンシルバープリント
23.6x30.0cm
サインあり
風間健介
「夕張 清水沢発電所(2)」
1991年
ゼラチンシルバープリント
23.7x29.8cm
サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜~土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。
~写真家・風間健介さんの訃報に接して~
原茂
以前「ときの忘れもの」のフォトビューイングにも登場していただいた写真家の風間健介さんが死去されました。17日頃からSNSで情報が飛び交っていたようでしたが、私と同年代の若さで、しかもブログの更新も頻繁でしたから、いつもの「身体の調子悪い」「パソコン動かない」の類いではと半信半疑でした。しかし、6月20日に「北方ジャーナル」の公式ブログが報じ、北海道新聞が 6月23日朝刊で訃報を掲載したことで、動かしがたい事実であることを受け入れざるを得ませんでした。
風間健介さん死去 写真家、56才
夕張市内で約18年間暮らし、写真集「夕張」(2005年、寿郎社)で06年度日本写真協会新人賞、第18回写真の会賞、第19回地方出版文化功労賞奨励賞をトリプル受賞した写真家風間健介(かざま・けんすけ)さんが千葉県館山の自宅で亡くなっていたことが、22日分かった。56才。死因は不明。
風間さんは三重県出身で1989年、夕張に移住。炭鉱跡や炭鉱住宅を撮影しながら炭鉱遺産としての活用に取り組んだ。
「そらち炭鉱遺産散歩」(北海道新聞空知「炭鉱」取材班編著、03年、共同文化社刊)の写真も担当した。
(北海道新聞6月23日朝刊)
私が風間さんの作品を最初に拝見したは、安友志乃さんの『撮る人へ』(窓社)でした。なんと綺麗な写真なのだろうと思いました。写っているものはゴツいコンクリート打ちっ放しのうち捨てられた炭鉱施設なのに、背景に流れる白い雲の下、古代の神殿か何かのような神聖さを感じさせる不思議な写真でした。
さらに、今はなき写真雑誌「TIDE」第3号に、夕張のシリーズから「星啼の街」が掲載され、「プリント販売いたします」との一文にふらふらと「注文」をしてしまったのが風間さんとのお付き合いの始まりでした。
文字通り「直販」「手売り」でプリントを販売されていた風間さんはいつもお金がなく、軍艦島を撮りに行きたいがお金がないのでプリント買ってくださいとのメールをいただいて、先物買いで軍艦島のプリントを購入させていただいたこともありました。
写真家は写真を売って生活するもの、写真家にとって写真は商品ではなく作品、という、ある意味あたりまえでありながら現実的にはあまりに困難な生き方を貫かれた風間さんの作品は、重厚でありながら重苦しさを感じさせない、軽やかさに満たされていながら軽薄さとは無縁な、濃密で端正な写真でした。
けれども、ドキュメンタリー写真でも風景写真でもない、真の意味でのシリアスフォトグラフィーである風間さんの写真は、写真に「わかりやすさ」を求め、「なんとか」写真、「かんとか」写真と肩書きがつかないと落ち着かない日本の写真界で評価されるには時間がかかるだろうなと思わせられました。しかし時間はかかってもかならず評価されるに違いないと確信していました。
実際、その作品は頻繁にというわけではなくても、コンスタントにカメラ雑誌にも掲載されてきましたし、2004年には、新宿ペンタックスフォーラムで「夕張」のシリーズから「風を映した街」の大規模な展示が行われました。
この時、風間さんと初めてお目にかかることができました。第一印象は「え、この人がこの写真を」という実に失礼なものでしたが、話を聞くうちに、「ああ、この人だからこそこの写真なのだ」という思いが湧いてきたことです。ご一緒に新宿西口の居酒屋でホッケの塩焼きを口にしながら、アジェに初めてあったアボットもきっとこんな気持ちだったのではないかと想像したことを思い起こします。
そして、2005年に写真集『夕張』を発表され、2006年に「日本写真協会新人賞」、「写真の会賞」、「地方出版文化功労賞奨励賞」を立て続けに受賞されます。特に、一部では「木村伊兵衛賞を取るより難しい」と言われる「写真の会賞」を、かの傑作、瀬戸正人さんの『picnic』を抑えて受賞されたことは、風間さんのお仕事にようやく写真界の評価が追いついてきたと胸のすくような思いをしたことです。
その後、体を壊されたこともあって東京、さらに館山に居を移され、新しいシリーズを展開されていました。東日本大震災に際しては被災地にも足を運ばれ、報道写真とはひと味もふた味も違う-誤解を招く言い方かもしれませんが-本当に「美しい作品」を残されています。さらに、実験的な作品も試みておられ、その世界はますます彩りと深みを加えておられたように思っていました。
その一方、生活と健康は好転せず、ブログには、毎回のように、体の不調とパソコンの不調を嘆くコメントが載せられていました。下の文章は、風間さんが6月3日にご自身のブログに書き込んだ最後のコメントです。
館山日記 6月3日
震える
好みの強い光なのだが、暑くて寒いのだ。
薄着で寝て毛布や布団を掛けていたのだが、
2~3分で暑くなり布団を除けていた。
そして2~3分で寒くなって布団を掛けていた。
これでは眠れないし28度でも寒いし、
汗ももの凄い。
トイレの帰りでも動悸と眼の痛みが痛い。
パソは騙し騙し使っているが、
薬を買いたいがアマゾンが使えないし、
動画も見えないし心臓が痛い。
友人に貰ったパソに変えたい。
しかし、データが移せないし、
体がもたない。汗びっしょり。
作業も遅れていて申し訳ありません。
恐らく、その後容態が急変し、助けを求める間もなく意識を失われ、そのままになられたのではないかと思われます。56歳という若さでの急逝、そして孤独死という最期に言葉を失います。けれども、その2日前のブログにはこうもありました。
問題
この時期は光が多く一番よいと思う。
しかし、体調や精神が悪いとその時間を活用出来ない。
解決出来ない問題は辛いし苦しいし、
金がいくらあっても解決出来ないのは辛い。
もちろん金はないし、作品だけなので幸福な人生なのだが。
そして、最期のブログに添えられた作品は、白い雲の浮かぶ真っ青な空に飛び立つ幾羽もの鳥の群れの写真でした。ひょっとしたらこのときすでに風間さんはその最期を覚悟しておられたのかも知れません。いくつもの珠玉の作品を残してこの世界から飛び立って行かれた風間さんの魂が安らかであることを祈るのみです。
その後、ご友人で現在沖縄に拠点をおいて活動しておられるミュージシャンの方がご遺族と連絡を取られ、ご自宅の整理と残された作品の管理を引き受けてくださっておられるようです。今後写真展や写真集の出版も考えておられ、その資金のために、風間さんの遺志を受け継いで、現在、一枚1000円でRCペーパーの六つ切りの作品を販売しておられます。関心のある方は、ネットで「風間健介」で検索していただければ、当該のツイッターやフェイスブックに辿り着けるかと思います。
56歳で自宅で孤独死という最期は、普通に考えればショッキングで悲惨ということになるのでしょうが、生前何度も聞かされた「自分は写真家だから、何が何でも写真を売って生きていく」という覚悟と、その類い希な撮影のセンスとプリントの超絶技巧と、それと引き替えのような徹底して不器用な(パソコンを含む)生き方があればこその、あの凛として涼やかな作品世界を知る者としては、不思議に「やっぱり」という思いと「でも早すぎる」という思いが交錯しています。
これだけの作家を日の当たる場所に出すことのできなかった不明を恥じます。
ただ、作家の場合は肉体は土に帰っても、作品は永遠に残りますから、あとは残された作品の保全と顕彰が残された者の責任となるかと思います。アジェにアボットがいたように、またシャーカフスキーがその評価を決定づけたように、風間健介の評価はこれから時間をかけて高まっていくことを信じて疑いません。
(はら しげる)
・風間さんのサイト http://kazama2.sakura.ne.jp/
・館山日記(風間さんのブログ) http://sayamanikki.seesaa.net/
●画廊コレクションより風間健介さんの作品をご紹介します。

「夕張 清水沢発電所(1)」
1991年
ゼラチンシルバープリント
23.6x30.0cm
サインあり

「夕張 清水沢発電所(2)」
1991年
ゼラチンシルバープリント
23.7x29.8cm
サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜~土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。
コメント一覧