倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」

第6回 透明な砦 ナンジュセール・エ・コリ通りのアパート(ポルト・モリトーの集合住宅)


倉方俊輔(建築史家/大阪市立大学准教授)


画:光嶋裕介(建築家)
原画

 1917年にパリに出てきて10年あまり、故郷のラ・ショー=ド=フォンとシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ=グリという本名を捨て、再スタートしたル・コルビュジエの勝利の証が1934年に完成した。ナンジュセール・エ・コリ通りのアパートである。
 何といっても、保守的なパリ市内に、機械時代の「新精神」に基づく集合住宅を打ち立てたのである。構造は工場のように合理的だ。正面の中央に独立して立つ打ち放しコンクリートの柱が、空間を構成しているのが積まれた壁ではないことを誇示している。荷重を支持しなくてよくなった外壁を、もはや重々しく仕立てる必要はない。ファサードは一面のガラスブロックと板ガラスという素材そのもので、なぜこの工業の時代にあって、人々は歴史の垢を引きずった様式的な形態にしがみついているのかと問いかける。大ぶりなガラスが使われている。サッシだけでなくバルコニーも金属で製作されている。道路に面した東西面のデザインは同一で、どこからどこまでが一戸なのかをうかがい知れない。単に光をできるだけ取り入れるという即物的な機能だけであれば、ここまでデザインする必要はない。ファサードが即物的に機能を果たす一機械としての住まいの表現であるのは明らかだ。工業製品は薄汚れもしないし、味も出ない。その代わりに交換可能なのだから、純粋に暮らしに奉仕することができる。人間が主人なのだ。
 過去のヒューマニズムの抜け殻を人文主義的だと捉えて未来を窒息させることと、これまで「非人間的」とされていたものの中に新しい精神を見出して踏み出すことと、どちらが人間を尊重しているだろうか。パリに出てきてからのコルビュジエは、鋭くそれを問うた。誰がつくったのかではなく物言わぬ工場や民家に、物言わせた。
 住まいを最重視したことも、従来の多数派とは違った行き方だった。住居が人間を形づくる基盤だと考えたからである。彼が思う「人間」をつくるための。1929年、2年前にパリからニューヨークまでの大西洋無着陸横断飛行を試みて消息不明になった第一次世界大戦で43機のドイツ機を撃墜したシャルル・ナンジュセールとフランソワ・コリという2人のフランスの英雄から命名されたナンジュセール・エ・コリ通りがパリ市内に辛うじて含まれる市境の道路だったとしても、当初は48m×24mの敷地全体にかかわる野望を抱きながら結局は北側のアール・デコ・スタイルの建物と南側のボザール・スタイルの建物と3分割して開発された残りの26m×13mの敷地しか設計できなかったとしても(※1)、文化的な都市の景観規制が自由気ままな壁面線を禁じて出窓やバルコニーの大きさも規定したとしても、これは第一次世界大戦後の建築におけるヒューマニズムの前衛戦を勝ち抜いた証だと言える。
 しかも、最上階がコルビュジエの住まいなのだ。1931年に設計が始まった時から8階と9階に加えて屋根の建設費も負担することを開発業者に提案して建物の共同所有者となり、1930年、フランス国籍を取得した年に結婚したモナコ出身の快活な女性イヴォンヌ・ガリスとともに大都会の眺望と屋上庭園の中で暮らした。ここは公私ともにサクセスストーリーに乗った、パリの建築家の橋頭堡(きょうとうほ)である。

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 今風に言えば、デザインは新しい貨幣価値を生じさせる。従来の常識を疑い、組み替えることによって潜在していた価値を顕在化させ、投下した資本に対してリターンをもたらす。コルビュジエはそんな才覚を持っていた。従来の勾配屋根をフラットルーフに置き換えることで、それまでは狭くて暗い使用人の屋根裏部屋でしかなかった最上部をリッチな空間に変貌させたのだ。実際にはこれを開発した業者は1935年に破産し、彼は資金回収のために建物を売却するという融資元の銀行との間で、自らの所有権を主張する長い裁判に巻き込まれただけだったが、やがてその発明は20世紀の資本主義社会の中で大いに模倣されるだろう。
 屋根裏部屋を追い出された使用人たちはどこに行ったか。半数はメインエントランスから最も遠い1階の裏手に向かった。慈悲深くも作品集にはこう記されている。「使用人たちの部屋は地上階に設けられることで、大抵はおぞましい屋根裏部屋に追い込まれる使用人たちを解放する(※2)」。もう半数は車庫や倉庫と一緒に地下へ。建築家は「西からの太陽がいっぱいの使用人たちの部屋は緑の植えられたイギリス風小庭に面している」と掲載図面に書き添えることを忘れていない。
 建物の平面は、横に長いH型だ。横棒に当たる部分が、エレベーターや階段や貨物用リフトといった垂直動線と、各住戸への入り口に当たる。1つの階に2戸または3戸が収まり、2つの中庭から各室に光を取り入れている。中央の1本だけ一直線からずれた5本の丸柱を配した平面は巧みで、それと隣家と接した壁面だけで支持されているため、改変可能な「自由な平面」であるのも特徴だ。天井高を法規で許される下限の2.5mまで詰めたことが、天井が高くて流動する1階の共有空間に寄与している。
 さあ、コルビュジエの家に急ごう。エレベーターは7階までしか止まらないため、8階の玄関までは階段を上がることになるが、おかげで大きなエレベーター機械が9階の屋上庭園に割り込むことはないし、心躍らせる移動の快楽はすでに始まっている。9階の内部空間は小さな日光浴室と来客用の部屋だけで、主な居住部分は8階にある。東側のアトリエ空間から西側のダイニングスペースの間の仕切りは、大きな回転扉が2つ。回転させれば、西と東の絶景を一度に味わえる。
 地上から離れ、光に満ち、数々の機器が人間の一挙一動の意味を高める。伸びやかなアトリエ空間と好対照なのが、機器がぎっしりと詰まった寝室だ。ダイニングスペースとの間を隔てる回転扉には衣装棚が付属し、ベッドの脚は83cmもあってテラスの欄干を越えて景色が目に入り、曲面で構成されたシャワールームは移動する船舶のそれを連想させる。
 重力を抜け出して空間は流動し、細部のデザインは人間の行動とともに楽しまれている。新しい精神に基づいた都市を、建築を、インテリアを、絵画を、コルビュジエは1920年代から旺盛に語っていた。今やそのすべてを手に入れたかのようだ。

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ナンジュセール・エ・コリ通りのアパート(ポルト・モリトーの集合住宅)
竣工年│1934年
所在地│24, rue Nungesser et Coli_75016 Paris ,France
(撮影:倉方俊輔)
ナンジュセール・エ・コリ通り側の外観。コルビュジエの住居部分はル・コルビュジエ財団によって管理されているが、現在は修復工事のために見学不可。工事終了は2018年2月27日が予定されている。

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 不吉なものもある。ダイニングスペースの長い大理石テーブルをコルビュジエは、イヴォンヌの言葉によれば、 霊安室の解剖台から発想したという。
 この作品の3年前に、コルビュジエはシャンゼリゼ通りに面したパリの一等地の建物を手がけている。億万長者のシャルル・ド・ベイステギ氏からの純粋な遊びとしての屋上改修の依頼に(※3)、ロートレアモン伯爵が1869年に記し、1920年代のシュルレアリスム運動の中で再評価された有名な一句「ミシンと蝙蝠傘との解剖台の上での偶然の出会い」の美しさで応えた。いつものように緑を幾何学に従属させる屋上庭園。まるで新時代のフランス式庭園だ。ここではそれに加えて、周囲の風景を切り取る生垣も大きなガラス窓もモーターで上下に動作させた。機械時代の空間の変容のデモンストレーションである。絨毯のような芝生と純白な壁が接するところには、偽物のロココ調の暖炉を取り付けた。文脈から浮遊した新精神は応用の幅を拡げ、爛熟している。
 2つの屋上庭園には、建築家が狂騒の1920年代の中で手にした成功とマニエラが集約されている。不吉ではないか。最上階で残されている行為は、そこから落下することだけだから。

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 前回の連載で語ったサヴォア邸は、一つのピリオドをなす傑作だった。その後に設計されたナンジュセール・エ・コリ通りのアパートは、第二次世界大戦後のコルビュジエの作風を予告するとされる。8・9階の自邸の部分のみ隣家と接した壁面を粗石積みでこしらえ、切り捨てたはずの素材性を導入しているからだ。また、ヴォールトの天井を支持するV字柱を積極的に構造表現として用いていることも挙げられる。しかし、それもこの時点では機械的なものと、コントラストをなすものを取り合わせるという、ほんの遊びだったかもしれない。当時、彼が描いていた絵画はシュルレアリスムの傾向を見せている。天に浮いているのに大地のようで、ツルツルのガラスにザラザラな原始感といった異化作用はそれに通じる。
 コルビュジエは1965年に没するまで、このアトリエで絵を描き、社会を眼下に収め、イヴォンヌを愛し、通常は午後に仕事場に向かった。
 建築は社会の中で建つ。しかし、大事なのは社会から切り離されること。それがモダニズムの根幹の一つではなかったか。社会から切り離され、自己と対話することが必要だ。社会には現在しかない。したがって自己との対話とは、過去の自分のつくったもの、思考した結果に向き合うことにほかならない。そのとき、「過去」と「未来」は同時につくられる。誰に頼まれたのでもなく、たった一人で。
 1920年代の成功をもとに、社会から立て籠もる砦をコルビュジエは築いた。誰にも邪魔されずに絵画を描き、それを眺めた。自分が設計したデザインに向き合い、その意味も次第に発見されていっただろう。彼の名声は、この作品を頂点として失墜し…といったことは起こらなかった。自己と対話するこの透明な砦が、新たな出発を育んだからだ。

※1…以下の経緯は基本的に次の文献に従った。
Jacques Sbriglio『Apartment Block 24 N. C. and LeCorbusier’s Home』(Springer Science & Business Media, 1996)
※2…ウィリ・ボジガー編、吉阪隆正訳『ル・コルビュジエ全作品集 第2巻』(A.D.A.EDITA Tokyo、1978)p.126
※3…ウイリアム J.R. カーティス、中村研一訳『ル・コルビュジエ̶理念と形態』(鹿島出版会、1992)pp.143-145

くらかた しゅんすけ

■倉方俊輔 Shunsuke KURAKATA
建築史家。大阪市立大学大学院工学研究科准教授。1971年東京都生まれ。著書に『東京レトロ建築さんぽ』『ドコノモン』『吉阪隆正とル・コルビュジエ』、編著に『吉祥寺ハモニカ横丁のつくり方』ほか。
生きた建築ミュージアム大阪実行委員会委員

表紙
『建築ジャーナル』
今年の『建築ジャーナル』誌の1月~12月号の表紙を光嶋裕介さんが担当することになりました。
テーマはル・コルビュジエ。
一年間にわたり、倉方俊輔さんのエッセイ「『悪』のコルビュジエ」と光嶋裕介さんのドローイング「コルビュジエのある幻想都市風景」が同誌に掲載されます。ときの忘れものが企画のお手伝いをしました。
月遅れになりますが、気鋭のお二人のエッセイとドローイングをこのブログにも再録掲載します。毎月17日が掲載日です。どうぞご愛読ください。

●今日のお勧め作品は、光嶋裕介です。
20170717_02
光嶋裕介 "幻想都市風景2016-02"
2016年 和紙にインク
45.0×90.0cm   Signed
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●明日のブログは、石原輝雄のエッセイ「マルセル、きみは寂しそうだ。」第2回です。

移転記念コレクション展
会期:2017年7月8日(土)~7月29日(土) 11:00~18:00 ※日・月・祝日休廊
※靴を脱いでお上がりいただきますので、予めご了承ください。
※駐車場はありませんので、近くのコインパーキングをご利用ください。
201707_komagome_2出品作家:関根伸夫、北郷悟、舟越直木、小林泰彦、常松大純、柳原義達、葉栗剛、湯村光、瑛九、松本竣介、瀧口修造、オノサト・トシノブ、植田正治、秋葉シスイ、光嶋裕介、野口琢郎、アンディ・ウォーホル、草間彌生、宮脇愛子、難波田龍起、尾形一郎・優、他

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ときの忘れものは、〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました(詳しくは6月5日及び6月16日のブログ参照)。
電話番号と営業時間が変わりました。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
営業時間=火曜~土曜の平日11時~18時。日・月・祝日は休廊。

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JR及び南北線の駒込駅南口から約8分、名勝六義園の正門からほど近く、東洋文庫から直ぐの場所です。

◆倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」は毎月17日の更新です。