森本悟郎のエッセイ その後

第41回 中平卓馬(1938~2015)(3) 「日常 ─中平卓馬の現在─」展


《昭和五十二年九月中頃、(中略)急性アルコール中毒症と言う忌まわしき大病で死にかか》った(『新たなる凝視』)昏倒事故以後、中平さんは1978年に『アサヒカメラ』(12月号)で「沖縄 写真原点Ⅰ」をカラーで発表している。これは『なぜ、植物図鑑か』で《モノクロームの暗室作業にはあった〈手の痕跡〉を私はきれいさっぱり捨てようと思う》と宣言したところから始めたものだ。しかしその後刊行された『新たなる凝視』はモノクロームとカラー、『ADIEU A X』はモノクロームで、一度はやめたはずのモノクロームをカラーと併用していたことがわかる(ちなみにこの頃のカラーはネガフィルムである)。

01縲取眠縺溘↑繧句・隕悶€『新たなる凝視』晶文社、1983


02縲拶DIEU A X縲『ADIEU A X』河出書房新社、1989


それが1990年頃からカラーポジにシフトする。ポジはより徹底して〈手の痕跡〉を残しえない手段である。推測に過ぎないが、〈記憶喪失〉とも言われている昏倒事故を経ても、中平さんには〈植物図鑑〉というコンセプトへの継続的意思が働いていた、と考えざるをえない。「中平の新作で」と高梨豊さんは言ったが、新作とはまさにそのカラーポジによる写真のことだった。中平さんの現像所行きにつき合う間に、新作による展覧会構想が高梨さんに浮かんだのだろう。
まずは中平さんの近作がどのようなものか全体像をつかむため、96年9月高梨さんとご自宅を訪ねた。2階の8畳ほどの和室には、ネガが溢れんばかりの箱やマウントされたポジの山がいくつもあった。ともかく見てみようということで、高梨さん持参の大型ライトビュアーに、膨大といってよいほどのポジを手当たり次第ならべてはルーペで覗く、という作業を繰り返した。フィルムマウントには日付や場所の記載がないため制作順に配列することはできないが、見続けているうちに、テーマごとには分類できると思った。種類が多いとはいえないモチーフを繰り返し撮っていることがわかったからだ。ピントは概ねよく合っているが、露出にはバラツキがありハレーションの見られるカットもあった。ただ、そのポジの山から展覧会を成立させるような作品を選び出せるのか、ぼくにはまったく自信がなかった。帰路そのことを話したら、高梨さんはひと言「中平がどう選ぶかだよね」と。
2度目の訪問からは中平さんによる作品選定に立ち会うこととなる。すべて縦位置で撮られたポジを2点ひと組で選ぶのが中平さんのやり方だった。選んでは差し替え、ある程度揃ったかと思うとバラす。こんな作業が幾度も繰り返された。中平さんにとっては決定的な最終組み合わせは無いかのようだった。
ある日のこと、昼食後2階の部屋に戻り、午前中に選び・組み合わせ・配列したポジを当然のように中平さんがバラそうとしたとき、高梨さんが「中平さん、これで行こうよ」とそれを制した。中平さんもそれに頷いた。その時選ばれたのが26組52点の出品作品となった※。
C・スクエアの企画展としては20回目となる「日常 ─中平卓馬の現在─」展は1997年6月から7月にかけて開催した。昏倒事故から20年目のことである。初日には企画者である高梨さんと、中平さんとは雑誌での共同連載をもっていた旧知の間柄である赤瀬川原平さんによる、対談形式のトークイベントを行った。ただし、テーマは「写真と絵」というもので、中平展を題材としていなかった。これは〈敢えて避けた〉というのが正しいだろう。それほど〈言語化〉するのが難しい展覧会だった。

03 螻戊ヲァ莨壹・繧壹せ繧ソ繝シ「日常 ─中平卓馬の現在─」展ポスター


04 莨壼エ鬚ィ譎ッ-1会場風景-1


05 莨壼エ鬚ィ譎ッ-2会場風景-2


06 鬮俶「ィ繝サ襍、轢ャ蟾晏ッセ隲高梨豊・赤瀬川原平対談「写真と絵」


高梨さんは中平さんの撮っていた当時の写真の価値を認めていたから展覧会を企画し、中平さんに作品セレクトを委ねた。それでもその選択基準や組み合わせ、表現意図を量りかねていたのではないか、と推測される。ぼくとて4週間のあいだ毎日観ていながら、その展観を他人にどう伝えたらいいのか、おおいに悩んだものだ。
この展覧会には中平さんに私淑していた人たちや、その活動を注視していた人たちの来訪が少なからずあったが、中平さんを知っていればいるほど大きな疑問を抱えて会場を後にしたようだ。たとえば横浜美術館学芸員として「中平卓馬展 原点復帰─横浜」(2003)をキュレーションした詩人・批評家の倉石信乃さんは《「いったいなんなんだ、この写真は」と思》ったという※※。

07縲主次轤ケ蠕ゥ蟶ー・肴ィェ豬懊€「中平卓馬展 原点復帰─横浜」図録


その倉石さんは最近、《この展観は紛れもなく写真史的な事件であり、当の写真史を鋭く審問するものでもあった。それらの「作品」はどれも評定することが著しく困難な、事物の直截的で透明な把握に貫かれており、しかも2点1組で配されるイメージの照応は、簡明さの重畳によってかえって複雑なコノテーションを湧出する。当時すでに歴史に登録され始めていた『プロヴォーク』における中平の写真にも増して、挑発的と言うほかはなかった》と記している※※※。
来場者たちをコンフューズさせたこの展覧会の後、予想以上に中平卓馬再評価の気運が高まり、展覧会や復刊を含めた作品集刊行が増え、ドキュメンタリー映画も作られた。
中平さんの前期の活動がわずか14年ほどであるのに、後期は38年にもわたる。ところがその後期の作品群については、確たる評価が定まらない状態が続いてきた。しかし2015年に中平さんが亡くなってから、少しずつその状況は変わってきているように思われる。先に引用した倉石さんの論考※※※はその好例である。さまざまなエピソードや言説によって、ともすると伝説化されやすいこの希有な写真家の、〈非神話化〉作業がさらに進められることを願っている。


※ 中平さんのネガやポジの杜撰な保管状態をまのあたりにして、ぼくは展覧会後の作品保全を危惧した。そこで、展示用プラスもう1セット作成して別途保管したい旨、高梨さんと中平さんに伝えて了解を得た。ただ、展覧会予算では1セットしか作成できないので、もう1セットはぼくの私費で賄った。展覧会後、1セットは作家の手元に、もう1セットはぼくが預かった。13年頃、中平さんの具合が悪いと聞き、手元の作品を売却して全額渡すべく公的な買い手を探したところ、東京都写真美術館が手を上げたが、存命中には間に合わなかった。その後、著作権継承者がご子息に決まり、無事受取人となった。
※※ 八角聡仁、倉石信乃「入門 中平卓馬、その軌跡と問い」(『中平卓馬 来たるべき写真家』河出書房新社、2009)
※※※ 倉石信乃「人と動物 後期中平卓馬の写真」(中平卓馬『沖縄』ラットホールギャラリー、2017)
もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年名古屋市生まれ。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーC・スクエアキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。現在、表現研究と作品展示の場を準備中。

◆森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日の更新です。

●今日のお勧め作品は、長崎美希です。
20170828_nagasaki_01長崎美希
《スイミングああちゃん》
2009年
高さ 4.5cm
木彫(ジェルトン)
サインあり

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

●ときの忘れものは、〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました(詳しくは6月5日及び6月16日のブログ参照)。
電話番号と営業時間が変わりました。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
営業時間=火曜~土曜の平日11時~18時。日・月・祝日は休廊。

JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
12