清家克久のエッセイ「瀧口修造を求めて」第7回
宇和島市在住の画家で戦前にシュルレアリスムの影響を受け、瀧口とも交流のあった三輪田俊助先生に当時のお話を伺いたいと思い、初めてご自宅を訪ねたのは1980年代中頃のことだったと記憶する。道路に面した生垣、奥の玄関へ続く煉瓦を敷いた通路脇の植込みや中庭の佇まいに植物を愛する画家のまなざしを感じた。
三輪田先生の家
中庭
三輪田俊助先生(1997年回顧展カタログより)
アトリエに入ると正面の大きな掛時計が目に付くが、昔測候所で使われていたものだそうである。描きかけの絵やモティーフとなる静物の類が所狭しと置かれ、ここで画家は日々思索を重ねながら制作されているのだろう。
アトリエ
同上
同上
この訪問がきっかけとなり度々お宅にお邪魔するようになったが、先生はいつも旺盛な好奇心と探求心に溢れ、お話し好きで瀧口修造のイメージと重なるようなところがあった。控えめで寄り添うようにしておられる奥様も瀧口夫人に似通った印象のある方だった。愛媛の洋画家を代表する一人であり、度々宇和島に取材に訪れた小説家の司馬遼太郎とも交流があった。司馬遼太郎は「街道をゆく」のなかで、三輪田先生が史跡である城山に市が武道館建設を計画していることを知り、「城山の緑を守る会」を立ち上げて反対運動をした経緯について書いている。また、庶民の視点で戦争の悲惨さを後世に伝える「宇和島の空襲を記録する会」の冊子に毎回表紙絵と挿絵の提供をされていることも先生の人間性の一面を伝えるものである。
司馬遼太郎「街道をゆく」(朝日文芸文庫版)
城山と「緑を守る会」マイクの前に立つ三輪田先生(季刊えひめ)
「宇和島の空襲」表紙絵
三輪田先生は1913年に宇和島和霊神社の宮司の二男として生まれ、國學院大学に進学するが、洋画家で水彩画家として知られた中西利雄と偶然の出会いから親しくなり、絵に興味を持つようになった。いきなり日本水彩画展に出品して入選し、猪熊弦一郎の研究会に参加したり川端画塾でデッサンを学ぶようになり、遂には親に無断で1935年に帝国美術学校(現武蔵野美術大学)に転入学するが、徴兵のこともあり「画家になりたい、というよりもそこへ行くよりほか、もう行き場がないといった追いつめられた気持ちだった。」と当時を述懐している。
自由な校風のなかで新しい芸術思潮であるシュルレアリスムに魅かれ、1937年に学友の浜田浜雄ら6人でグループを結成する。翌年の5月頃からほぼ月に一回瀧口修造を招いて批評会を行い、12月に「繪畫」第一回展を銀座の紀伊国屋画廊で開催した。瀧口が第一回展評を「アトリエ」に発表するが、その中で「二、三を除いてダリのエピデミックな影響はよいにつけ悪いにつけ考えさせられた。」と評される。
グループ「繪畫」のメンバー(左より浜田浜雄・石井新三郎・武内秀太郎・三輪田俊助・田中素生・田中坦三)
「繪畫」第1回展ポスター(左)
「繪畫」第1回展評と浜田浜雄作品(日本のシュールレアリスム展カタログより)
しかし、意外にも瀧口から「君の絵はルネ・マグリットのようだ。」と言われたそうである。たしかに大地に屹立する大きな蝶を描いた「風景」と題する作品は、「だまし絵」のように見える。蝶の翅は朽ちた葉であり、胴体は蓑のようで、左前方に落ちている翅の破片はまるで飛行機の残骸を想わせる。本人は、「アトリエから見た吉祥寺の景色に、ここに偶然蝶を置いたらどうなるだろうという発想。背景は常に身辺的風景ですが、非合理的な世界をきちっと見せたいという気持ちでした。」と語っている。この作品は「急速に戦時体制へと傾斜していく時代のなかで抑圧され、傷ついていく前衛美術そのものを象徴しているかにみえる。」(大熊敏之「日本超現実主義絵画にみる蝶と貝のモティーフ」蝶の夢・貝の幻1927~1951展・三岸好太郎北海道立美術館1989年)と評されるなど、日本のシュルレアリスムの代表的な作品としてしばしば取り上げられることになる。
三輪田俊助「風景」(蝶の夢・貝の幻展カタログより)
同上カタログ
「東京モンパルナスとシュールレアリスム展」カタログ
同上カタログより
「繪畫」としての活動は1940年6月の第四回展をもって終わり、やがてグループも解散するが、1941年6月には杉並署に拘留されていた瀧口のもとへ仲間の浜田、立川と一緒にお金を出し合って果物の差入れをしたこともあったという。卒業後は「旬刊美術新報」の編集の仕事に就くが、1942年に応召され徳島連隊で三年間を過ごし終戦を迎える。
「繪畫」第4回展リーフレット
旬刊美術新報
帰郷したものの空襲で家は焼け跡となり、そこにバラック小屋を建て父母と一緒に自給自足に近い生活を送っていた頃、知人から貰った油絵具で拾ったタイルに描いたのが「少女像」だった。わずか15センチ四方の小品だが、市井の人々の復興に向けた暮らしをバックに純真な眼差しの少女の凛とした姿が胸を打つ。また、宇和島の「城山」を描いた作品はまさに「国破れて山河在り」を象徴しており、画家としての新たな出発を告げる重要な作品となった。
「少女像」1946年作(三輪田俊助展カタログより)
「城山」1946年作(同上)
戦後は中学校教員として勤務する傍ら、中央画壇や公募展とは一線を画し「愛媛現代美術家集団」や「シコロ」など革新的なグループを結成し、地方での活動が中心となるが、1964年に銀座のサエグサ画廊で行った個展では、現代画廊を経営し「気まぐれ美術館」の著者で友人でもある洲之内徹が「美しい白と青」と題して展評(愛媛新聞)を寄せ、「仕事のほうはすこしも中央との距離やずれを感じさせない。」と書かれたことが励みになったという。「戯れ」「白い部屋」などの作品には抽象表現主義の影響も見られ、常に新しい表現を追求していたことが伺える。
「戯れ」1964年作(三輪田俊助展カタログより
「白い部屋」1964年作(同上)
その二十年後の1984年には美術評論家の坂崎乙郎の紹介で東京新宿の紀伊国屋画廊で新旧の作品による個展を行っている。
三輪田俊助展リーフレット(1984年)
同上
「高窓の家」1963年作(三輪田俊助展カタログより)
「廃園にてA」1982年頃作(同上)
1997年にはそれまでの画業の集大成として、町立久万美術館で回顧展が開催されることになった。そのカタログに先生の盟友である浜田浜雄さんやシュルレアリスム研究家で板橋区立美術館主任学芸員(当時)の尾崎眞人さんらと共に私が寄稿させていただくことになったのは、先生と松岡義太館長(当時)の強いお勧めがあったからである。
三輪田俊助回顧展パンフレット
同展カタログ表紙「植物のかげE」1989年作
そして、展覧会の感想のつもりで書いた文章を先生が愛媛新聞社に紹介し、それが展評として掲載されることになったのである。そのなかで私が言いたかったのは、先生が一貫してシュルレアリスムの精神を持った画家であり、単に「土着の画家」と呼ばれることに異を唱え、優れた画家は住む場所がどこであれ、自然や人間の営みのなかに潜む宝(本質)を見出し、普遍性に達する表現ができるということだった。先生自身も画業を振り返って「風景と自分との関係性というか、無意識の世界を引き出して行く感じです。それはつまり、シュールレアリスムの発想。要するに六十年たって、手法は違うけど、らせん階段を上がるように元のシュールに戻って来たんだね。」と語っている。
三輪田俊助回顧展評(愛媛新聞)
2012年には松山市のミウラート・ヴィレッジで「ふるさとを愛した画家三輪田俊助展」が開催され、先生はそれから三年後の2015年5月30日に百一歳の天寿を全うされたが、百歳を超えてもなお、絵筆をとっておられたそうである。
三輪田俊助展パンフレットより「船影」2012年制作
※三輪田先生の経歴と言葉は主に1997年2月に愛媛新聞紙上に4回に分けて連載された「三輪田俊助が語る~時代の風景・心の光景」を参考にさせていただいた。
(せいけ かつひさ)
■清家克久 Katsuhisa SEIKE
1950年 愛媛県に生まれる。
●清家克久のエッセイ「瀧口修造を求めて」全12回目次
第1回/出会いと手探りの収集活動
第2回/マルセル・デュシャン語録
第3回/加納光於アトリエを訪ねて、ほか
第4回/綾子夫人の手紙、ほか
第5回/有楽町・レバンテでの「橄欖忌」ほか
第6回/清家コレクションによる松山・タカシ画廊「滝口修造と画家たち展」
第7回/町立久万美術館「三輪田俊助回顧展」ほか
第8回/宇和島市・薬師神邸「浜田浜雄作品展」ほか
第9回/国立国際美術館「瀧口修造とその周辺」展ほか
第10回/名古屋市美術館「土渕コレクションによる 瀧口修造:オートマティスムの彼岸」展ほか
第11回/横浜美術館「マルセル・デュシャンと20世紀美術」ほか
第12回/小樽の「詩人と美術 瀧口修造のシュルレアリスム」展ほか
◆清家克久のエッセイ「瀧口修造を求めて」は毎月20日の更新です。
●今日のお勧め作品は、瀧口修造です。
瀧口修造
《I-16》
インク、紙(郵便はがき)
イメージサイズ:14.1×10.2cm
シートサイズ :14.1×10.2cm
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●埼玉県立近代美術館では15年ぶりとなる「駒井哲郎 夢の散策者」展が開催されています。
会期:2017年9月12日[火]~10月9日[月・祝]
企画を担当された吉岡知子さん(同館学芸員)のエッセイ<企画展「駒井哲郎 夢の散策者」に寄せて―武田光司氏のコレクション>をお読みください。
●ときの忘れものは、〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました(詳しくは6月5日及び6月16日のブログ参照)。
電話番号と営業時間が変わりました。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
営業時間=火曜~土曜の平日11時~18時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

宇和島市在住の画家で戦前にシュルレアリスムの影響を受け、瀧口とも交流のあった三輪田俊助先生に当時のお話を伺いたいと思い、初めてご自宅を訪ねたのは1980年代中頃のことだったと記憶する。道路に面した生垣、奥の玄関へ続く煉瓦を敷いた通路脇の植込みや中庭の佇まいに植物を愛する画家のまなざしを感じた。



アトリエに入ると正面の大きな掛時計が目に付くが、昔測候所で使われていたものだそうである。描きかけの絵やモティーフとなる静物の類が所狭しと置かれ、ここで画家は日々思索を重ねながら制作されているのだろう。



この訪問がきっかけとなり度々お宅にお邪魔するようになったが、先生はいつも旺盛な好奇心と探求心に溢れ、お話し好きで瀧口修造のイメージと重なるようなところがあった。控えめで寄り添うようにしておられる奥様も瀧口夫人に似通った印象のある方だった。愛媛の洋画家を代表する一人であり、度々宇和島に取材に訪れた小説家の司馬遼太郎とも交流があった。司馬遼太郎は「街道をゆく」のなかで、三輪田先生が史跡である城山に市が武道館建設を計画していることを知り、「城山の緑を守る会」を立ち上げて反対運動をした経緯について書いている。また、庶民の視点で戦争の悲惨さを後世に伝える「宇和島の空襲を記録する会」の冊子に毎回表紙絵と挿絵の提供をされていることも先生の人間性の一面を伝えるものである。



三輪田先生は1913年に宇和島和霊神社の宮司の二男として生まれ、國學院大学に進学するが、洋画家で水彩画家として知られた中西利雄と偶然の出会いから親しくなり、絵に興味を持つようになった。いきなり日本水彩画展に出品して入選し、猪熊弦一郎の研究会に参加したり川端画塾でデッサンを学ぶようになり、遂には親に無断で1935年に帝国美術学校(現武蔵野美術大学)に転入学するが、徴兵のこともあり「画家になりたい、というよりもそこへ行くよりほか、もう行き場がないといった追いつめられた気持ちだった。」と当時を述懐している。
自由な校風のなかで新しい芸術思潮であるシュルレアリスムに魅かれ、1937年に学友の浜田浜雄ら6人でグループを結成する。翌年の5月頃からほぼ月に一回瀧口修造を招いて批評会を行い、12月に「繪畫」第一回展を銀座の紀伊国屋画廊で開催した。瀧口が第一回展評を「アトリエ」に発表するが、その中で「二、三を除いてダリのエピデミックな影響はよいにつけ悪いにつけ考えさせられた。」と評される。



しかし、意外にも瀧口から「君の絵はルネ・マグリットのようだ。」と言われたそうである。たしかに大地に屹立する大きな蝶を描いた「風景」と題する作品は、「だまし絵」のように見える。蝶の翅は朽ちた葉であり、胴体は蓑のようで、左前方に落ちている翅の破片はまるで飛行機の残骸を想わせる。本人は、「アトリエから見た吉祥寺の景色に、ここに偶然蝶を置いたらどうなるだろうという発想。背景は常に身辺的風景ですが、非合理的な世界をきちっと見せたいという気持ちでした。」と語っている。この作品は「急速に戦時体制へと傾斜していく時代のなかで抑圧され、傷ついていく前衛美術そのものを象徴しているかにみえる。」(大熊敏之「日本超現実主義絵画にみる蝶と貝のモティーフ」蝶の夢・貝の幻1927~1951展・三岸好太郎北海道立美術館1989年)と評されるなど、日本のシュルレアリスムの代表的な作品としてしばしば取り上げられることになる。




「繪畫」としての活動は1940年6月の第四回展をもって終わり、やがてグループも解散するが、1941年6月には杉並署に拘留されていた瀧口のもとへ仲間の浜田、立川と一緒にお金を出し合って果物の差入れをしたこともあったという。卒業後は「旬刊美術新報」の編集の仕事に就くが、1942年に応召され徳島連隊で三年間を過ごし終戦を迎える。


帰郷したものの空襲で家は焼け跡となり、そこにバラック小屋を建て父母と一緒に自給自足に近い生活を送っていた頃、知人から貰った油絵具で拾ったタイルに描いたのが「少女像」だった。わずか15センチ四方の小品だが、市井の人々の復興に向けた暮らしをバックに純真な眼差しの少女の凛とした姿が胸を打つ。また、宇和島の「城山」を描いた作品はまさに「国破れて山河在り」を象徴しており、画家としての新たな出発を告げる重要な作品となった。


戦後は中学校教員として勤務する傍ら、中央画壇や公募展とは一線を画し「愛媛現代美術家集団」や「シコロ」など革新的なグループを結成し、地方での活動が中心となるが、1964年に銀座のサエグサ画廊で行った個展では、現代画廊を経営し「気まぐれ美術館」の著者で友人でもある洲之内徹が「美しい白と青」と題して展評(愛媛新聞)を寄せ、「仕事のほうはすこしも中央との距離やずれを感じさせない。」と書かれたことが励みになったという。「戯れ」「白い部屋」などの作品には抽象表現主義の影響も見られ、常に新しい表現を追求していたことが伺える。


その二十年後の1984年には美術評論家の坂崎乙郎の紹介で東京新宿の紀伊国屋画廊で新旧の作品による個展を行っている。




1997年にはそれまでの画業の集大成として、町立久万美術館で回顧展が開催されることになった。そのカタログに先生の盟友である浜田浜雄さんやシュルレアリスム研究家で板橋区立美術館主任学芸員(当時)の尾崎眞人さんらと共に私が寄稿させていただくことになったのは、先生と松岡義太館長(当時)の強いお勧めがあったからである。


そして、展覧会の感想のつもりで書いた文章を先生が愛媛新聞社に紹介し、それが展評として掲載されることになったのである。そのなかで私が言いたかったのは、先生が一貫してシュルレアリスムの精神を持った画家であり、単に「土着の画家」と呼ばれることに異を唱え、優れた画家は住む場所がどこであれ、自然や人間の営みのなかに潜む宝(本質)を見出し、普遍性に達する表現ができるということだった。先生自身も画業を振り返って「風景と自分との関係性というか、無意識の世界を引き出して行く感じです。それはつまり、シュールレアリスムの発想。要するに六十年たって、手法は違うけど、らせん階段を上がるように元のシュールに戻って来たんだね。」と語っている。

2012年には松山市のミウラート・ヴィレッジで「ふるさとを愛した画家三輪田俊助展」が開催され、先生はそれから三年後の2015年5月30日に百一歳の天寿を全うされたが、百歳を超えてもなお、絵筆をとっておられたそうである。

※三輪田先生の経歴と言葉は主に1997年2月に愛媛新聞紙上に4回に分けて連載された「三輪田俊助が語る~時代の風景・心の光景」を参考にさせていただいた。
(せいけ かつひさ)
■清家克久 Katsuhisa SEIKE
1950年 愛媛県に生まれる。
●清家克久のエッセイ「瀧口修造を求めて」全12回目次
第1回/出会いと手探りの収集活動
第2回/マルセル・デュシャン語録
第3回/加納光於アトリエを訪ねて、ほか
第4回/綾子夫人の手紙、ほか
第5回/有楽町・レバンテでの「橄欖忌」ほか
第6回/清家コレクションによる松山・タカシ画廊「滝口修造と画家たち展」
第7回/町立久万美術館「三輪田俊助回顧展」ほか
第8回/宇和島市・薬師神邸「浜田浜雄作品展」ほか
第9回/国立国際美術館「瀧口修造とその周辺」展ほか
第10回/名古屋市美術館「土渕コレクションによる 瀧口修造:オートマティスムの彼岸」展ほか
第11回/横浜美術館「マルセル・デュシャンと20世紀美術」ほか
第12回/小樽の「詩人と美術 瀧口修造のシュルレアリスム」展ほか
◆清家克久のエッセイ「瀧口修造を求めて」は毎月20日の更新です。
●今日のお勧め作品は、瀧口修造です。

《I-16》
インク、紙(郵便はがき)
イメージサイズ:14.1×10.2cm
シートサイズ :14.1×10.2cm
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●埼玉県立近代美術館では15年ぶりとなる「駒井哲郎 夢の散策者」展が開催されています。
会期:2017年9月12日[火]~10月9日[月・祝]
企画を担当された吉岡知子さん(同館学芸員)のエッセイ<企画展「駒井哲郎 夢の散策者」に寄せて―武田光司氏のコレクション>をお読みください。
●ときの忘れものは、〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました(詳しくは6月5日及び6月16日のブログ参照)。
電話番号と営業時間が変わりました。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
営業時間=火曜~土曜の平日11時~18時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

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