森本悟郎のエッセイ その後
第42回 澁澤龍彥(1928~1987)と堀内誠一(1932~1987) (1)二人の出会い
今年は〈澁澤龍彥没後30年〉ということで、著書の復刊や特集した雑誌の刊行※、展覧会※※の開催(予定含む)が相次いでいる。昨年7月には「澁澤龍彥 没後30年を迎える会」が神田駿河台の山の上ホテルで開かれた。
「澁澤龍彥 ドラコニアの地平」展フライヤー
「澁澤龍彥 没後30年を迎える会」澁澤龍子さんの挨拶
では〈没後20年〉はどうだったのかといえば、’07年に埼玉県立近代美術館で「澁澤龍彥 ─幻想美術館─」展※※※が、そして中京大学アートギャラリーC・スクエアで「澁澤龍彥・堀内誠一 旅の仲間」展を開催している。今回の標題に記したように、二人の没年は’87年で、命日も8月5日(澁澤)と17日(堀内)と近く、ともに下咽頭癌が原因だった。同展はそんな数奇な巡り合わせの二人の交流を書簡や刊行物、写真、資料などを通じて検証する試みで、常の〈作品展〉とは趣が異なるばかりか、〈現存作家による個展〉を原則としていた点でも異例といえる。
現代思潮社編集部編『サド裁判』上・下 現代思潮社(’72・新装版)
教師の話しぶりからその人物に興味をもち、初めて手にした著作が『夢の宇宙誌』(美術出版社、’64)で、今も手元にある。該博な知識を惜しげもなく鏤(ちりば)めた文章に学校の授業がバカバカしくなるほどの知的刺激を受けたが、わけてもこの書を通じて未知の〈美学〉に触れた経験は、やがてぼくを美術の世界に向かわせる遠因のひとつとなった。
澁澤龍彥『夢の宇宙誌』美術出版社(’64)
堀内誠一『父の時代 私の時代』マガジンハウス版
『血と薔薇』No.1~3 天声出版
’74年に家族とともに堀内さんがパリ近郊のアントニーに移住し、友人たちに絵入りの手紙を送り始める※※※※※※※ところから澁澤さんと手紙のやりとりが増え、親交は一層深まっていくのである。
(もりもと ごろう)
※『別冊文芸 澁澤龍彥ふたたび』河出書房新社、『文学界』「特集 稲垣足穂(没後四十年)・澁澤龍彥(没後三十年)・深沢七郎(没後三十年)──奇想と偏愛の系譜」文藝春秋
※※「澁澤龍彥没後30年」LIBRAIRIE6 / シス書店(第1部:8/5-20、第2部:9/9-10/22)、「澁澤龍彥 ドラコニアの地平」世田谷文学館(10/7-12/17)
※※※4月7日~5月20日開催。会場となった埼玉県立近代美術館のある浦和北公園は、澁澤龍彥が在籍した旧制浦和高校跡地である。
※※※※その活躍ぶりは、堀内誠一『父の時代 私の時代』(日本エディターズスクール出版部、’79/マガジンハウス、’07)に詳しい。
※※※※※澁澤龍彥・責任編集は3号までで、4号は責任編集が平岡正明になった。その変貌ぶりは同じ雑誌とは見えず、全く買う気が失せたことを覚えている。1~3号はのちに『血と薔薇 復原』(白順社、’03)として復刻版が、『血と薔薇コレクション』(河出文庫、’05)として文庫版も出た。
※※※※※※矢川澄子(1930~2002)、作家・翻訳家。
※※※※※※※堀内誠一『パリからの手紙─ヨーロッパスケッチドキュメント』(日本エディターズスクール出版部、’98)
■森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年名古屋市生まれ。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーC・スクエアキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。現在、表現研究と作品展示の場を準備中。
◆森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日の更新です。
●今日のお勧め作品は、難波田龍起です。
難波田龍起
《(作品)》
1975年
色紙に水彩
イメージサイズ:22.0×20.0cm
シートサイズ:27.0×24.0cm
サインあり、裏に年記あり
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第42回 澁澤龍彥(1928~1987)と堀内誠一(1932~1987) (1)二人の出会い
今年は〈澁澤龍彥没後30年〉ということで、著書の復刊や特集した雑誌の刊行※、展覧会※※の開催(予定含む)が相次いでいる。昨年7月には「澁澤龍彥 没後30年を迎える会」が神田駿河台の山の上ホテルで開かれた。


では〈没後20年〉はどうだったのかといえば、’07年に埼玉県立近代美術館で「澁澤龍彥 ─幻想美術館─」展※※※が、そして中京大学アートギャラリーC・スクエアで「澁澤龍彥・堀内誠一 旅の仲間」展を開催している。今回の標題に記したように、二人の没年は’87年で、命日も8月5日(澁澤)と17日(堀内)と近く、ともに下咽頭癌が原因だった。同展はそんな数奇な巡り合わせの二人の交流を書簡や刊行物、写真、資料などを通じて検証する試みで、常の〈作品展〉とは趣が異なるばかりか、〈現存作家による個展〉を原則としていた点でも異例といえる。
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ぼくが出た高校は比較的自由な校風で、教師とも心安く話せる伝統があった。入学直後のこと、生徒たちに教師も交えて談笑していた。どんな話題からか、ある教師が「憲法では『出版その他一切の表現の自由は、これを保障する』と定めているけれど、伊藤整のチャタレー裁判をはじめとして表現の自由をめぐる事件が後を絶たない。〈サド裁判〉もそうだ」と言い、次いで出たのが澁澤龍彥という名だった。
教師の話しぶりからその人物に興味をもち、初めて手にした著作が『夢の宇宙誌』(美術出版社、’64)で、今も手元にある。該博な知識を惜しげもなく鏤(ちりば)めた文章に学校の授業がバカバカしくなるほどの知的刺激を受けたが、わけてもこの書を通じて未知の〈美学〉に触れた経験は、やがてぼくを美術の世界に向かわせる遠因のひとつとなった。

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14歳で伊勢丹宣伝課に就職したという、名うてのデザイナー、アートディレクターである堀内誠一さん※※※※は、『an・an』『POPEYE』『BRUTUS』(平凡出版、現マガジンハウス)などの創刊時のアートディレクターとして雑誌界に新風を吹き込んだが、同時にイラストレーター、絵本作家、文筆家、旅行家と多彩な顔ももっていた。責任編集・澁澤龍彥、アートディレクター・堀内誠一という二人のコラボレーションによる雑誌『血と薔薇』(天声出版)が刊行されたのは’68年。当時の定価1000円は大学生の身には恐ろしく高価だったが、生活費を切り詰めて買い求めた※※※※※。堀内夫人の路子さんが澁澤さんと旧知の仲だったことから澁澤さんと堀内さんは知り合うことになる。路子さんによれば、澁澤さんと《堀内とはそんなに親しくしていなかった。そしたら澄子さん※※※※※※と澁澤君が別れた後、入れ違いに今度は堀内の方が仕事で年中接触するようになった》と語っているから、『血と薔薇』を機に二人が急接近したことがわかる。コラボレーションの例はその後も創刊当初の『an・an』に澁澤訳で童話を掲載したり、ローラン・トポール『マゾヒストたち』(薔薇十字社、’72)を編集・澁澤、装丁・堀内で刊行するといった具合である。

’74年に家族とともに堀内さんがパリ近郊のアントニーに移住し、友人たちに絵入りの手紙を送り始める※※※※※※※ところから澁澤さんと手紙のやりとりが増え、親交は一層深まっていくのである。
(もりもと ごろう)
※『別冊文芸 澁澤龍彥ふたたび』河出書房新社、『文学界』「特集 稲垣足穂(没後四十年)・澁澤龍彥(没後三十年)・深沢七郎(没後三十年)──奇想と偏愛の系譜」文藝春秋
※※「澁澤龍彥没後30年」LIBRAIRIE6 / シス書店(第1部:8/5-20、第2部:9/9-10/22)、「澁澤龍彥 ドラコニアの地平」世田谷文学館(10/7-12/17)
※※※4月7日~5月20日開催。会場となった埼玉県立近代美術館のある浦和北公園は、澁澤龍彥が在籍した旧制浦和高校跡地である。
※※※※その活躍ぶりは、堀内誠一『父の時代 私の時代』(日本エディターズスクール出版部、’79/マガジンハウス、’07)に詳しい。
※※※※※澁澤龍彥・責任編集は3号までで、4号は責任編集が平岡正明になった。その変貌ぶりは同じ雑誌とは見えず、全く買う気が失せたことを覚えている。1~3号はのちに『血と薔薇 復原』(白順社、’03)として復刻版が、『血と薔薇コレクション』(河出文庫、’05)として文庫版も出た。
※※※※※※矢川澄子(1930~2002)、作家・翻訳家。
※※※※※※※堀内誠一『パリからの手紙─ヨーロッパスケッチドキュメント』(日本エディターズスクール出版部、’98)
■森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年名古屋市生まれ。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーC・スクエアキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。現在、表現研究と作品展示の場を準備中。
◆森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日の更新です。
●今日のお勧め作品は、難波田龍起です。

《(作品)》
1975年
色紙に水彩
イメージサイズ:22.0×20.0cm
シートサイズ:27.0×24.0cm
サインあり、裏に年記あり
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