清家克久のエッセイ「瀧口修造を求めて」第8回

 前回紹介した戦前におけるシュルレアリスムのグループ「繪畫」のメンバーのなかで最もダリの影響を受けた絵を描き、瀧口修造と晩年まで交流があったのは浜田浜雄である。戦中から戦後間もない時期にかけて頻繁に往来し、蔵書家でもあった浜田が戦火で一切の蔵書を失った瀧口の依頼を受けて美術関係書を貸したり、瀧口も浜田を気遣い創作への励ましや仕事の紹介をしていたことが浜田の日記や往復書簡によって知られている。(「生誕100年浜田浜雄展~造形の遊戯場~」米沢市上杉博物館・2015年刊より)

01浜田浜雄「タイム・キーパー」1938年作(生誕100年浜田浜雄展・米沢市上杉博物館)カタログより


02同展カタログ


 また、「みすず233」の瀧口修造追悼号に浜田は「あのころ」と題して寄稿し、1940年頃の交流の一端が綴られているが、「和製ブルトン氏」と称するほど畏敬し瀧口の存在なくしてシュルレアリスムの影響は考えられなかったのだろう。

03みすず233号(みすず書房1979.9-10)


04同上書より


 浜田は1951年に瀧口の勧めによりタケミヤ画廊で個展を行っているが、以後は画家としての影は潜め、大辻清司らと「グラフィック集団」を結成するなどグラフィックデザイナーとして活躍した。

05タケミヤ画廊個展案内状とポートレート(生誕100年浜田浜雄展カタログより)


06グラフィック集団について(同展カタログより)


 私は三輪田先生に連絡していただき1990年2月末、上京の折に渋谷区神宮前のマンションに一人で住んでおられた浜田さんを訪ねた。その時の経緯は瀧口修造研究会会報「橄欖」第一号にも書いたが、肝心の瀧口についての話を伺うことができなかった。その原因は私にあり、初対面とはいえ浜田さんについて無知に等しかったためである。

07「橄欖」第1号


 浜田さんは75歳になっており、独り暮らしが長かったせいか隠棲しているような印象を受けた。静かな口調で身辺のことを話されたり、ブルーノ・ムナーリの珍しい仕掛け本を見せていただいたりしたが、浜田さんのなかにイロニーの精神が潜んでいることを感じていた。後に三輪田先生が「彼は寡黙な人のようにも見えたが、澄んだ眼に薄笑いを秘めたような魅力があった。」(2006年米沢市上杉博物館「企画展浜田浜雄」カタログより)と述べていたのでデュシャンのイメージと重なるようなところがあったのかもしれない。グラフィックデザインやオブジェに見られるユーモアや風刺的な表現に加えて「たばこの灰で30センチぐらいの高さのオブジェを2か月位かかって作り上げたり、蝋燭で鳥や馬を作り羽根やたてがみが夏の熱さでグシャ!と突然壊れる」のを独りで楽しんでいたというのもダダの精神に通じるものだろう。(「浜田先生の思い出」薬師神親彦「E+D+P №45」東京エディトリアルセンター1996年刊より)

08企画展浜田浜雄カタログ2006年


09グラフィックデザインの作品(生誕100年展カタログより)


10オブジェの作品(同上)


11「E+D+P №45」1996年


12同上


 かつては同じ原宿にあった広い庭付きの家にアトリエを構え、夥しいオブジェに囲まれて眞記子夫人と優雅に暮らしていた。その頃の様子は「季刊銀花」(文化出版局1970年第4号・冬)に紹介されているが、浜田浜雄の頭文字の「二つのH」をフランス語に訳するとデブラーシスと読むところから自らをバロン・ダルゴス・デブラーシスと名乗り、高踏的な遊戯に興じていたりもした。1971年6月に夫人を亡くされてからこのマンションに移っていたのである。(瀧口は夫人の死去に際して浜田へ追悼詩を送っている。)

13「季刊銀花4号・冬」(文化出版局1970年)より


14追悼詩「コレクション瀧口修造」第5巻(みすず書房刊)より


 訪問から暫くして瀟洒な和紙の便箋に毛筆でしたためられたお手紙をいただいたが、その封筒の裏に「二つのH」を型取った封蝋が押されていたのも浜田さんならではのエスプリの名残りだったのだろう。

15封筒裏の封蝋


 その後「太陽」の特集号「瀧口修造のミクロコスモス」(1993年4月平凡社刊)が出たとき、浜田さんにこの雑誌をお送りしたのだが、しばらく経って返送されて来た。実は浜田さんが写した瀧口の写真も掲載されており、ご本人はすでに持っておられたのである。にもかかわらず丁重な礼状をいただいたが、そこには病院を転々とし身体の不如意に悩まされていることなども記されていた。

16「太陽」1993年4月平凡社刊より


17浜田さんの手紙(1994年10月31日付消印)


 三輪田先生から浜田さんの訃報を受けたのは、それからわずか1か月半後のことだった。その臨終に立ち会ったのが弟子にあたる薬師神親彦さんである。薬師神さんは宇和島市出身のグラフィックデザイナーで、東京のデザイン事務所の代表を務めている。1961年に受験で上京し、三輪田先生の紹介で浜田のアトリエを訪ねてから交流が始まり、桑沢デザイン研究所在学中から薫陶を受け、晩年まで最も身近に接して厚い信頼を受けていた方である。浜田の歿後に遺された膨大な資料や蔵書の整理にあたられた薬師神さんから浜田が保存していた瀧口に関連する資料のコピーを頂戴する幸運に恵まれた。私が瀧口に関心を持っていることを三輪田先生から知らされていたのである。驚くことにその中に瀧口が戦時下に書いたと思われる未発表詩2編が含まれていた。これについては「橄欖」第三号に詳しく紹介しているが、「倭し美し」「城」と題され、明らかにあの実験的な詩群とは異なり時局への配慮を窺わせる内容である。おそらく他の詩人たちとのアンソロジーとして編まれ、ゲラ刷りの段階で何らかの事情により発表されなかったものと思われる。

18瀧口修造「倭し美し」


19瀧口修造「城」


20「橄欖」第3号


 1996年2月に渋谷区立松濤美術館で初の回顧展として「特別陳列 浜田浜雄―シュールレアリスムの世界―」展が開催されたが、ご遺族と薬師神さんの全面的な協力により実現したものである。

21「特別陳列浜田浜雄シュールレアリスムの世界」展パンフレット


22同展カタログ


 その3か月後に宇和島市の薬師神さんのご自宅でその作品の一部が公開されることになり、松濤美術館学芸員の瀬尾典昭さんや土渕信彦さんも宇和島に来られた。思うに、この宇和島で浜田浜雄作品展が開かれたのは薬師神さんのご尽力もさることながら、浜田・三輪田の二人の絆がもたらした出来事であり、土渕さんや私がその場に立ち会うことができたのも瀧口の導きであるような気がした。

23浜田浜雄作品展(宇和島市・薬師神邸)


24同上


25同展にて(左より三輪田俊助、土渕信彦、清家克久、薬師神親彦)


26同上記事(愛媛新聞)


せいけ かつひさ

■清家克久 Katsuhisa SEIKE
1950年 愛媛県に生まれる。

清家克久のエッセイ「瀧口修造を求めて」全12回目次
第1回/出会いと手探りの収集活動
第2回/マルセル・デュシャン語録
第3回/加納光於アトリエを訪ねて、ほか
第4回/綾子夫人の手紙、ほか
第5回/有楽町・レバンテでの「橄欖忌」ほか
第6回/清家コレクションによる松山・タカシ画廊「滝口修造と画家たち展」
第7回/町立久万美術館「三輪田俊助回顧展」ほか
第8回/宇和島市・薬師神邸「浜田浜雄作品展」ほか
第9回/国立国際美術館「瀧口修造とその周辺」展ほか
第10回/名古屋市美術館「土渕コレクションによる 瀧口修造:オートマティスムの彼岸」展ほか
第11回/横浜美術館「マルセル・デュシャンと20世紀美術」ほか
第12回/小樽の「詩人と美術 瀧口修造のシュルレアリスム」展ほか

●清家克久のエッセイ「瀧口修造を求めて」は毎月20日の更新です。

●今日のお勧め作品は、瀧口修造です。
20171020_takiguchi2014_II_03瀧口修造
《II-3》
デカルコマニー、水彩、紙
イメージサイズ: 14.2×5.1cm
シートサイズ : 14.2×5.1cm


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■『瀧口修造展 III・IV 瀧口修造とマルセル・デュシャン』を刊行しました。
瀧口修造展 I』、『瀧口修造展 II』よりページ数も増えました。
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E-mail. info@tokinowasuremono.com

TAKIGUCHI_3-4『瀧口修造展 III・IV 瀧口修造とマルセル・デュシャン』
2017年
ときの忘れもの 発行
92ページ  21.5x15.2cm
テキスト:瀧口修造(再録)、土渕信彦、工藤香澄
ハードカバー  英文併記
デザイン:北澤敏彦
掲載図版:65点
通常価格:2,500円(税別)、送料250円