難波田龍起先生の銅版画(再録)

綿貫不二夫(1998年)

 「駒井君が《難波田さんの線は銅版に向いているからぜひやって下さい、僕が手伝いますよ》と勧めてくれてね」。版画に意欲を燃やされる理由をこう私におっしゃったことがある。駒井哲郎先生の早すぎる死(1976年)によって、駒井アトリエでの制作は実現しなかったのだが、ちょうどその頃、私は版元として銅版画やリトグラフの制作依頼に経堂のご自宅にお伺いしたのだった。

近く刊行予定の版画レゾネ(*1)には、52年の孔版画「無題」から始まって木版画、リトグラフ、銅版画など、難波田先生が40数年間に手掛けた版画約 150点(その他にもコラージュやモノタイプが15点程)が収録されると聞く。最も多いのが銅版画で 105点、その七割近くに私は版元として関わったことになる。前述の駒井先生の死去の翌77年と78年の二年間だけで63点を制作されている。いや実はもっと制作されたのだが、それらの多くは試刷りのみで結局発表されなかったのである。レゾネに収録予定の 105点の銅版画でさえ、その内少なくとも27点はEAのみ数部が刷られただけである。せっかく制作された銅版を日の目を見ることなく埋もれさせてしまった元凶はこの私である。
難波田龍起「海の風」600
「海の風」
1977  銅版(刷り:木村茂)
18.0×27.9cm
Ed.35 サインあり
*現代版画センターエディション
※レゾネNo.53(阿部出版)


初めてお伺いした頃、先生はもう七〇歳を越えておられ、74年に「現代版画センター」(*2)を設立し本格的な版画の版元を目指していた私はやっと三〇歳になったばかりだった。先生は60年代に美術家連盟の工房などで既に数点の銅版画を手掛けておられ、駒井先生の勧めもあったのだろう、若僧の私のエディション制作の依頼を快く受けて下さった。最初は奈良の木村茂先生が製版と刷りを引き受けて下さった。しかし、ご自身が作家でもある木村先生にばかりご無理をお願いする訳にもゆかず、あらためて山村常夫・素夫兄弟の銅版画工房に協力を依頼したのだった。山村兄弟は工房のポリシーとして刷りのみを行ない、製版にはノータッチだった。製版は気鋭の銅版画家O先生が協力して下さってようやく銅版画に本格的に取り組む体制が整った。それからの二年間はもう版画一筋、先生は面白くて面白くてたまらないという感じで、昨日持っていった何枚もの銅版が翌日にはびっしりと描き込まれているといった具合で、私たちは次から次へと 100枚を越える銅版を先生のアトリエに持ち込んだのだった。

技法的にはエッチング(腐蝕銅版画)が多かったのだが、これは銅版を力をこめて刻むのではなく、銅版に薄く挽いたグランド(防蝕膜)の上からニードルという鉄針で軽く描画しグランド層をはがす技法である。はがれた所だけが薬品で腐蝕される。腐蝕された溝にインキを詰め、プレス機で紙に刷るのである。従って銅版を直接刻むビュランやドライポイントとは異なり、一本の線の始点から終点まで、均一な力でグランドをスーとはがさなければならない。先生は専門の版画家ではないから、紙に鉛筆やペンで描くのと同じ調子で夢中になってニードルを使われてしまう。その結果グランドが綺麗にはがれず、一本の線だけならまだしも、沢山の線が描かれる場合など、いざ製版すると線と線とが交差する点がみなつぶれてしまい、ぐちゃぐちゃになってしまうのである。試刷りをお持ちすると先生は嬉しそうにご覧になるのだが、細い線一本一本が見事に交差する長谷川潔先生の銅版画を指標としていた生意気ざかりの私はどうしてもつぶれた線が気に入らない。版元の強権でそれらの版をみなボツにしてしまったのである。

それから何年も経って、現代版画センターを潰してしまった私は妻と二人だけで「ときの忘れもの」というギャラリー&編集事務所を始めたのだが、あるとき街で可憐な程に美しく手彩色された銅版画を見かけたのだった。それこそ私が数枚づつ試刷りをお持ちしたあげくボツにした版画ではないか。先生はご自分の作品はどんなものでもとても大切にされていた。ボツになった試刷り作品に丁寧に手彩色を加えて楽しんでおられたらしい。それが画商の目にとまり市場に出たに違いない。当時は不遜にもつぶれて醜いと思っていた線が生き生きと躍動している。細部にばかり拘り作品の生命を見抜けなかった未熟さ。懐かしさよりも恥ずかしさだけが胸を駆け巡った。清潔な描線、透明な色彩。なんて素晴らしい銅版画なのだろう。 先生の版画への情熱は九十歳を過ぎても衰えることはなかった。昨秋日本経済新聞社より刊行された『瑛九作品集』(*3)の編集者として私は先生の銅版画制作に再び関わることができた。病院のベッドで旧友瑛九に捧げた最後の銅版画「森の中の生物」に震える手でサインを書き入れて下さったのは亡くなる三週間程前だった。銅版画に始まり、そして銅版画で終わった先生との二〇年であった。
(わたぬきふじお)
難波田龍起追悼文集『翔』(1998年 3月 東京オペラシティ文化財団)より再録

*1『難波田龍起全版画作品集』1998年 7月・阿部出版刊
*2「現代版画センタ-」は会員制による現代版画の共同版元として1974年 創立、綿貫不二夫が代表をつとめたが1985年 2月倒産。
*3『瑛九作品集』1997年10月・日本経済新聞社刊

nambata_42_morinonaka難波田龍起
《森の中の生物》
1997  銅版(刷り:白井版画工房)
22.5×22.5cm
Ed.100 サインあり
*『瑛九作品集』特装版のために制作した最後の版画
※レゾネNo.144(阿部出版)


今日は難波田龍起先生の命日です。
1997年11月8日92歳でお亡くなりなったあと、追悼文集『翔』が編まれ、亭主も寄稿しました。
19780918ギャラリーミキモト 難波田展オープニング 松永健一
1978年9月18日
難波田龍起銅版画集『街と人』『海辺の詩』発表記念展オープニング

会場:銀座・ギャラリーミキモト
左から綿貫不二夫、松永伍一先生、難波田龍起先生、夫人の澄江さん

92歳で没した難波田先生には現代版画センタ-時代から版画を多数制作していただき、1995年6月の開廊記念展はじめ幾度も展覧会をしていただきました。
1995_06_05_03
難波田龍起展」1995年11月10日~11月19日
会場:青山・ときの忘れもの(一軒家時代)
左が難波田龍起先生

没後20年の記念展が、ゆかりの深い東京初台のオペラシティで開催されています。

収蔵品展 060 懐顧 難波田龍起
会期:2017年10月14日[土]~12月24日[日]
会場:東京オペラシティアートギャラリー
201709オペラシティ難波田展


20171013初台オペラシティ_01ご子息の難波田武男さんと社長
2017年10月13日開会式・レセプションにて

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左が、寺田コレクション創設者の寺田小太郎さん
(開会式にて)

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20171013初台オペラシティ_08


●同時開催

「単色のリズム 韓国の抽象」
会期:2017年10月14日[土]~12月24日[日]
会場:東京オペラシティアートギャラリー

●今日のお勧めは、難波田龍起詩画集『蒼』です。
nanbata_ao_00_表紙難波田龍起詩画集『蒼』
1981年
アトリエ・楡 発行
詩10編、版画12点
各作品に鉛筆サインあり
製版・刷り:木村茂
函サイズ:24.8x19.3cm
限定50部
限定番号入り


nanbata_ao_0_b_


nanbata_ao_1_b遠い地平線に
人のむれが
影絵のように
ゆらぐ


nanbata_ao_2_b境界線を
踏みこえて
漸く線がはしり
稲妻となる


nanbata_ao_3_b少年が手招きしている
少年のつくる輪は
空間に
無限にひろがる


nanbata_ao_4_b線は生きかえり
生命あるもののごとく
見えざる
形象をつくる


nanbata_ao_5_bこの世にはない
けがれなき
別の世界へ飛翔する
清浄無垢の裸身


nanbata_ao_6_b稲妻は消え
少年は
海の彼方へ
去ってゆく


nanbata_ao_7_b忘れていたわけではない
天然の摂理が
別離の悲しみを
忘れさせようとするのだ


nanbata_ao_8_b少年の海は平静にもどり
何ごともなかったように
太陽はかがやいている
おお 太陽の賛歌


nanbata_ao_9_b夕ぐれ時になっても
私の旅路は
終らない
未だ終らない


nanbata_ao_10_b画面には決定的な
最後の線をひこう
これは生きている
私のあかしである


nanbata_奥付奥付


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●ときの忘れものは、〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました(詳しくは6月5日及び6月16日のブログ参照)。
電話番号と営業時間が変わりました。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
営業時間=火曜~土曜の平日11時~18時。日・月・祝日は休廊。

JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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