西岡文彦「現代版画センターという景色」(全3回)

第3回 印刷メディアの記念碑性


 現代版画センターの機関誌「画譜」の表紙デザインは、刷師の写真をアレンジするのが通例となっていた。
 版画制作の黒子である刷師にスポットを当てたのは、版画作品と愛好者の媒介となることを志す版画センターの思想を投影してのことであったのだろう。刷師もまた、作家の思い描くビジョンを作品に定着させるための媒介となることを身上としているからである。おかげで、森義利の刷師として修業中だった私も第2号の表紙に起用される幸運に恵まれることになったのだが、将来になんの希望も見いだせなくなっていた職人見習いの身には、それこそ天にも昇る心地の大抜擢であった。
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現代版画センター機関誌『画譜』第2号(1974年9月1日発行)
表紙:西岡文彦

 この「画譜」がセンターの機関誌であったのに対して、機関紙として刊行されていたのが「版画センターニュース」で、前者は雑誌、後者は新聞の体裁をとっていた。この他にもセンターは、エディション作品のカタログや版画家の作品集等々の編纂と刊行に力を注いでおり、出版物を媒介にして美術家と愛好家のコミュニティをメディア上に形成するという先駆的な試みに取り組んでいた。
 じつは、前回の原稿で印象派の育ての親として紹介した画商デュラン=リュエルも同様の試みに取り組み、美術史上初めて出版物を活用したことで知られている。十九世紀当時、唯一のマスメディアとして急成長する印刷物の影響力に着眼したデュラン=リュエルは、詩人、作家、批評家らに寄稿を依頼し雑誌を創刊。カタログ、画集、画家伝等々の刊行にも力を注いでいる。こうした事業は膨大な経費と多大の労力を要し、戦乱や不況のたびに挫折せざるを得なかったが、画商は事業家である以前に愛好家であるべきとの信念から、彼は採算を度外視した出版事業に生涯にわたって情熱を傾けている。
 印象派等の新進画家のオークション開催にも熱心で、美術史上初の「個展」という発表形式を創案したのもデュラン=リュエルであった。画家の個性というものに着目した最初の画商が彼であり、画家の伝記を雑誌に連載したのもそうした思想を反映してのことであった。なかでも『落ち穂拾い』で有名なバルビゾン派の画家ミレーの伝記は有名で、雑誌連載後に単行本として刊行され今日まで読み継がれている。
 このミレー伝に感動して画家を志したオランダの若者がいた。
 牧師を志しながら、激烈過ぎる信仰からかえって思いを果たせず、神に破門されるようにして教会を追われたヴァン・ゴッホである。
 絶望に喘ぐ彼の手紙はミレー伝をしきりに引用しており、神の道に挫折して芸術を志したゴッホが、この書物を「聖書」としていた様子をしのばせる。
 画家の伝記を読んで作品の理解を深めることは、今日では一般的な習慣だが、画家の生涯に人々の関心を喚起した画商はデュラン=リュエル以前には存在していない。経済的なリスクを顧みずミレー伝を刊行した彼のこの情熱がなければ、ゴッホという画家も存在していなかったかも知れないのである。
 そんなデュラン=リュエルの情熱にも似た、熱き思いの結実を、センターの機関誌「画譜」や機関紙「版画センターニュース」にもまた見いだすことができる。作家、詩人、批評家、愛好家、そしてスタッフが思いを綴ったそれぞれの頁は、いわば「近代絵画センター」としてのデュラン=リュエル画廊に紡がれた夢を、現代日本に開花させようと奮闘した人々の名を刻んだ記念碑ともいえるだろう。加えて、それは一九八〇年代に広告・出版から演劇・美術までをリードした西武グループの文化戦略に先駆する「オウンド・メディア・マーケティング」の試みとしても、再評価を待つものといえる。
 オウンド・メディア・マーケティングowned media marketingとは、企業が出版や放送のメディア発信機能を所有し顧客に直接訴求するマーケティング手法のことで、八〇年代の西武の文化戦略はその典型的な成功例である。百貨店を中軸とする大手流通企業が出版社を開設、広報宣伝の域を超えた本格的な書籍や雑誌を刊行して、文化提言と生活提案を訴求する手法は、一見迂遠な印象とは対照的に、ひとたび成功すればきわめて長期的な需要を確保することになる。一時的な「流行」としての消費行動を喚起するのではなく、長期的な「文化」としての生活習慣を定着させることができるからである。
 この戦略が功を奏して西武グループも飛躍的な発展を遂げるが、オウンド・メディア・マーケティングは、メディア維持に要する経費と物販実績の因果関係が把握しにくいため、時として過剰な先行投資を招くという欠点を持っている。デュラン=リュエルも西武グループも、この点では一度ならず苦境に立たされている。
 そうした事情を一変させたのが、低廉なコストで情報発信のできるインターネットの登場であり、今世紀に入りオウンド・メディア・マーケティングが再び注目されているのはそのためである。ネットの普及した今日においては、実質的には大半の企業はオウンド・メディア・マーケティングを実践しているともいえる。
 デュラン=リュエルの偉大さは、印刷物という多大なコストを要するメディアの時代に、いち早くこの手法に挑んだ点にあり、七〇年代の版画センターや八〇年代の西武グループの試みもまた、その勇気の系譜に連なるものといえる。機関誌「画譜」は、まさにそうした勇気の記念碑として記憶されるべき出版物なのである。
 同誌の表紙に起用されたことは二十二歳の私にとっても、記念碑以外のなにものでもなかった。当時の私は、まさにドン底のようなところで生きていたからである。
 私の卒業した高校は公立校では全国初のバリケード封鎖に突入、在学期間の過半は討論と集会に費やされることになった。保守リベラルとでもいうべき独特の立ち位置にいた私は、覆面で街頭にデモに出るより素顔で教員や両親と向き合い、学校や家庭を「改革」していくことを主張したため、「革命」を叫ぶ全共闘グループから保守反動と切り捨てられたが、皮肉なことに保守派の学生や教員からは「過激派」の筆頭と目されていた。デモやバリケードを奨励していた「進歩派」教員が警察介入と同時に学生を置き去りにノンポリ化したことに憤った私は、一転して教員批判の先頭に立ったからである。やがて機動隊によるバリケード解除で学内は一挙に「平常化」。寒々としたキャンパスで、私は革新保守の両派から疎んじられる存在となった上に、長年続く家庭の紛糾が泥沼化し、卒業式直後には母親と夜逃げをせざるを得ない状況にまで追い込まれていた。
 当然ながら、正規の進学や就職の望みは断たれ、流れ流れてたどり着いたのが版画家森義利の内弟子という身分であった。森を師と仰いでの入門などではない。夜逃げした私と母の行方を探す父が出した捜索願のおかげで、まっとうな職が望めなくなっていた私を見かね、ある人が斡旋してくれた働き口であった。
 当時はまだ今日と違い、母子が駆け込めるシェルターのような厚生施設もなく、家長である父親が捜索願を提出すれば、母子共に公機関の捜索や追跡の対象となるしかない時代である。母親は面談即決のデパート地下の食品売場でパートで働き、私も履歴書不要の内弟子にでもなる以外、働き口など見つけようなどあるはずもなかった。
 もともと近代以前の奉公や徒弟制は、そうしたものだったのだろう。伝統技法の継承といえば聞こえはいいが、内弟子の実態は雑役夫であり下男のようなものでしかない。
 バリケードの中で討論に明け暮れた高校生活から一転、基本的人権も認められない徒弟となった私だったが、それでも二十歳前後までは気力の保ちようもあった。大学に進んだ学友に対して、先輩社会人としてのプライドのようなものは保てたからである。
 かつての全共闘グループの中には、臆面もなく推薦入試の手続を学校に依頼する者までがおり、そんな無節操な学友よりは自分の方が、高校時代に主張したことに整合した生き方をしているとの秘かな自負もあった。さすがに土方や百姓になる体力も気力もなかったが、職人という労働者階級の端くれとして生きていくのであれば、高校のバリケードで口にしたことを裏切らずにいられるように思えたからである。
 ところが、三年が経ち四年が経ち、かつての学友の就職や結婚を風の噂で耳にする頃になると、なんとも言いようのない焦燥にとらわれ始めた。いつまで経っても見習いの身分である上に、私の修業していた合羽刷(かっぱずり)は師匠である森義利以外は用いていない手法なので、学べば学ぶほど通常の就職は遠のいていったからである。修得した技術で受注できる仕事は、師匠の作品の刷り以外には存在しないのである。
 深夜、自分の行く末を思えば朝まで眠れず、仕事の帰りに便所を借りに勝手に入った雑居ビルの屋上で、手すりもないビルの縁に立ち街路をずっと見下ろしている自分がいた。そんな二十二歳の私が出会ったのが、現代版画センターであり綿貫不二夫氏であった。センターのすべてが、光り輝いて映ったのも無理はない。
 高校のバリケードで耳にした全共闘の声高な革命理論は、唱えた学生自身の無節操な転身によって虚ろな残響と化し、私自身もかつて唱えた改革とはほど遠い前近代的な雇用形態の中で肉体労働に呻吟し続けていた。お金というものが、涙と引き換えにしか手に入らぬことも、ようやく知るに至っていた。
 センターで目にしたのは、そんなお金が、作家に投ずる一票にも似た意思表示になり得るという希望に満ちた現実であった。それは、美術を介した直接民主主義の試みであり、文字通り血涙を絞るようにして得たわずかな金銭が、巨大な夢の実現の糧ともなり得るという、壮大にしてきわめて現実的なビジョンとの出会いでもあった。
 実際のところ、この18年後の1992年、約百国の国家元首がリオ・デ・ジャネイロに集った史上初にしておそらくは最後の国連地球環境サミット会議開催の資金基盤は、センターの試みそのままに版画の収益によって整えられることになった。米国の美術家R・ラウシェンバーグ氏の呼びかけに応え、彼の版画の販売で得た収益が資金調達の端緒となっているからである。サミットで各国元首を筆頭に会議スタッフに配布された和英併記の記念論文集の表紙を、ラウシェンバーグ氏と共に私が飾らせて頂いたのも、その縁あってのことである。思えば、このリオでの僥倖へと至る私の足どりの、記念すべき第一歩が踏み出されたのが、他でもない「画譜」の表紙であった。
 私の手元には、この表紙に用いた写真の紙焼きが残されている。
 便所もない四畳半の安アパートの畳に新聞紙を敷き、二十二歳の私が刷りに励んでいる写真である。裸電球の下、合羽刷に用いる型紙が洗濯物のように吊るされ、がらくたのように染料や絵の具の器が室内に散乱している。
 すべては、この薄汚れた部屋を綿貫氏が訪ねて来てくれた時から始まったのである。
にしおか ふみひこ
写真
「画譜」第2号(1974年9月1日発行)表紙用写真
記念論文集
国連地球環境サミット記念論文集(1992年6月1日発行)の表紙デザイン サミット議長モーリス・ストロング、福岡正信、竹下登ら錚々たる執筆陣による和英併記の論文集で、英文横組側の表紙(右)はラウシェンバーグ作品、和文縦組側の表紙(左)は筆者の作品を装画としている。
サミット新聞
国連地球環境サミット公式新聞 EARTH SUMMIT TIMES(1992年6月14日号)より 会議に参加した国家元首約百名の集合写真 同紙は筆者が企画委員をつとめるNGO「京都フォーラム」と米国の「エコファンド」基金および「ニューヨークタイムス」との提携により刊行。このサミットの成功が「京都議定書」への道を開いた。ロゴ・デザインは筆者。

*現代版画センターという景色・第1回 オークションの先駆性(1月24日ブログ)
*現代版画センターという景色・第2回 エディションの革新性(2月14日ブログ)

西岡文彦(にしおかふみひこ)
1952(昭和27)年生まれ。多摩美術大学教授/伝統版画家 
柳宗悦門下の版画家森義利に入門、伝統技法「合羽刷」を徒弟制にて修得。雑誌『遊』(工作舎)の表紙絵担当を機に、出版・広告の分野でも活躍。ジャパネスクというコンセプトの提唱者として知られる。
美術書の編集を経て、著書『絵画の読み方』(宝島社)で内外に先駆け名画の謎解きブームをひらく。
『謎解きゴッホ』(河出書房新社)、『名画の暗号』(角川書店)、『ピカソは本当に偉いのか?』(新潮社)、『恋愛美術館』(朝日出版社)、『絶頂美術館』(マガジンハウス)等、著書多数。「日曜美術館」、「世界一受けたい授業」、「笑っていいとも!」、「芸術に恋して」、「たけしの誰でもピカソ」、「タモリ倶楽部」等々、テレビ番組の企画出演も多い。日本版画協会新人賞(’77)、国展新人賞(’78)、リュブリアナ国際版画ビエンナーレ50周年記念展(’05)招待出品。

◆埼玉県立近代美術館で「版画の景色 現代版画センターの軌跡」展が開催されています。現代版画センターと「ときの忘れもの」についてはコチラをお読みください。
詳細な記録を収録した4分冊からなるカタログは、ときの忘れもので扱っています。
会期:2018年1月16日(火)~3月25日(日)
埼玉チラシAY-O600現代版画センターは会員制による共同版元として1974年~1985年までの11年間に約80作家、700点のエディションを発表し、全国各地で展覧会、頒布会、オークション、講演会等を開催しました。本展では45作家、約280点の作品と、機関誌等の資料、会場内に設置した三つのスライド画像によりその全軌跡を辿ります。

【トークイベント】ウォーホルの版画ができるまで―現代版画センターの軌跡
日時:3月18日 (日) 14:00~16:30
第1部:西岡文彦 氏(伝統版画家 多摩美術大学教授)、聞き手:梅津元(当館学芸員)
第2部:石田了一 氏(刷師 石田了一工房主宰)、聞き手:西岡文彦 氏
場所:2階講堂
定員:100名 (当日先着順)/費用:無料
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○<昨日はプールでくたくたの中気合いで埼玉県立近代美術館行って版画たくさん見れた。しかもすぐ近くにユニオンあって笑、きいた気になってるロック名盤を買い漁った。
(20180311/おわんたすさんのtwitterより)>

○<#埼玉県立近代美術館 「版画の景色」展へ。250点を超える展示は圧巻。建築家磯崎新さんのリトグラフは初見だったのですが、とてもかっこよかったです。大谷石採石場でのウォーホル展の模様とかの展示もありとても楽しめました。この時代の版画をもっと知りたくなりました。3/25迄 #Bura_Bi_Now
(20180312/すぱこさんのtwitterより)>
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西岡文彦さんの連載エッセイ「現代版画センターという景色は1月24日、2月14日、3月14日の全3回掲載しました。
第1回 オークションの先駆性(1月24日掲載)
第2回 エディションの革新性(2月14日掲載)
第3回 印刷メディアの記念碑性(3月14日掲載)
草創期の現代版画センターに参加された西岡さんが3月18日14時半~トークイベント「ウォーホルの版画ができるまでー現代版画センターの軌跡」に講師として登壇されます。

光嶋裕介さんのエッセイ「身近な芸術としての版画について(1月28日ブログ)

荒井由泰さんのエッセイ「版画の景色―現代版画センターの軌跡展を見て(1月31日ブログ)

スタッフたちが見た「版画の景色」(2月4日ブログ)

倉垣光孝さんと浪漫堂のポスター(2月8日ブログ)

嶋﨑吉信さんのエッセイ~「紙にインクがのっている」その先のこと(2月12日ブログ)

大谷省吾さんのエッセイ~「版画の景色-現代版画センターの軌跡」はなぜ必見の展覧会なのか(2月16日ブログ)

植田実さんのエッセイ「美術展のおこぼれ 第47回(3月4日ブログ)

土渕信彦さんのエッセイ<埼玉県立近代美術館「版画の景色ー現代版画センターの軌跡」展を見て(3月8日ブログ)

現代版画センターに参加した刷り師たち(3月11日ブログ)

現代版画センターの生みの親 井上房一郎と久保貞次郎(3月13日ブログ)

塩野哲也さんの編集思考室シオング発行のWEBマガジン[ Colla:J(コラージ)]2018 2月号が展覧会を取材し、87~95ページにかけて特集しています。

毎日新聞2月7日夕刊の美術欄で「版画の景色 現代版画センターの軌跡」展が紹介されました。執筆は永田晶子さん、見出しは<「志」追った運動体>。

○3月4日のNHK日曜美術館のアートシーンで紹介されました。

朝日新聞3月13日夕刊の美術欄で「版画の景色 現代版画センターの軌跡」展が紹介されました。執筆は小川雪さん、見出は<版画に込めた情熱と実験精神>。

○月刊誌『建築ジャーナル』2018年3月号43ページに特集が組まれ、見出しは<運動体としての版画表現 時代を疾走した「現代版画センター」を検証する>。

○埼玉県立近代美術館の広報誌 ソカロ87号1983年のウォーホル全国展が紹介されています。

○同じく、同館の広報誌ソカロ88号には栗原敦さん(実践女子大学名誉教授)の特別寄稿「現代版画センター運動の傍らでー運動のはるかな精神について」が掲載されています。
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現代版画センターエディションNo.390 山口勝弘「静かな昇天」
現代版画センターのエディション作品を展覧会が終了する3月25日まで毎日ご紹介します。
20180314山口勝弘
「静かな昇天」
1981年
シルクスクリーン(刷り:岡部徳三)
Image size: 54.5×36.0cm
Sheet size: 63.0×49.0cm
Ed.50
*山口勝弘シルクスクリーン版画集『ANTHOLOGICAL PRINTS 1954-1981』収録
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

パンフレット_05
出品作家45名:靉嘔/安藤忠雄 /飯田善国/磯崎新/一原有徳/アンディ・ウォーホル/内間安瑆/瑛九/大沢昌助/岡本信治郎/小田襄/小野具定/オノサト・トシノブ/柏原えつとむ/加藤清之/加山又造/北川民次/木村光佑/木村茂/木村利三郎/草間彌生/駒井哲郎/島州一/菅井汲/澄川喜一/関根伸夫/高橋雅之/高柳裕/戸張孤雁/難波田龍起/野田哲也/林芳史/藤江民/舟越保武/堀浩哉 /堀内正和/本田眞吾/松本旻/宮脇愛子/ジョナス・メカス/元永定正/柳澤紀子/山口勝弘/吉田克朗/吉原英雄

◆ときの忘れものは「植田正治写真展ー光と陰の世界ーPart Ⅱ」を開催しています。
会期:2018年3月13日[火]―3月31日[土] 11:00-19:00
※日・月・祝日休廊(但し3月25日[日]は開廊
昨年5月に開催した「Part I」に続き、1970年代~80年代に制作された大判のカラー作品や新発掘のポラロイド写真など約20点をご覧いただきます。
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●書籍・カタログのご案内
表紙植田正治写真展―光と陰の世界―Part II』図録
2018年3月8日刊行
ときの忘れもの 発行
24ページ
B5判変形
図版18点
執筆:金子隆一(写真史家)
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
価格:800円(税込)※送料別途250円

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植田正治写真展―光と陰の世界―Part I』図録
2017年
ときの忘れもの 発行
36ページ
B5判
図版33点
執筆:金子隆一(写真史家)
デザイン:北澤敏彦(DIX-HOUSE)
価格:800円(税込)※送料別途250円


◆ときの忘れもののブログは下記の皆さんのエッセイを連載しています。
 ・大竹昭子のエッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。
 ・frgmメンバーによるエッセイ「ルリユール 書物への偏愛」は毎月3日の更新です。
 ・小国貴司のエッセイ「かけだし本屋・駒込日記」は毎月5日の更新です。
 ・佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」は毎月7日の更新です。
 ・杉山幸一郎のエッセイ「幸せにみちたくうかんを求めて」は毎月10日の更新です。
 ・野口琢郎のエッセイ「京都西陣から」は毎月15日の更新です。
 ・小林紀晴のエッセイ「TOKYO NETURE PHOTOGRAPHY」は毎月19日の更新です。
 ・小林美香のエッセイ「写真集と絵本のブックレビュー」は毎月25日の更新です。
 ・スタッフSの「海外ネットサーフィン」は毎月26日の更新です。
 ・新連載・西岡文彦のエッセイ「現代版画センターの景色」は全三回、1月24日、2月14日、3月14日に掲載しました。
 ・笹沼俊樹のエッセイ「現代美術コレクターの独り言」はしばらく休載します。
 ・大野幸のエッセイ<ときの忘れもの・拾遺 ギャラリーコンサート>は随時更新します。
 ・植田実のエッセイ「美術展のおこぼれ」は、更新は随時行います。
  同じく植田実のエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」と合わせお読みください。
  「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。
 ・中村茉貴のエッセイ「美術館に瑛九を観に行く」は随時更新します。
 ・飯沢耕太郎のエッセイ「日本の写真家たち」英文版とともに随時更新します。
 ・深野一朗のエッセイは随時更新します。
 ・「久保エディション」(現代版画のパトロン久保貞次郎)は随時更新します。
 ・清家克久のエッセイ「瀧口修造を求めて」は終了しました。
 ・関根伸夫のエッセイ「〈発想〉について[再録]」は終了しました。
 ・倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」は終了しました。
 ・森本悟郎のエッセイ「その後」は終了しました。
 ・藤本貴子のエッセイ「建築圏外通信」は終了しました。
 ・森下隆のエッセイ「鎌鼬美術館——秋田県羽後町田代に開館」は終了しました。
 ・芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は終了しました。
 ・夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」は終了しました。
 ・普後均のエッセイ「写真という海」は終了しました。
 ・八束はじめ・彦坂裕のエッセイ「建築家のドローイング」(再録)は終了しました。
 ・石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」は終了しました(時々番外編あり)。
 ・荒井由泰のエッセイ「いとしの国ブータン紀行」は終了しました。
 ・森下泰輔のエッセイ「戦後・現代美術事件簿」は終了しました。
 ・「殿敷侃の遺したもの」はゆかりの方々のエッセイや資料を随時紹介します。
 ・「オノサト・トシノブの世界」は円を描き続けた作家の生涯と作品を関係資料や評論によって紹介します。
 ・「瀧口修造の世界」は造形作家としての瀧口の軌跡と作品をテキストや資料によって紹介します。
土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」、「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。
 ・「関根伸夫ともの派」はロスアンゼルスで制作を続ける関根伸夫と「もの派」について作品や資料によって紹介します。
 ・「現代版画センターの記録」は随時更新します。
今までのバックナンバーの一部はホームページに転載しています。

●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
20170707_abe06新天地の駒込界隈についてはWEBマガジン<コラージ12月号>をお読みください。18~24頁にときの忘れものが特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。