井上房一郎先生 生誕120年にあたって

熊倉浩靖



 2011年の夏、みやま文庫から『井上房一郎・人と功績』を上梓することができた。その時、あと7年で先生生誕120年を迎える、何かを準備しなければと思いながら、何もできないままに2018年5月13日を迎えてしまった。自らの不覚を恥じるばかりだが、生誕120年という歳のめぐりは特別の意味を持つ。生まれた歳の干支が二巡した歳だからだ。
井上房一郎幼年
井上房一郎7歳(左端)

 思えば、井上先生は戌歳生まれを、思いのほか強く意識されていた。犬を散歩に連れ歩くことはなかったが、お宅には犬がつながれていて、いつも犬のことを気にしていた。
 ぼくは小学校も高校も先生の後輩に当たり、通っていた小学校は、道を挟んで先生の邸宅に面していた。先生のお宅にボールを打ち込む猛者もいた。そうなると一大事である。「あそこには大きな犬がいて、ボールは返してもらえない。入った子も行方知れずとなる」。そんな噂が流れていた。万事休すである。だから、小学生時代、先生のお宅に入ることはなかったが、実は、井上先生の出発点は、この高崎市立南小学校にある。
 よく知られるようになったが、先生は、小学校入学の前年、御母堂「戸ウ(こう)」様を亡くされている。晩年、先生ほどの人が度々こう言われた。「ぼくはかわいそうな子だった。おとっちぁんは仕事ばかりで家にはいない。おっかさんは、学校に入る前に亡くなっちゃった。だから、ぼくの関心は外へ向かっていった」。
 先生が亡き御母堂のことをずっと意識していたことは、先生が群馬県立近代美術館の開設のために集め寄贈されたコレクションが「戸方(こほう)庵コレクション」であることからも分かる。「戸方」は、房一郎の「房」を分解したもので、考えれば、父君・保三郎翁が戸ウ様との間に出来た長男ゆえに付けられた名前に由来するが、母・戸ウへの想いを強く持ち続けたことは確かだ。
 傷心の房一郎少年が入学したのが家の近くの南尋常小学校だった。1905年(明治38)のことである。先生は、南小の出身であることを誇りに思っておられ、親友中の親友は、南小から高中(現・高崎高校)に共に進んだ真木病院創設者・真木武次先生だった。南小や高々のことで何か気になることがあると、「真木君の意見はどうか」と、伝令に遣わされたことを思い出す。
 また、南小学校創立120年の座談会には浮き浮きと出て行かれ、ぼくに「君も卒業生だろ」と時折言って下さった。南小学校に残されていた学籍簿によれば、先生は非常に優秀な成績だったらしい。(ぼく自身は学籍簿を拝見していない。南小学校教頭に赴任された先輩からの伝聞である)
 先生と南小学校の再会は、高崎中学校を出て上京(父・保三郎は早稲田大学進学の手続きをしたが、先生は校門さえくぐらず、東京美術学校・音楽学校(現・東京藝術大学)の友人たちと芸術活動にのめり込んでいた)、最先端の芸術活動を故郷に持ち帰る過程で生まれる。大正10(1921)年頃のことである。


 先生には生涯の師と言える存在があった。画家の山本鼎(1882~1946)である。
 山本鼎は御存知の方が多いだろうが、1912年(明治45)渡仏。帰路のモスクワ滞在中に「児童の自由画奨励と農民美術の建業を使命と感じ」、1919年(大正8)、長野県小県郡神川村(現・上田市)神川小学校で第1回児童画展覧会を開き、「日本農民美術研究所」を開設する。
 その山本鼎のアトリエが、井上家の軽井沢・星野温泉の別荘(長野県北佐久郡沓掛村、現・軽井沢町中軽井沢)に隣接して建てられた。先生ご自身の述懐によれば、「夏に別荘に行って山本先生と出会い、すぐに心がつながった」。山本のアトリエは、当時、原合名会社富岡製糸場の場長だった大久保佐一(画家・大久保泰の父)から贈られたもので、その縁故で、先生の母・戸ウの実家・青木家との縁続きの富岡町長・古澤小三郎の肖像(富岡市蔵)を山本が描いていたことも、先生との縁を深めたものとみられる。
 先生は山本鼎の理想と実践にたちまちのうちに共鳴していく。そして先生23歳の冬(1921年[大正10年2月])、山本鼎らを招いて高崎市公会堂で自由画教育の展覧会と講演会を開催する。しかし生沢英二「群馬県児童自由画展覧会」(『芸術自由教育』大正10年4月号)によれば、募集要項にクロポトキンの教育論が引用されていたことから県学務課の介入があり、全県に呼びかけたものの出展は高崎市内小学校だけとなった。それでも、9,000枚近い出展と5,000人近い観衆が集まった。最初の国勢調査が行われた大正9年の高崎市人口は36,792人だから、これは凄い数値である。
 しかし、県学務課の圧力に教師たちはすくんでしまう。積極的に参加した学校の先生は「たった一人」だった。その教師とは南尋常小学校代用教員・森銑三(1895~1985)である。南小学校と先生との再会である。しかし、この再会はつかの間のものだった。
 森は、江戸文学研究の第一人者として後に東京大学史料編纂所を経て早稲田大学で書誌学を講じた人物だった。この展覧会への関わりや童謡投稿誌『小さな星』をめぐる校長との対立などで、展覧会後の1922年(大正11年3月)、免職されてしまう。先生は、事情が呑み込めないまま1923年(大正12年2月)パリに旅立つ。森との親交が再開されるのはフランスからの帰国後である。
 先生がパリに行けたのも山本鼎の助力による。後年、先生は哲学堂設立の会の会報に次のように記している(『よろこばしき知識』1982年1月号)。

 <先生は私にパリ留学を進め、何かとお世話下さいました。……そのご厚情が、私の思想形成の基礎を形作った程です。しかし当時から私は、私にパリ留学を進められた先生のお気持ちがいまひとつ掴めきれないままでしたが、藤本韶三さんの随想「追想・山本鼎先生」(日動画廊『絵』1982年正月号)を読んですべてがわかってきました。…藤本さんは、当時の先生のお気持ちを、先生のご本『美術家の欠伸(あくび)』(1921年[大正10]アルス刊)から、次のように引用しています。「僕の成績は、パトロンや友人に対して申訳のない程ポープルだ―でも、たった一とつ自分は留学の間にはっきりした信念を掴む事が出来た。それは即ち、リアリズムの信念だ―これさえあれば、自分の生はきっと正しく強く支持される」という自信であった。(中略)
山本先生は、多分、御自身が、絵の勉強とフランスの社会からリアリズムを学ばれたように、私も何か必ず掴んでくると考えて、私をパリに留学させたのだということがわかりました。私は、改めて先生にパリに留学させていただいたお礼を申し述べると共に、先生が得られたリアリズムという思想を一つ進めて、自我の認識と表現、手段(科学性、合理性)の連鎖を獲得できたことをご報告できると思います。それは、先生に対する真のお礼であり、同時に期待に応えることができたひとつの自信でもあります。>
鹿島丸房一郎
鹿島丸船上の井上房一郎(後列左から二人目)
1923年パリ留学

 ここからは推測なのだが、山本鼎は、保三郎翁に対して「パリに行かしてごらんなさい。そうすれば、自分の力が分かる。ぼくも、自信があったが、やはり帰国して、上田で細々と農民美術なんかをやっている。房一郎君も自分の力と立場が分かって帰国し、あなたのお仕事の一翼を担うに違いない。彼の周りはぼくの友人たちが支えるから、安心してほしい。」というような説得をしたのではないか。
 そして実際そうなっていったことは、帰国してからの一連の文化活動に明らかだが、保三郎と房一郎の関係は連続・重層したものだった。人が暮し産業が持続的に発展できる礎となる社会インフラを保三郎が形成し、その上に、房一郎が地にしっかりと根を張りながら世界水準であり続ける文化の華を咲かせ続けた。このことを山本鼎は見抜いていたのだろう。
 先生自身も、常にこう言っていた。「画家として生きてもセザンヌやピカソを超えられなかっただろう。でも帰国し故郷に足を置くことで、ぼくは、社会というキャンバスに工芸、オーケストラ、近代美術館、哲学堂という4枚の絵を描き続けることができた」


 その先生について、もう一つ強調しておきたいのは、先生の人を見る眼である。このことは、メルロ=ポンティの『眼と精神』になぞらえて、黒田亮子先生(国立美術館監事、元・群馬県立館林美術館長)が先生生誕100周年記念展覧会「パトロンと芸術家―井上房一郎の世界―」の図録に「井上房一郎の眼と精神」と題して書き尽くされているが、先生が「発見」した人々の一端を示すだけでも、先生の人を見る眼の確かさが分かる。
 最たる例は山田かまち(1960~1977)の「発見」だが、実は先生はかまちには一回しか会っていない。それもかまちが小学校3年生の時である。かまちの美術の教師であった竹内俊雄からかまちの絵を見せられ、その才能に驚いた先生が、かまちを自宅に呼び、好きな画集を選ばせ日舞まで踊って見せた。破格のもてなしである。それを、小学校3年生の児童にしたというのだから、かまちの才能と人格を全面的に認めてのことである。残念ながら、ぼくは、その現場に立ち会えなかったが、先生が、かまちの突然の事故死の後、彼の展覧会を開くにあたっての紹介文の下書きをさせていただけたことは、まことにありがたい限りであり、かまちの顕彰に今後も尽くしたい。
 加えれば、まずは哲学者・梅原猛(1925~)。梅原は、仏教学者・増谷文雄(1902~1987)から先生に紹介され第2回の高崎哲学堂講演会(1969年[昭和44]4月)の講師になったが、その時、梅原はまだ40代。その後、哲学堂の講演会に訪れること40回ほど。梅原日本学と称される卓越した論説は哲学堂講演会の場で市民に話しかけることから磨き上げられていった。その現場に立ち会い続けられたことは無上の喜びであり、その学恩に少しでも報いたいと思う。
 次に建築家・磯崎新(1931~)。磯崎の代表作である、わが群馬県立近代美術館の設計者に先生が抜擢された時、磯崎は30代だった。磯崎との出会いは、鎌倉近代美術館館長・土方定一(1904~1980)の紹介によるが、群馬県明治100年事業の目玉を無名に近い建築家に委ねたわけだ。
 第三に歌舞伎俳優・坂東玉三郎(1950~)。先生が玉三郎の初代後援会長であることはよく知られているが、玉三郎を見初めたのは、坂東しうかと言っていた10代半ばである。その時すでに史上最高の女形になると見抜いて後援をし続けたのだから畏れいる。お蔭でぼくも20代から玉三郎の舞台をずっと拝見させていただいた。眼福の至りである。
fusainoue
晩年の井上房一郎


 最後に先生とぼくの関係を書かせていただきたい。
 先生に初めてお会いしたのは、多くの高々(タカタカ=高崎高校)生同様、高々に進学して直後である。毎朝、ぼくたちよりも早くから高々校門付近に居られて庭の薔薇の手入れをされていた。先生が自ら土を作られ薔薇を植えられ日々手入れをされていた。その傍ら、後輩たちを観ておられた。ぼくらが挨拶をする。何度か目が合い、言葉を交わすうちに、お宅にお招きいただいた。そこで、小学校時分の「犬の家」が先生のお宅だったことを知る。
 「犬の家」の体験を持っていることで、先生が大先輩であることを知る。やがて家族の話から先生の家とぼくの家、正しくは母方の家とは浅からぬ縁のあることを知った。母方の曽祖父が先生のおじいさまを主役とするご伝馬事件の連座者であることや、母の一番上の姉が先生のお姉さまに親しくしていただいていたことなどを知っていく。先生は、そのことをほとんど話されなかったし、ぼくからも、そのことは話さなかったが、先生の奥様は、ぼくを「○○のお孫さんね」と言って、大変親しく扱って下さった。
 やがて、ぼくは哲学堂の常連と言うか高校生側のお手伝いの中心となれたが、大学進学後、学生運動に没入し、家族ばかりか先生にも大変な心配をおかけすることになる。漸く学生運動から足を抜き、故郷に帰って来て、先生と再会した。先生は、運動への没入を非難、追及されなかった。むしろ暖かく受け入れて下さり、お手伝いをさせていただけることになった。
 それ以降の哲学堂のお手伝いについては知っておられる方も多いだろうが、先生は、親しい人には、「ぼくもフランスでデモに参加してパリの警察に拘留されたが、この子は本当に逮捕されたんだよ。ぼくは一晩で返されたけど、この子はかなり長く拘留されたんだ。同じような経験の持ち主でね。それで、ぼくの助手なんだ」と、ぼくを紹介して下さった。
 その恩義にお応えするよう精進を重ねること。それが、先生生誕120年に当たってのぼくのささやかな志である。
くまくら ひろやす

熊倉浩靖(くまくら ひろやす)
1953年(昭和28)高崎市あら町に生まれる。高崎高校在学中から井上房一郎の薫陶を受け京都大学理学部に進学するも学生運動にのめり込み中退。帰郷、井上の元で高崎哲学堂設立運動に参加し「助手」と呼ばれる。井上没後、哲学堂運動を継承すると共に民間シンクタンクを経て特定非営利活動法人NPOぐんまを設立。その間、尾崎喜左雄、上田正昭、梅原猛、源了圓、福永光司、玉野井芳郎などに師事し東国古代史、内発的発展論、基礎自治体行政評価の研究に従事。群馬県立女子大学教授を経て、現在は高崎商科大学特任教授、群馬テレビアドバイザー、(特非)NPOぐんま理事、EA21地域事務局群馬責任者を務める。
井上房一郎・人と功績
熊倉浩靖著『井上房一郎・人と功績
2011年7月 みやま文庫刊
ブログでの紹介その1
その2
その3

併せて「評伝・井上房一郎―都市文化を創り続けた男の物語― 」もお読みください。


パトロンと芸術家
パトロンと芸術家ー井上房一郎の世界ー』展図録
会期:1998年9月19日~11月3日
主催:群馬県立近代美術館、高崎市美術館
目次:
3|あいさつ
5|Foreword
8|井上房一郎論序説/熊倉浩靖
14|井上房一郎をめぐる人びと-大正~昭和前期-/山口昌男
20|ミラテスの終焉まで/水原徳言
28|高崎とアントニン・レーモンド/三沢 浩
34|井上房一郎の眼と精神/黒田亮子
41|第Ⅰ部 山本鼎とパリ留学
55|第Ⅱ部 ミラテスの時代
73|第Ⅲ部 群馬音楽センターとアントニン・レーモンド
87|第Ⅳ部 井上房一郎の眼と精神
121|井上房一郎をめぐって、あるいは「視線の快楽」をこえて
  /対論 磯崎 新山口昌男
129|井上房一郎関係年譜
140|資料1 ファンデーション・ギャラリー出品目録
154|資料2 高崎哲学堂講演会一覧
167|井上房一郎関連文献
167|作家略歴
173|出品作品リスト


戸方庵井コレクション名品展
群馬県立近代美術館所蔵
戸方庵井上コレクション名品展ー嗚呼 しづかなる墨ー』図録
会期:2006年11月25日~2007年1月14日
主催:板橋区立美術館
テキスト:山田烈


20180515_市民の手に哲学をI
市民の手に哲学を Ⅰ
1979年 
発行:高崎哲学堂設立準備会
著者:井上房一郎、今西錦司、
伊藤俊太郎、木田元、福永光司、
梅原猛、安永寿延、市井三郎、
生松敬三、針生一郎、木村尚三郎、
武者公路公秀、菊地昌典


20180515_近世日本の哲学
『近世日本の哲学』
1984年 
編者:高崎哲学堂設立の会
(理事長:井上房一郎)
発行:あさを社
著者:井上房一郎、安永寿延、
芳賀徹、柳沢南、佐藤健二、
茜史朗、


*画廊亭主敬白
いま森美術館で開催中の「建築の日本展」には井上房一郎さんが庇護し共に工芸運動を展開したブルーノ・タウトをはじめ、アントニン・レーモンド磯崎新の建築作品が出品されています。わが国初の地方オーケストラ・群馬交響楽団の創設に尽くし、高崎を音楽、美術、哲学の町にしたいと願った井上さんが亡くなってはや25年、昨日5月13日が生誕120年の記念すべき日でした。
このブログをお読みの方は亭主が高崎高校時代にマンドリンにのめり込み(TMO 高崎高校マンドリン・オーケストラ)、毎日新聞社時代に突然版画の普及事業を企画し(亭主の画商人生事始)、現代版画センターを創立するにいたったことはご存知と思います。無謀な企ての数々が何とか形になったのは、すべて井上房一郎という後ろ盾があったからです。
2007_TMO
高崎高校マンドリンオーケストラ定期演奏会
(アントニン・レーモンド設計:群馬音楽センター)

亭主のほかにも井上さんが面倒を見た若者はごまんとおりました。
「文化のパトロン」と呼ばれる人は少なくありませんが、井上さんほど掲げた理想を10代の少年たちに語り続けた人はいないでしょう。
山田かまちは高崎高校在学中、エレキギターの練習中に感電死しますが、没後井上さんが市内の画廊で遺作展を開催し、やがて全国的なブームを呼びおこしました。かまちの小学校中学校の同級生に氷室京介松井恒松がおり彼らは同じ高崎生まれの布袋寅泰と1981年にロックバンドBOOWY(ボウイ)を結成したことは良く知られています(1987年解散)。かまちと氷室、松井の小学校の恩師で新島学園では布袋に美術を教えたのが上掲の竹内俊雄でした。時代に先駆けた若い才能が同じ空間から出現した不思議さに心打たれます。
熊倉浩靖さんは高崎高校の後輩で、井上さんの側近として晩年まで仕えた人でした。実業家として、また文化運動のリーダーとしての井上さんを最もよく知る人です。
生誕120年をささやかに祝したいと考え、執筆を依頼した次第です。
熊倉さんが、そして亭主も頻繁に通った高崎の「犬の家」井上房一郎邸はアントニン・レーモンドの麻布笄町の自邸(現存せず)を模して作られた、今ではレーモンド建築の粋を伝える名建築です。

6月23日(土)に熊倉さん、塚越潤(高崎市美術館館長)さんを講師に<井上房一郎邸の見学会(高崎レーモンド建築ツー)>を開催します。どうぞご参加ください(詳しくは「お名前」「連絡先(住所)」を明記してメールにてお問い合わせください)。
inoue_house1952年竣工の旧井上房一郎邸
画像は高崎市役所ホームページより。
1961年竣工の群馬音楽センター、1991年開館の高崎市美術館を見学し、明治14年(1881年)創業の魚仲で会食を予定しています。
このブログに<井上房一郎さんのこと>というカテゴリーをつくったのは、微力ながら井上さんの功績を後世に伝えて行きたいと考えるからです。

●ご紹介するのは埼玉県立近代美術館の「版画の景色 現代版画センターの軌跡」展に展示された磯崎新先生の巨大な版画作品で、群馬県立近代美術館がモチーフです。
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磯崎新)「空洞としての美術館 I」
1977年 シルクスクリーン、ドローイング、カンヴァス、パネル、木(刷り:石田了一)
110.0×480.0cm
Ed.5(実際に制作したのは2部、うち1部は第14回サンパウロ・ビエンナーレに出品後破棄されたと思われる。現存は1部のみ)
*現代版画センターエディション

●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18~24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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