鈴木素直「瑛九・鈔」
第3回 一枚の写真の現実 二十回忌に思う
瑛九が逝 って二十年すぎたいま、私は彼のことばと彼を育てた風景と人とを思う。
写真は一九三九年(昭和十四年)のもの。見覚えのある旧橘橋と下流の本町橋も見え、 大淀川の生きた姿がある。やがて、第二次世界大戦が始まり、国内では日支事変下、各種統制令が公布されている。こうした緊迫した不安な社会に逆らうがごとく、瑛九は中国と 日本の古典の世界に没入し、酔っては羽織はかまにステッキという姿でちまたに奇態を演 じていた。
そこへ群馬県桐生の友人小野里利信が瑛九を訪ねて来て、若い二人はーツ葉浜や西都原 を歩き、宮崎高農(現宮大農学部)内や大淀川べりで写生した。写真の画家はその時の小野里である。彼は今や日本を代表する画家の一人として「オノザトトシノブ」の名とモザイク風な版画とで知られている。当時「生きていた川」だった大淀川が「死の川」となりつつある現状に似て、彼が描いたこの天神山らしき風景画はその行方がわからない。
昭和14年の大淀川風景 人物は小野里利信画伯
(井之口希秀氏撮影)
「このもようは同じように見えても実は一波ごとに違っていてバッハの音楽のようだ」 (同人誌「龍舌蘭」一九三九年十月号に発表した北尾淳一郎「ーツ葉浜」文中の瑛九のことば)と語ったーツ葉浜もすっかり変わった。この日向灘の潮さいもやがて自然のしっぺ返しの音響に変容して、大淀川の足もとをおびやかす事態を引き起こすことだろう。
さきの北尾氏は、創立以来一九四〇年三月まで前述した宮崎高農で教べんをとった動物 学者である。その宮崎高農のユニークな伝統と貴重な緑陰も大学移転で消滅してしまうの だろうか。彼は瑛九の芸術の最初の理解者であり、前衛写真家でもあった。一九三七年東京で開いた「瑛九フォトデッサン・北尾淳一郎レアルフォト合同展」は、同年六月号の 「アトリエ」誌上に瑛九が発表した作品と論文「現実について」とともに日本芸術史上、記念すべきものだった。この論文は、いま読んでもかなり挑戦的にみえるが、わかりやすい含蓄のある内容のものである。その中で彼は、「最も時代的な精神は最もすぐれた知性をもつものと最も単純な生活とにあり」ミルクホールのおかみさんや散髪屋の親方の実話をあげながら、「単純な生活人は知性の実体を無意識な生き方の上で感得している」と述べている。そして「芸術家が単純な生活人の感得だけではすまされないのは、彼には表現しなければならぬ一事があるからだ」と言う。まことに簡明な言い方で、ことの本質を突いている。芸術理解の現実と自分の立場を言ったのであるが、四十二年後の今、現実を見る時、このことばは、芸術に限らず現実について考える時、生きているし、生かさねばならぬと思う。
たとえば、さきの大淀川、ーツ葉浜、宮崎高農など、県民に親しまれ瑛九が愛したものの様相や変容を、私たちは最も時代的な精神でとらえているのだろうか。表現しなければ ならぬ芸術家は現実をどう描いているのだろうか。時の流れを傍観していていいはずがない。私は、この一枚の写真に、現実に対する瑛九のことばと同じように一つの警告をよみとるのである。
昨年、東京での瑛九の回顧展につづいて、今秋県総合博物館での企画もあるときく。期待したい瑛九展である。
(すずき すなお)
*鈴木素直『瑛九・鈔』(1980年、鉱脈社)より転載。
■鈴木素直
1930年5月25日台湾生まれ、1934年(昭和9年)父の故郷宮崎市に帰国、大淀川、一ツ瀬川下流域で育つ。戦後、新制の大宮高校時代に瑛九からエスペラント語を習い、瑛九が埼玉県浦和に移った後も親交を続け、故郷宮崎にあって、瑛九の顕彰に尽力した。宮崎県内の盲学校、小中学校(主に障害児教育)に長く勤務し、日本野鳥の会会員としても活躍した。2018年4月5日死去。享年87。
瑛九については新聞や雑誌に寄稿され、1980年宮崎の鉱脈社から『瑛九・鈔』を刊行した。ご遺族のご了解を得て、毎月17日に『瑛九・鈔』から再録掲載します。
鈴木素直
『瑛九・鈔』
1980年
鉱脈社 発行
63ページ
9.2x13.1cm
目次:
・出会い
・瑛九への旅 東京・瑛九展を見て
・一枚の写真の現実 二十回忌に思う
・フォトデッサン
・版画に無限の楽しみ
・二人の関係 瑛九・池田満寿夫版画展
・“必死なる冒険”をすすめた画家後藤章
・瑛九―現代美術の父
~~~~
『現代美術の父 瑛九展』図録(小田急)
1979年 瑛九展開催委員会発行
132ページ 24.0×25.0cm
*同図録・銅版入り特装版(限定150部)
~~~~
鈴木素直
『詩集 夏日・一九四八ー一九七四』
1979年
鉱脈社 発行
102ページ
22.0x15.5cm
目次:
・鏡より
鏡
ことば
・夏に向ってより
夏に向って
その時小さいあなたへ
春一番
野鳥 I
野鳥 II
入江 I
入江 II
小さいカゴの中で
病院にて
孟蘭盆
夏草 I
夏草 II
大いなる儀式
ムラから
来歴
・女たちより
秋
雨
夜
川
鳥
・夏日より
春
いつも同じ石
海
・詩集「夏日」によせて 金丸桝一
・覚書
~~~~
鈴木素直
『馬喰者(ばくろう)の話』
1999年
本多企画 発行
114ページ
18.5x14.1cm
目次:
・馬喰者の時間
・馬喰者の話
・馬喰者の煙管(きせる)
・馬喰者問答
・馬喰者の夢
・馬喰者の謎
・馬喰者の庭
・ふくろう
・青葉木莵異聞
・雲雀と鶉
・時鳥がうたう
・夕焼けの中の黒いカラス
・残暑見舞い
・眠っている男
・手術室にて
・残照記
・切り株
・八月の庭
・知念さんの地図
~~~~
鈴木素直
『鳥は人の心で鳴くか みやざき・野鳥民族誌』
2005年
本多企画 発行
265ページ
18.3x13.2cm
目次(抄):
・宮崎の野鳥・俗名考―消える方言とユニークな命名
・ツバメあれこれ
・方言さんぽ
・鳥十話
・日向の鳥ばなし
・宮崎県の鳥類
・自然に関わる伝承と農耕習俗―野鳥にまつわる俗信・俚言を中心に
・野鳥にまつわる民俗文化
・県北を歩く
・県南を歩く
・野鳥の方言・寸感
・後記
~~~~
鈴木素直さん(左)
鈴木素直さんは新制の大宮高校時代に瑛九からエスペラント語を習い、その後教師となります。瑛九と親交を続け、没後はその顕彰に大きな役割を果たし、詩人、日本野鳥の会会員としても幅広い活躍をなさってきました。
●今日のお勧め作品は、瑛九です。

瑛九《蟻のあしあと》
1956
リトグラフ
Image size: 35.5x22.5cm
Sheet size: 54.0x39.0cm
Ed.22
印あり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
◆鈴木素直のエッセイ「瑛九・鈔」(再録)は毎月17日の更新です。
●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18~24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

第3回 一枚の写真の現実 二十回忌に思う
瑛九が
写真は一九三九年(昭和十四年)のもの。見覚えのある旧橘橋と下流の本町橋も見え、 大淀川の生きた姿がある。やがて、第二次世界大戦が始まり、国内では日支事変下、各種統制令が公布されている。こうした緊迫した不安な社会に逆らうがごとく、瑛九は中国と 日本の古典の世界に没入し、酔っては羽織はかまにステッキという姿でちまたに奇態を演 じていた。
そこへ群馬県桐生の友人小野里利信が瑛九を訪ねて来て、若い二人はーツ葉浜や西都原 を歩き、宮崎高農(現宮大農学部)内や大淀川べりで写生した。写真の画家はその時の小野里である。彼は今や日本を代表する画家の一人として「オノザトトシノブ」の名とモザイク風な版画とで知られている。当時「生きていた川」だった大淀川が「死の川」となりつつある現状に似て、彼が描いたこの天神山らしき風景画はその行方がわからない。

(井之口希秀氏撮影)
「このもようは同じように見えても実は一波ごとに違っていてバッハの音楽のようだ」 (同人誌「龍舌蘭」一九三九年十月号に発表した北尾淳一郎「ーツ葉浜」文中の瑛九のことば)と語ったーツ葉浜もすっかり変わった。この日向灘の潮さいもやがて自然のしっぺ返しの音響に変容して、大淀川の足もとをおびやかす事態を引き起こすことだろう。
さきの北尾氏は、創立以来一九四〇年三月まで前述した宮崎高農で教べんをとった動物 学者である。その宮崎高農のユニークな伝統と貴重な緑陰も大学移転で消滅してしまうの だろうか。彼は瑛九の芸術の最初の理解者であり、前衛写真家でもあった。一九三七年東京で開いた「瑛九フォトデッサン・北尾淳一郎レアルフォト合同展」は、同年六月号の 「アトリエ」誌上に瑛九が発表した作品と論文「現実について」とともに日本芸術史上、記念すべきものだった。この論文は、いま読んでもかなり挑戦的にみえるが、わかりやすい含蓄のある内容のものである。その中で彼は、「最も時代的な精神は最もすぐれた知性をもつものと最も単純な生活とにあり」ミルクホールのおかみさんや散髪屋の親方の実話をあげながら、「単純な生活人は知性の実体を無意識な生き方の上で感得している」と述べている。そして「芸術家が単純な生活人の感得だけではすまされないのは、彼には表現しなければならぬ一事があるからだ」と言う。まことに簡明な言い方で、ことの本質を突いている。芸術理解の現実と自分の立場を言ったのであるが、四十二年後の今、現実を見る時、このことばは、芸術に限らず現実について考える時、生きているし、生かさねばならぬと思う。
たとえば、さきの大淀川、ーツ葉浜、宮崎高農など、県民に親しまれ瑛九が愛したものの様相や変容を、私たちは最も時代的な精神でとらえているのだろうか。表現しなければ ならぬ芸術家は現実をどう描いているのだろうか。時の流れを傍観していていいはずがない。私は、この一枚の写真に、現実に対する瑛九のことばと同じように一つの警告をよみとるのである。
昨年、東京での瑛九の回顧展につづいて、今秋県総合博物館での企画もあるときく。期待したい瑛九展である。
(すずき すなお)
*鈴木素直『瑛九・鈔』(1980年、鉱脈社)より転載。
■鈴木素直
1930年5月25日台湾生まれ、1934年(昭和9年)父の故郷宮崎市に帰国、大淀川、一ツ瀬川下流域で育つ。戦後、新制の大宮高校時代に瑛九からエスペラント語を習い、瑛九が埼玉県浦和に移った後も親交を続け、故郷宮崎にあって、瑛九の顕彰に尽力した。宮崎県内の盲学校、小中学校(主に障害児教育)に長く勤務し、日本野鳥の会会員としても活躍した。2018年4月5日死去。享年87。
瑛九については新聞や雑誌に寄稿され、1980年宮崎の鉱脈社から『瑛九・鈔』を刊行した。ご遺族のご了解を得て、毎月17日に『瑛九・鈔』から再録掲載します。

『瑛九・鈔』
1980年
鉱脈社 発行
63ページ
9.2x13.1cm
目次:
・出会い
・瑛九への旅 東京・瑛九展を見て
・一枚の写真の現実 二十回忌に思う
・フォトデッサン
・版画に無限の楽しみ
・二人の関係 瑛九・池田満寿夫版画展
・“必死なる冒険”をすすめた画家後藤章
・瑛九―現代美術の父
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1979年 瑛九展開催委員会発行
132ページ 24.0×25.0cm
*同図録・銅版入り特装版(限定150部)
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『詩集 夏日・一九四八ー一九七四』
1979年
鉱脈社 発行
102ページ
22.0x15.5cm
目次:
・鏡より
鏡
ことば
・夏に向ってより
夏に向って
その時小さいあなたへ
春一番
野鳥 I
野鳥 II
入江 I
入江 II
小さいカゴの中で
病院にて
孟蘭盆
夏草 I
夏草 II
大いなる儀式
ムラから
来歴
・女たちより
秋
雨
夜
川
鳥
・夏日より
春
いつも同じ石
海
・詩集「夏日」によせて 金丸桝一
・覚書
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『馬喰者(ばくろう)の話』
1999年
本多企画 発行
114ページ
18.5x14.1cm
目次:
・馬喰者の時間
・馬喰者の話
・馬喰者の煙管(きせる)
・馬喰者問答
・馬喰者の夢
・馬喰者の謎
・馬喰者の庭
・ふくろう
・青葉木莵異聞
・雲雀と鶉
・時鳥がうたう
・夕焼けの中の黒いカラス
・残暑見舞い
・眠っている男
・手術室にて
・残照記
・切り株
・八月の庭
・知念さんの地図
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『鳥は人の心で鳴くか みやざき・野鳥民族誌』
2005年
本多企画 発行
265ページ
18.3x13.2cm
目次(抄):
・宮崎の野鳥・俗名考―消える方言とユニークな命名
・ツバメあれこれ
・方言さんぽ
・鳥十話
・日向の鳥ばなし
・宮崎県の鳥類
・自然に関わる伝承と農耕習俗―野鳥にまつわる俗信・俚言を中心に
・野鳥にまつわる民俗文化
・県北を歩く
・県南を歩く
・野鳥の方言・寸感
・後記
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鈴木素直さんは新制の大宮高校時代に瑛九からエスペラント語を習い、その後教師となります。瑛九と親交を続け、没後はその顕彰に大きな役割を果たし、詩人、日本野鳥の会会員としても幅広い活躍をなさってきました。
●今日のお勧め作品は、瑛九です。

瑛九《蟻のあしあと》
1956
リトグラフ
Image size: 35.5x22.5cm
Sheet size: 54.0x39.0cm
Ed.22
印あり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
◆鈴木素直のエッセイ「瑛九・鈔」(再録)は毎月17日の更新です。
●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18~24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
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JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

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