ただいま開催中の内間安瑆・内間俊子展はときの忘れものの全力投球の企画で、会期も長めに設定しました(8月10日まで)。
NYからはるばるご遺族もかけつけてくださり、用意万端整えて。。。。
ところが幕を開けるや、かつてない猛暑に見舞われ、先週末は台風とさんざんであります(涙)。
40度にもなろうかという炎暑の中、4日間も画廊につめてくださった内間安樹さん、洋子さん、蓮さん(内間先生のお孫さん)には申し訳なくて、つくづく会期の設定を誤ったと後悔しきりです。
内間家の皆さんは既にNYに戻られました。

残り会期も二週間となり、やっと普通の夏に戻った感じですが、まだまだ油断はできません。そんなわけで「ぜひお出かけください」とも言えず、亭主は地団駄踏んでおります。

内間先生ご夫妻が相次いで亡くなられたのが18年前の2000年でした。
長年の恩義に報いるため、
翌2001年の一周忌に「内間安瑆追悼展」を開催しました(会期:2001年5月 9日~ 5月26日)。
7月31日にはNYからご遺族をお招きし「内間安瑆・俊子ご夫妻を偲ぶ会」を開催しました。
続いて「版画掌誌第4号刊行記念展」を2001年11月 24日(土)~12月4日(土)に開催し、この年は追悼の一年でした。

その後も、内間先生の展覧会はたびたび開催してきました。
そのたびに、内間先生を知る方々が来廊され、貴重なお話を伺うことができました。
内間安樹さんの回想にあるように、内間安瑆先生は自らのことをほとんど語らなかったようですし、自慢話をするような方ではありませんでした。

●内間先生が亡くなる以前から、幾度も画廊に来てくださり、内間先生のことを語ってくださったのは建築家の岡崎浩二さんでした。
私たちが1950年代に内間先生が果たした重要な役割に気づいたのも岡崎浩二さんという友情厚い同級生の証言があったからこそでした。
内間安瑆_偲ぶ会_03
2001年7月31日内間ご夫妻を偲ぶ会
左から岡崎浩二さん、内間安樹さん、洋子さん、亭主、細江英公先生

父君が蔵前工高第3期生の建築家で大阪で岡崎設計事務所を興します。岡崎浩二さんも同じ道をめざし、早稲田の建築で内間先生とは同級でした。卒業後は久米設計事務所に勤務、独立して設計事務所を経営されていました。
あるとき「うちの次男は画家ですが、なかなか食えなくて・・・」とポツリもらしたので慌ててうかがうと「ご存知ないでしょうが乾二郎といいます」とおっしゃったので驚きました。
2014年秋に開催された沖縄県立博物館・美術館での回顧展の図録テキストを執筆されたのがほかならぬ岡崎乾二郎さんです。もっともこの図録、発行されたのは展覧会終了後のなんと半年後、しかも販売されたのは僅か100冊(!)という、幻の図録です。先日来廊された神奈川県立近代美術館館長の水沢勉先生でさえご存知なかった(笑)。
乾二郎さんは内間展には一度も来たことはありませんでしたが、今回猛暑の中、奥様のぱくきょんみさんに連れられて初めていらっしゃったので仰天しました。
それはともかく、岡崎浩二さんにはもっともっとお話を聞いておけばよかった。2013年にお亡くなりになりましたが、うかつにも亭主はメモをとらなかった(後悔しています)。

FSさんも内間先生の早稲田時代の友人でした。
2015年8月内間展内間安瑆展
会期=2015年8月25日[火]―9月5日[土]

FSさんが最後に画廊にいらっしゃったのは、2015年8月27日でした。
すでに93歳とご高齢でしたが、ご覧のように体つきは頑健、記憶は鮮明でした。
2015年8月内間展FSさん
左から亭主、社長、FSさん

亭主は岡崎さんのことがあったので、このときは走り書きですが、メモをとりました。
戦前、移民としてアメリカに渡り(または移民の子として生まれ)、「教育は日本で」という親の勧めで日本に留学し、戦中、戦後の激動期に日本に留まった人々が少なからずいたという、ひとつの例として記録にとどめたいと思います。
ご本人に確認をとりたいのですが、今回送った案内状は「あて所に尋ねあたりません」と返送されてきました。ですので、FSさんと仮名での紹介になります。
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FSさんが生まれたのは、1922年(大正11)1月鹿児島でした。
1~2歳のときに両親とシアトルに渡ります。アメリカで生まれた弟が二人いて、シアトルの日本語学校に通いました。
ハイスクール卒業時に父親に勧められ17歳で日本へ留学します。これは内間先生とよく似ていますね。
日本へは船で片道13日間かかり、横浜港に上陸しました。
洗足池近くの叔父さん(母の兄)の家に寄宿。叔父さんは神奈川一中の英語の教師だったとか。
翌年、早稲田大学と慶應義塾大学を受験し両方合格したのだそうですが、早稲田(政経)に入学します。内間先生とはアメフトのクラブで一緒にプレーした仲だった(安樹さんの回想とも符合します)。皇居前の広場でアメフトの試合(練習?)をしていたとき空襲があったという話も伺いました。
戦時中は、外務省情報局ラジオ室でアルバイトをしていた。短波放送、アメリカBBC放送などを傍受してその内容の翻訳が主な仕事でした。
やがて学徒出陣となり、鹿児島連隊に入隊(両親の故郷が鹿児島だから)。
1945年(昭和20)3月、福岡捕虜収容所に転属となった。英語が話せたため抜擢されたのではないかとFSさんは述懐されていました。
福岡捕虜収容所にはアメリカ人、イギリス人、フランス人、オーストラリア人などが収容されていた。
戦時中、シアトルに居た両親と弟2人はアイダホの収容所へ強制収容されます。その後、弟2人は合衆国への忠誠宣言をし、収容所からアメリカ軍に入隊し、フィリピンへ派遣されます。
親と子が、兄と弟が敵味方に別れるという過酷な運命があったのですね。
1945年3月東京大空襲があり、6月内間先生のルーツの地で凄惨な沖縄戦が終わり、8月には広島、長崎に原爆が投下されます。日本がポツダム宣言を受諾、敗戦を迎えたのが8月15日でした。
FSさんはいったん鹿児島に戻り、再び上京しラジオプレスに入社します。
占領軍がすべてを支配した時代、おそらく英語の堪能な人たちには仕事はいくらでもあったでしょう。ラジオプレス社には3年間勤めた後、退職してグラフィックデザインの会社に転職します。
2年半ほど勤めたそうですが、同時期に、朝日イブニングニュースに嘱託で勤務し、主に芸能関係を取材し記事を書いていたそうです。
「それから53年間、ずっと同じ仕事を続けた」とFSさんは語っていました。
最後に「あんな謙虚な人はいなかった。内間君とは奥さんと共に来日した際、会ったりしていたけれど、最後に会ったのは40年くらい前だった」と、話を締めくくりました。
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FSさん、お元気ならもう一度、お話をうかがいたいと思います。

●内間安瑆
内間安瑆は1921年アメリカに生まれます。苗字からわかるように父と母は沖縄からの移民です。1940年日本に留学、戦時中は帰米せず、早稲田大学で建築を学びます。油彩の制作をはじめ、後には木版画に転じます。
1950年アンデパンダン展(東京都美術館)に出品。1950年代初めにイサム・ノグチと知り合い、以降親しく交流する。1954年オリバー・スタットラーの取材に通訳として同行し、その著作に協力した。
その折に創作版画の恩地孝四郎にめぐり合い大きな影響を受けます。
1954年デモクラート美術家協会の青原俊子と結婚。1955年東京・養清堂画廊で木版画による初個展を開催。1959年妻の俊子と息子を伴い帰米、ニューヨーク・マンハッタンに永住。版画制作の傍ら、サラ・ローレンス大学で教え、1962と70年にグッゲンハイム・フェローシップ版画部門で受賞。サラ・ローレンス大学名誉教授を務めました。
日米、二つの祖国をもった内間安瑆は浮世絵の伝統技法を深化させ「色面織り」と自ら呼んだ独自の技法を確立し、伝統的な手摺りで45度摺を重ねた『森の屏風 Forest Byobu』連作を生み出します。現代感覚にあふれた瑞々しい木版画はこれからもっともっと評価されるに違いありません。
06_spring-snow内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Spring Snow"

1962年
木版
イメージサイズ:77.5×33.5cm
フレームサイズ:93.6×49.8cm
サインあり

11_short_poem内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Short Poem"

1967年
木版
イメージサイズ:17.6×55.6cm
シートサイズ:22.8×60.7cm
サインあり


ForestByobu (Fragrance)内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Byobu (Fragrance)"

1981年
木版(摺り:米田稔)
イメージサイズ:76.0×44.0cm
シートサイズ:83.6×51.0cm
限定120部 サインあり
*現代版画センターエディション


●内間俊子
内間俊子は旧姓・青原、高知県にルーツを持ち、1918年満州・安東市で生まれました。1928年大連洋画研究所で石膏デッサンと油彩を学び、1937年に大連弥生女学校を、1939年には神戸女学院専門部本科を卒業。帰国後、小磯良平に師事します。1953年瑛九らのデモクラート美術家協会に参加。 この頃、久保貞次郎や瀧口修造を知り、 抽象的な油彩や木版画、リトグラフを制作し、デモクラート美術展に出品します。
1959年夫の内間安瑆と渡米後はニューヨークに永住し、制作を続けます。1966年頃から、古い切手、絵葉書、楽譜、貝殻や鳥の羽などが雑誌の切抜き等でアレンジして封印したボックス型のアッサンブラージュやコラージュの制作に取り組み、全米各地の展覧会や日本での個展での発表を続けました。1982年からは体の自由を失った夫を18年間にわたり献身的に看病します。介護をしながらの限られた時間の中でも制作は続けられました。作品は「夢、希望、思い出」をテーマにしたものが多く、日常の「モノ」たちの組み合わせから内間俊子の人生の記録が表現されています。
2000年 5月9日安王星が79歳の生涯を静かに終えると、その後を追うかの如く、同年12月18日ニューヨークで死去されました。
Lady_photographer内間俊子 Toshiko UCHIMA
"Lady photogorapher"

1977年
ボックスアッサンブラージュ
ボックスサイズ:31.0×41.2×3.5cm
フレームサイズ:42.0×49.0×3.0cm
サインあり

51_1_600内間俊子 Toshiko UCHIMA
"クラシックな夢をうる店 フィラデルフィア The store where classic dreams are sold"

1982年
ボックスアッサンブラージュ
ボックスサイズ:55.5×36.3×6.7cm
サインあり

24_fantasy-in-1908内間俊子 Toshiko UCHIMA
"Fantasy in 1908"

1985年
コラージュ
イメージサイズ:58.0×38.0cm
シートサイズ:73.0×51.0cm
サインと日付あり


2014年9月12日付ブログ用画像_08
1982年
内間安瑆先生と俊子夫人


『内間安瑆・内間俊子展』カタログ
2018年
ときの忘れもの 刊行
B5判 24ページ 図版:51点、略歴収録
テキスト:内間安樹(長男、美術専門弁護士/ニューヨーク州)
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
編集:尾立麗子
編集協力:桑原規子
翻訳:味岡千晶、他
価格:税込800円 ※送料別途250円(メールにてお申し込みください)

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版画掌誌「ときの忘れもの」第04号もぜひご購読ください。

◆ときの忘れものは内間安瑆・内間俊子展を開催しています。
会期:2018年7月17日[火]―8月10日[金] ※日・月・祝日休廊
内間安瑆の油彩、版画作品と内間俊子のコラージュ、箱オブジェ作品など合わせて約20点をご覧いただきます。図録も刊行しました(800円、送料250円)。

水沢勉版の音律―内間安瑆の世界」(版画掌誌第4号所収)
永津禎三内間安瑆の絵画空間
内間安瑆インタビュー(1982年7月 NYにて)第1回第2回第3回
201807_uchima