植田実のエッセイ「本との関係」第6回

寺山修司の病室


 大学という場所に通いはじめた、とくに最初の1年間の記憶は、褪せも消えもしない痕跡の、経年変化が深まってゆく亀裂みたいにつよい。中学や高校や予備校入学時の明快さを欠いている。説明できない。
 授業がはじまった最初の1週間の印象というか受けた打撃は、単純な失望とはいえない。この1週間で、講義をされる先生方の顔ぶれと今後1年間に毎週話される授業内容の全貌がほぼ予測できてしまうわけで、それが丸見えてしまったのでがっかりしたのだろう。中学、高校における授業の楽しさと厳しさはその地域の先生と子どもたちが一体化しているからだし、予備校の講義が受講者たちの能力を一挙に全開するような説明力は、見方によれば受験という一瞬のハードルを飛び抜けるだけの頭の使いかただったのかもしれない。
 つまり授業がはじまるその直前まで、大学とは小中高および予(人によっては)と連続していて、もちろんその頂点に位置していると私は考えていたのだがそれは間違いで、むしろ大学以降の学びの場はどこからも切り離され自立している、それを学生たちに伝えるのに先生方はとても苦労されている。そのように自分の先入観を必死で変えようとした気持ちが残っている。失望したくなかったからだ。
 ずいぶん古い時代のはなしだ。書いていて気が付いた。

 クラス担任あるいは講義の先生方やカリキュラムなどよりもっとずっと激しく、自分を危機に追いつめた、あるいは救ったものが、大学にあった。学生たちとの出会いである。それも専修が同じクラスの学生たちとは毎日会っているが、それぞれの個性や考え、目標としているものなど直ぐにはわからないのに対して、部活の部屋に集まってきたのは誰もが詩を書いている連中だからそれなりにわかりやすい、しかも2年から4年生までの先輩がいて全体の動きもはっきりしている。そういう出会いのなかに巻きこまれた。
 その最初の日は先輩たちと新入生との顔合わせ会で、私たち新入生は10人あまり、先輩たちはそれよりちょっと多めだったかもしれない。さいごにいかにもリーダー格の、穏やかな笑顔の学生と、それとは対照的な、むしろ怒っているかのような鋭い目つきの学生が連れだって部屋に入ってきた。これほど眼光の強い男を見たことがなかった。おまけに学生服の上着を、前ボタンを全部外したまま羽織っているのでいちだんと立ってみえる詰め襟に、削げた蒼白い頬が埋もれている。勢揃いしたところでまず上級生からの自己紹介があり、例のどこか不良っぽいスタイルの学生はひとこと、「寺山修司です」とだけ名乗った。
 その名をつい最近知ったのだった。1954年11月に「チェホフ祭」50首が第2回短歌研究新人賞を受賞する。それを発表した「短歌研究」が代々木駅前の本屋の店頭に平積みになっていて、それは私の通っていた予備校の真向かいでもあったので目についた。読書断ちの日々だったのに、しかもまったく縁のないジャンルの雑誌だったのに、つい手にとって立ち読みし、いっぺんに魅せられた。しみじみと読まなくても、体験したことのない新鮮な言葉が頭のなかを通りはじめたのだ。店頭にその発表誌を見たのは54年の暮か、遅くても翌年早々である。その1955年の春に部活の会でその作者といきなり出会ったのである。東京とはこのようなかたちで人を知ることがある都市なんだという実感が急に迫ってきたと同時に、大学とはそれこそが当たり前の場と納得したように覚えているが、たしかにこの集まりのすぐあと、5月には10人ほどが集まった部室に谷川俊太郎さんに来ていただいて話をきく贅沢な会を実現したりしている。でも寺山さんとの出会いは違う。遠くに見えた知らない男が突然私の横に現れて私の名を呼んだのである。
 寺山さんとはその後は大学で会うことはなかったと思う。詩の会の部屋に来ることもなかった。『寺山修司全詩歌句』1986年思潮社刊の巻末に付けられている年譜によれば短歌研究新人賞受賞の年、混合性腎臓炎のために立川の病院に入院、退院後さらにネフローゼ発病とある。翌年、新宿の社会保険中央病院に入院するが、(私の記憶ではおそらく夏以降に)病状が悪化し、面会謝絶となる。大学の部活の会に顔を出したときの厳しい印象は、病いをおして会のために出席した律儀さだと説明できたのかもしれない。
 部活の会で知り合った同じ1年生の、だが学部は違う女子学生と、JR新大久保駅から歩いてまもなくの、上記の病院に寺山さんを見舞いに行った。今度はベッドの上の寝巻姿で表情もずっと穏やか。ゆっくり言葉を交わすことができた。枕元においてあった彼のノートの表紙にお気に入りの女性たちの顔写真がいくつも貼られており、一緒に見舞った彼女の写真もすでにそのなかにあって、寺山さんのチェックのはやさに唖然とした。ノートのページにはさまざまなメモのほかに新刊書籍発売の新聞広告もじつにまめにスクラップされていて、思うように外出できない人ならではと思いながら、寺山さんにはすべてがためらいなく動いている、そのことを痛感するばかりだった。
 ネフローゼという病名は寺山さんの口からはじめて知った。一日の塩分摂取量が制限されていて、小指ほどの小瓶は許される微量の塩が入っているのを見せてくれた。面会謝絶となった同じ年に詩劇グループ「ガラスの髭」を組織し、大学の詩祭にその旗揚げ公演のための戯曲『忘れた領分』まで自分で書き下ろしている。このグループには私も参加し、補欠的な役割で上の本の読み合わせに付き合ったのでよく覚えている。学外からの参加の顔ぶれも充実していて、詩人の山口洋子、作家の河野典生らが出演、舞台美術は野中ユリ。だが寺山さんの姿はなかった。その年に続く日々も、病気の悪化と、休みを知らないどころかさらに急ピッチで展開される創作活動とが繰り返されていく。
 ずっと後、今から20年ほど前だったか、その存在が知られず、寺山修司戯曲全集にも入っていなかった『忘れた領分』台本発見のことが新聞で大々的に報じられて、私も手元においていた素朴な謄写版の資料的価値にあらためて気づいたのだった。けれども私にとって寺山修司の存在を強く残している「本」は、彼の病室で見たノートである。ノートだけでなく、あの白い病室そのものが彼の「本」だった。寺山修司の「本」とは完成の表れではなく、動きそのものの形だった。
 田中未知編による寺山修司未発表歌集『月蝕書簡』2008年岩波書店刊は、寺山没後に編まれた、晩年の、しかもまだ完成に至っているとはいえない試行を集めた歌集である。資料として使っている上記の『全詩歌句』のほか、私の手元にあるのはこれ1冊だけである。私が出会った人の記憶にとても近い。いつも1、2首だけ読んで本を閉じる。

001寺山修司『忘れた領分』1955年
手書き(植田による)の表紙と謄写版刷りの本文の一部

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うえだ まこと

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ueda_95_dojun_daikanyama_04植田実 Makoto UYEDA
《同潤会アパートメント 代官山》(4)

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Ed.7  サインあり
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