飯沢耕太郎「日本の写真家たち」第11回

「日本の風景写真」を求めて 福原信三(Fukuhara Shinzo 1883~1948年)

飯沢耕太郎(写真評論家)


 福原信三は1883年、東京府京橋区に生まれた。父の有信は銀座・資生堂薬局の経営者であり、保険会社の役員なども務める実業家だった。9歳下の弟に、のちにやはり写真家として活動する福原路草(本名・信辰)がいる。
 信三は4男だったが、兄たちが病弱だったり早逝したりしたため、早くから資生堂薬局の後継者として期待されて育った。千葉医学専門学校薬学科を卒業後、1908年に渡米してコロンビア大学に学び、同大学卒業後はニューヨークのドラッグストアや化粧品製造工場に勤めて研鑽を積む。だが、幼いころから絵を描くのを好み、東洋写真会の会員として「芸術写真」を撮影し始めていた信三は、そのまま実業の道に進むのにためらいがあったようだ。1913年、日本に帰国前にパリに半年程滞在していた時に、集中してセーヌ河畔の風景を撮影する。若々しいロマンティックな心情を、大胆な構図に刻みつけたそれらの写真群は、1922年に写真集『巴里とセーヌ』(写真芸術社)にまとめられ、日本の「芸術写真」の金字塔となった。
 福原信三は、帰国後の1916年に資生堂化粧品部を設立するなど、ビジネスマンとして忙しい生活を送るようになる。だが、いったん火がついた写真への情熱は抑え難く、1921年に大田黒元雄、掛札功、福原路草らと写真芸術社を設立し、大判の高級写真雑誌『写真芸術』を刊行しはじめる。信三がこの雑誌を舞台に展開したのが、「光と其諧調」の理念である。「画面のよく調和された調子——光線の強弱に由つて生ずる濃淡の調子」を重視する彼の主張は、1923年に刊行された写真集『光と其諧調』(写真芸術社)で具体的に実践され、当時の日本の写真家たちに大きな影響を及ぼしていった。四季の移ろいとともに微妙に変化していく眺めを、俳句のように切りとっていく日本独特の風景写真のあり方を、最初にさし示した一人が福原信三であったことは間違いないだろう。
 その後、信三は写真芸術社解散後に1924年に設立した日本写真会を主宰するとともに、『西湖風景』(日本写真会、1931年)、『松江風景』(同、1935年)、『布哇ハワイ風景』(同、1937年)などの写真集を刊行している。これらは、資生堂化粧品部の「花椿」のマークを自らデザインしたという彼の繊細な美意識が隅々まで貫かれた、美しい装丁の写真集である。1940年代になると、戦時体制が強化されて写真家たちの自由な創作活動はほぼ不可能になり、信三自身も白内障が悪化して失明するなど、やや寂しい晩年をおくる。だが、彼の詩情豊かな写真の世界は、むしろ1980年代以降に、日本だけでなくアメリカやヨーロッパでも再評価されるようになった。
いいざわ こうたろう

fukuhara01福原信三 Shinzo FUKUHARA
《ヘルン旧居  松江・島根》
1935年撮影(Printed later)  
ゼラチン・シルバー・プリント
イメージサイズ:34.2x26.2cm
シートサイズ:36.0x28.2cm
*裏面にピエール・ガスマンのサイン
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●飯沢耕太郎のエッセイ「日本の写真家たち」英文版とともに不定期連載でしたが、奇数月の18日に隔月更新しますので、ご愛読ください。次回は来年1月18日に掲載します。

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