橋本啓子のエッセイ「倉俣史朗の宇宙」第3回

Just in Time (1986)


《Just in Time ジャスト・イン・タイム》(図1、注1)に衝撃を受けた人は多い。筆者もそのひとりだ。衝撃の理由は人によってさまざまだろう。この時計が、時刻がはっきり分からない時計であることに驚く人もいれば、デザイナーの柳原照弘の次の言葉のように感じる人もいる。

これを見た時、目の前にあるのは美しい時計ではなく、美しい時間なんだと思った(注2)。

kuramata_11_justintime図1
倉俣史朗
Just in time
1986年
メラミンボード、小枝、毛糸、ステンレス
51.5x36.5xD0.8cm
時計裏面の右下にシールあり

この文章ほど《ジャスト・イン・タイム》のもたらす感動を的確に、かつ詩的に表した文章はないのではないか。そう考えるのも、正確な時間よりも「美しい時間」をもたらすことこそ、倉俣が考えた、時計の最大の「機能」にちがいないからだ。1987年に倉俣が東洋プライウッド株式会社副社長(当時)の阿部博と行った対談は、そのような倉俣の考えと、それが《ジャスト・イン・タイム》とその置時計版である《Clock with Five Hands 5本針の時計》(1986年)の発想にいかにつながっていたのかを物語る。

阿部:デザインを考える場合、機能があってその次に楽しさ、と考えられがちですが、倉俣さんは機能よりも何よりも最初に自分の表現というか、そういうものを前面にだされるという?
倉俣:そうですね。使い易いということが必ずしも機能的ということではなく、もっとメンタルなものを含んでこそ機能だと思うのです。(中略)……二十数年前から家具をつくり始め、当時も、面白いが機能的でないとか、合理性でないと言われたのですけれども、むしろ僕はそちら側に本当の合理性とか機能性というのがあるんじゃないかという考えがずっとありました。
(中略)
倉俣:時計にしても、まあ非常に精密な時間が必要とするのは別にして、時間さえわかれば木の枝の針でもいいんじゃないかと思うし。まず自分の美しいと思うことや楽しいと思うことが含まれていなくては、デザインしてもおもしろくない。
阿部:先生がデザインされた木の枝の時計とか、ニボシやちょうちょが、時、分、秒でバラバラに動いているような時計〔引用者注:《5本針の時計》〕を拝見しましたが、ああいう作品をみてしまうと商品化したら売れるだろうなとか、すぐそういうことを思ってしまうんですけれども(笑)。
(中略)
倉俣:これを展示したのは時計の展覧会なんですが、作ろうと思っていたイメージというのは前からあるわけです。細い小枝を使うという発想は、針という型にはまったものじゃなく、時の移り変わりというのが何かの形になったら面白いな、と。ビョンビョンしながら見えるのも面白いでしょう。どちらかというと、結局、自分が楽しんで作ってしまう。リクリエーション(笑)。クライアントがあって制約があるというのはなかなかそうはいかないですからね。(中略)(注3)

倉俣は、使い易いということよりも面白い(美しい、楽しい)ことの方が機能的であるという考えを抱いていた。彼はもちろん時刻を正確に表示する機能を否定しているわけではない。ただ、時間を見ようとふと時計に目を遣ると、針のかわりにニボシやちょうちょが動いていたり、ナイロン線のカーブがビョンビョンしながら動いているのを見て、思わずにこりとしてしまう、そういう瞬間が生活に与えられることは、実は大切な事ではないかと考えていたのだ。
 ならば、倉俣のデザインは、デザインというよりもむしろアートなのではないか、あるいはアートに機能を付加したものではないか、という意見が出るかもしれない。無論、そういう意見があってもいいと思うし、実際、倉俣自身、「……機能を果たしながら、なおオブジェとしても成立する両面性。その造形性が空間をもう一度目覚めさせ、見えなかったものを見せ、感じさせてくれるもの……理想としては、そんなものを創りたい(注4)」と記したこともあるから、全面的に否定はしないだろう。だが、個人的な考えをいえば、倉俣のデザインは、対談で質問されたような、初めに表現ありきの発想ではなく、生活のなかで有用品として使われることからデザインが練られていったように思う。
仮に《ジャスト・イン・タイム》が時計ではないとしたら、人々はこれをどのように受け止めるだろうか。線がビョンビョンし続ける、動く絵画として評価するのだろうか。それでも良いかもしれないが、「美しい時間」はもはやそこにはない。ビョンビョンする線は、動く髭となり、「時の移り変わり」の「形」ではなくなる。1日のうち、「美しい時間」を「見る」幸せはビョンビョンする線が秒針でなければ、得られないのだ。
《ジャスト・イン・タイム》と《5本針の時計》の4年前にあたる1981年にデザインした《スパイラルの時計A》では、「時の移り変わり」の「形」への変換が《ジャスト・イン・タイム》とは異なる視点から試みられている。ここでは、時計の針のみが際立つ文字盤を、すなわち、時間以外の一切の情報を排したボードを、プラスチックのカプセルの内部に封じ込めたのだ。倉俣は次のように語る。

カプセルに時間を封印したいというわけではないのだが、現実的な時間の経過の明示と離れて、もうひとつの次元の異なる時の存在を表明(表情)したいというのがイメージの底にあった。それはたぶん、お祭りで見かける透明なセメダインみたいな素材を大きく吹くらまし、その中にお礼や、紙吹雪をいれたのを見かけたとき、その風船の内部で舞うそれらのものは、スローモーションの映像を見るようであり、その空間は次元の異なる遠い宇宙を感じたからだろう。この時計をデザインするとき、そんなことが潜在意識の中にあったのかもしれない。(注5)   

《ジャスト・イン・タイム》も《スパイラルの時計A》も、それに目をやった途端、流れていた時間が一瞬止まったように感じる。なぜそうなのか、いつも不思議でならないが、それこそ倉俣の思惑どおり、カプセルに入った時計や木の枝で出来た時計が、子どもの頃のお祭りの透明な風船や、日が暮れるまで公園で遊んだ記憶という遠い過去へと自分を引き戻すからなのかもしれない。倉俣のデザインは、本人が「デザインをするという行為の中でこれ等の幼少年期の体験が非常に大きな要素となっている(注6)」と再三述べているように、幼少期の記憶に想を得たものが多い。それも誰もが子どものときに感じる感覚を手がかりとしたものが多いのだ。
 そういうわけで、《スパイラルの時計A》のセメダイン風船の中に封印された時間も《ジャスト・イン・タイム》のビョンビョンする線の時間も、私たちが子どもの頃、時計を見ながら、無意識に時間を「形」にしていたことを思い出させるのかもしれない。数年前に本田和子氏の名著である『異文化としての子ども』(1982)を読んだとき、ますますこの感を強くした。
本田によれば、子どもにとって時間とは連続した流れではなく、非連続の「いま」である。そして、その「いま」とは瞬間としての「いま」ではなく、長さと厚みをもったかたまり、つまりひとまとまりの「出来事」なのだそうだ。これを説明するために、本田は次のエピソードを挙げている。

「とき」が「出来事」である証拠に、彼らは、時計の目盛りまでも出来事化してしまう。例えば、三歳児が空腹を訴えて昼食をねだった。保育者が、時計の文字盤の十一時を示して、「針がここまできたら、お弁当の用意をしよう」と約束した。再び遊び始めた彼が次に時計を見上げたとき、時計の針は十一時を四分ほど過ぎていた。楽しみにしていた「お弁当のとき」は、アッという間に彼を置き去りにしたのだ。恨めしげに時計を見上げて、べそをかいているその子どもに、保育者は笑いころげながら説明に窮していた(注7)。

これを読んで以来、筆者の中ではべそをかいている子どもと保育士の笑い声と《ジャスト・イン・タイム》とがつながっている。 Don’t cry, you are just in time !
はしもとけいこ

注1:《ジャスト・イン・タイム》と《5本針の時計》の制作経緯については1996年皮切りの回顧展「倉俣史朗の世界 Shiro Kuramata 1934-1991」(東京・原美術館ほか世界巡回)のカタログでクラマタデザイン事務所のアシスタントであった吉森智、五十嵐久枝が詳しく記している。右を参照。田中一光監修、植田実・原美術館ほか編『倉俣史朗』(展覧会カタログ)東京・財団法人アルカンシェール美術財団、1996年、78頁:吉森智、五十嵐久枝によるNo. 24、25の解説。
注2:柳原照弘「『ジャスト・イン・タイム』に、美しい“時間”を見た。」『Pen ペン』2008年7月15日号(225)91頁。
注3:「プリカーサー登場 インテリアデザイナー倉俣史朗氏を迎えて」(阿部博によるインタヴュー)『プリカーサー』東洋プライウッド株式会社、1987年10月号、1-2頁。
注4:倉俣史朗「空間の眠気を覚ましたい」(「時計」)『どりーむ』1982年1月号、16頁。
注5:倉俣史朗「掛時計」『ジャパンインテリア』1981年12月号(273)、86頁。
注6:倉俣史朗「記憶」『Nob』1976年春号(7)、114頁。
注7:本田和子『異文化としての子ども』紀伊国屋書店、1982年、57-58頁。

■橋本啓子
近畿大学建築学部准教授。慶應義塾大学文学部英米文学専攻、英国イースト・アングリア大学美術史音楽学部修士課程修了後、東京都現代美術館、兵庫県立近代美術館学芸員を務める。神戸大学大学院総合人間科学研究科博士後期課程において博士論文「倉俣史朗の主要デザインに関する研究」を執筆。以来、倉俣史朗を中心に日本の商環境デザインの歴史研究を行っている。神戸学院大学人文学部専任講師(2011-2016)を経て、2016年から現職。倉俣に関する共著に関康子、涌井彰子ほか編『21_21 DESIGN SIGHT 展覧会ブック 倉俣史朗とエットレ・ソットサス』東京:株式会社ADP、2010年(「倉俣クロニクル」執筆)、Deyan Sudjic, Shiro Kuramata, London: Phaidon Press, 2013(Book 2: Catalogue of Works全執筆)、埼玉県立美術館・平野到、大越久子、前山祐司編著『企画展図録 浮遊するデザイン―倉俣史朗とともに』東京:アートプラニング レイ、2013年(エッセイ「倉俣史朗と美術」執筆)など。

●本日のお勧め作品は倉俣史朗です。
kuramata_07_feather倉俣史朗 Shiro KURAMATA
Floating Feather(黄)
c.a. 2004
Acrylic
14.0×9.5×8.0cm
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