鈴木素直「瑛九・鈔」第8回(最終回、再録)

瑛九-現代美術の父

 一、序章
「現代美術の父」-昨年六月、東京・新宿の小田急デパートで開かれた瑛九展のポスターには、そう書かれていた。
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 瑛九は、すでに一九三〇年代から「フォトデッサン」の作品により、独創・前衛の先駆者であった。一九五一年、彼は芸術家の独立と自由を主張して「デモクラート美術協会」を結成して、<―――われわれは自由に希望をもって制作し、大衆と熱意をもって語るであろう>と宣言した。その創造活動は、戦後日本芸術史に鮮烈な一ページをつくることになった。わずか六ケ年という短い期間であったが、彼の主張のもとに参加し、その中で育っていった若者たちは、今や国内だけでなく全世界に向って日本を代表する芸術家として活躍している。
鈴木素直「瑛九・鈔」38頁(鈴木素直「瑛九・鈔」38頁)

 ちなみにその中の何人かはこの瑛九展開催委員になっている。靉嘔池田満寿夫泉茂オノサトトシノブ、早川良雄、細江英公などがそうである。
 また、生前、画壇的には正当な評価を得られなかった彼の芸術も、各地の一部の人々に喜びと希望を与え、愛と勇気を語り合う大衆の中に生き、支持されつづけてきた。
混迷の現代美術の状況の中で、こうした現代一流の芸術家と全国の支持者によって、彼の作品が公開される時、「現代美術の父」と呼ばれるのは、まさにふさわしいタイトルであったといわねばならない。
 これまでに彼の遺作展は、国立近代美術館の「物故四人展」(高村光太郎、上阪雅人、 菱田春草)をはじめ、福井、勝山、北九州、宮崎大阪、福岡など各市で開かれたし、画集と伝記も刊行きれてきた。しかし、東京で、彼の生涯にわたっての画業の全貌が体系的に集成されて(油彩、フォトデッサン、エッチング、リトグラフの百七十八点)展示きれたのは初めてであった。

 二、瑛九と池田満寿夫

 この瑛九展の前触れの如く、一昨年一月、 NHKテレビ「日曜美術館」で彼の作品と人 柄が池田満寿夫によって招介された。池田は、それまでに何回となく彼の著書の中で瑛九を 語ってはいた。国際的に有名な版画家の彼が、芥川賞作家として騒がれていた時だけに、こ のテレピ対談は、瑛九の名を世間に知らせるのに大きな力があったと思われる。
鈴木素直「瑛九・鈔」39頁(鈴木素直「瑛九・鈔」39頁)

 この対談のタイトルは「私と瑛九」だったが、むしろ「私の中の瑛九」といえる興味ある内容だった。若かった池田に深い影響を与えた瑛九の芸術観と銅版技法、池田を励まし、 つき放し、そして啓蒙していった瑛九像を吐き出していて、いわば「瑛九芸術鑑賞」の一つの典型でもあった。
たしかに瑛九には、後にも述べるが、すぐれた啓蒙家、教育家として大きな役割を果した側面があった。しかしここで「啓蒙」ということは、常識的に口で言うほど生やさしいものではない。池田もこの対談の終わりで言っていた。
「瑛九は『いい絵は絶対売れる』と強力にいうが、自分の絵は売れないくせにと思い『じ ゃ、だれが買うんですか』といったら、『お前がいい絵を描いたら、まずおれが買ってやる』というんですよ。(中略)自分の絵を売ろうとするよりも、ぼくたち若い連中の絵を コレクターにしきりに宣伝するんですね―――。」瑛九のやさしさと激しさにはいつも責任を伴っていたわけである。
 瑛九の柔軟でしかもバネのきいた鋭い感受性、子どもの心のように明るいナイーブな、それでいて自由であろうとすることと可能性を追求してやまぬ気性、相手の本質を暖く見抜き、ぐいぐいと引き立てていく力。それらが彼をして啓輩家といわしめたのであろう。池田に限らず、生前の瑛九と交渉のあった人びとはよく「彼の批判はすごくこわい反面、 思いやりの深さに気づいた時の激しい感動は忘れられない。」という。
 この対談の最後で司会者が「当時若かった画家が有名になり、瑛九が最後に、そろそろ出番じゃないですか」と言うと池田は「いやそれは、世間一般の考え方であって、ぼくは瑛九は、そういう意味でポピユラーになるとか、ならないとかいうよりも、正当に評価されなければいけないと思う。また絶対に評価されると思う。」と語っている。
この発言は重要な意味をふくんでいる。つまり、瑛九の人間像と芸術を礼讃することと、逆にそれを故意に無視しようとする動きの両方に対して、もっと彼の先駆性とオリジナリティ、そして弱点を明らかにする必要性を、私はいいたかったのである。既成のモダンアートや日木画壇の観念や規準からはみだした彼の新しさと自由さをつきとめ、彼をのりこえていく人が本県からも生まれることを願うからである。

 三、宮崎の人とエッチング(銅版画)

 では、彼の故郷・宮崎での評価、受けとめ方はどうであったろうか。
〈――ぼくは、宮崎でこの個展を宮崎の友人たちに見てもらい、今後ぼくがいかに成長す るか、今日の決心をぼくがどの程度に果すか見てもらいたいと思います。〉(一九五一年八月五日、日向日々新聞)
〈僕も長年の版画への夢を最近実現しはじめた所です。僕のエッチングがいくらかでも日本の現代版画を前進させる一段階となって、エッチング艦賞の手引きとなり、そして多数 のエッチング愛好者を見出すことが出来たらうれしく思います。〉(一九五二年三月県立図 書館での個展目録)
〈――卒直な宮崎の人々の批評がきけることをたのしみにしています。僕は画壇の流行か ら外れて自分の表現したいものを発見していきたいと思っています。〉(同年十一月県立図 書館での個展目録)
いつもこうした言葉をそえて、苦闘と前進の歩みであった作品を宮崎へ送りつづけた彼 の一念は、移住先の浦和で死ぬまで貫かれていた。こうした経緯をくぐって、彼の作品が県内の有名・無名の人々の家に今なおひっそりと所蔵されている。
 しかし、エッチングはほとんど売れなかったという。一九五二年の県展(現宮日美展)の審査に来た海老原喜之助が、前述の十一月の個展目録に〈――瑛九を知ってから十五年はすぎた。(中略)今私も宮崎を知り、彼の周囲の人々にも会って、決して偶然にぽかりと彼の如き非凡な才能が生まれたのではないことを知り、彼の芸術の不動を信ずるようになった。〉と紹介文をよせている。それでも当時の時の故郷の人々には、エッチングはなじめない奇妙な様式で、新しすぎた世界に見えたのだろうか。
〈――東京より宮崎の方が僕のエッチングを認めたという風になってほしかったのですが…。しかし卒直な僕の気持ちではすべての人が僕のエッチングの悪口をいっても一生やりつづけることをはっきりといいきれる程の愛着をもっています。〉(一九五二年十一月)彼は、宮崎での支持者であり、彼の個展や後援会の仕事をしていた内田耕平へ書いている。
 また瑛九は、県内で初めてのエッチング実技講習会を一九五六年にやった。多くの画家 や美術教師が参加したが、作品も売れず、彼の後につづく制作活動も県内では見られなか った。今でこそ、画家や子どもたちのエッチング、ドライポイントなどが街にあふれているが、当時、日本ではあまり手がつけられておらず、版画一般に対する低い評価がそうさせたのかもしれない。また、自らを未知の世界へ投入する画家の冒険心と創造への欲求の不足が宮崎の風土にあったのだろうか。
 彼の三百点に及ぶエッチングは、入り組んだ細かい線による黒と白の世界だった。それは、同じ白黒でも「カメラを使わず印画紙の上に直接光をあててつくるデッサン」といわれるフォトデッサンとは異なる。その増殖するイメージはカオスの交響楽であり、ファンタジックであり、エロスの会話と緊張感にみちている。

 四、瑛九回願展

 宮崎県民に、瑛九の名が記憶されるようになったのは、一九六〇年三月死去、同年十一月宮崎県文化賞(芸術部門)が追贈されたからであろう。すでに父、も県文化賞を受賞しており、親子二代にわたる栄誉になったわけであるが、やはりそれは生前に贈るべきものではなかったのだろうか。彼が画壇的に有名でなかったことによるのであろうが、このことは、県展(現宮日美展)の審査員についに迎えられなかったことと共にまことに残念なことであった。(この県展のスタートは、瑛九、塩月桃甫と川越篤の三氏の努力による。)
 県民が、瑛九の作品の全容を見ることができるのはもっと後のことで、一九七一年五月、 新装の県総合博物館のこけら落としとして開催された「瑛九回顧展」まで待たねばならな かった。数多い作品の中から約五百点がえらばれ関係資料などと共に、都夫人をはじめ、 地元や東京、福井などから集められた。参観者も県内はもとより全国から集まり、県内では最大規模の展覧会になった。
 回顧展図録の中で、靉嘔は呼びかけている。「瑛九は第三の目をもっていた。みなさん、われわれ各々がそしてあなた自身第三の目ですでにわれわれが知っている以上の次元を想像できるようになりませんか?もっとその世界をたしかめたかったら瑛九の仕事をじっと見つめることをおすすめします。あなたは瑛九がそれをきらったように、瑛九の仕事の 前にひれふす必要はありません。瑛九と対等に彼の仕事をじっとみつめ、あなたの心に合わせることが第一です。」
 こうして、没後十一年目にして瑛九の芸術に親しむことができた反響は大きく、特に若い人ほど新鮮な共感を与えた。またこの機会に、都夫人から「つばさ」をはじめ、瑛九の重要な作品の多くが寄贈きれたことは特筆されるべきことである。これらの作品が、宮崎市民会館ロビーのように常陳され、県内外からの参観者との対話、研究者や瑛九をのりこえてゆく後進の糧となることがのぞまれる。そうした配慮こそ、故人の意志と寄贈者の希 望にこたえることになるであろう。

 五、エスペラント、その他のこと

 ここで、彼の制作活動のほかに熱心に関与した文化活動とその周辺にいた人にふれてお きたい。
それは、第一に敗戦直後、本県の文化運動にのりだしたこと、第二に国際共通語エスぺラントの普及活動のこと、第三に全国的に新しい児童美術教育運動をひろめたことである。
 彼は、敗戦の翌年一九四六年、軍国主義と封建主義の一掃、地域の民主化のためには共産党活動が必要だと判断し、入党している。半年後には、病気再発などのため、党から離れてしまう。しかしその間に、新宮崎美術協会を創立し、第一回展を開いている。その後日高二三夫(現在東京)らと「宮崎民主主義文化連盟」を結成し、その行事は、本県の戦後文化のーつの出発だったといわれる。クリスマス子ども会、ンョパン祭、児島虎二郎遺作展、俳優座と前進座の公演など、殺ばつとした街に文化の息吹きと新鮮な希望を与えた本県文化運動のはしりに尽力したわけである。
 エスペラントには、一九三四年ごろから兄、杉田正臣(現杉田眼科病院長)の影響で親しむようになった。翌年、日本エスペラント学会の特派使節として来宮した若き久保貞次郎 (後述の美術評論家)との出会い、交友が始まっている。
 戦後の一九四七年から五〇年までは、講習会、機関誌編集印刷などエスペラント普及活動に最も熱中した時期であった。一九四八年結婚後には〈――エスペラントと結婚が僕の方向をすこしずつ明確にして行きつつある。〉(瑛九伝の著者山田光春への手紙)というほど制作活動とエスペラント普及活動との両輪生活をはじめている。
 当時、学制改革で新制高校として発足したばかりの大宮、大淀高校(現・南・農業・工業高の前身)の文化祭の講演やエスペラント同好会の講師として、瑛九夫妻は出かけ、多くの若者たちと交流している。今の高校とは 違った自由な雰囲気とさかんなクラブ活動の中で、両校の同好会は特異な存在だった。その理由は、エスペラントがもつ国際性への憧れや外国人と文通するという魅力もあったが、 風変わりな、しかもモダンな夫妻の人間味と指導法の特異さによるものだった。「会話はエスペラントでやろう。単語だけでも、下手を気にせず。生活感情を大切に。」これをモットーにしたニ人の指導には、教室では味わえない迫力と吸引カがあった。二人の知性と寛容さは、若者たちをしゃべらずにはおれないように駆き立てたし、そこには師弟関係でなく、友人としての協力という立場がはっきり存在していた。このすぐれた啓蒙家・教育家のこうした対話や貴重な交友関係の思い出は、高校生に限らず、当時二人に接した人の胸深く今も残っているという。
 また、当時二人は十数ケ国のエスペランチストと文通しており、 戦後の各国の生活や文化、日本観などを語った各国からの手紙を新聞によく発表している。二人のエスペラント会話による家庭生活は瑛九が死ぬまで続き、前述のデモクラート美術協会の「デモクラート」 もエスペラントで「民主主義者」を意味するなど、エスペラントは瑛九の思想と生活を結ぶ象徴であったともいえる。
 新しい児童美術教育運動は、彼が浦和市に移住した翌年の一九五二年五月、前述の久保貞次郎や画家北川民次(前二科会々長〕らと結成した「創造美育協会」のことである。
「私たちは子どもの創造力を尊び、美術を通してそれを健全に育てることを目的とする」など三項目の網領を掲げたこの運動は、時代の拍手と反発の中で全国に広がった。そして 戦後日本の美術教育を一新することになる。
 この運動は、当然本県にも波及してくるが、それに先行して本県で初めて「世界児童画展」が、同年一月、宮崎を皮切りに延岡、都城、小林、串間、西都、高鍋で開かれた。これは久保貞次郎が戦前外遊の際集めたものと北川民治がメキシコ野外美術学校で指導した作品を、瑛九の援助で前述の内田耕平が実現したものだった。
 反響は大きく、盛況だったが、教師たちはその指導法と評価のみにこだわり、各地での座談会で瑛九と内田が説く本質問題はあまり受け入れられなかった。とはいえ、本県のその後の新しい美術教育にーつの道標をつくったことはまちがいない。
 ただ残念だったことは、この時、彼は「児童画論」を書く約束をしながら、ついに果されなかったことである。これは一九四〇年出版すべく送った詩集の原稿が印刷屋で紛失した事件と共に、彼の仕事の中での大きな損失となった。彼は、生前、七十篇近い論文は別として「やさしい銅版画のつくり方」(一九五六年)という一冊の著書を残し、ほかに埼玉県の歌人加藤克己の歌集「宇宙塵」(一九五六年)都城市の詩人富松良夫の詩とエッセイ集「黙示」の二冊をエッチングの装画で飾っている。
創造美育運動の源流は、戦前から久保が主宰した大衆の前でやる公開児童画審査会〔瑛九や羽仁五郎説子夫妻、木下繁などが委員)にあった。久保の考えの背後には、瑛九の鋭い目と助言があったといわれ、瑛九は当時から新しい美術教育の識見をもっていたわけである。
 一方、この略称創美運動の波が全国に広がるにつれ、瑛九は全国大会などでエッチング 実技講習会をするまでにいたった。その時の助手が、無名時代の池田満寿夫である。その後の大会には、泉茂、靉嘔、磯辺行久木村茂利根山光人などの版画家、細江英公奈良原一高などの写真家が参加している。彼らはデモクラート美術協会の若い会員でもあった。そしてこの創美運動の中で「よい絵を安く売る会」「版画を普及する会」も生まれた。
 一九五四年には、創美福井支部が、久保コレクション「西洋版画展」を開いている。その時、支部の若い教師たちは、七千人を動員し、講演者の瑛九は熱狂的に迎えられたという。これをきっかけにして、その後瑛九の作品の多くが福井県内に流れ込むことになった。そして福井瑛九の会が発足、精神的にも経済的にも彼を支持しつづけた。彼の没後、全国的な組織となった「瑛九の会」を、彼らは今も運営し、研究誌「眠りの理由」を第十四号まで刊行している。

 六、終章

 以上、主に戦後の彼の生き方と芸術の特微的な部面について、彼の周辺にいた人々のことばや彼自身の手紙をまじえて述べてきた。 戦前の幼少期、青年期については、詳細な伝記(山田光春著、青龍洞発行)にゆずるとしても、芸術家としての苦悩や人間としての反逆や貧苦、各分野にまたがる作品についてはふれることができなかった。そこには、彼も人の子、どろどろとしたあがきともだえの青春、戦前・戦後の時代をくぐった、あくことなき放浪と追求の道程があった。
 山田の「瑛九伝」を読むと、幼少年期の自我の強さ、旧制中学校を第一学年途中での退学、中央画壇での落選つづき、数え切れない旅行、敗戦直前の二度の大手術など波欄に満ちている。そうしたことが、たえず両親や家族を悩ましながら、反面こまやかな親愛の情を吐露しつづけている。そして十代後半からの読書、孤独な実験制作と評論活動、新しい友人との激しい往来などに明け暮れている。それは結婚後の困窮生活へつづき、彼のことばを借りるなり、まさに「毎日が闘争」であった。それは個性豊かな人間数人を一束にした巨人の揺れ動きのような生涯であったといえそうである。
 最後に、まだ十分解明されていない点がいくつかある中でつぎの二つだけを指摘しておく。
「彼の影響を受けた芸術家の中で彼の生存中、国外へ飛び出して活曜した者は多い(前述の 泉、池田、靉嘔、磯辺、利根山、奈良原や河原温など)のに、彼は一度も国外へ出ていないのは何故か。また一九三八年ごろ、東洋主義(水墨画、俳句、静座など)に転換、模索 した時期があるが、洋の東西関係をどのようにとらえていたのだろうか。」もう一つは 「故郷の水-風土や川、海は彼の制作態度にどう影響し、どう描かれていたのか。」そこには、個人的な関心を超えて、彼の芸術に近づく一つの道がありそうに思えるからである。
〈――ぼくは啓蒙家で、絵画のおもいつき屋で、空想にうきみをやつしたにすぎません。 絵画の周囲をぐるぐるまわっていた画家だと思っていたのです。こういう自己から脱却して絵画の中に突入出来るかどうか、最後の冒険を試みようとしています――〉(福井県木水育男への手紙)
 晩年の大作、二百号「つばさ」百五十号 「田園B」はこうして制作され、今、県総合博物館と県立図書館に飾られている。通りすぎるように彼が逝ってすでに二十年の月日が流れた。新しい企画の瑛九展をのぞみたい。

 あとがき

 画家の内面と表現世界は、作品を目の前にしてこそ感じとることができる。しかし瑛九の人と生活を語る人が少なくなった今、地元のひとりとして彼を語る義務を感じて、この 「瑛九・鈔」を思い立った。
 県立総合博物館での瑛九展は、一九七一年の回顧展につづいて今回は二度目である。前 回の折、「瑛九を語る」(ミニブック)を刊行した。その後、新聞、雑誌及び宮崎県文化年鑑に発表したものの中からえらんで小冊子にした。
 彼の世界をのりこえ、独創的な道をひらく若者、おどり出よ。
すずき すなお
*鈴木素直『瑛九・鈔』(1980年11月18日発行、鉱脈社)より再録。

鈴木素直
1930年5月25日台湾生まれ、1934年(昭和9年)父の故郷宮崎市に帰国、大淀川、一ツ瀬川下流域で育つ。戦後、新制の大宮高校時代に瑛九からエスペラント語を習い、瑛九が埼玉県浦和に移った後も親交を続け、故郷宮崎にあって瑛九の顕彰に尽力した。宮崎県内の盲学校、小中学校(主に障害児教育)に長く勤務し、日本野鳥の会会員としても活躍、瑛九については新聞や雑誌にしばしば寄稿され、1980年宮崎の鉱脈社から『瑛九・鈔』を刊行した。2018年4月5日死去。享年87。

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『瑛九・鈔』
1980年
鉱脈社 発行
63ページ
9.2x13.1cm

目次:
・出会い
・瑛九への旅 東京・瑛九展を見て
・一枚の写真の現実 二十回忌に思う
・フォトデッサン
・版画に無限の楽しみ
・二人の関係 瑛九・池田満寿夫版画展
・“必死なる冒険”をすすめた画家後藤章
・瑛九―現代美術の父
宮崎瑛九展9鈴木素直さん今春亡くなられた鈴木素直さん(左)は新制の大宮高校時代に瑛九からエスペラント語を習い、その後教師となります。瑛九と親交を続け、没後はその顕彰に大きな役割を果たし、詩人、日本野鳥の会会員としても幅広い活躍をなさってきました。
ご遺族の了解を得て「瑛九・鈔」をご毎月17日に再録掲載してきましたが今回が最終回です。
あらためて鈴木さんのご冥福を祈るとともに、その遺志を微力ですが伝え、さらなる瑛九顕彰に尽くしたいと思います。
鈴木さん、長いあいだお世話になりました。

瑛九展『現代美術の父 瑛九展』図録(小田急)
1979年 瑛九展開催委員会発行
132ページ 24.0×25.0cm
同図録・銅版入り特装版(限定150部)

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『詩集 夏日・一九四八ー一九七四』
1979年
鉱脈社 発行
102ページ
22.0x15.5cm

目次:
・鏡より
 鏡
 ことば
・夏に向ってより
 夏に向って
 その時小さいあなたへ
 春一番
 野鳥 I
 野鳥 II
 入江 I
 入江 II
 小さいカゴの中で
 病院にて
 孟蘭盆
 夏草 I
 夏草 II
 大いなる儀式
 ムラから
 来歴
・女たちより
 秋
 雨
 夜
 川
 鳥
・夏日より
 春
 いつも同じ石
 海
・詩集「夏日」によせて 金丸桝一
・覚書

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『馬喰者(ばくろう)の話』
1999年
本多企画 発行
114ページ
18.5x14.1cm

目次:
・馬喰者の時間
・馬喰者の話
・馬喰者の煙管(きせる)
・馬喰者問答
・馬喰者の夢
・馬喰者の謎
・馬喰者の庭
・ふくろう
・青葉木莵異聞
・雲雀と鶉
・時鳥がうたう
・夕焼けの中の黒いカラス
・残暑見舞い
・眠っている男
・手術室にて
・残照記
・切り株
・八月の庭
・知念さんの地図

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20180426151116_00001鈴木素直
『鳥は人の心で鳴くか みやざき・野鳥民族誌』
2005年
本多企画 発行
265ページ
18.3x13.2cm

目次(抄):
・宮崎の野鳥・俗名考―消える方言とユニークな命名
・ツバメあれこれ
・方言さんぽ
・鳥十話
・日向の鳥ばなし
・宮崎県の鳥類
・自然に関わる伝承と農耕習俗―野鳥にまつわる俗信・俚言を中心に
・野鳥にまつわる民俗文化
・県北を歩く
・県南を歩く
・野鳥の方言・寸感
・後記
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●今日のお勧め作品は、瑛九です。
NC660瑛九いたずらレゾネ57瑛九「いたずら」
1956年  リトグラフ
イメージサイズ:45.0x30.0cm
シートサイズ:54.5x38.5cm
限定13部(8/13)  鉛筆サインあり
*レゾネNo.57(瑛九の会、1974年)
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2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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