追悼 ジョナス・メカス
木下哲夫さんとメカスさん
ジョナス・メカスさんが2019年1月23日にNYのご自宅で亡くなられました。
私たちは当然のように100歳を超えてもきっとお元気だろうと信じていただけに胸の中にぽっかりと穴があいたような心細い思いにとらわれています。

昨年1月~3月にかけて埼玉県立近代美術館で「版画の景色 現代版画センターの軌跡」展が開催され、そのフライヤーにはメカスさんの版画「セルフ・ポートレイト ラコステ(サド侯爵の城)の日蔭にて」が使われました。

展覧会場の最後のコーナーでは現代版画センターの企画した宇都宮・大谷の「巨大地下空間とウォーホル展」のスライドと、メカスさんの映像作品が上映されました。(撮影:酒井猛)
そもそも私たちが現代版画センター時代にメカスさんを知り、1983年秋に日本に初めてお招きしたのは友人の木下哲夫(メカス日本日記の会)さんの紹介と尽力によるものでした。
その経緯については木下さんが上掲展覧会のカタログに寄稿されているので、ご本人と美術館の許可を得て一部を再録します。
< >内が再録文
~~~~~
<(1.は略)
2.
版画センターの制作した磯崎新さんの版画を80年代初めにサンフランシスコのフィリップ・ボナフォン・ギャラリーに紹介し、展覧会を開いてもらいました。
同じく80年代初めにニューヨークで映画作家のジョナス・メカスさんと出会いました。当時メカスさんはイーストエンドの旧裁判所の建物の払い下げを受け、これを映像美術館に改築するための資金集めに奔走しており、親しいアーティスト、写真家から寄付された作品を集めた立派なポートフォリオを制作しましたが、思うように売れずに困っていました。帰国後この話を綿貫さんにしたところ、さっそくポートフォリオをまとめて買ってくれました。1983年12月にはこのポートフォリオを中心に原美術館で展覧会を開き、これに合わせてメカスさんも来日し、メカスさんの映画のコマを素材とするシルクスクリーンも制作されました。メカスさんとの付き合いはこの後もつづき、「ときの忘れもの」でもフィルムのコマから制作したスチル写真の展覧会やフィルムの上映会が定期的に開かれています。
これと同じころ、ニューヨークはソーホーのメカスさんのロフトから1ブロック南に住むイタリア人画家ジャン・ベルト・ヴァンニさんの展覧会を開いてもらいました。ヴァンニさんは来日して渋谷の方寸ほか、版画センターの斡旋で奈良、小浜でも展覧会を開き、リトグラフも制作しました。ちょうどこの時期、ヴァンニさんの幼馴染みがイタリア大使として日本に駐在中で、レセプションを港区三田の大使公邸で開いてくださり、その贅沢さに綿貫さんが目を白黒させていたのは楽しい思い出です。
これは版画センター以降、「ときの忘れもの」になってからのことですが、写真家の柳澤信さんと金箔画家の野口琢郎くんの個展を開いてもらいました。どちらも優れた作家ですが、個展をするには費用負担をふくめそれなりの覚悟が必要でしょう。よそで断られてから綿貫さんに相談したのではなく、最初に話をもちかけたのが綿貫さんだったのですが、たぶんほかではそう簡単に話は進まなかったとおもうので、ここでも綿貫さんの思い切りの良さがよい結果を生んだことになります。
3.
メカスさんがロフトに山積みになったポートフォリオが売れずに困っていると聞き、その場ですぐに買うと綿貫さんが決めたのが、今から振り返るとメカスさんと日本の長い付き合いの始まりだったように思います。そういえば鉢山町の事務所でこの話をしたら、間髪を入れずに綿貫さんが「それ買いますよ、えーと、何部買えばいいかな」と言ったときの表情が目に浮かびます。ポートフォリオが限定75部の版画集だったのも、版画センターにとっては扱いやすかったかもしれません。メカスさんから版画3部、写真2部の持ち運びに苦労するほど大きくて重いポートフィリオが届いて間もなく、1983年12月に原美術館のスケジュールに空きができて、何か良い企画があれば展覧会ができるという話が舞い込んだのもじつに幸運でした。話はとんとん拍子にまとまり、1970年代初めに草月会館で「リトアニアへの旅の追憶」の上映会があり、フィルムアート社から『メカスの映画日記』が刊行されて以来、前衛芸術に関心のある人々の間では実験映画の旗頭として知られてはいたものの、本人を目の当たりにする日が来るとおもうひとはごく稀であったろうメカスさんが来日し、東京、名古屋、奈良、京都、大阪、福岡で上映会に参加し、熱心な観客の質問に真摯に答えました。これをきっかけにメカスさんはその後3度来日し、展覧会、上映会もしばしば開かれています。綿貫さんの素早い決断がなければ、事情はだいぶ変わっていたでしょう。
木下哲夫 >
(埼玉県立近代美術館「版画の景色 現代版画センターの軌跡」展のカタログより)
■木下哲夫
翻訳家。1950年生まれ。京都大学卒業後、パリ第三大学英文科で学ぶ。C.トムキンズ『マルセル・デュシャン』(みすず書房)、ジョン・リチャードソン『ピカソ』(白水社)、『アイ・ウェイウェイ主義』(ブックエンド)、ジョナス・メカス『ジョナス・メカス―ノート、対話、映画』(せりか書房)、ジョナス・メカス『フローズン・フィルム・フレームズ―静止した映画』(フォトプラネット)など、美術書を中心に多数の翻訳を手がける。
https://tetsuokinoshita.wordpress.com/

埼玉県立近代美術館の展示より、左から「枝と葉の影を映し、雨滴に濡れた壁」、「モントークのピーター・ビアード 1974」、「セルフ・ポートレイト ラコステ(サド侯爵の城)の日蔭にて」。
右端は佐藤雅彦さんによる原美術館「アメリカ現代版画と写真展 ジョナス・メカスと26人の仲間たち」展ポスター(1983年12月)。(撮影:タケミ・アートフォトス)

左から「ウーナ・メカス5才 猫とホリス(母)の前でヴァイオリンの稽古 1979」、「夜の街を走る車 マンハッタン」、「京子の7才の誕生日(オノ・ヨーコの愛娘)1970」、「ひなぎくを持ったケイト・マンハイム 1972」、以上7点のシルクスクリーンは現代版画センターとジョナス・メカス展実行委員会との共同エディションとして1983年秋のメカスさんの初来日の折に制作されました。(撮影:タケミ・アートフォトス)

1983年12月7日 福岡にて
初来日したときのメカスさん(60歳)。
撮影:福間良夫(写真提供:宮田靖子)

2005年10月、青山・ときの忘れものにて
4度目の来日。左から木下哲夫さん、綿貫不二夫、メカスさん、尾立麗子
■ジョナス・メカス Jonas MEKAS(1922-2019)
1922年12月24日リトアニアのセメニスキアイの農家に生まれる。1936年初めての詩集を出版。1940・42年ソ連軍(赤軍)、ナチス・ドイツのリトアニア占領。反ナチ新聞の発行が発覚し、強制収容所に送られる。1945年収容所を脱走、難民キャンプを転々とするが、マインツ大学で哲学を学ぶ。1949年ハンブルク港から出航、アメリカ・ブルックリンに移り住む。
1950年様々な仕事をしながら、当時住んでいたウィリアムズバーグやリトアニア系移民を撮り始める。1954年『フィルム・カルチャー』誌を発行。1955年詩集「セメニスキウ・イディレス」第2版がヴィンカス・クレーヴ詩賞を受ける。1958年『ヴィレッジ・ヴォイス』誌に「ムービー・ジャーナル(映画日記)」を連載、後に出版(76年まで継続)。「ニュー・アメリカン・シネマ・グループ」の設立に協力、60年設立。
1961年「フィルムメーカーズ・コーペラティブ(映画作家協同組合)」を組織。1964年「フィルムメーカ一ズ・シネマテーク」を組織。
1965年『営倉』(1964年、68分)がヴェネツィア映画祭ドキュメンタリー部門で最優秀賞受賞。1968年ユダヤ博物館のフィルム・キュレーターを務める(~71年)。
1969年アンソロジー・フィルム・アーカイブスの設立準備を開始。1971年夏、リトアニアを訪問。1975年ベルリン映画祭、ロンドン映画祭、アムステルダム映画祭参加。
1983年アンソロジー・フィルム・アーカイブス設立計画アピールのために初来日。原美術館他で「アメリカ現代版画と写真展―ジョナス・メカスと26人の仲間たち」開催。初のシルクスクリーンによる版画を制作。1989年アンソロジー・フィルム・アーカイブス開館。
1991年・96年来日。1999年パリ・ギャラリ・ドゥ・アニエスで「JONAS MEKAS―“this side of paradise”fragmentof an unfinished biography」展を開催。2000年「ジョナス・メカス映像展―[thisside of paradise]」が愛知芸術文化センター他で開催。
2005年ときの忘れものの個展のために4度目の来日。
2019年1月23日ニューヨークにて死去、享年96。
ジョナス・メカス Jonas MEKAS
"Andy Warhol at Montauk, 1971"
2000年
C-print
30.5×20.2cm
Ed.10
signed
*日本で制作した7点の版画(シルクスクリーン)が、その後メカスさんが精力的に発表することになる「フローズン・フィルム・フレームズ=静止した映画」制作のきっかけになりました。
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
◆追悼の心をこめてジョナス・メカス上映会(DVD)を開催します。
会期:2019年2月5日[火]―2月9日[土]
代表作「リトアニアへの旅の追憶」は毎日上映するほか、「ショート・フィルム・ワークス」、「営倉」、「ロスト・ロスト・ロスト」、「ウォルデン」の4本を日替わりで上映します。
上映時間他、詳しくはホームページをご覧ください。
2月9日17時よりのトーク「メカスさんを語る」(要予約、ゲスト:飯村昭子さん、木下哲夫さん)は既に満席となり受付を終了しました。
◆ときの忘れものは「新春の特集展示:生きものたち~宮脇愛子、嶋田しづ、谷口靖、永井桃子」を開催します。
会期:2019年1月29日(火)~2月2日(土) 11:00-19:00※日・月・祝日休廊

画廊コレクションから、世代もキャリアも異なる4人の作家の生命力あふれる作品を展示いたします。ぜひご高覧ください。
出品作家:宮脇愛子、嶋田しづ、谷口靖、永井桃子
◆「第27回瑛九展 」は1月26日に終了しましたが、3月末のアートバーゼル香港2019に「瑛九展」で初出展します。
・瑛九の資料・カタログ等については1月11日ブログ「瑛九を知るために」をご参照ください。
・現在、各地の美術館で瑛九作品が展示されています。
埼玉県立近代美術館:「特別展示:瑛九の部屋」で120号の大作「田園」を公開、他に40点以上の油彩、フォトデッサン、版画他を展示(4月14日まで)。
横浜美術館:「コレクション展『リズム、反響、ノイズ』」で「フォート・デッサン作品集 眠りの理由」(1936年)より6点を展示(3月24日まで)。
宮崎県立美術館:<瑛九 -宮崎にて>で120号の大作「田園 B」などを展示(4月7日まで)。
●東京神田神保町の文房堂ギャラリーで「版画のコア core2」展が開催されています(~2月2日[土])、会期中無休)。ときの忘れものは日和崎尊夫を出品協力しています。
●ときの忘れもののブログは年中無休です。昨年ご寄稿いただいた方は全部で51人。年末12月30日のブログで全員をご紹介しました。
●2019年のときの忘れもののラインナップはまだ流動的ですが、昨2018年に開催した企画展、協力展覧会、建築ツアー、ギャラリーコンサートなどは年末12月31日のブログで回顧しました。
●ときの忘れものは〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

木下哲夫さんとメカスさん
ジョナス・メカスさんが2019年1月23日にNYのご自宅で亡くなられました。
私たちは当然のように100歳を超えてもきっとお元気だろうと信じていただけに胸の中にぽっかりと穴があいたような心細い思いにとらわれています。

昨年1月~3月にかけて埼玉県立近代美術館で「版画の景色 現代版画センターの軌跡」展が開催され、そのフライヤーにはメカスさんの版画「セルフ・ポートレイト ラコステ(サド侯爵の城)の日蔭にて」が使われました。

展覧会場の最後のコーナーでは現代版画センターの企画した宇都宮・大谷の「巨大地下空間とウォーホル展」のスライドと、メカスさんの映像作品が上映されました。(撮影:酒井猛)
そもそも私たちが現代版画センター時代にメカスさんを知り、1983年秋に日本に初めてお招きしたのは友人の木下哲夫(メカス日本日記の会)さんの紹介と尽力によるものでした。
その経緯については木下さんが上掲展覧会のカタログに寄稿されているので、ご本人と美術館の許可を得て一部を再録します。
< >内が再録文
~~~~~
<(1.は略)
2.
版画センターの制作した磯崎新さんの版画を80年代初めにサンフランシスコのフィリップ・ボナフォン・ギャラリーに紹介し、展覧会を開いてもらいました。
同じく80年代初めにニューヨークで映画作家のジョナス・メカスさんと出会いました。当時メカスさんはイーストエンドの旧裁判所の建物の払い下げを受け、これを映像美術館に改築するための資金集めに奔走しており、親しいアーティスト、写真家から寄付された作品を集めた立派なポートフォリオを制作しましたが、思うように売れずに困っていました。帰国後この話を綿貫さんにしたところ、さっそくポートフォリオをまとめて買ってくれました。1983年12月にはこのポートフォリオを中心に原美術館で展覧会を開き、これに合わせてメカスさんも来日し、メカスさんの映画のコマを素材とするシルクスクリーンも制作されました。メカスさんとの付き合いはこの後もつづき、「ときの忘れもの」でもフィルムのコマから制作したスチル写真の展覧会やフィルムの上映会が定期的に開かれています。
これと同じころ、ニューヨークはソーホーのメカスさんのロフトから1ブロック南に住むイタリア人画家ジャン・ベルト・ヴァンニさんの展覧会を開いてもらいました。ヴァンニさんは来日して渋谷の方寸ほか、版画センターの斡旋で奈良、小浜でも展覧会を開き、リトグラフも制作しました。ちょうどこの時期、ヴァンニさんの幼馴染みがイタリア大使として日本に駐在中で、レセプションを港区三田の大使公邸で開いてくださり、その贅沢さに綿貫さんが目を白黒させていたのは楽しい思い出です。
これは版画センター以降、「ときの忘れもの」になってからのことですが、写真家の柳澤信さんと金箔画家の野口琢郎くんの個展を開いてもらいました。どちらも優れた作家ですが、個展をするには費用負担をふくめそれなりの覚悟が必要でしょう。よそで断られてから綿貫さんに相談したのではなく、最初に話をもちかけたのが綿貫さんだったのですが、たぶんほかではそう簡単に話は進まなかったとおもうので、ここでも綿貫さんの思い切りの良さがよい結果を生んだことになります。
3.
メカスさんがロフトに山積みになったポートフォリオが売れずに困っていると聞き、その場ですぐに買うと綿貫さんが決めたのが、今から振り返るとメカスさんと日本の長い付き合いの始まりだったように思います。そういえば鉢山町の事務所でこの話をしたら、間髪を入れずに綿貫さんが「それ買いますよ、えーと、何部買えばいいかな」と言ったときの表情が目に浮かびます。ポートフォリオが限定75部の版画集だったのも、版画センターにとっては扱いやすかったかもしれません。メカスさんから版画3部、写真2部の持ち運びに苦労するほど大きくて重いポートフィリオが届いて間もなく、1983年12月に原美術館のスケジュールに空きができて、何か良い企画があれば展覧会ができるという話が舞い込んだのもじつに幸運でした。話はとんとん拍子にまとまり、1970年代初めに草月会館で「リトアニアへの旅の追憶」の上映会があり、フィルムアート社から『メカスの映画日記』が刊行されて以来、前衛芸術に関心のある人々の間では実験映画の旗頭として知られてはいたものの、本人を目の当たりにする日が来るとおもうひとはごく稀であったろうメカスさんが来日し、東京、名古屋、奈良、京都、大阪、福岡で上映会に参加し、熱心な観客の質問に真摯に答えました。これをきっかけにメカスさんはその後3度来日し、展覧会、上映会もしばしば開かれています。綿貫さんの素早い決断がなければ、事情はだいぶ変わっていたでしょう。
木下哲夫 >
(埼玉県立近代美術館「版画の景色 現代版画センターの軌跡」展のカタログより)
■木下哲夫
翻訳家。1950年生まれ。京都大学卒業後、パリ第三大学英文科で学ぶ。C.トムキンズ『マルセル・デュシャン』(みすず書房)、ジョン・リチャードソン『ピカソ』(白水社)、『アイ・ウェイウェイ主義』(ブックエンド)、ジョナス・メカス『ジョナス・メカス―ノート、対話、映画』(せりか書房)、ジョナス・メカス『フローズン・フィルム・フレームズ―静止した映画』(フォトプラネット)など、美術書を中心に多数の翻訳を手がける。
https://tetsuokinoshita.wordpress.com/

埼玉県立近代美術館の展示より、左から「枝と葉の影を映し、雨滴に濡れた壁」、「モントークのピーター・ビアード 1974」、「セルフ・ポートレイト ラコステ(サド侯爵の城)の日蔭にて」。
右端は佐藤雅彦さんによる原美術館「アメリカ現代版画と写真展 ジョナス・メカスと26人の仲間たち」展ポスター(1983年12月)。(撮影:タケミ・アートフォトス)

左から「ウーナ・メカス5才 猫とホリス(母)の前でヴァイオリンの稽古 1979」、「夜の街を走る車 マンハッタン」、「京子の7才の誕生日(オノ・ヨーコの愛娘)1970」、「ひなぎくを持ったケイト・マンハイム 1972」、以上7点のシルクスクリーンは現代版画センターとジョナス・メカス展実行委員会との共同エディションとして1983年秋のメカスさんの初来日の折に制作されました。(撮影:タケミ・アートフォトス)

1983年12月7日 福岡にて
初来日したときのメカスさん(60歳)。
撮影:福間良夫(写真提供:宮田靖子)

2005年10月、青山・ときの忘れものにて
4度目の来日。左から木下哲夫さん、綿貫不二夫、メカスさん、尾立麗子
■ジョナス・メカス Jonas MEKAS(1922-2019)
1922年12月24日リトアニアのセメニスキアイの農家に生まれる。1936年初めての詩集を出版。1940・42年ソ連軍(赤軍)、ナチス・ドイツのリトアニア占領。反ナチ新聞の発行が発覚し、強制収容所に送られる。1945年収容所を脱走、難民キャンプを転々とするが、マインツ大学で哲学を学ぶ。1949年ハンブルク港から出航、アメリカ・ブルックリンに移り住む。
1950年様々な仕事をしながら、当時住んでいたウィリアムズバーグやリトアニア系移民を撮り始める。1954年『フィルム・カルチャー』誌を発行。1955年詩集「セメニスキウ・イディレス」第2版がヴィンカス・クレーヴ詩賞を受ける。1958年『ヴィレッジ・ヴォイス』誌に「ムービー・ジャーナル(映画日記)」を連載、後に出版(76年まで継続)。「ニュー・アメリカン・シネマ・グループ」の設立に協力、60年設立。
1961年「フィルムメーカーズ・コーペラティブ(映画作家協同組合)」を組織。1964年「フィルムメーカ一ズ・シネマテーク」を組織。
1965年『営倉』(1964年、68分)がヴェネツィア映画祭ドキュメンタリー部門で最優秀賞受賞。1968年ユダヤ博物館のフィルム・キュレーターを務める(~71年)。
1969年アンソロジー・フィルム・アーカイブスの設立準備を開始。1971年夏、リトアニアを訪問。1975年ベルリン映画祭、ロンドン映画祭、アムステルダム映画祭参加。
1983年アンソロジー・フィルム・アーカイブス設立計画アピールのために初来日。原美術館他で「アメリカ現代版画と写真展―ジョナス・メカスと26人の仲間たち」開催。初のシルクスクリーンによる版画を制作。1989年アンソロジー・フィルム・アーカイブス開館。
1991年・96年来日。1999年パリ・ギャラリ・ドゥ・アニエスで「JONAS MEKAS―“this side of paradise”fragmentof an unfinished biography」展を開催。2000年「ジョナス・メカス映像展―[thisside of paradise]」が愛知芸術文化センター他で開催。
2005年ときの忘れものの個展のために4度目の来日。
2019年1月23日ニューヨークにて死去、享年96。

"Andy Warhol at Montauk, 1971"
2000年
C-print
30.5×20.2cm
Ed.10
signed
*日本で制作した7点の版画(シルクスクリーン)が、その後メカスさんが精力的に発表することになる「フローズン・フィルム・フレームズ=静止した映画」制作のきっかけになりました。
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
◆追悼の心をこめてジョナス・メカス上映会(DVD)を開催します。

代表作「リトアニアへの旅の追憶」は毎日上映するほか、「ショート・フィルム・ワークス」、「営倉」、「ロスト・ロスト・ロスト」、「ウォルデン」の4本を日替わりで上映します。
上映時間他、詳しくはホームページをご覧ください。
2月9日17時よりのトーク「メカスさんを語る」(要予約、ゲスト:飯村昭子さん、木下哲夫さん)は既に満席となり受付を終了しました。
◆ときの忘れものは「新春の特集展示:生きものたち~宮脇愛子、嶋田しづ、谷口靖、永井桃子」を開催します。
会期:2019年1月29日(火)~2月2日(土) 11:00-19:00※日・月・祝日休廊

画廊コレクションから、世代もキャリアも異なる4人の作家の生命力あふれる作品を展示いたします。ぜひご高覧ください。
出品作家:宮脇愛子、嶋田しづ、谷口靖、永井桃子
◆「第27回瑛九展 」は1月26日に終了しましたが、3月末のアートバーゼル香港2019に「瑛九展」で初出展します。
・瑛九の資料・カタログ等については1月11日ブログ「瑛九を知るために」をご参照ください。
・現在、各地の美術館で瑛九作品が展示されています。
埼玉県立近代美術館:「特別展示:瑛九の部屋」で120号の大作「田園」を公開、他に40点以上の油彩、フォトデッサン、版画他を展示(4月14日まで)。
横浜美術館:「コレクション展『リズム、反響、ノイズ』」で「フォート・デッサン作品集 眠りの理由」(1936年)より6点を展示(3月24日まで)。
宮崎県立美術館:<瑛九 -宮崎にて>で120号の大作「田園 B」などを展示(4月7日まで)。
●東京神田神保町の文房堂ギャラリーで「版画のコア core2」展が開催されています(~2月2日[土])、会期中無休)。ときの忘れものは日和崎尊夫を出品協力しています。
●ときの忘れもののブログは年中無休です。昨年ご寄稿いただいた方は全部で51人。年末12月30日のブログで全員をご紹介しました。
●2019年のときの忘れもののラインナップはまだ流動的ですが、昨2018年に開催した企画展、協力展覧会、建築ツアー、ギャラリーコンサートなどは年末12月31日のブログで回顧しました。
●ときの忘れものは〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

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