橋本啓子のエッセイ「倉俣史朗の宇宙」第4回
Glass Chair (硝子の椅子)(1976)
《Glass Chair 硝子の椅子》(図1、1976)は世界中の美術館が所蔵する倉俣の傑作デザインである。ガラス職人の三保谷友彦(1945-2016)が金物とガラスの接着剤「フォトボンド100」に出会ったことでこの驚異的な椅子が生まれた話はよく知られている(注1)。
三保谷は明治42年創業の三保谷硝子店に生まれ、父が松屋に出入りしていた関係で、1964年当時、松屋の嘱託デザイナーだった倉俣と知り合った。1967年ごろから倉俣のデザインのガラス部分の造作を行うようになり、1991年に倉俣が逝去するまで彼の仕事を支え続けた。筆者は2006年に三保谷にインタヴューをする機会を得たが、歯切れのいい東京弁で倉俣との仕事がどれだけエキサイティングだったかを語ってくださったことが今でも忘れられない。
大阪の明星チャーチルが金属とガラスの接着用に開発した「フォトボンド100」は、1976年のある晴れた日、営業マンが三保谷硝子店に売り込みにきたのだった。金物とガラスがくっつく接着剤との説明を受けた三保谷は、ガラス同士もくっつくのではと考えて早速にガラスの端切れ同士をフォトボンド100で接着し、紫外線硬化を促すため店先に放置する。しばらくして接着を確認、すぐさま、倉俣のところに持っていった。筆者は三保谷に尋ねた――「なぜ、倉俣さんのところに持っていったのですか。」
三保谷:なぜ、倉俣さんのところにすぐ持っていったかっていうと、前からずっとそういうのを考えているわけだから。そのひとつは、さっきのタカノとかエドワーズの箱あるじゃない、あれはシリコンでついているんだけど、シリコン汚ねえな、って。でもシリコンしかないわけじゃない。シリコンはどうしても使わなきゃならないんだけど。そのあとに、……タカノのカフェのときは、ケースをシールでやったのね。高透過のシールなんだけど、まだ接着じゃない。……これ〔フォトボンド100〕みたときに、これはいけるって。それですぐに持っていった(注2)。」
なるほど、三保谷は、新宿タカノのガラス・ショーケース(東京・新宿、1969)やエドワーズ本社ビルのガラス壁面のショールーム(東京・南青山、1969)の施工を通じて、倉俣がシリコンやシールでのガラス接着に不満を抱いていたことをずっと気にかけ、方策を探していたのである。デザイナーと職人とのなんと固い絆だろうか。話を聞いていた筆者は、ガラスがしっかりくっついているのを見た時の三保谷の興奮に満ちた顔を思わず想像してしまった。
「それで、倉俣さんの反応はどうだったのですか。」
三保谷:そしたら、「ちょっと待って」って、30分ぐらいですかね。倉俣さん最初にみて、「きれいじゃない」って。それで乗っかったの。「剥がれねえなあ、いいじゃん」って言った途端、割れた。だから、棚かなんかかなあと思ったら、椅子だって。(中略)
椅子っていうのは衝撃だったね。倉俣さんが30分ぐらいで描いたのを徹夜で作ったの。手描きの図面。徹夜でガラス切って磨いて貼ったのよ。それで次の日、持って行った(注3)。
三保谷の言葉にあるとおり、フォトボンドによる接着は倉俣にとって満足の行く綺麗な接着だった。接着部分に座ったら割れてしまったが、それにもかかわらず、倉俣が30分で図面を描き、三保谷に試作を依頼したのは、なんと板ガラスを接着した椅子の案だった。翌日、三保谷が徹夜で仕上げた椅子にはいろいろな人が座り、割れないことを確認したが、この座る実験に参加させられたひとりにアートディレクターの石岡瑛子がいる。三保谷の記憶によれば、倉俣から電話をもらい飛んできた石岡は、「大丈夫なの、大丈夫なの?」と言いながら、ゆっくりとガラスの椅子に座り込んだという。
筆者も正直、百パーセント安全だと知りながら、今でも《Glass Chair》には恐る恐る、ゆっくり座ろうとする癖が抜けない。視覚イメージと素材についての知識(ガラスは透明で、割れるもの、接着剤ではつかないもの)はそれほど強烈に人の意識に作用するのだ。何でもあり、の21世紀の今でさえ、この椅子はそういう恐怖心を人に抱かせるのだから、1976年の人々はどれだけ驚いたか知れない。真っ先に反応したのは意外にもアートの世界だった。
現代美術批評家の東野芳明は当時、南青山の画廊「グリーン・コレクションズ」でこの椅子を目にして、「全部がガラス製で、見えない物質と座ることへの恐怖感をつきつける」と1976年10月の『流行通信』に寄稿している。翌1977年、東野は自らが企画した現代美術のグループ展「Art Today ’77 見えることの構造 6人の目』(東京、西武美術館)に、宇佐美圭司、河口龍夫ら、気鋭の若手美術家とともに倉俣を参加させた。言うまでもなく倉俣は出品作家の中でただひとりのデザイナーで、《Glass Chair》がいかに東野にとって衝撃的だったかを物語るエピソードである。東野いわく、この「見えない椅子」がもたらす恐怖感は、「見える椅子という安全弁で支えられていた日常の亀裂」をわれわれに見せるのである(注4)。
《Glass Chair》がその種の恐怖感(というと少々大げさだが)をもたらすことは当然、倉俣も考えていたはずだが、実は、彼自身がそれについて語った記録はない。1981年に長谷川尭が行ったインタヴューの中で、倉俣は《Glass Chair》の構想が、フォトボンド100との出会いよりも以前に彼の頭の中にあったことを述べている。
今から10数年前だと思うけどアーサー・C・クラークのSFを映画化した「2001年・宇宙の旅」という映画があったでしょ。まず最初にそれを見る時に、宇宙ステーションのインテリアにぼくはすっごく興味があり期待していたわけね。どんな風にデザインしているだろうかと。どういう家具がつかわれているのだろうか。ところが実際には、エアボーンの家具なんか出てきて、かなりがっかりしたことをおぼえている。エアボーンの家具はまだ当時日本ではあまり知られていなかったけれど、比較的ポピュラーなもので…じゃあ、自分だったらどういうものかな、どんな椅子をこの空間にデザインするかな、と考えていくと、その時にばくぜんと「ガラスの椅子」じゃないかな、というイメージがぼくの頭にあったんです。その意味ではぼくのガラスの家具は、あの映画へのオマージュとして作ったものだともいえるのかもしれない(注5)。
「エアボーンの家具」というのは、O・ムルグがデザインしたエアボーン社製のDjinn Chairで、倉俣ががっかりしたのは、それがすでに現実世界で使われていた家具だったからだろう。そこで、SFという虚構世界に相応しい家具は何か、として思いついたのがガラスの椅子というわけである。
倉俣にとってデザインとは地球の引力から社会の慣習、権力に至るあらゆる拘束から離れて浮く「自由」を表現することである。ガラスやアクリルのような透明素材の抽斗や椅子は、そこに入る物、座す人を浮かせるがゆえに、自由の表現としての虚構の風景をつくる。《Glass Chair》はそのような表現への希求から生まれた。
とはいえ、透明素材を用いるのであれば、ガラスでなくてもアクリルでも良かったはずである。倉俣は生涯にわたり、ガラスもアクリルも異なる感触をもたらす素材として同等に愛し、用いていたから、余計にこの疑問が浮かぶ。ちなみに倉俣はこれに関しても何も語っていない。
ひょっとしたら、ガラスを選んだのは、透明プラスチックの椅子はザノッタ社の《Blow Chair》(1967)などの前例があったからだろうか。さらにアクリルを美しく接着するのは当時、非常に困難で、かつ耐久性に問題があったからだろうか。考えれば考えるほど、個人的にはやはり、ガラスが割れやすい素材である、ということが、アクリルではなくガラスを選択した一番の理由に思えてくるが、どうなのだろうか。
批評家の多木浩二が、《Glass Chair》を「デザインの機能性についての倉俣の批判」であるとしたのはやはり、ガラスが通常、椅子の素材に用いられないことを根拠している(注6)。要するに、椅子とは座り心地の良さを提供できる素材とかたちで作られるべきである、という機能主義に倉俣が反発した椅子、と彼は解釈する。この多木の読み方は理知的であり、東野による《Glass Chair》の解釈にも通じるが、倉俣がこのふたりの意見をどう思っていたかは分からない。彼が《Glass Chair》について語ったのは、先に引いたとおり、それが映画『2001年宇宙の旅』(1968)をきっかけに構想したものであることと、次の引用のとおり、子どもたちが「見えない椅子だ」と喜んでいたということだけなのだ。
あるとき、屋外で硝子の椅子を撮影していたところ、子どもたちが集まり、<見えない椅子だ>とよろこんでいた。椅子という実体を認めながら、言葉の上では見えないという。このわずかな透き間に実は広大な宇宙を見る思いがする(注7)。
個人的に何十回読んだか知れないこの詩のような倉俣の言葉を見ながら、いつも同じ疑問を繰り返す。ここで彼の記している「椅子という実体」と「見えないという言葉」の「わずかな透き間」とは一体、何なのか。
現時点で筆者が考えるのは、この「わずかな透き間」とは、《Glass Chair》という実体と、《Glass Chair》の概念――概念はつねに「言葉」で表される――のわずかな透き間ではなかったかという事だ。
《Glass Chair》の概念は、多木や東野のように既存の椅子のあり方への反発や違和感として理路整然と言葉で説明できる。だが、われわれをこの椅子に惹きつけるのは、そのような概念としての《Glass Chair》であると同時に、実体としての《Glass Chair》でもあるのだ。われわれは接着ガラスという椅子の既成概念を否定する理論を評価しつつ、実物の《Glass Chair》に直面するや否や、そこにみなぎる緊張感に圧倒される。この緊張感は何なのだろうか。ガラスが割れることへの恐怖心か、あるいは、それをどこかで期待するような好奇心か、それとも、割れるのを待っているかのようなガラスだけが有する美だろうか。何十という言葉にならない感覚が身体中をかけめぐり、ふと我に帰る。これこそがもしかしたら、倉俣が見ようとした「広大な宇宙」だったのではないかと。
(はしもと けいこ)
注1:三保谷友彦(1945-2016)はこのときの状況を複数の雑誌において語っているが、例として、「職人たちの倉俣史朗」『AXIS』1996年7-8月号(no. 62〔倉俣史朗特集号〕)参照。また、ガラス同士が完全に接着されるためには、接着面となるガラスの断面が平滑に研がれる必要があるが、倉俣は、三保谷がそのための研磨職人を探して歩いてくれたと述べている。次を参照。長谷川堯「倉俣史朗が語る ガラスあるいは浮遊への手がかり」(倉俣史朗へのインタヴュー)『SPACE MODULATOR』1981年2月号(no. 58)、6頁。
注2:2006年7月24日に筆者が行った三保谷友彦へのインタヴューによる。
注3:同上。
注4:東野芳明「見えることの構造」『Art Today ’77 見えることの構造 6人の目』(展覧会図録)、西武美術館、1977年、頁なし。同展は、西武美術館(東京・池袋)の現代美術アニュアル展の第1回展として東野芳明により企画され、倉俣、および宇佐美圭司、河口龍夫、斉藤智、島州一の5名の作家を招聘して、1977年7月7日-27日に同館で開催された。「6人の目」の6人目は東野を意味する。倉俣以外の4名はすべて美術作家であった。
注5:長谷川堯「倉俣史朗が語る ガラスあるいは浮遊への手がかり」、4頁。
注6:多木浩二「デザインのレトリック ガラスの椅子とスーパーカー」『みづゑ』1977年9月号(no. 870)、92-93頁。
注7:倉俣史朗「連載=色の空間=8 倉俣史朗」『ジャパンインテリア』1977年4月号(no. 217)、51頁。
■橋本啓子
近畿大学建築学部准教授。慶應義塾大学文学部英米文学専攻、英国イースト・アングリア大学美術史音楽学部修士課程修了後、東京都現代美術館、兵庫県立近代美術館学芸員を務める。神戸大学大学院総合人間科学研究科博士後期課程において博士論文「倉俣史朗の主要デザインに関する研究」を執筆。以来、倉俣史朗を中心に日本の商環境デザインの歴史研究を行っている。神戸学院大学人文学部専任講師(2011-2016)を経て、2016年から現職。倉俣に関する共著に関康子、涌井彰子ほか編『21_21 DESIGN SIGHT 展覧会ブック 倉俣史朗とエットレ・ソットサス』東京:株式会社ADP、2010年(「倉俣クロニクル」執筆)、Deyan Sudjic, Shiro Kuramata, London: Phaidon Press, 2013(Book 2: Catalogue of Works全執筆)、埼玉県立美術館・平野到、大越久子、前山祐司編著『企画展図録 浮遊するデザイン―倉俣史朗とともに』東京:アートプラニング レイ、2013年(エッセイ「倉俣史朗と美術」執筆)など。
●本日のお勧め作品は倉俣史朗です。
倉俣史朗 Shiro KURAMATA
「Flower Vase #1301」(ブルー)
アクリル、アルミパイプ カラーアルマイト、ガラス管
W8.0xD8.0xH22.0cm
撮影:桜井ただひさ
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜~土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。
~~~~~
●ホームページのトップの誌面を刷新し、中央列最下段に「作品紹介」のコーナーを新設しました。
安藤忠雄から六角鬼丈まで「主な取扱作家」38作家(各3~5点)の127作品を一挙掲載したのに続き、靉嘔、山田正亮、アントニン・レーモンド、磯辺行久、ジョエル・シャピロ、槇文彦、マン・レイ、嶋田しづ等を次々と掲載しています。すべて在庫がありますので、ご注文いただけます。
画面をスクロールすると全点をご覧いただけますし、ご興味のある画面をクリックすると当該作品のページ(詳細なデータ入り)にリンクします。
作品紹介の更新は毎週4回(火曜・木曜・金曜・土曜)を予定しています。
◆ときの忘れものは「第309回企画◆ル・コルビュジエ展 」を開催します。
会期:2019年3月15日[金]―4月6日[土] 11:00-19:00 ※日・月・祝日休廊

ときの忘れものは開廊以来、ジョバンニ・バティスタ・ピラネージ、ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライト、安藤忠雄、磯崎新など建築家たちが描いたドローイングや版画を紹介してきました。 日本では、建築家=建築を設計する「技術者」と思われていますが、私たちは優れた建築家というのは、人間の生きる空間をデザインする「アーティスト」だと考えています。 その空間に身をおくだけで人間の精神に刺激を与えるような空間を創造する人、実際に建築が実現しなくとも、そのような空間を夢想する人、そんな建築家たちの描いた作品を私たちは積極的に扱ってきました。 20世紀の鉄とコンクリートとガラスの建築をリードした巨匠、ル・コルビュジェは、精力的に世界各地に建築を残しましたが、その出発点は画家であり、生涯絵筆を離すことはありませんでした。版画作品も精力的に制作しています。
今回の「ル・コルビュジエ展」では、代表作「ユニテ」連作などの版画作品と、彼がデザインした食器なども出品し、多彩な才能の一端をご紹介します。
最終日4月6日[土]は1日だけの「吉川盛一の建築本の販売」を開催します。吉川盛一氏は「住まいの図書館出版局」などで活躍する建築専門の編集者です。
●ときの忘れものは〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

Glass Chair (硝子の椅子)(1976)
《Glass Chair 硝子の椅子》(図1、1976)は世界中の美術館が所蔵する倉俣の傑作デザインである。ガラス職人の三保谷友彦(1945-2016)が金物とガラスの接着剤「フォトボンド100」に出会ったことでこの驚異的な椅子が生まれた話はよく知られている(注1)。
三保谷は明治42年創業の三保谷硝子店に生まれ、父が松屋に出入りしていた関係で、1964年当時、松屋の嘱託デザイナーだった倉俣と知り合った。1967年ごろから倉俣のデザインのガラス部分の造作を行うようになり、1991年に倉俣が逝去するまで彼の仕事を支え続けた。筆者は2006年に三保谷にインタヴューをする機会を得たが、歯切れのいい東京弁で倉俣との仕事がどれだけエキサイティングだったかを語ってくださったことが今でも忘れられない。
大阪の明星チャーチルが金属とガラスの接着用に開発した「フォトボンド100」は、1976年のある晴れた日、営業マンが三保谷硝子店に売り込みにきたのだった。金物とガラスがくっつく接着剤との説明を受けた三保谷は、ガラス同士もくっつくのではと考えて早速にガラスの端切れ同士をフォトボンド100で接着し、紫外線硬化を促すため店先に放置する。しばらくして接着を確認、すぐさま、倉俣のところに持っていった。筆者は三保谷に尋ねた――「なぜ、倉俣さんのところに持っていったのですか。」
三保谷:なぜ、倉俣さんのところにすぐ持っていったかっていうと、前からずっとそういうのを考えているわけだから。そのひとつは、さっきのタカノとかエドワーズの箱あるじゃない、あれはシリコンでついているんだけど、シリコン汚ねえな、って。でもシリコンしかないわけじゃない。シリコンはどうしても使わなきゃならないんだけど。そのあとに、……タカノのカフェのときは、ケースをシールでやったのね。高透過のシールなんだけど、まだ接着じゃない。……これ〔フォトボンド100〕みたときに、これはいけるって。それですぐに持っていった(注2)。」
なるほど、三保谷は、新宿タカノのガラス・ショーケース(東京・新宿、1969)やエドワーズ本社ビルのガラス壁面のショールーム(東京・南青山、1969)の施工を通じて、倉俣がシリコンやシールでのガラス接着に不満を抱いていたことをずっと気にかけ、方策を探していたのである。デザイナーと職人とのなんと固い絆だろうか。話を聞いていた筆者は、ガラスがしっかりくっついているのを見た時の三保谷の興奮に満ちた顔を思わず想像してしまった。
「それで、倉俣さんの反応はどうだったのですか。」
三保谷:そしたら、「ちょっと待って」って、30分ぐらいですかね。倉俣さん最初にみて、「きれいじゃない」って。それで乗っかったの。「剥がれねえなあ、いいじゃん」って言った途端、割れた。だから、棚かなんかかなあと思ったら、椅子だって。(中略)
椅子っていうのは衝撃だったね。倉俣さんが30分ぐらいで描いたのを徹夜で作ったの。手描きの図面。徹夜でガラス切って磨いて貼ったのよ。それで次の日、持って行った(注3)。
三保谷の言葉にあるとおり、フォトボンドによる接着は倉俣にとって満足の行く綺麗な接着だった。接着部分に座ったら割れてしまったが、それにもかかわらず、倉俣が30分で図面を描き、三保谷に試作を依頼したのは、なんと板ガラスを接着した椅子の案だった。翌日、三保谷が徹夜で仕上げた椅子にはいろいろな人が座り、割れないことを確認したが、この座る実験に参加させられたひとりにアートディレクターの石岡瑛子がいる。三保谷の記憶によれば、倉俣から電話をもらい飛んできた石岡は、「大丈夫なの、大丈夫なの?」と言いながら、ゆっくりとガラスの椅子に座り込んだという。
筆者も正直、百パーセント安全だと知りながら、今でも《Glass Chair》には恐る恐る、ゆっくり座ろうとする癖が抜けない。視覚イメージと素材についての知識(ガラスは透明で、割れるもの、接着剤ではつかないもの)はそれほど強烈に人の意識に作用するのだ。何でもあり、の21世紀の今でさえ、この椅子はそういう恐怖心を人に抱かせるのだから、1976年の人々はどれだけ驚いたか知れない。真っ先に反応したのは意外にもアートの世界だった。
現代美術批評家の東野芳明は当時、南青山の画廊「グリーン・コレクションズ」でこの椅子を目にして、「全部がガラス製で、見えない物質と座ることへの恐怖感をつきつける」と1976年10月の『流行通信』に寄稿している。翌1977年、東野は自らが企画した現代美術のグループ展「Art Today ’77 見えることの構造 6人の目』(東京、西武美術館)に、宇佐美圭司、河口龍夫ら、気鋭の若手美術家とともに倉俣を参加させた。言うまでもなく倉俣は出品作家の中でただひとりのデザイナーで、《Glass Chair》がいかに東野にとって衝撃的だったかを物語るエピソードである。東野いわく、この「見えない椅子」がもたらす恐怖感は、「見える椅子という安全弁で支えられていた日常の亀裂」をわれわれに見せるのである(注4)。
《Glass Chair》がその種の恐怖感(というと少々大げさだが)をもたらすことは当然、倉俣も考えていたはずだが、実は、彼自身がそれについて語った記録はない。1981年に長谷川尭が行ったインタヴューの中で、倉俣は《Glass Chair》の構想が、フォトボンド100との出会いよりも以前に彼の頭の中にあったことを述べている。
今から10数年前だと思うけどアーサー・C・クラークのSFを映画化した「2001年・宇宙の旅」という映画があったでしょ。まず最初にそれを見る時に、宇宙ステーションのインテリアにぼくはすっごく興味があり期待していたわけね。どんな風にデザインしているだろうかと。どういう家具がつかわれているのだろうか。ところが実際には、エアボーンの家具なんか出てきて、かなりがっかりしたことをおぼえている。エアボーンの家具はまだ当時日本ではあまり知られていなかったけれど、比較的ポピュラーなもので…じゃあ、自分だったらどういうものかな、どんな椅子をこの空間にデザインするかな、と考えていくと、その時にばくぜんと「ガラスの椅子」じゃないかな、というイメージがぼくの頭にあったんです。その意味ではぼくのガラスの家具は、あの映画へのオマージュとして作ったものだともいえるのかもしれない(注5)。
「エアボーンの家具」というのは、O・ムルグがデザインしたエアボーン社製のDjinn Chairで、倉俣ががっかりしたのは、それがすでに現実世界で使われていた家具だったからだろう。そこで、SFという虚構世界に相応しい家具は何か、として思いついたのがガラスの椅子というわけである。
倉俣にとってデザインとは地球の引力から社会の慣習、権力に至るあらゆる拘束から離れて浮く「自由」を表現することである。ガラスやアクリルのような透明素材の抽斗や椅子は、そこに入る物、座す人を浮かせるがゆえに、自由の表現としての虚構の風景をつくる。《Glass Chair》はそのような表現への希求から生まれた。
とはいえ、透明素材を用いるのであれば、ガラスでなくてもアクリルでも良かったはずである。倉俣は生涯にわたり、ガラスもアクリルも異なる感触をもたらす素材として同等に愛し、用いていたから、余計にこの疑問が浮かぶ。ちなみに倉俣はこれに関しても何も語っていない。
ひょっとしたら、ガラスを選んだのは、透明プラスチックの椅子はザノッタ社の《Blow Chair》(1967)などの前例があったからだろうか。さらにアクリルを美しく接着するのは当時、非常に困難で、かつ耐久性に問題があったからだろうか。考えれば考えるほど、個人的にはやはり、ガラスが割れやすい素材である、ということが、アクリルではなくガラスを選択した一番の理由に思えてくるが、どうなのだろうか。
批評家の多木浩二が、《Glass Chair》を「デザインの機能性についての倉俣の批判」であるとしたのはやはり、ガラスが通常、椅子の素材に用いられないことを根拠している(注6)。要するに、椅子とは座り心地の良さを提供できる素材とかたちで作られるべきである、という機能主義に倉俣が反発した椅子、と彼は解釈する。この多木の読み方は理知的であり、東野による《Glass Chair》の解釈にも通じるが、倉俣がこのふたりの意見をどう思っていたかは分からない。彼が《Glass Chair》について語ったのは、先に引いたとおり、それが映画『2001年宇宙の旅』(1968)をきっかけに構想したものであることと、次の引用のとおり、子どもたちが「見えない椅子だ」と喜んでいたということだけなのだ。
あるとき、屋外で硝子の椅子を撮影していたところ、子どもたちが集まり、<見えない椅子だ>とよろこんでいた。椅子という実体を認めながら、言葉の上では見えないという。このわずかな透き間に実は広大な宇宙を見る思いがする(注7)。
個人的に何十回読んだか知れないこの詩のような倉俣の言葉を見ながら、いつも同じ疑問を繰り返す。ここで彼の記している「椅子という実体」と「見えないという言葉」の「わずかな透き間」とは一体、何なのか。
現時点で筆者が考えるのは、この「わずかな透き間」とは、《Glass Chair》という実体と、《Glass Chair》の概念――概念はつねに「言葉」で表される――のわずかな透き間ではなかったかという事だ。
《Glass Chair》の概念は、多木や東野のように既存の椅子のあり方への反発や違和感として理路整然と言葉で説明できる。だが、われわれをこの椅子に惹きつけるのは、そのような概念としての《Glass Chair》であると同時に、実体としての《Glass Chair》でもあるのだ。われわれは接着ガラスという椅子の既成概念を否定する理論を評価しつつ、実物の《Glass Chair》に直面するや否や、そこにみなぎる緊張感に圧倒される。この緊張感は何なのだろうか。ガラスが割れることへの恐怖心か、あるいは、それをどこかで期待するような好奇心か、それとも、割れるのを待っているかのようなガラスだけが有する美だろうか。何十という言葉にならない感覚が身体中をかけめぐり、ふと我に帰る。これこそがもしかしたら、倉俣が見ようとした「広大な宇宙」だったのではないかと。
(はしもと けいこ)
注1:三保谷友彦(1945-2016)はこのときの状況を複数の雑誌において語っているが、例として、「職人たちの倉俣史朗」『AXIS』1996年7-8月号(no. 62〔倉俣史朗特集号〕)参照。また、ガラス同士が完全に接着されるためには、接着面となるガラスの断面が平滑に研がれる必要があるが、倉俣は、三保谷がそのための研磨職人を探して歩いてくれたと述べている。次を参照。長谷川堯「倉俣史朗が語る ガラスあるいは浮遊への手がかり」(倉俣史朗へのインタヴュー)『SPACE MODULATOR』1981年2月号(no. 58)、6頁。
注2:2006年7月24日に筆者が行った三保谷友彦へのインタヴューによる。
注3:同上。
注4:東野芳明「見えることの構造」『Art Today ’77 見えることの構造 6人の目』(展覧会図録)、西武美術館、1977年、頁なし。同展は、西武美術館(東京・池袋)の現代美術アニュアル展の第1回展として東野芳明により企画され、倉俣、および宇佐美圭司、河口龍夫、斉藤智、島州一の5名の作家を招聘して、1977年7月7日-27日に同館で開催された。「6人の目」の6人目は東野を意味する。倉俣以外の4名はすべて美術作家であった。
注5:長谷川堯「倉俣史朗が語る ガラスあるいは浮遊への手がかり」、4頁。
注6:多木浩二「デザインのレトリック ガラスの椅子とスーパーカー」『みづゑ』1977年9月号(no. 870)、92-93頁。
注7:倉俣史朗「連載=色の空間=8 倉俣史朗」『ジャパンインテリア』1977年4月号(no. 217)、51頁。
■橋本啓子
近畿大学建築学部准教授。慶應義塾大学文学部英米文学専攻、英国イースト・アングリア大学美術史音楽学部修士課程修了後、東京都現代美術館、兵庫県立近代美術館学芸員を務める。神戸大学大学院総合人間科学研究科博士後期課程において博士論文「倉俣史朗の主要デザインに関する研究」を執筆。以来、倉俣史朗を中心に日本の商環境デザインの歴史研究を行っている。神戸学院大学人文学部専任講師(2011-2016)を経て、2016年から現職。倉俣に関する共著に関康子、涌井彰子ほか編『21_21 DESIGN SIGHT 展覧会ブック 倉俣史朗とエットレ・ソットサス』東京:株式会社ADP、2010年(「倉俣クロニクル」執筆)、Deyan Sudjic, Shiro Kuramata, London: Phaidon Press, 2013(Book 2: Catalogue of Works全執筆)、埼玉県立美術館・平野到、大越久子、前山祐司編著『企画展図録 浮遊するデザイン―倉俣史朗とともに』東京:アートプラニング レイ、2013年(エッセイ「倉俣史朗と美術」執筆)など。
●本日のお勧め作品は倉俣史朗です。

「Flower Vase #1301」(ブルー)
アクリル、アルミパイプ カラーアルマイト、ガラス管
W8.0xD8.0xH22.0cm
撮影:桜井ただひさ
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜~土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。
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●ホームページのトップの誌面を刷新し、中央列最下段に「作品紹介」のコーナーを新設しました。
安藤忠雄から六角鬼丈まで「主な取扱作家」38作家(各3~5点)の127作品を一挙掲載したのに続き、靉嘔、山田正亮、アントニン・レーモンド、磯辺行久、ジョエル・シャピロ、槇文彦、マン・レイ、嶋田しづ等を次々と掲載しています。すべて在庫がありますので、ご注文いただけます。
画面をスクロールすると全点をご覧いただけますし、ご興味のある画面をクリックすると当該作品のページ(詳細なデータ入り)にリンクします。
作品紹介の更新は毎週4回(火曜・木曜・金曜・土曜)を予定しています。
◆ときの忘れものは「第309回企画◆ル・コルビュジエ展 」を開催します。
会期:2019年3月15日[金]―4月6日[土] 11:00-19:00 ※日・月・祝日休廊

ときの忘れものは開廊以来、ジョバンニ・バティスタ・ピラネージ、ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライト、安藤忠雄、磯崎新など建築家たちが描いたドローイングや版画を紹介してきました。 日本では、建築家=建築を設計する「技術者」と思われていますが、私たちは優れた建築家というのは、人間の生きる空間をデザインする「アーティスト」だと考えています。 その空間に身をおくだけで人間の精神に刺激を与えるような空間を創造する人、実際に建築が実現しなくとも、そのような空間を夢想する人、そんな建築家たちの描いた作品を私たちは積極的に扱ってきました。 20世紀の鉄とコンクリートとガラスの建築をリードした巨匠、ル・コルビュジェは、精力的に世界各地に建築を残しましたが、その出発点は画家であり、生涯絵筆を離すことはありませんでした。版画作品も精力的に制作しています。
今回の「ル・コルビュジエ展」では、代表作「ユニテ」連作などの版画作品と、彼がデザインした食器なども出品し、多彩な才能の一端をご紹介します。
最終日4月6日[土]は1日だけの「吉川盛一の建築本の販売」を開催します。吉川盛一氏は「住まいの図書館出版局」などで活躍する建築専門の編集者です。
●ときの忘れものは〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

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