松本竣介研究ノート 第2回

「研究リハビリ」~松本竣介の評伝


小松﨑拓男


 松本竣介研究を再開するにあたって一体何から手をつけるべきなのか、研究を中断してしまってからの時間経過はもう25年にもなる。すでに研究の筋力や持久力は当時とは比べ物にならないほど弱ってしまっているだろう。そして研究の水準や内容は、遥か先まで進んでしまっているに違いない。果たして追いつけるのか。
 まるで往年のアスリートが再び競技のフィールドに立ち戻ってきたような心持ちだ。まずはリハビリである。幸いにして時間は今までよりもある。これだけが幾多の不安材料の中での唯一の好材料、救いである。

 さて、何から「研究リハビリ」を始めるか……。

 まずは評伝類の読み直しから始めることにした。もちろん最初に手にしたのは、朝日晃によって書かれた『松本竣介』(日動出版)(注1)である。これは松本竣介の初めての本格的な評伝であり、松本竣介の生涯と作品について、細部には異論があるところもあるだろうが、ほぼ現在の松本竣介像と言えるものの骨格を作り上げたのが本書である。ただこれはいわゆる学術書や研究書の類ではない。評伝としてさまざまな取材や事実に基づいているところもあるが、いちいちに出典が明記されている訳ではない。また根拠のある事実だけを記し、推測や憶測を明確に区別して書いている訳でもない。情景描写や心情を筆者が想像し書いている箇所もままあり、それらが混在しているように思う。そして訂正すべき点もあった。

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 事実、私は本書に書かれていた松本竣介が盛岡から東京に上京してきた折の住まいの住所を雑司ヶ谷から、その当時自由学園の教員をしていた恩師佐藤瑞彦の隣家であった記述を頼りに調査し、その場所を西池袋に訂正している。その経緯は日動画廊から出されていた小冊子『繪』(注2)に書いた。ちなみにこれが私の松本竣介についての初めて活字となった文章であった。だが私はこの時大失敗をやっている。あろうことか、佐藤瑞彦の名前を間違えて、校正の時も気づかず「端彦」と誤記したまま活字になってしまった。私には同じ「瑞彦」という名前の叔父(注3)がいるにもかかわらずだ……。この一事はデビューの文章での痛恨の出来事である。翌号にごく小さく訂正の記述が載ったが、今思っても恥ずかしく情けない。
 さて、本書で私が最も気になっているのは、朝日晃による松本竣介の作品の分析や解釈である。朝日晃はロマンチストである。情景描写などの文章表現の表情はすこぶる豊かだ。そして松本竣介の作品に現れる色彩や線を、宮沢賢治の詩や童話の世界と同じではないかと述べ、盛岡の風景や季節などの自然や風土に由来するものだと語る(注4)。しかし、実はこれには根拠が全くない。端的に言えば主観的な解釈に過ぎないのだ。
 確かに松本竣介が宮沢賢治に深く傾倒していたことには違いないかもしれない。しかしそれが、松本竣介が作品を制作する上で大きな動機づけになっていたのだと言えるかどうかは疑問だ。作品制作に関して宮沢賢治を参照したなどという松本竣介自身の文章はないのではないか。つまりそれは宮沢賢治的な世界や世界観を松本竣介は自身の作品で表現しようとしたかったのだろうか、という疑問でもある。
 また同様に、色彩や線を盛岡の風景や風土に求める解釈も何か釈然としないのだ。もちろん幼少期の風景や光景が画家に大きな影響を与えることもあるだろう。よく「松本竣介の風景だ」という記述に他の本の中で出会う(注5)。だが、これが正しいとすると、同郷で生まれた画家たちはほとんど似たような色彩と線や形を作品の中に描かなくてはならないことになる。多分それは違うだろう。
 一人の画家が作品を描くときに用いる色彩や線、これは自身の技術の習得、鍛錬、他の画家からの影響、流行、画材、モチーフなど、外的な要因や要素、そしてその画家の興味や個性などの内面が複雑に絡み合い、簡単に風土だけに還元したり、帰したりすることのできないものではないのか。つまりもっとさまざまな要素を十分に考察しなければ答えが出ないもののように思えるのだ。
 だが、風土論は根強い。独自の取材で松本竣介を取り巻く人々と会い、丹念な聞き取りを行っていた画家村上善男もそんな記述を著書(注6)の中に残している。村上の著作も松本竣介の評伝の一冊であるといってもいいだろう。

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 ところでこの村上の著書で気になったのが橡木(とちぎ)弘という詩人である。本書の中で長々と引用されているこの詩人の詩(注7)には、松本竣介の名前が登場する。実在する画家、松本竣介の名をわざわざ具体的に詠み込んだ詩を書く、この奇特な詩人は一体誰なのだろうか。調べてみれば何のことはない村上善男の詩人としての筆名であった。自身が美術家でもある村上善男はまた詩人でもあった。だが迂闊にも私はこのことをすっかり失念していた。

 どうやらこの調子では、「研究リハビリ」期間は思ったよりも長引きそうな気配である。また一つ不安材料が加わってしまった。

注1:朝日晃『松本竣介』日動出版 1977.3
注2:小松崎拓男「上京の頃の松本竣介を追って」『繪266』 日動画廊 1986.4 pp.16~20
注3:叔父の小松崎瑞彦(こまつざきみずひこ)は日本大学農獣医学部のドイツ語の教授を務めた。息子である私の従兄弟にあたる小松崎民樹(こまつざきたみき)は神戸大学教授を経て、現在北海道大学教授である。母方の曽祖父は漢学者の市村瓚次郎(いちむらさんじろう)で東京帝国大学教授を務めた後、国学院大学の学長となった。現在の平成天皇の名付け親でもあるという。このほか市村には茨城大学学長、大阪大学教授、山形大学教授がいて学者一家であった。なお祖父の市村宏(いちむらひろし)は盛岡高等農林学校時代に宮沢賢治のアゼリア会に参加、同人誌に寄稿している。この辺りのことはまた書く機会があるかもしれない。
注4:朝日晃 『前掲書』 「風雪の舞う『イギリス海岸』は、多くの回想を、強いることなく浮上させてくれ、一人の詩人と、二人の画家(著者注:松本竣介と萬鉄五郎のこと)と、そして彼等に共通する色彩感覚といったものまで私には暗示的であった。」p.57
注5:村上善男『松本竣介と友人たち』新潮社 1987.7 p.153
注6:同上
注7:橡木弘「錘」村上善男『前掲書』pp.172~173 
こまつざき たくお

■小松﨑拓男 Takuo KOMATSUZAKI
千葉県生まれ。横浜そごう美術館、郡山市美術館準備室、平塚市美術館の主任学芸員を経て、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]学芸課長、広島市現代美術館学芸課長、副館長を歴任後、金沢美術工芸大学教授を2019年まで務める。現在、美術評論家連盟会員、文教大学情報学部非常勤講師として「美術」「サブカルチャー論」担当。
キュレーター時代には絵画をはじめとしてメディア・アートなど先端領域を含めた幅広い分野で近現代美術の展覧会を企画。村上隆、奈良美智、会田誠などを公立美術館で初めて本格的に紹介した。
主な展覧会に「TOKYO POP」(平塚市美術館)「New Media New Face / New York」(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC])「絵画新世紀」「サイバー・アジア」(広島市現代美術館)「エコメトロ」(光州ビエンナーレ)などがある。

●今日のお勧めは、松本竣介です。
20松本竣介 Shunsuke MATSUMOTO
《女の横顔(2)》
※「松本竣介没後50年展―人と街の風景―」(1997年 南天子画廊)図録19ページ所収
1945年頃
紙にインク、墨
イメージサイズ:25.5x19.0cm
シートサイズ:27.3x19.7cm
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第28回カタログ表『第28回 瑛九展』(アートバーゼル香港)図録
2019年 ときの忘れもの
B5版 36頁 作品17点、参考図版27点掲載
執筆:大谷省吾(東京国立近代美術館)
編集:尾立麗子(ときの忘れもの)
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
翻訳:Polly Barton、勝見美生(ときの忘れもの)
価格:800円 *送料250円

Ei-Qの冊子お送りくださりありがとうございます。
さすがに瑛九は偉大です。どの作品も素晴らしいです。
先日もいただいたチケットで埼玉県美の建築展と瑛九を観ました。
ありがとうございます。

(20190331/Мさんからのメールより)>

●瑛九の資料・カタログ等については1月11日ブログ「瑛九を知るために」をご参照ください。
埼玉県立近代美術館では「特別展示:瑛九の部屋」で120号の大作「田園」を公開、「瑛九と光春―イメージの版/層」では山田光春の新収蔵作品とともに、40点以上の油彩、フォトデッサン、版画他を展示しています(4月14日まで)。
宮崎県立美術館でも<瑛九 -宮崎にて>で120号の大作「田園 B」などを展示しています(4月7日まで)。

●ときの忘れものは〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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