中村惠一「新宿・落合に住んだ画家たち(中村式落合散歩)」第12回(最終回)
瀧口修造
そもそも私が落合散歩を始めるきっかけになったのは瀧口修造の存在であった。新宿区落合地区に転入してきた当初は土地勘もなく、近くに佐伯祐三のアトリエが残されていて公園になっているから散歩してみようくらいの認識しかなった。西落合に瀧口が住んでいたことを何かの折に思い出し、古い詩の雑誌によって旧地番の住所を知って、その場所を訪問する気になったのであった。瀧口といえば思い出したのはオリーブの瓶詰めである。小豆島出身の舞踏家・石井満隆から瀧口のオリーブの瓶詰めは最初自分が作ったとの逸話を聞いていた。石井がヨーロッパに渡航してしまってからは池田龍雄や上原木呂が製作を引き継いだと聞いていた。そのオリーブの木が今はどうなっているのか、オリーブの実は無理にしてもせめて葉の一枚でも残っていないものかと思ったのが瀧口邸跡を訪問する動機になったのだった。
幸い、地図でみると歩いてゆける距離であった。ときは春、桜(染井吉野)が咲くには少し早いが散歩には良い気候であった。そこで妻を誘って歩いたのだった。初めての道は不安があるせいなのか、常に実際よりも少し遠く感じるもので、この時もそうだった。新目白通りを西にむかって歩くと漫画家たちの梁山泊であったトキワ荘跡や目白文化村の近くを通り、新宿区が豊島区にくちばしでつついているような形をした西落合の入り口に着く。哲学堂に近く、西には水の塔が独特の姿を見せていた。雑誌でみつけた地番の近くまでゆくが、地番の土地に直接入る道がなかなか見つけられずに周囲を何度か回ることになった。今はマンションがたってしまった場所が当時は建物が何もない駐車場になっていて、その塀のむこうに見事なしだれ桜が満開の花を咲かせていた。まるで夢のような情景だった。しかもその桜は、わかってみれば瀧口邸の隣家の庭にある桜であった。隣にあたる瀧口邸のあった場所には、その敷地いっぱいに別の建物がたっていたのだった。せめてもの救いはマンションになっていなかったこと、隣家のしだれ桜が美しかったことだった。急いで反対側にまわると狭い路地があり、桜の根本近くに行けるのだった。ただし、その道は行きどまりになっていた。路地の入口近くの方に声をかけていただいた。そこでこの散歩にいたった経緯を説明した。その方は瀧口邸のあった場所を教えてくれ、瀧口夫妻が隣家の桜ではあるが、しだれ桜の開花を毎年楽しみにされていたことを話してくれた。オリーブの木は残念ながらみつけられなかったが、とても印象深い散歩になったのだった。

瀧口修造が西落合に越してきたのは昭和28(1953)年のこと。借地に母屋を建てての移住であった。全くの偶然ではあっただろうが、その場所は戦前期に執筆していた雑誌『フォトタイムス』の編集部にほど近い場所であった。『フォトタイムス』は写真材料メーカーであるオリエンタル写真工業が発行していたが、オリエンタル写真工業の本社はまさにこの西落合にあった。この雑誌を基盤にして昭和13(1938)年には前衛写真協会という写真におけるシュルレアリスム表現をめざすグループをつくって瀧口は活動した。前回も書いたように前衛写真協会の主要なメンバーは阿部展也(芳文)、永田一脩、今井滋、森堯之、田中雅夫、濱谷浩、村田実一など。瀧口が西落合に越してきた時にはオリエンタル写真工業の本社工場も写真学校も空襲によって焼けてしまっていたが、第二工場だけは面影を残していたはずである。また戦前から行動を共にしてきた同志ともいえる阿部展也も下落合にアトリエを構えて住んでいた。瀧口は昭和26(1951)年から阿部や鶴岡政男の推薦があって、タケミヤ画廊での展覧会企画を行うことになったのであった。
今回の散歩の出発地点は都営地下鉄大江戸線の落合南長崎駅である。落合南長崎駅をでると目白通にでる。そこを少し南下すると新青梅街道にでる。これを哲学堂方面に向かう。西落合交番前の交差点を右に入って北に向かって歩くと左に入る路地がある。これを入った突き当りが瀧口修造邸のあった場所である。
丸印の場所が瀧口修造邸のあった場所
瀧口について考える時、写真の存在を忘れることはどうしてもできない。そもそも大正4(1915)年、開業医であり趣味人であった父が他界した際に遺品として残っていたのが手札型のカメラであった。未開封のイルフォード乾板を使って散々失敗した末に母の助けも借りて現像した際に像が浮かび出たときの感動を自筆年譜に書き残している。また西銀座の写真館に勤務し、将来は写真館を開業し生計をたてようとした時期もあったようである。『フォトタイムス』とのかかわりが戦前期に生じたこともこうした経験があったからこそだったのかもしれない。

前回の阿部の散歩でも記述したように、昭和31(1956)年に日本橋高島屋を会場にした「第一回国際主観主義写真展」がサンケイカメラ主催で開催されたが、これを機会に日本主観主義写真連盟が組織された。瀧口はその中心となっているが、主催である『サンケイカメラ』の編集長は桑原甲子雄、展示運営の中心は三瀬幸一(出展写真家でもある)である。展覧会では公募もされたが、その審査員は瀧口修造のほか阿部展也と三瀬幸一が担当している。こうしたあたりを考えると阿部と三瀬が中心になって旧知の瀧口を担ぎ上げたのだろう。連盟には戦前の『フォトタイムス』に作品が掲載されていたシュルレアリスム系の写真家、戦後に瀧口との関係ができた写真家、とくにタケミヤ画廊での展覧会に参加した写真家たちが名を連ねている。たとえば旧ソシエテ・イルフの吉崎一人、旧名古屋フォトアバンガルドの山本悍右、田島二男、高田皆義、後藤敬一郎(未所属であったが)、旧前衛写真協会の永田一脩、村田実一、関西の本庄光郎など戦前からのつながりのあるメンバーが名を連ねた。またタケミヤ画廊で展覧会を行った岡上淑子、大辻清司といったメンバーが連盟の会員として参加している。主観主義写真の本家本元、ドイツのオットー・シュタイネルトの人選(石元泰博、渋谷龍吉、大藤薫など)とはまた異なる瀧口人脈が感じられるメンバーであった。
第一回国際主観主義写真展会場



瀧口修造が亡くなったのは昭和54(1979)年7月1日のこと。河井病院で息を引き取ったのだが、西落合の自宅からすぐ近くの病院である。結局、西落合の家が瀧口のついの住処になったのだった。西落合在住の時期はタケミヤ画廊の企画をした時期の後半、実験工房の後半時期、自らデカルコマニーやバーント・ドローイングなど造型作品を制作した時期を包含している。同じく瀧口が中心となった「日本における主観主義写真」の全体像を改めて確かめてみたいという誘惑に私はかられている。
(なかむら けいいち)
■中村惠一(なかむら けいいち)
北海道大学生時代に札幌NDA画廊で一原有徳に出会い美術に興味をもつ。一原のモノタイプ版画作品を購入しコレクションが始まった。元具体の嶋本昭三の著書によりメールアートというムーブメントを知り、ネットワークに参加。コラージュ作品、視覚詩作品、海外のアーティストとのコラボレーション作品を主に制作する。一方、新宿・落合地域の主に戦前の文化史に興味をもち研究を続け、それをエッセイにして発表している。また最近では新興写真や主観主義写真の研究を行っている。
・略歴
1960年 愛知県岡崎市生まれ
1978年 菱川善夫と出会い短歌雑誌『陰画誌』に創刊同人として参加
1982年 札幌ギャラリー・ユリイカで個展を開催
1994年 メールアートを開始
1997年 “Visual Poesy of Japan”展参加(ドイツ・ハンブルグほか)
1999年 「日独ビジュアルポエトリー展」参加(北上市・現代詩歌文学館)
2000年 フランスのPierre Garnierとの日仏共作詩”Hai-Kai,un cahier D’ecolier”刊行
2002年 “JAPANESE VISUAL POETRY”展に参加(オーストリア大使館)
2008年 “Mapping Correspondence”展参加(ニューヨークThe Center for Book Arts)
2009年 “5th International Artist’s Book Triennial Vilnius2009”展に参加(リトアニア)
2012年 “The Future” Mail Art展企画開催(藤沢市 アトリエ・キリギリス)
◆中村惠一のエッセイ「新宿・落合に住んだ画家たち(中村式落合散歩)」は今回が最終回です。ご愛読ありがとうございました。
中村惠一さんには引き続き、別のテーマでの連載をお願いしています。どうぞご期待ください。
●本日のお勧め作品は瀧口修造です。
瀧口修造 Shuzo TAKIGUCHI
《作品》
紙にドローイング
Image size: 25.0x16.7m
Sheet size: 25.0x17.3cm
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
瀧口修造
そもそも私が落合散歩を始めるきっかけになったのは瀧口修造の存在であった。新宿区落合地区に転入してきた当初は土地勘もなく、近くに佐伯祐三のアトリエが残されていて公園になっているから散歩してみようくらいの認識しかなった。西落合に瀧口が住んでいたことを何かの折に思い出し、古い詩の雑誌によって旧地番の住所を知って、その場所を訪問する気になったのであった。瀧口といえば思い出したのはオリーブの瓶詰めである。小豆島出身の舞踏家・石井満隆から瀧口のオリーブの瓶詰めは最初自分が作ったとの逸話を聞いていた。石井がヨーロッパに渡航してしまってからは池田龍雄や上原木呂が製作を引き継いだと聞いていた。そのオリーブの木が今はどうなっているのか、オリーブの実は無理にしてもせめて葉の一枚でも残っていないものかと思ったのが瀧口邸跡を訪問する動機になったのだった。
幸い、地図でみると歩いてゆける距離であった。ときは春、桜(染井吉野)が咲くには少し早いが散歩には良い気候であった。そこで妻を誘って歩いたのだった。初めての道は不安があるせいなのか、常に実際よりも少し遠く感じるもので、この時もそうだった。新目白通りを西にむかって歩くと漫画家たちの梁山泊であったトキワ荘跡や目白文化村の近くを通り、新宿区が豊島区にくちばしでつついているような形をした西落合の入り口に着く。哲学堂に近く、西には水の塔が独特の姿を見せていた。雑誌でみつけた地番の近くまでゆくが、地番の土地に直接入る道がなかなか見つけられずに周囲を何度か回ることになった。今はマンションがたってしまった場所が当時は建物が何もない駐車場になっていて、その塀のむこうに見事なしだれ桜が満開の花を咲かせていた。まるで夢のような情景だった。しかもその桜は、わかってみれば瀧口邸の隣家の庭にある桜であった。隣にあたる瀧口邸のあった場所には、その敷地いっぱいに別の建物がたっていたのだった。せめてもの救いはマンションになっていなかったこと、隣家のしだれ桜が美しかったことだった。急いで反対側にまわると狭い路地があり、桜の根本近くに行けるのだった。ただし、その道は行きどまりになっていた。路地の入口近くの方に声をかけていただいた。そこでこの散歩にいたった経緯を説明した。その方は瀧口邸のあった場所を教えてくれ、瀧口夫妻が隣家の桜ではあるが、しだれ桜の開花を毎年楽しみにされていたことを話してくれた。オリーブの木は残念ながらみつけられなかったが、とても印象深い散歩になったのだった。

瀧口修造が西落合に越してきたのは昭和28(1953)年のこと。借地に母屋を建てての移住であった。全くの偶然ではあっただろうが、その場所は戦前期に執筆していた雑誌『フォトタイムス』の編集部にほど近い場所であった。『フォトタイムス』は写真材料メーカーであるオリエンタル写真工業が発行していたが、オリエンタル写真工業の本社はまさにこの西落合にあった。この雑誌を基盤にして昭和13(1938)年には前衛写真協会という写真におけるシュルレアリスム表現をめざすグループをつくって瀧口は活動した。前回も書いたように前衛写真協会の主要なメンバーは阿部展也(芳文)、永田一脩、今井滋、森堯之、田中雅夫、濱谷浩、村田実一など。瀧口が西落合に越してきた時にはオリエンタル写真工業の本社工場も写真学校も空襲によって焼けてしまっていたが、第二工場だけは面影を残していたはずである。また戦前から行動を共にしてきた同志ともいえる阿部展也も下落合にアトリエを構えて住んでいた。瀧口は昭和26(1951)年から阿部や鶴岡政男の推薦があって、タケミヤ画廊での展覧会企画を行うことになったのであった。
今回の散歩の出発地点は都営地下鉄大江戸線の落合南長崎駅である。落合南長崎駅をでると目白通にでる。そこを少し南下すると新青梅街道にでる。これを哲学堂方面に向かう。西落合交番前の交差点を右に入って北に向かって歩くと左に入る路地がある。これを入った突き当りが瀧口修造邸のあった場所である。

瀧口について考える時、写真の存在を忘れることはどうしてもできない。そもそも大正4(1915)年、開業医であり趣味人であった父が他界した際に遺品として残っていたのが手札型のカメラであった。未開封のイルフォード乾板を使って散々失敗した末に母の助けも借りて現像した際に像が浮かび出たときの感動を自筆年譜に書き残している。また西銀座の写真館に勤務し、将来は写真館を開業し生計をたてようとした時期もあったようである。『フォトタイムス』とのかかわりが戦前期に生じたこともこうした経験があったからこそだったのかもしれない。

前回の阿部の散歩でも記述したように、昭和31(1956)年に日本橋高島屋を会場にした「第一回国際主観主義写真展」がサンケイカメラ主催で開催されたが、これを機会に日本主観主義写真連盟が組織された。瀧口はその中心となっているが、主催である『サンケイカメラ』の編集長は桑原甲子雄、展示運営の中心は三瀬幸一(出展写真家でもある)である。展覧会では公募もされたが、その審査員は瀧口修造のほか阿部展也と三瀬幸一が担当している。こうしたあたりを考えると阿部と三瀬が中心になって旧知の瀧口を担ぎ上げたのだろう。連盟には戦前の『フォトタイムス』に作品が掲載されていたシュルレアリスム系の写真家、戦後に瀧口との関係ができた写真家、とくにタケミヤ画廊での展覧会に参加した写真家たちが名を連ねている。たとえば旧ソシエテ・イルフの吉崎一人、旧名古屋フォトアバンガルドの山本悍右、田島二男、高田皆義、後藤敬一郎(未所属であったが)、旧前衛写真協会の永田一脩、村田実一、関西の本庄光郎など戦前からのつながりのあるメンバーが名を連ねた。またタケミヤ画廊で展覧会を行った岡上淑子、大辻清司といったメンバーが連盟の会員として参加している。主観主義写真の本家本元、ドイツのオットー・シュタイネルトの人選(石元泰博、渋谷龍吉、大藤薫など)とはまた異なる瀧口人脈が感じられるメンバーであった。




瀧口修造が亡くなったのは昭和54(1979)年7月1日のこと。河井病院で息を引き取ったのだが、西落合の自宅からすぐ近くの病院である。結局、西落合の家が瀧口のついの住処になったのだった。西落合在住の時期はタケミヤ画廊の企画をした時期の後半、実験工房の後半時期、自らデカルコマニーやバーント・ドローイングなど造型作品を制作した時期を包含している。同じく瀧口が中心となった「日本における主観主義写真」の全体像を改めて確かめてみたいという誘惑に私はかられている。
(なかむら けいいち)
■中村惠一(なかむら けいいち)
北海道大学生時代に札幌NDA画廊で一原有徳に出会い美術に興味をもつ。一原のモノタイプ版画作品を購入しコレクションが始まった。元具体の嶋本昭三の著書によりメールアートというムーブメントを知り、ネットワークに参加。コラージュ作品、視覚詩作品、海外のアーティストとのコラボレーション作品を主に制作する。一方、新宿・落合地域の主に戦前の文化史に興味をもち研究を続け、それをエッセイにして発表している。また最近では新興写真や主観主義写真の研究を行っている。
・略歴
1960年 愛知県岡崎市生まれ
1978年 菱川善夫と出会い短歌雑誌『陰画誌』に創刊同人として参加
1982年 札幌ギャラリー・ユリイカで個展を開催
1994年 メールアートを開始
1997年 “Visual Poesy of Japan”展参加(ドイツ・ハンブルグほか)
1999年 「日独ビジュアルポエトリー展」参加(北上市・現代詩歌文学館)
2000年 フランスのPierre Garnierとの日仏共作詩”Hai-Kai,un cahier D’ecolier”刊行
2002年 “JAPANESE VISUAL POETRY”展に参加(オーストリア大使館)
2008年 “Mapping Correspondence”展参加(ニューヨークThe Center for Book Arts)
2009年 “5th International Artist’s Book Triennial Vilnius2009”展に参加(リトアニア)
2012年 “The Future” Mail Art展企画開催(藤沢市 アトリエ・キリギリス)
◆中村惠一のエッセイ「新宿・落合に住んだ画家たち(中村式落合散歩)」は今回が最終回です。ご愛読ありがとうございました。
中村惠一さんには引き続き、別のテーマでの連載をお願いしています。どうぞご期待ください。
●本日のお勧め作品は瀧口修造です。

《作品》
紙にドローイング
Image size: 25.0x16.7m
Sheet size: 25.0x17.3cm
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