植田実のエッセイ「本との関係」第14回
消える建築を見に行く
2007年3月10日。といえばもう10年以上も前だが、早稲田大学文学部校舎を見学する会があった。主催は同文学部丹尾安典研究室。この企画を手伝っていた目黒美術館学芸員(当時)の降旗千賀子さんから案内のファックスが送られてきた。見学会はつまりお別れ会であり、まえに彼女と会ったとき、この校舎が近く取り壊されると聞いて驚いたのである。
1962年完成。本部キャンパスからちょっと離れて戸山キャンパスに、高層の研究棟と低層の教室棟がピロティ、ブリッジ、中庭などを取り込んで小さな都市のような姿を見せていた。村野藤吾の設計。高層棟はシカゴにあるミース・ファン・デル・ローエの手がけたプロモントリー・アパートメントに影響を受けていると、ミースの弟子に当たる高山正実さんから聞いたことがある。レイクショア・ドライブに代表される鉄骨建築以前の鉄筋コンクリート造で、上階になるほどに柱の断面が小さくなっていく。村野の建築のなかでもとりわけ装飾的表層を排した合理的構造が、逆にこの建築家ならではのチャーミングな表情となっている。
その2年後、村野の代表作ともいわれる日本生命日比谷ビルが完成し、建築界全体がその力技におそれ入ってしまう。「フランク・ロイド・ライトの帝国ホテル」がまだ健在だったときで、道を隔てて建つ、その世界の名建築に向かい合った日比谷ビルの窓の一部がライトへの三顧の礼をつくしたデザインになっていた。そのほかビルの内外どこを見てもあまりにも力が入りすぎて、いつもの奇想・洒脱・情感がやや封じられている気もしたが、さらにその2年後の1966年、またもや堂々たる傑作、アルミ鋳物のルーヴァーにすっぽり包まれた千代田生命保険相互本社ビルが出現するのだから驚きだ。現在は目黒区庁舎として使われ、さらに良くなっている。
まだ自分が同時代の建築とは関わることがなかった学生時代(文科系だったし)いきなり出会って強く魅せられたのが村野藤吾の設計になる読売会館・そごう百貨店東京支店(1957年完成)だった。JR有楽町駅のプラットフォームに立つと、線路ごしに、その路線の印象を反映させたような鉄骨とガラスブロックが交互に40層ほど水平に重ねられた面が建築全体のファサードとなり眼前に迫ってくる。じつに魅力的だった。駅を出てこの建築の周りをひとまわりすると、プラットフォームとは反対の皇居側のファサード一面だけが白い大理石の細片を貼った大きな白い壁になっている。つまり鉄骨とガラスブロックの面も白い大理石の面も、建築の架構を隠したいわばグラフィックな表層で外観を見せていたのである。
のちに建築専門誌の編集者となって、村野藤吾と例えば丹下健三とに対する評価の二分がそのまま建築界の思想的傾向の表れとなっていることに徐々に気がつくのだが、私自身は無頓着だった。やはり学生時代に訪ねた東京の都庁舎、赤坂の旧草月会館、広島の平和記念会館における丹下にもまた、深く魅せられていたのだから。このへんのことを言いはじめると切りがない。
自分が学生だったときの文学部校舎は、本部キャンパス内の4号館だった。すぐ隣に今井兼次設計の図書館があり、この閲覧室はすばらしく、1925年竣工の建物だが今でも元の姿をよくとどめている。それにひきかえ、自分が通う校舎にはさいごまで馴染めなかった。階段を昇り降りするたびに溜息をついていたような気がするが、あれはどの授業にも身が入らなかった自分にたいしての溜息だったのかもしれない。やっと卒業した2年後に、その教室も本部キャンパスから逃げ出して、穴八幡近くの戸山キャンパスに新しく孤立した場所を確保した、その文学部校舎の輝きは、自分が失った歳月を見せつけているみたいだった。それからさらに数年後、JR高田馬場駅により近い戸山公園の隣地に理工学部の西早稲田キャンパスが独立する。村野も早稲田大学出身だが、より若い建築学部の教授たちがいかにも理工系らしい構造的手法を剛直に印象づける校舎群によって、文学部キャンパスと好対照の離れキャンパスをつくりあげてきた。理工学部では講師として授業を受け持ったり、そのほか何かと用事があって訪れることがあるが、それに比べて、文学部の新校舎に用事があって訪ねたのは一度だけ。卒業論文を返してもらいに行った。ゼロックスコピー機などわが家にはもちろん街のどこにもなく、だから手書きの1部限りを提出した。それが処分されたりする前に確保しておきたかった。つまりすでに終わった時間の用足しでしかなかったのである。400字80枚程度の原稿を綴じたその本を手元にしたあとは読み返したこともない。
冒頭に書いた文学部校舎見学会は、そういうわけで二度目の訪問、しかもお別れ会だったからそれ切りで、結局、用事がなくてもそれが建っているだけで気持ちの支えになっていた建築が唐突に消えてしまう。論文を返してもらうことを思いつかなければ、またさいごの見学会に誘ってもらわなければ、村野藤吾の建築に触れる機会すらも逸していた。見学会の当日は丹野安典教授の懇切丁寧な案内のおかげで、また見学時間をたっぷりとって下さったこともあって、ゆっくりとという以上にぶらぶらと、好きなところを歩きまわったり一休みしたり、またいろいろな方の話をきいたりの半日で、時間に追われがちになるいつもの建築見学とは違う、十分な満足を得た。そしてその分だけ十分な寂しさのなかにいた。それまで使われていた気配さえ絶ってしまった建築のがらんどうのなかにいた。
私の大学生活は、入学の年に母が亡くなり1年生の後半を休んでしまい、ついでにまるまる1年休学して下のクラスに間借りするみたいな気分で授業に出て、何とか卒業したあとはまったく想定外の、未経験の分野で働くことになった。人生はプラン通りにいかないことを思い知らされたが、早稲田での空白的充実の5年間がなかったら自分はどうなっていたか分からない。手書きの見すぼらしい本はその記録に違いなく、まだ書棚に、読まれぬままに残されている。
2007年4月、それまでの早稲田大学第一・第二文学部は改編されて新しい文学部が誕生した。そのために新しい器が必要とされた。古い建築を消すのに躊躇は許されなかったのだろう。
(2019.7.17 うえだ まこと)
●本日のお勧め作品はマイケル・グレイヴスです。
マイケル・グレイブス Michael GRAVES
「作品 7・84/1」
1984年
木版
30.3×24.0cm
Ed.150
サインあり
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
消える建築を見に行く
2007年3月10日。といえばもう10年以上も前だが、早稲田大学文学部校舎を見学する会があった。主催は同文学部丹尾安典研究室。この企画を手伝っていた目黒美術館学芸員(当時)の降旗千賀子さんから案内のファックスが送られてきた。見学会はつまりお別れ会であり、まえに彼女と会ったとき、この校舎が近く取り壊されると聞いて驚いたのである。
1962年完成。本部キャンパスからちょっと離れて戸山キャンパスに、高層の研究棟と低層の教室棟がピロティ、ブリッジ、中庭などを取り込んで小さな都市のような姿を見せていた。村野藤吾の設計。高層棟はシカゴにあるミース・ファン・デル・ローエの手がけたプロモントリー・アパートメントに影響を受けていると、ミースの弟子に当たる高山正実さんから聞いたことがある。レイクショア・ドライブに代表される鉄骨建築以前の鉄筋コンクリート造で、上階になるほどに柱の断面が小さくなっていく。村野の建築のなかでもとりわけ装飾的表層を排した合理的構造が、逆にこの建築家ならではのチャーミングな表情となっている。
その2年後、村野の代表作ともいわれる日本生命日比谷ビルが完成し、建築界全体がその力技におそれ入ってしまう。「フランク・ロイド・ライトの帝国ホテル」がまだ健在だったときで、道を隔てて建つ、その世界の名建築に向かい合った日比谷ビルの窓の一部がライトへの三顧の礼をつくしたデザインになっていた。そのほかビルの内外どこを見てもあまりにも力が入りすぎて、いつもの奇想・洒脱・情感がやや封じられている気もしたが、さらにその2年後の1966年、またもや堂々たる傑作、アルミ鋳物のルーヴァーにすっぽり包まれた千代田生命保険相互本社ビルが出現するのだから驚きだ。現在は目黒区庁舎として使われ、さらに良くなっている。
まだ自分が同時代の建築とは関わることがなかった学生時代(文科系だったし)いきなり出会って強く魅せられたのが村野藤吾の設計になる読売会館・そごう百貨店東京支店(1957年完成)だった。JR有楽町駅のプラットフォームに立つと、線路ごしに、その路線の印象を反映させたような鉄骨とガラスブロックが交互に40層ほど水平に重ねられた面が建築全体のファサードとなり眼前に迫ってくる。じつに魅力的だった。駅を出てこの建築の周りをひとまわりすると、プラットフォームとは反対の皇居側のファサード一面だけが白い大理石の細片を貼った大きな白い壁になっている。つまり鉄骨とガラスブロックの面も白い大理石の面も、建築の架構を隠したいわばグラフィックな表層で外観を見せていたのである。
のちに建築専門誌の編集者となって、村野藤吾と例えば丹下健三とに対する評価の二分がそのまま建築界の思想的傾向の表れとなっていることに徐々に気がつくのだが、私自身は無頓着だった。やはり学生時代に訪ねた東京の都庁舎、赤坂の旧草月会館、広島の平和記念会館における丹下にもまた、深く魅せられていたのだから。このへんのことを言いはじめると切りがない。
自分が学生だったときの文学部校舎は、本部キャンパス内の4号館だった。すぐ隣に今井兼次設計の図書館があり、この閲覧室はすばらしく、1925年竣工の建物だが今でも元の姿をよくとどめている。それにひきかえ、自分が通う校舎にはさいごまで馴染めなかった。階段を昇り降りするたびに溜息をついていたような気がするが、あれはどの授業にも身が入らなかった自分にたいしての溜息だったのかもしれない。やっと卒業した2年後に、その教室も本部キャンパスから逃げ出して、穴八幡近くの戸山キャンパスに新しく孤立した場所を確保した、その文学部校舎の輝きは、自分が失った歳月を見せつけているみたいだった。それからさらに数年後、JR高田馬場駅により近い戸山公園の隣地に理工学部の西早稲田キャンパスが独立する。村野も早稲田大学出身だが、より若い建築学部の教授たちがいかにも理工系らしい構造的手法を剛直に印象づける校舎群によって、文学部キャンパスと好対照の離れキャンパスをつくりあげてきた。理工学部では講師として授業を受け持ったり、そのほか何かと用事があって訪れることがあるが、それに比べて、文学部の新校舎に用事があって訪ねたのは一度だけ。卒業論文を返してもらいに行った。ゼロックスコピー機などわが家にはもちろん街のどこにもなく、だから手書きの1部限りを提出した。それが処分されたりする前に確保しておきたかった。つまりすでに終わった時間の用足しでしかなかったのである。400字80枚程度の原稿を綴じたその本を手元にしたあとは読み返したこともない。
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私の大学生活は、入学の年に母が亡くなり1年生の後半を休んでしまい、ついでにまるまる1年休学して下のクラスに間借りするみたいな気分で授業に出て、何とか卒業したあとはまったく想定外の、未経験の分野で働くことになった。人生はプラン通りにいかないことを思い知らされたが、早稲田での空白的充実の5年間がなかったら自分はどうなっていたか分からない。手書きの見すぼらしい本はその記録に違いなく、まだ書棚に、読まれぬままに残されている。
2007年4月、それまでの早稲田大学第一・第二文学部は改編されて新しい文学部が誕生した。そのために新しい器が必要とされた。古い建築を消すのに躊躇は許されなかったのだろう。
(2019.7.17 うえだ まこと)
●本日のお勧め作品はマイケル・グレイヴスです。

「作品 7・84/1」
1984年
木版
30.3×24.0cm
Ed.150
サインあり
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