松本竣介研究ノート 第6回
画風は何故変わる~松本竣介の場合(中)
小松﨑拓男
前回、私は1936年第23回二科展に出品された作品について、「生誕100年展のカタログの年表にも記載はない。手元に資料がなく、今はそれ以上確かめようがない。」と書いた。しかし薄っすらとした記憶では、確かもう出品作品はわかっていて、それをどこかの資料で目にしていたはずと思ったが、ブログを書いた時には確かめる術がなかった。決定版的な展覧会のカタログに記載のないのも気になった。
ところが最近あるところで綜合工房から出版されている画集『松本竣介油彩1912-1948』を眼にする機会があり、眺めていたら案の定、モノクロ図版ではあるが絵柄も含めて、出品作とキャプションに書かれた図版が小さくではあるが記載されていた。図版は絵葉書からの複写を思わせるものでモノクロ。したがって当然色はわからない。ただタイトルは『赤い建物』とあるから赤い色の建物なのだろう。描かれた建物は太い輪郭線で縁取られた洋風の建築である。前年の出品作から画風の大きな変化はないと言える。
「赤い建物」
1936年
板 725×910
第23回二科展出品
『松本竣介油彩 1912-1948』より
こんな事実が調べられていないはずがない。
この文章が掲載される頃は、引越でいろいろと忙殺されているに違いないのだが、この引越しのために実は資料のほとんどが、この3月までの単身赴任先だった金沢の輸送会社の倉庫に預けた状態になっているのだ。すぐに資料を引き出せない、なんとも言えないもどかしさである。
しかも今回は、画集の図版を見る前に、少し資料を当たろうと炎天下、上野の東京国立博物館の資料館に出かけてしまっていたのだ。資料を当たるのに徒労ということはないが、そこまでしなくても事実は確認できたかもしれない。
ところで、学生時代、松本竣介に関する卒業論文や修士論文を書いていた時に、資料を探すときによく利用していたのが上野の東京都美術館の図書室である。もちろん改装前のことだ。今の図書室よりも資料が充実していた。これらの資料は後に東京都現代美術館の図書室へと引き継がれているのだが、ここをよく利用していた。また当時の東京都美術館には、非常に優秀な司書の方がいて、例えば国立新美術館のアーカイブの立ち上げに関わられた中島理壽さんや、後に東京都現代美術館の図書室に移られた野崎さんという女性だったが、美術図書や雑誌などの資料収集に尽力していた。ちょうど美術雑誌の充実を図っていた時期でもあり、美術雑誌に関してはかなりのものを手にすることができた気がする。確か美術雑誌所蔵目録の冊子も作られていたはずである。そのほか東京文化財研究所が出していた美術年鑑も戦前から揃っていて、しかもお願いすると簡単に閲覧できた。もちろん国会図書館でもよかったのだが、図書カードを使った選書や図書が出てくるまでに時間が掛かったりと、使い勝手があまり良くなく、私は東京都美術館の図書室を好んで利用した。常連となったほとんど唯一の図書室である。勉強嫌いが露呈する。
今回、その東京都美術館や東京都現代美術館の図書室を利用しなかったのには理由がある。今は便利なことにネットで図書検索が簡単にできる。思いついて1936年の二科会の展示目録がないか検索してみたら、東京国立博物館の資料館にあることがわかったのだ。正式な書名は「第二十三回二科美術展覧会目録」(原本は旧字)である。資料館の利用は初めてである。できて久しく、大学の恩師や、かつて勤務した美術館の館長が立ち上げに関わった施設だったが、足を向けたことはなかった。勉強嫌いがさらに露呈する。
手続きのあれやこれやは省くが、閲覧をお願いしたら、貴重書扱いで複写はできず、一般の閲覧室ではなく、受付脇のマイクロフィルムなどを閲覧する部屋で見るように言われ、資料が書庫から届いたので呼ばれて部屋に入ると、薄葉(和紙でできた薄い紙で、美術館で作品を梱包する際のクッション材などに使う)を広げた上に大きな封筒に入ったそれが出ていた。白手袋をするほどではないにしても、何か畏れ多い感じではある。
文庫本ほどの大きさのその小さな冊子は、各ページの縁が茶色く変色し古びてはいたが、おそらく収集以来誰もページを繰ったことがないのか、80年前に印刷されたとは思えぬほど綺麗だった。その38ページに、「二四九 赤い建物 松本俊介」と縦書きで記載されている。区分は第八室である。99ページには住所の記載もある。因みに会場見取り図(図版2)があり、第八室は東京府美術館の二科展の会場となっていた1階正面に向かって右側の北ウイングの中頃に位置している。ここに松本の絵が飾られていたのである。審査員は藤田嗣治を筆頭に、硲伊之助、熊谷守一、東郷青児等の名前が見える。出品料は1点につき50銭であった。
会場見取り図
複写ができず手描きのためぎこちない
帰りがけに開架の書架を見たら該当年の日本美術年鑑があり、そちらに記載された目録にも名前を確認した。という訳で、適切な資料さえ見れば、すぐに確認できたことであった。研究リハビリはまだまだ継続しなければならないことを改めて痛感したのであった。
(次回へ続く)
(こまつざき たくお)
■小松﨑拓男 Takuo KOMATSUZAKI
千葉県生まれ。横浜そごう美術館、郡山市美術館準備室、平塚市美術館の主任学芸員を経て、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]学芸課長、広島市現代美術館学芸課長、副館長を歴任後、金沢美術工芸大学教授を2019年まで務める。現在、美術評論家連盟会員、文教大学情報学部非常勤講師として「美術」「サブカルチャー論」担当。
キュレーター時代には絵画をはじめとしてメディア・アートなど先端領域を含めた幅広い分野で近現代美術の展覧会を企画。村上隆、奈良美智、会田誠などを公立美術館で初めて本格的に紹介した。
主な展覧会に「TOKYO POP」(平塚市美術館)「New Media New Face / New York」(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC])「絵画新世紀」「サイバー・アジア」(広島市現代美術館)「エコメトロ」(光州ビエンナーレ)などがある。
●本日のお勧め作品は、松本竣介です。
松本竣介 Shunsuke MATSUMOTO
《人物》
1947年頃
紙にインク
イメージサイズ:36.8x25.7cm
シートサイズ:39.5x27.3cm
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
画風は何故変わる~松本竣介の場合(中)
小松﨑拓男
前回、私は1936年第23回二科展に出品された作品について、「生誕100年展のカタログの年表にも記載はない。手元に資料がなく、今はそれ以上確かめようがない。」と書いた。しかし薄っすらとした記憶では、確かもう出品作品はわかっていて、それをどこかの資料で目にしていたはずと思ったが、ブログを書いた時には確かめる術がなかった。決定版的な展覧会のカタログに記載のないのも気になった。
ところが最近あるところで綜合工房から出版されている画集『松本竣介油彩1912-1948』を眼にする機会があり、眺めていたら案の定、モノクロ図版ではあるが絵柄も含めて、出品作とキャプションに書かれた図版が小さくではあるが記載されていた。図版は絵葉書からの複写を思わせるものでモノクロ。したがって当然色はわからない。ただタイトルは『赤い建物』とあるから赤い色の建物なのだろう。描かれた建物は太い輪郭線で縁取られた洋風の建築である。前年の出品作から画風の大きな変化はないと言える。

1936年
板 725×910
第23回二科展出品
『松本竣介油彩 1912-1948』より
こんな事実が調べられていないはずがない。
この文章が掲載される頃は、引越でいろいろと忙殺されているに違いないのだが、この引越しのために実は資料のほとんどが、この3月までの単身赴任先だった金沢の輸送会社の倉庫に預けた状態になっているのだ。すぐに資料を引き出せない、なんとも言えないもどかしさである。
しかも今回は、画集の図版を見る前に、少し資料を当たろうと炎天下、上野の東京国立博物館の資料館に出かけてしまっていたのだ。資料を当たるのに徒労ということはないが、そこまでしなくても事実は確認できたかもしれない。
ところで、学生時代、松本竣介に関する卒業論文や修士論文を書いていた時に、資料を探すときによく利用していたのが上野の東京都美術館の図書室である。もちろん改装前のことだ。今の図書室よりも資料が充実していた。これらの資料は後に東京都現代美術館の図書室へと引き継がれているのだが、ここをよく利用していた。また当時の東京都美術館には、非常に優秀な司書の方がいて、例えば国立新美術館のアーカイブの立ち上げに関わられた中島理壽さんや、後に東京都現代美術館の図書室に移られた野崎さんという女性だったが、美術図書や雑誌などの資料収集に尽力していた。ちょうど美術雑誌の充実を図っていた時期でもあり、美術雑誌に関してはかなりのものを手にすることができた気がする。確か美術雑誌所蔵目録の冊子も作られていたはずである。そのほか東京文化財研究所が出していた美術年鑑も戦前から揃っていて、しかもお願いすると簡単に閲覧できた。もちろん国会図書館でもよかったのだが、図書カードを使った選書や図書が出てくるまでに時間が掛かったりと、使い勝手があまり良くなく、私は東京都美術館の図書室を好んで利用した。常連となったほとんど唯一の図書室である。勉強嫌いが露呈する。
今回、その東京都美術館や東京都現代美術館の図書室を利用しなかったのには理由がある。今は便利なことにネットで図書検索が簡単にできる。思いついて1936年の二科会の展示目録がないか検索してみたら、東京国立博物館の資料館にあることがわかったのだ。正式な書名は「第二十三回二科美術展覧会目録」(原本は旧字)である。資料館の利用は初めてである。できて久しく、大学の恩師や、かつて勤務した美術館の館長が立ち上げに関わった施設だったが、足を向けたことはなかった。勉強嫌いがさらに露呈する。
手続きのあれやこれやは省くが、閲覧をお願いしたら、貴重書扱いで複写はできず、一般の閲覧室ではなく、受付脇のマイクロフィルムなどを閲覧する部屋で見るように言われ、資料が書庫から届いたので呼ばれて部屋に入ると、薄葉(和紙でできた薄い紙で、美術館で作品を梱包する際のクッション材などに使う)を広げた上に大きな封筒に入ったそれが出ていた。白手袋をするほどではないにしても、何か畏れ多い感じではある。
文庫本ほどの大きさのその小さな冊子は、各ページの縁が茶色く変色し古びてはいたが、おそらく収集以来誰もページを繰ったことがないのか、80年前に印刷されたとは思えぬほど綺麗だった。その38ページに、「二四九 赤い建物 松本俊介」と縦書きで記載されている。区分は第八室である。99ページには住所の記載もある。因みに会場見取り図(図版2)があり、第八室は東京府美術館の二科展の会場となっていた1階正面に向かって右側の北ウイングの中頃に位置している。ここに松本の絵が飾られていたのである。審査員は藤田嗣治を筆頭に、硲伊之助、熊谷守一、東郷青児等の名前が見える。出品料は1点につき50銭であった。

複写ができず手描きのためぎこちない
帰りがけに開架の書架を見たら該当年の日本美術年鑑があり、そちらに記載された目録にも名前を確認した。という訳で、適切な資料さえ見れば、すぐに確認できたことであった。研究リハビリはまだまだ継続しなければならないことを改めて痛感したのであった。
(次回へ続く)
(こまつざき たくお)
■小松﨑拓男 Takuo KOMATSUZAKI
千葉県生まれ。横浜そごう美術館、郡山市美術館準備室、平塚市美術館の主任学芸員を経て、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]学芸課長、広島市現代美術館学芸課長、副館長を歴任後、金沢美術工芸大学教授を2019年まで務める。現在、美術評論家連盟会員、文教大学情報学部非常勤講師として「美術」「サブカルチャー論」担当。
キュレーター時代には絵画をはじめとしてメディア・アートなど先端領域を含めた幅広い分野で近現代美術の展覧会を企画。村上隆、奈良美智、会田誠などを公立美術館で初めて本格的に紹介した。
主な展覧会に「TOKYO POP」(平塚市美術館)「New Media New Face / New York」(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC])「絵画新世紀」「サイバー・アジア」(広島市現代美術館)「エコメトロ」(光州ビエンナーレ)などがある。
●本日のお勧め作品は、松本竣介です。

《人物》
1947年頃
紙にインク
イメージサイズ:36.8x25.7cm
シートサイズ:39.5x27.3cm
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
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