植田実のエッセイ「本との関係」第17回

編集・出版の内側


 前回の続き。大学を出るなり参加した、創刊準備中の月刊『建築』とその後について、編集の人々の動きを中心にとりまとめておく。
 1960年9月号 創刊
 9月創刊から12月号まではまだどこか落ちつかない。翌61年1月号からの目次欄に関係者の名がより詳しく記されている。以下のとおり。
 編集:平良敬一、写真:平山忠治、発行:槇書店/吉田全夫、印刷・製版・製本:凸版印刷株式会社
 編集スタッフは、大矢佐知子、山鹿文雄、長谷川愛子、植田実。大矢さんは建築誌編集の経験者、山鹿さんは槇書店の編集部にいた。長谷川さんは創刊後まもなく参加、私たち4人とその後に続く編集委員(本連載15参照)6人の氏名はローマ字表記のみ。
 目次ページは、創刊号から私の担当で、他誌とくに海外の建築・デザイン誌の目次欄を手本としてとにかくよく見ていた。目次って何だと考えた。いま当時の資料が手元にないので記憶頼みになるが、向こうの建築誌などは編集委員や編集スタッフの氏名が明記されていた。単行本になると、編集者の名前なんぞはどこにもなく、目次(table)さえも索引(index)などと一緒に巻末にまとめられているのが多い。そんなページ構成にも本を読むという文化が反映していると思った。
 1961年4月号 発行・槇書店の最終号。これを以て槇書店は『建築』から撤退。『建築』編集部が自立し、また槇書店にいた高木民夫、山鹿文雄の2人が加わって「建築同人」を立ち上げる。
 1961年5月号 発行・建築同人となる。編集スタッフに宮嶋圀夫の名が入る。
 1961年8月号 建築同人を「青銅社」と改名。
 1963月7号 平良敬一、長谷川愛子は鹿島出版会に移り、月刊誌『SD』を創刊(1965年1月号より)。『建築』創刊からわずか3年である。
 1966年8月号 この号をもって植田は青銅社を退職、平良に誘われて翌年、鹿島出版会に入社、月刊誌『都市住宅』編集を担当。(1968年5月創刊号)。
 『建築』はその後1975年まで宮嶋編集長の下に続けられる。

 雑誌の内容にはまるで触れず、発行元の変遷と編集者の出入りだけという、第三者にはほとんど意味のないデータである。だがそこでは編集体制の再編、発行、発売元の変遷や社名の変更などが煩雑で、いま書いておかないと私自身も忘れてしまいそうなので。
 前回紹介した企画メモにあるように、『建築』は隔月ごとに「architect(or engineer)」の特集を行った。1960年9月創刊号は増沢洵、11月号は横山公男、61年1月号は構造家の坪井善勝という具合で、当時の私には、どの人にも作品(撮影助手として訪ねた)にも興味が尽きなかったが、現在の眼で見直しても、建築家への評価として意表をつく人選と構成はとても冴えていたと思う。編集長と編集委員(編集同人とも呼ばれていた。本連載1516を参照)とが、このメディアにかけたエネルギーが否応なく伝わってくる。
 そのあいだを縫う隔月はテーマ特集が考えられていた。創刊第2号の60年10月号は「鉄筋コンクリートをプレキャストする」というタイトルの特集。建築家あるいは技術家の特集を主軸にしながらも作品主義に偏ることを避け、建築がつくり出される社会的技術的背景の厚味を誌面に表現する特集企画が並行して続いていた。

 ここでとくに書いておきたいのは、編集・出版の内側である。最初に掲げた人の異動歴に戻る所以だが、「内側」といっても裏側ではない。いきなりこの世界に入りこんで、雑誌の編集とは、また出版とはなるほどこういうものかと強く意識したいくつかのポイントを書いておきたいのである。
 60年12月号、つまり創刊号から4号目のために私ははじめて大阪出張となった。前回に触れた平山忠治さんの撮影助手を務めてのことである。ホテルの個室に泊まったのも、このときが初体験だった。この号ではテーマ特集というより、新しい建築作品を集めて紹介、ということになっていたと思う。奈良市の登美ヶ丘駅前に近鉄が、東西の建築家(あるいは建築事務所)の設計による建売住宅団地を企画、実現した。そのなかでRIA建築総合研究所の手がけた「集成材による木造住宅(通称ラムダ・ハウス)」および鉄筋コンクリートの「壁式構造による住宅」、坂倉準三建築研究所の「連続店舗付き住宅(5棟が計画され、実現したのはこの時点では1棟)」と、松田平田設計事務所による「近鉄ハウス」があり、この4件を撮影することが出張の目的だった。余談だが、このときRIAの住宅の水際立った美しさに私は圧倒された。この団地には、他にもいくつかの関西系設計事務所による住宅も軒を連ねていた。いわば建築家が設計した住宅の博覧会的、見本市的な性格の企画で、関西・関東とも民間鉄道会社による沿線の住宅地づくりは戦前からの歴史がある。戦後は、たとえばこの登美ヶ丘では、東京のいわば前衛建築家あるいはチームの参加という新しい試みも加味されたわけだが、建築を見るという経験が皆無だった私にとっては、いきなり西と東の建築家たちのいわば住宅設計競い合いの実物を見る機会を得たわけである。その第一印象は外観のプロポーションの著しい違いだった。東の代表選手である「ラムダ・ハウス」の特徴はまずプロポーションにあり、さらにプランニング(間取り)においてRIAの住宅の代表になるほどの評価をのちに与えられる。だが関西の建築家や住まい手から見ると、東京の住宅は住宅らしさを欠いていると考えられていたのではないか。ずっとあとになってそれが分かってきた。

 登美ヶ丘での撮影を終えてホテルに戻ったところで、東京の編集部からびっくりするような電話が入った。今月は紹介する建築作品が少ないので、大阪であと数件探して取材・撮影してきてほしいという。東京で取材するものはないかと訊くと、何もないとのこと。では大阪のどういう建築事務所に取材すればよいか編集長の意向をうかがってくれと頼むと、ここしばらく編集長とは連絡がとれないという返事である。創刊からたった3号分を経験したばかり、使い走り程度の集稿や自分流の文字校正、先輩がやるのを横から見ていてレイアウトのやり方がやっとおぼろに分かってきた段階の私にとって、とりわけ建築事務所との手蔓なんてあるはずがない。まったく戦力にならないシンマイ編集者を連れた平山さんが、これまでの撮影仕事で関わった建築事務所あちこちに連絡をとってくれて、結局はオフィスビル2件を取材撮影させてもらうのが精いっぱいだった。それでもめげずに帰京することが一応はできた。
 この大阪での数日間は、笑い話みたいな気分で覚えていたのだけれど、その記憶を再現しようとすると、急場の無理を設計事務所にも建て主にもお願いしての撮影現場で途方にくれている当時の自分に正面から出会ってしまいそうで憂鬱になってくる。その頃すでに私としてはすっかり心酔していた平山さんを、取材先のオフィスの若い女性が「写真屋さーん」なんて呼ぶのに、それはちょっと失礼だと腹が立ったことまで思い出してしまう。だが考え方によっては、私には貴重な体験となった。家族に乾杯的な、いきなりの建築取材もあり得ることを知ったのだから。
 これでつくづく思い知ったのは、建築家特集やテーマ特集で強い思想性を打ち出そうとするメディアは、日々の建築取材にも十全の体制を敷いていないとつねにアキレス腱剥き出しのままになっているという、至極当然の原則である。
 今度の取材も、もっと早く準備していれば登美ヶ丘住宅群を中心とした関西建築の歴史と現在、みたいな特集も可能だったと思うけれど、全体としては焦点がいまいち定まらない1960年12月号になってしまった。しかしその次の61年1月号では、坪井善勝の構造設計を通して丹下健三その他の建築を展望する、堂々たる画期的特集をまとめ上げているのだから、出たとこ勝負の取材と、時間と打ち合わせを十分に重ねた特集企画との格差が激しい。全体の流れがチグハグというなかで、逆に思い切った企画や取材になっていたと私は思いたい。
 当時の『建築』は、編集長以外には、前の方でもちょっと触れているが、建築誌編集の経験が3年ほどある女性スタッフ(私には「3年」が大ベテランと同義に思われたが)がひとりいるだけで、あとは編集には強いが建築界には没交渉だったり、建築界には精通しているが編集は未経験だったり、そしてそのどちらもほとんど白紙状態の私だったりのスタッフ事情だった。写真面での毎月のルーティンワークをひとりで支えている平山さんは大阪のことがあって以来、またいつ編集長が連絡のとれない考えごとの離れ小島に行ってしまうかも知れない(そういう個性のひとだった)ことを心配したのだろう、ある日、宮嶋圀夫を伴って槇書店に現れた。というシーンとなって記憶されているのだが、実はほかでもない平良編集長が頼んだのかもしれない。
 宮嶋さんもその名を知られる名編集者で(もちろん当時の私はそんなこと知らなかった)、かの1957年の「『新建築』問題」に関わって川添登、平良敬一、宮内嘉久とともに、同誌を解雇された編集者4人のひとりである。その後は『近代建築』の編集に携わっていたと思うが結核のため療養生活に入り、そこからやっと復帰された頃だった。とにかくそれ以来、折につけ『建築』編集部に顔を出し、ある建築作品の紹介頁に限ってだけどレイアウトする、みたいなかたちで手伝ってくれるようになった。そんなころの宮嶋さんの自己紹介は「ぼくはここ数ヶ月は風呂に入ってないよ」で、女性たちのヒンシュクを買ってひとり喜んだりしていたが、本格的なデッサンの経験がある画家でもあり、『建築』ではたぶん最初に宮嶋さんが手がけた、アントニン・レーモンド事務所設計の「門司ゴルフクラブハウス」(61年3月号)の写真割り付けの見事さには舌を巻いたものだ。全体のバランスを見ながら、絵柄の流れを組み立てていくその的確さと仕事の速さはそれまで見たことがなかった。そんな調子で号を追って宮嶋さんは『建築』をまず誌面から調整し、やがて本格的に参加してくれることになるその矢先に、版元の槇書店から『建築』のスポンサーを降りることを伝えられたのだった。(この項続く)
(2007.8.30/2019.10.14 うえだ まこと

●本日のお勧め作品は植田実です。
ueda_78_hashima_08植田実 Makoto UYEDA
《端島複合体》(8)
1974年撮影(2014年プリント)
ゼラチンシルバープリント
26.9×40.4cm
Ed.5
サインあり
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