植田実のエッセイ「本との関係」第18回

雑誌をつくる複数の手


 理工分野の堅実な技術書や教科書を手がけていた槇書店が、なぜ突然、大判の月刊建築誌の出版に踏み切ることになったのか、その事情を私は知らない。社長は吉田全夫という人だったが、『建築』創刊は吉田さんの自主企画というより外から持ち込まれたものではなかったかと推測するだけだ。1960年の夏の終りに、待望の創刊号がドサッと入荷したときは流石に喜んでおられた気もするが記憶は定かではない。よく覚えているシーンは『建築』スタッフだけが夜遅くまで残って仕事をしているときに自らお茶を運んできて私たちを労ってくれた姿と、その次は、ある日突然、編集部みんなを前に最敬礼をして、残念ながら『建築』をこれ以上続けることができなくなりましたと言ったときの沈痛な面持ちである。その瞬間、ただの手伝い同然だった私でさえも、吉田さんの経済的負担がいかに大きかったかを俄かに悟ったのだった。「グラフィックな表現」の大判定期刊行物を出し続けるのは、少しぐらい売れ行きがよくても十分な入広告の見込みでもない限り、ほんと大変だ。私がこの月刊誌の台所事情を、具体的に詳しく知ることはさいごまでなかったのだが。
 結局、槇書店は、1960年9月創刊から61年4月までの全8号を以て『建築』から撤退。一方、編集チームは自立して雑誌を続けることになった。宮嶋圀夫さんは入る気になったその会社が途端に逃げてしまいショックだったと思うが、平然と笑顔で、ぼくも一緒にやりますよと言ってくれた。槇書店のベテラン編集者・山鹿文雄も参加する。彼の「こっちの方が絶対おもしろいから」というひと言が耳に残っているが、そういう言いかたで古巣を出る人もいたのである。吉田さんの協同経営者のように感じられていた高木民夫も槇書店を出て『建築』の運営面を主に引き継ぐかたちになる。このあたりの事情は私はあまり知らないので、これ以上の説明はできない。しかし、高木さんと山鹿さんがいなかったらその後『建築』は継続できなかったという気がする。とにかくひと月も抜けることなく1961年5月号が、とりあえずは「建築同人」という応急の組織名で発行(発売はまだ槇書店のまま)、発行人・高木民夫、編集人・平良敬一で刊行される。編集スタッフのなかに宮嶋圀夫、山鹿文雄の名が入る。編集室は八重洲の槇書店から、渋谷・宮益坂の渋谷郵便局裏手の路地にあったイセビルの4階に引っ越した。この小さなビルは壁も天井も階段も打ち放し、というよりやりっ放しコンクリート造で、倉庫みたいな狭い部屋が各階に1つずつあるだけだったと思う。最上階の4階はさらに狭くなるが3階の屋根をテラスとして使えた。作業机は各自手づくりの、グラグラするような代物だった。しかしこの部屋から、私の印象としては『建築』の黄金期が始まる(経営状態ではなく編集内容においてではあるが)。多くの建築家や研究者がこのオンボロビルの4階を訪ねてきた。丹下健三さんも来られたはずだ。
 「編集同人」は創刊以来の編集委員たちの出資協力も受けたのだと思うが、これも詳細は知らない。61年8月号からは発行(発売も)・青銅社に改名。これで正式な会社設立となったのかも知れないが、高木さんに言われたのは新しい会社名を考えてくれということだけだった。私の出した案のひとつは「青銅時代社」で、私たちの遭遇している状況を表したつもりだったが、みんなで話し合っているうちに高木さんが「青銅社でいいんじゃないの」と、簡略化されての名称採用となった。
 『建築』時代に私がいちばん影響を受けたのはこの高木さんである。編集者ではないが、もっともよく話す機会があり、とくに私にとっては戦災で失われた自分なりの東京を補って余りある、むかしからの都市暮らしの魅力について教えられたし、建築についての彼独自の考えもとてもおもしろかった。『建築』での海外建築紹介記事には高木さんによる翻訳なども入っている。
 宮嶋さんが参加して誌面が変わったのは、端的には表紙である。創刊号から特徴的なのは、下3分の2ほどを写真、上3分の1は余白にして墨角版に文字白ヌキのタイトル、内容の概要を写真上部に文字組みとする、なかなかのシャレたレイアウトだったが、宮嶋さんはこの天地3分の2の写真を2分の1に抑え、白ヌキタイトルを普通のポジ・ロゴにし、いささか仰々しい英文タイトルを小さくした。それだけで表紙の、格好よく見せようとした野暮ったさが払拭されて全体が引き締まった。写真と文字のプロポーションがすっきりした。(本連載16の挿図参照)これは編集長との話し合いのなかで決まったものかもしれない。しかし私には宮嶋デザインという思い込みが強い。いいかえれば編集とは、取材や撮影や集稿は当然複数の手になるものだと分かってはいたが、誌面構成においても編集長以外の人による判断やデザインによって成り立つ部分があることを、宮嶋さんの参加によってはじめて私は意識したと同時に雑誌という夢を可視化するエディトリアル・デザインという面では、私は平良編集長に強く影響されていることを、あらためて自覚したのだった。

 雑誌というのは、一般誌では表紙はもちろん、本文レイアウトも外部のデザイナーが受注するのが普通だが、建築専門誌は当時から表紙はデザイナーにまかせているところもあったものの、本文は取材からレイアウトまで各担当編集者が全部やってしまうことが多かった。現在でもそんな縦割りのシステムを踏襲している雑誌があるようだが、つまり本づくりを編集スタッフがどうのように分担しているか、外からは見えない。ブラックボックスなのである。作品紹介頁の割りふりや全体の目配りはおそらく編集長あるいは編集会議において行われていると想像する程度である。
 そんな細かいことは読者にとってはどうでもいい。私だって読者の立場になれば関心があるのはつくられた内容だけである。しかし本や雑誌を「内側」から見ようとする場合、いいかえればつくり手の考えや個性を辿ろうとすると、それに必要な情報はあまりに乏しい。最近の雑誌は巻末に編集スタッフの名が記載されていることが多いが具体的な役割はよくわからない。だから例えば建築ジャーナリズム史を研究する者が手がかりとするのは、編集長の名ぐらいしかない。編集長が全体を企画し、全体を見ているはずだという漠然とした思い込みしかない。
 最近はブック・デザインへの関心が高まっているようだが、これも、あるデザイナーがさまざまな雑誌や本の仕事のなかでどのように自分の考えや個性を貫いているかというデザイナー別の仕事論に偏りがちで、それぞれの雑誌や本の主体は見えにくい。またそうしたグラフィックの効果を対象とするなら、肝心の製版や印刷や造本の現場に光を当てなくてはならないが、その技術者の名が出来上がった印刷物に記録されている例はほとんどない。私が経験したなかでは、企画委員として参加した『日本の建築・明治大正昭和』全10巻(三省堂、1979-81年)の奥付けに印刷・凸版印刷株式会社(印刷所名はどの本にも入っている)の次に、4色オフセット製版・藤倉三紀雄、グラビア製版・久野昭之助と、担当技術者の名が入っているのが唯一の例というか、印刷所は個人名を出さないのが当時は普通だから、例外的ケースだった。この全集を成り立たせるには不可欠な存在だったから、評価を与えると同時に責任を負わせるというデザイナーの杉浦康平さんの配慮によっている。

 話を『建築』に戻すと、この雑誌では創刊号から平良編集長が表紙と本文レイアウトの主な部分を自らデザインし、のちに宮嶋圀夫が頼もしい協力者として加わった。ということは、写真をフリーの平山忠治、版下原稿(図面やグラフなどのインキング、写植打ち)を専門事務所に外注する以外の割り付けやデザインの作業はすべて編集部内でこなしていた。私もいきなり技術解説、連載などの頁のレイアウトをまかされ、建材メーカーや建設会社の広告頁のデザインまでやらされた。そのうち、海外資料の翻訳まで引き受けることになる。もちろん平良さんや宮嶋さんは誌面をまとめる合間に編集言や建築批評もけっこう書いたりしているわけで、『建築』に限らずこの頃の建築誌はどれも、現在の建築誌と比べると手づくり度が高い、手づくり気分が濃厚だという気がする。表現の幅は今よりずっと狭いが均一的にはならない、各誌の個性が否応なく染み出ていた、という以上に思想の直截な表明となっていた時代である。
 出来上がった印刷物の見た目のことばかりに触れてきたが、編集にはまた別の能力も必要だった。(この項続く)    
(2007.9.5/2019.11.15 うえだ まこと

●本日のお勧め作品は杉浦康平です。
sugiura-01杉浦康平 Kohei SUGIURA
《第8回東京国際版画ビエンナーレ》ポスター
1972年 オフセット
94.0x67.9cm
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