松本竣介研究ノート 第11回

調査記録~舟越保武先生を訪ねたこと 上


小松﨑拓男


小松崎拓男_図版1 図1

必要があって、松本竣介の研究を始めた頃からいろいろと集めていた資料類の束などをひっくり返していたら、大学で論文を書くときに調査や資料をまとめていた一冊のルーズリーフのノートが出てきた。長いこと自宅や勤務先の大学の研究室の書架に置かれていて、大学院を出て美術館で働くようになってからは、ほとんど開かれることもなかったノートである。(図1)久しぶりに中味を見たら、我ながら丹念にノート作りをしているのに驚いた。いや研究者ならこれくらいは当たり前のことか。
詳細な年譜、全作目録とモチーフの分析表、基本文献目録、逐次刊行物からの抜き書きなどなどが、鉛筆書きでまとめられている。これをそのまま続けられていたらと思うと、我ながら不甲斐ない。恥ずかしいが、少し中味を写真で紹介しておく。

小松崎拓男_図版2 図2

年譜は左ページに出来事などを記載して、右ページには出典や出品作などのリストが注として書かれている。(図2)

小松崎拓男_図版3 図3

全作目録の後にモチーフの分析をした時に作った表。(図3)

小松崎拓男_図版4 図4
逐次刊行物などからの関係文章の抜き書き。今ならコピーかスマートフォンで撮影だろうか。これと思う雑誌を何冊も記事を探してページを繰っていたことを思い出す。(図4)

残念だがここに書かれた多くの資料の大半はデータが古くて使い物にはならないかもしれない。もう一度手間でもやり直さなくてはならないだろう。

小松崎拓男_図版5 図5

ただノートの中で目を引いたのが、自身で関係者にあたって調査した時に作ったメモ書きのまとめだ。1984年3月30日から8月3日までの記録が残っていた。(図5)

まずは、上京当時の住所からその場所を特定しようとした時の自由学園の関係者と会って、実際に現地に出向いた時の記録があった。婦人之友社の編集者と会い、住居の並びの図なども書いてあるのだが、調査した時にはわかっていたのかもしれないが、前後の脈絡がよくわからず、調査資料のまとめとしては、全く落第だ。今となってはどうにもならない。(図5)
次に、松本竣介と小学校、中学校の同窓生にインタヴューしている記録がある。こんなことをしていた記憶が残っていない。実際には会っていないからだろうか。この記録によると全て電話でのインタヴューであった。

さて、この調査録の中に彫刻家舟越保武先生の自宅を訪問した記録が残っている。1984年6月5日のPM2:00~PM4:00とある。今回いい機会なので住所などを除いた個人情報に抵触しないと思われる全文を紹介しておきたい。

’84.6.5
舟越先生宅訪問 PM2:00~PM4:00

中学時代
・絵画クラブで絵を描いていたことを、舟越先生の兄が二年上で同じく絵画クラブにいたことから知っている。
・たまり場-雨天体操場があり、そこでよく遊んでいたのを憶えている。
・病気の時期は入学時であったと思うが、退院後、徐々に耳が聞こえなくなった。退院後に遊んだ記憶があり、その時はまだ聞こえていたように思う。
・学校にはあまり出ていなかった。
・中学校を辞めるにあたって、兄彬と相談し、本格的に絵を勉強するためにフランスに留学する計画があった。兄彬は弟をパリにやって勉強させることを願っていた。しかし金融恐慌で、銀行が潰れ、取りやめとなってしまった。かなり実現性の高い計画であった。

上京後
・上京後は手紙のやり取りはなかった。付属出身のエリートという印象があった。(近藤一正、佐藤俊介に対して)
・1930年の秋(?)に、絵画クラブの卒業生も含めた学内展覧会があり、俊介も出品している。当時は水彩画が主であったが、女の顔の油絵を出していた。グレーなどの淡い調子でローランサンのような色調であった。値段がついていた。30銭もしくは3円か。

 少し注記をしておくと、聞き書きを箇条書きにしたものである。よく知られるように「彫刻家舟越保武」は旧制の岩手県立盛岡中学校の同級生。また松本竣介が「フランスに留学」しようとしていたことはすでに当時朝日晃などが書いていたような気がするが、今、手元にあるその著書『松本竣介』の中では確認できなかった。「付属出身」とあるのは、岩手師範学校付属小学校のことで、松本竣介は小学4年生で花巻から盛岡に転居をした時に転校してきている。「近藤一正」は小学校、中学校の松本竣介の同級生。医師で昭和16年頃は東京の東京逓信病院の勤務医をしていた。1984年当時、まだ存命で盛岡に住んでおり、電話での聞き取り調査をしている。近藤氏の話によると、松本竣介が小学校を卒業する時に一番の成績で南部藩の紋の入った硯箱をもらったという。ちなみに二番が近藤氏であった。また、昭和16年頃、耳が聞こえるようにならないか相談を受けて、日本医大の先生を紹介したり、テレピン油を病院の薬品の中から都合したりしてあげたという。確認はしていないが、盛岡のロータリークラブの会長を務めた地元の名士のようである。「30銭もしくは3円」は当時ビール1本が30銭程度だったので3円というのが値段ではなかったのではないか。今でいうと3000円から5000円程度だろうか。

舟越先生が上京した1938年以降の続きの話は次回に。
こまつざき たくお

■小松﨑拓男 Takuo KOMATSUZAKI
千葉県生まれ。横浜そごう美術館、郡山市美術館準備室、平塚市美術館の主任学芸員を経て、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]学芸課長、広島市現代美術館学芸課長、副館長を歴任後、金沢美術工芸大学教授を2019年まで務める。現在、美術評論家連盟会員、文教大学情報学部非常勤講師として「美術」「サブカルチャー論」担当。
キュレーター時代には絵画をはじめとしてメディア・アートなど先端領域を含めた幅広い分野で近現代美術の展覧会を企画。村上隆、奈良美智、会田誠などを公立美術館で初めて本格的に紹介した。
主な展覧会に「TOKYO POP」(平塚市美術館)「New Media New Face / New York」(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC])「絵画新世紀」「サイバー・アジア」(広島市現代美術館)「エコメトロ」(光州ビエンナーレ)などがある。

●本日のお勧め作品は、松本竣介です。
matsumoto_13松本竣介 Shunsuke MATSUMOTO
《古代建築》
1946年
紙にインク、水彩
イメージサイズ:16.9x11.8cm
シートサイズ:20.3x14.0cm
※松本竣介展(2012年 ときの忘れもの)p.3所収 No.1
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◎昨日読まれたブログ(archive)/2006年03月30日|新宿ナジャの夜はふけて/画廊亭主の徒然なる日々
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